シュイはずっと前から明日を楽しみにしていた。スマートフォンのカレンダーアプリでも、明日の待ちあわせ二時間前にアラームが鳴るように設定してある。
今日の予定などすっかり把握しているのに、何度もアプリを起動してはそれを確かめ、くふくふとひとりで笑っていた。
なにせ明日はシャオヘイとムゲンと一緒に遊ぶのだ。
ムゲンから連絡があったとき、シュイは誘いの言葉に被せるように同意を叫んでかの人を苦笑させた。スマートフォン越しでもわかるほど、優しい音をしていた。
『では後日。せっかくの休暇を我々に付きあわせてすまないな』
「まさか! すっごくすっごく楽しみです! シャオヘイにもそう伝えてください、ムゲンさま」
『ああ』
シュイはムゲンを苦笑させたが、シュイだって向こうの様子を想像して通話のあとにこっそり笑ったものだ。ムゲンとの通話のあいだずっと、穏やかな声の後ろで舌ったらずのあどけない声が響いていた。ねえ師匠、シュイなんて言ってるの、ねえ、一緒に遊べるって言ってる、ねえ、ねえってば、師匠だけシュイと喋っててずるい……
ふふふ、とスマートフォンを胸に抱きしめてシュイは笑う。
元気いっぱいでかわいい黒猫の妖精の男の子、シャオヘイと、明日は何をして遊ぼう。
駆けっこも木登りもムゲン相手だとすぐ勝負がついてしまってつまらないんだと、前に唇を尖らせていた。
隠れんぼだって三人でやったほうが面白い。そうだ、食いしんぼうのシャオヘイのためにとっておきのお菓子も持っていってあげなければ。お菓子を頬張って目をきらきらさせるシャオヘイは、とてもかわいいのだ。
明日になれば会える。
「えへへ、楽しみ!」
おやつでぱんぱんに膨らんだ鞄を枕元に置いて、その日シュイは早々に床についたのだった。
「……昨日の昼までは、大はしゃぎしていたんだが」
珍しくムゲンの顔に困惑が浮かんでいる。きっとシュイも同じような顔で、ムゲンの胸に顔をうずめて動かないシャオヘイを見つめていることだろう。
「シャオヘイ。ほら。シュイが来てくれたぞ」
「ん……」
「久しぶり、シャオヘイ。どうしたの? お腹痛い?」
「平気……」
「昨夜からずっとこの調子なんだ」
シュイが期待で胸を膨らませていた同じ時間、逆にシャオヘイは意気消沈しつつあったのだろうか。たまらなくなる。始めは賑やかな繁華街だった集合場所が今日になってのどかな森林公園に変わったのも、ムゲンがシャオヘイの状態を慮ったからに違いない。
蓋を閉じるのに苦労した鞄にそっと触る。
「……別の日にしましょうか、ムゲンさま? 元気なシャオヘイに会いたいもの」
「そう言ったが、行くと言ってきかなかった」
「そうなの、シャオヘイ?」
ムゲンの胸に向かってこっくりするシャオヘイを見てから、シュイはちょっと瞬いた。ムゲンを見る。目が合う。いつも達観した、ずっと遠くを見るようなまなざしでいた人の瞳に、気遣いと不安が滲んでいた。
一部の妖精による偏見が根強いけれど本当は優しい人なのだ。
「……師匠、下ろして」
「大丈夫か?」
「うん。……ね、師匠、ぼくシュイと話したい」
「私?」
今日初めてシュイを見たシャオヘイは、ふっくらした頬を緊張で強張らせている。いとけないなりの真剣な目を向けられてシュイもぐっと唾を飲みこんだ。これは間違いなく、大事な話だ。
「では、私は少し外していよう」
シュイとシャオヘイそれぞれに微笑みかけたムゲンがゆっくりと背を向ける。シャオヘイがシュイの隣にやって来たのは、自販機へ歩いていくムゲンの後ろ姿をしばらく眺めてからだった。
「……あのね。シュイに訊きたいことがあるんだ」
「なあに?」
小さな手が小さな服をぎゅうっと握りしめている。
一緒に遊ぶようになって何回目だったか、いつもシュイから握っていた手をシャオヘイのほうから差しのべてくれたとき、とても嬉しかった。
あの日にこにこと笑っていた子が、あの日と同じくすぐ横にシュイがいるのに、迷子のようなたよりない顔をしている。
「……シュイがぼくと遊んでくれるのって、シュイが師匠のこと好きだから? ぼくと遊ぶとき、一緒に師匠にも会えるから?」
驚きすぎて、えっ、以外の声が出てこなかった。少し裏返っていたかもしれない。隠していた尻尾を一瞬出してしまうくらい、驚いた。
慌ててもう一度尻尾を引っこめる。シャオヘイの横にしゃがみこむとき、膨らんだ鞄の中身ががさっと鳴った。昨日あれもこれもと詰めこんだお菓子は、決してムゲンを喜ばせようと選んだわけではない。
「ね、シャオヘイ」
「ん……」
「私、ムゲンさまのことは大好きだけど、シャオヘイのことだって大好きよ。昨日だって楽しみで、シャオヘイと何をして遊ぼうかって考えてばっかりいたもの」
「……ほんと?」
「ほんと!」
打算を含んだ好意も世の中にはあるのだと、こんな小さな子が悟ってしまっているのが悲しい。シュイの大好きが嘘だったときを見越して距離をとろうとする慎重さがやるせない。
そして、それを憂うあまり消沈してしまったシャオヘイの律儀さとシュイへの友愛が、どうしようもなくかわいらしい。衝動のまま柔らかくあたたかな体をぎゅっと抱きしめた。
「大好きよシャオヘイ。シャオヘイがムゲンさまを好きなのと同じくらい、私も、館のみんなも、あなたのことが大好き」
「……同じくらい?」
「そうよ」
「そう……そっか。同じくらいの好きって、いっぱいあってもいいんだ」
シュイの腕の中で独り言のように呟いたシャオヘイが、三人分の飲み物を抱えて手持ち無沙汰に立っているムゲンを見る。そっか、ともう一度屈託ない声で繰り返してから、まっすぐシュイを振り向いた。
あのね、と語りだす声は舌ったらずであどけない。
「あのね。ぼくシュイのこと、師匠の次に好き」
シュイはもう一度シャオヘイを抱きしめた。えへへ、と笑って頬擦りしても、もうシャオヘイは暗い目になったりしない。
「ありがと、シャオヘイ。……ね、何して遊ぶ? 隠れんぼ? 木登り? 駆けっこ?」
「ぼく全部好き! 師匠も一緒に、全部三人で遊ぼ! シュイ、いい?」
お菓子をたくさん詰めてきてよかった。きっとこれだけあっても、遊び疲れてお腹を空かせた三人で食べたらすぐになくなってしまう。
たくさん遊んで、たくさん食べて、今日も楽しい思い出にするのだ。
「もちろん!」
今朝までのしょげかえった様子が嘘のようだ。西日を負って長く伸びる影にはしゃぐシャオヘイは、すっかり普段の活発さを取り戻している。
「ねね、師匠、今度いつシュイと遊べるかなあ? 明日?」
「楽しかったか?」
「うん!」
別れ際、シュイもシャオヘイと同じ顔で笑っていた。
楽しかったね、また遊ぼうねとシャオヘイを抱きしめた少女は、いったいどんな術を用いてこの子の屈託を解いたのだろう。
「シュイとは何を話したんだ?」
シャオヘイはなかなか皆戒心の強い子どもだが、明るく懇篤なシュイの積極さはそんなかたくなな壁も突き崩してしまった。ムゲンでは教えることのできない妖精たちならでは、子どもならではの話題を豊富にもつシュイに、シャオヘイは心から懐いている。
ムゲンもそれをよく知っているので今回のシャオへイの態度には戸惑ったが、当人同士で何やら話しあって解決させたようだ。シュイと話すまでは暗い顔で俯くばかりだったシャオヘイは、その対話のあとから夕暮れまでずっと笑いどおしでいた。
ぴょん、ぴょん、と細長い影を踏みつけて跳び歩いていたシャオヘイが、ムゲンの問いに顔を上げてへへっと笑った。
「教えない! シュイとぼくの秘密だもんね」
「そうか。私にも?」
「師匠にも!」
得意げに胸を張る姿が笑みを誘う。秘密、という言葉を口にすること自体が嬉しくてしかたがないのだろう。
「そうか」
ムゲンが微笑みながら赤い空へ向けた視線は、どうやらシャオヘイを誤解させてしまったらしい。小さな体がおずおずとムゲンの足に擦り寄ってくる。
「……ちょっとだけ教えてあげようか?」
下からムゲンの耳へ届く、子どもなりに低く抑えた声が真剣そのものだ。シャオヘイからは表情がわからないのをいいことに吐息だけで笑う。
「いいよ。秘密は軽々に話してはいけない。大切にしなさい」
「師匠にも?」
「私にもだ」
「そっか……そうだよね」
シャオヘイにコートの袖を引かれて、そのまま手を繋いだ。ムゲンの指三本を握るのが精一杯の手から伝わってくる頼はあたたかだ。
「あのね」
「ん?」
「これは秘密じゃないから、師匠にも教えてあげる」
夕焼けのせいだけでなくシャオヘイの頬が紅潮している。くすぐったそうに、何より嬉しそうにはにかむ子は、ムゲンを仰いで声を弾ませた。
「シュイもキュウ爺もカンセンもイフーも、ぼくのこと好きなんだって。ナタもそうってシュイが言ってた。大好きだって」
「そうか。よかったな」
「うん。でもぼくね、師匠が一番好き」
ふ、と笑みがこぼれた。
あかあかと輝く空を見上げて、ムゲンは僅かに目を細める。綻ぶ口元はそれでシャオヘイから隠せたものの、声色のほうはごまかしようがないから相槌を呑みこんだ。
そして、そんなムゲンの下手な照れ隠しなど、シャオヘイはものともしないのだ。
「ね、師匠もそうでしょ? 師匠もぼくのこと一番だよね?」
返事の代わりに無邪気な声を繋いだ手ごと抱き上げると笑声が弾けた。
肩によじ登ろうとする体を支えてやり、首の左右から生えた短い足をそっと押さえる。ついさっきまで足下にあった声は、今はムゲンの頭上から降ってくるのだ。
「師匠、ぼくお腹減った」
「散々遊んだからな。何が食べたい?」
「お肉!」
「良さそうな店を見つけたら教えてくれ」
「うん!」
後頭部からぐう、とシャオヘイの腹の音が聞こえてくるので笑ってしまった。シュイと一緒にあれだけ食べていたはずの菓子が、もう腹から失せている。
ムゲンの頭に頭を乗せて左右をきょろきょろやっている子は、もちろん質問への返答がなかったことに気づいているだろう。急かして催促しないのは、ムゲンの答えをすでに得ているからだと言じている。
繋いだ手からムゲンがぬくもりを得たように、肩に跨るシャオヘイにも同じ温度のものを届けられているのだと、そう信じている。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.