やまだ
2026-01-20 18:25:41
1653文字
Public 羅小黑戦記
 

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2021.01.29 名前の話の師弟

「小、シャオ」
 茶杯片手に水を操り、卓上に小の字を綴る。いささか行儀が悪いがどうせここは霊域の中だ。来日もないので、ムゲンは構わず茶盤に落ちた湯でシャオヘイの眼前に文字を置く。
「黒、ヘイ」
「これがぼくの名前? シャオヘイ?」
「そうだ。小黒」
 へええ、と卓へ身を乗りだす子の手にも茶杯がある。
角へぶつけてひっくり返すまでそれを思い出さない可能性が高いため、ムゲンはさりげなく小さな手から茶杯を抜き取った。
 もう春というには暖かすぎる日が続いているものの、外界のしとしと降りつづく雨で冷えた体にはちょうどよい。ムゲンの膝の上から一心に文字を見つめるシャオヘイの体もやっと熱を取り戻してきた。
「師匠、ね、ムゲンはなんて書くの」
 シャオヘイがぐるりと仰向き、つむじがムゲンのみぞおちを撫でる。無邪気な期待で輝く瞳の眩しさは次の季節の太陽に似て、外界のぐずつく天候を忘れさせた。つい目を細めてしまう。
「天限。ムゲン」
 小黒、の隣に湯で綴った文字にもシャオヘイはうなった。へえ、ともふうん、ともつかない声を漏らしてムゲンの腹にもたれかかる。ふっくらした腕を器用に組み、しかつめらしい顔で四字を見比べている様子は、本人としては真剣極まりないのだろうがムゲンの笑みを誘った。
 外を駆けまわって遊ぶことばかり練達する様子を傍らから見つづけてきたのだ。シャオヘイが自分の名前をためつすがめつ眺めまわす仕草はムゲンにとっても新鮮な光景だ。
「文字が知りたいのか?」
 シャオヘイの茶杯を卓の中央へ戻しながら訊ねてみる。ムゲンの弟子は自分が興味のあることなら熱心に習得しようとする傾向があるので、この機にある程度の読み書きを教えておくのもいいかもしれない。できて困ることでもない。
「ん……別に。読めなかったり書けなくて困ったことないし」
 ところがシャオヘイからは正反対のことを言われてしまった。ず、と茶を一口啜ってから、まだ熱心に文字を眺める子のまるい頭を見下ろす。
「そうか。てっきり読みたい本でもできたのかと」
「本なら師匠が読んでくれるじゃん。それに、師匠の話のほうが本より面白いもん」
「そうか」
 髪を撫でるとシャオヘイはへへっと笑った。少し体を起こして、自分からムゲンの手に頭を擦りつけてくる。
「あ、師匠、ぼくのお茶取って」
「なぜ急に名前を?」
 両手で茶杯を受け取ったシャオヘイはぬるめの茶を一口舐める。ちちち、と舌先を少し出して音を出すのをたしなめると餅のような頬が膨らんだ。指で突いてしぼませる。
「なに、もうっ」
「行儀が悪い」
「人のほっぺた突っつくのは行儀がいいんだ?」
……シャオヘイ、なぜ急に名前を書いてほしがったんだ?」
「話逸らすし……
「逸らしたんじゃない。戻したんだ」
 じとっとした目で睨め上げてくる子から顔を背けてしばらく、やがて根負けしたのはシャオヘイのほうだ。
 足をゆらゆらさせながら、だってさ、と唇を尖らせる。
「師匠がぼくのことシャオヘイって呼ぶとき、いっつも笑ってるでしょ。もしかしたら文字がすごく面白いか、すごく特別なのかなって思ったんだ」
 顔を戻す。シャオヘイは卓上にいまだ残る自分とムゲンの名を眺めているようだった。ムゲンからは白い髪のつむじと黒猫の耳がよく見える。
 茶杯を伏せて空いた手で、代わりに小さくふくふくとした手を掬い上げた。ムゲンの片手で茶杯を支えるシャオヘイの両手がすべて収まってしまう。
「シャオヘイ」
「なに?」
「シャオヘイ」
「なにってば」
 シャオヘイがうるさそうに顔を上げ、ムゲンを仰ぎ、
唇をへの字に結んだ。
「ほら、また!」
 そして、すぐに楽しげに笑いながらムゲンの胸にどすんと寄りかかってくる。もう一度シャオヘイと呼んでやると笑声が高くなる。
 特別なのは文字ではなく音でもない。
 ムゲンが呼びかけるたびいきいきとした反応を返してくれる、いとけなく小さな手の持ち主こそが、そうなのだ。