珍しくムゲンが目に見えてうきうきしていたので、そしてシャオヘイはまだもう少し周囲の苔むした岩を駆け登ったり、地面すれすれまで垂れ下がる柳の枝を引っ張って遊んだりしていたかったので、お互いのためを思ってひとつ提案することにした。
「師匠、先帰ってていいよ。ぼくもうちょっと遊んでく」
きっと早く家に帰って茶を淹れたいだろう。シャオヘイにはいまいちわからないけれど、さっき町で見つけた茶葉がムゲンにとっては特別らしい。これは懐かしいな、とひとりごとのように呟いて目を細めた師の顔はあまり見ないものだった。
「……しかし」
案の定眉をひそめるムゲンの心配性を鼻で笑う。
「もー、大丈夫だよ。ちょっとしたら追いかけるし、それにここの坂を上って下りたらすぐ家じゃん。ぼく、ちゃんと覚えてるよ」
目印になるような屋根も柱も壁もないが、下り坂のすぐ近くに生えた松の木にムゲン特製の玄関がある。
よほど首を伸ばして上向かないといけないから、薄く伸びた金属の輪が幹に貼りついているだなんて普通の人間にはまずわからないのだ。
木を登って輪をくぐればムゲンの霊域の中に小さな家がある。たまに、ムゲンはそこへシャオヘイを泊まらせてくれた。今日はその、たまの日だ。
「お茶淹れるのって時間かかるでしょ? 早く帰って準備しなよ」
こまごまとした道具を用意して、湯も沸かさないといけない。茶を蒸らす時間だって必要なのだ。
そのあいだムゲンは普段よりもっと口数が減るし、それならシャオヘイも外で遊んでいたほうがいい。あまり騒いで邪魔をしてはいけない時間があることくらいはさすがにシャオヘイだってわかっている。茶葉を見つけたときのムゲンの顔も声も優しかった。
「ちゃんとぼくのぶんも用意しといてよね」
ふっと微笑んで頭を撫でてくれる手が心地よい。
「ああ。もちろん」
「じゃあ、あとでね」
ムゲンが頷くのを確かめてからぶるるっと体を震わせる。猫の姿に戻るなり、シャオヘイは誘うように揺れる柳の枝へ果敢に飛びかかっていった。
家の扉を開ける前からふんわりと茶の香りがする。
たっぷり外を走り回って満足してきたシャオヘイをそっと呼び寄せるようなそれを辿って、勢いよく扉を開け放った。
「師匠! お待たせ」
「おかえり。早かったな」
ちょうど茶を蒸らすところのようだ。ムゲンは土瓶を傾けて茶壷に湯を回しかけている。
「だってぼくもお茶飲みたい……もん?」
微笑みかけてくれるムゲンの膝に抱きついて一息つく。世界で一番安全な場所にいる実感にほっとしてから、シャオヘイはムゲンの言葉を反して瞬きした。
「……師匠?」
「ん?」
「おかえりって何?」
今度はムゲンが瞬く番だった。
きょとんとシャオヘイを見下ろし、また瞬き、それから少し考えこむようにななめ下にまなざしを落とす。
「……なるほど」
「何が? ねえ師匠、何がなるほど?」
「うん」
ムゲンの手が両腋の下からひょいっとシャオヘイを持ちあげた。椅子に座ったムゲンの、その腿の上に座らされる。
「おかえり、というのは」
「うん」
「帰ってきてほしい場所に、帰ってきてほしい人が戻ってきたときかける言葉だ」
「……ふーん。……そ、そっか」
なんとなく両手の親指をくるくるやってしまうのは、シャオヘイを見下ろすムゲンの目が優しいからだ。懐かしいと言いながら茶葉に手を伸ばしたときよりももっと、胸の中がぽかぽかしてくるくらいの、優しい目をしている。
「あ……そっか。これまではずっと師匠と一緒にいたから、おかえりって言われることなかったんだ」
「そうだな」
たまたまだったけれど、それなら今日はムゲンを先に帰らせてよかったのかもしれない。おかえり、を言ってもらうのはなんだかくすぐったくて、嬉しくて、不思議な気分だ。
シャオヘイはそのまま目を細めてムゲンの胸元に頬を擦りつけていたが、やがて重大な過失に思い至ってしまう。おのずと目と口が限界までまるく広がった。
「……師匠!」
「どうした?」
のんびり笑う師の膝から跳び降りる。懸命にムゲンの手を引き扉まで歩かせるうちに思惑を悟られたようではあるが、声を抑えて笑うムゲンを注意するよりも大事なことがある。
「師匠、一回外出て、それですぐ入ってきて」
ふっ、とこらえきれなかった笑声がシャオヘイのつむじにまで降りてきた。
「……わかった。すぐ戻ってきていいんだな?」
「うん。早くだからね!」
うっかりして気がつくのが遅れてしまった。
シャオヘイがムゲンにおかえりを言ってもらえたのは、先にこの家に帰らせていたからだ。ではムゲンは、空っぽの家の扉をひとりで開けて入ったのだ。茶の香りも湯気の温かみもない、シャオヘイもいない場所に、ひとりで帰ってきたのだ。
そんなのは、いやだ。
「シャオヘイ、開けるぞ」
むん、と腕を組んで胸を張る。ついに耐えることを諦めたらしいムゲンの、ふふふ、とこぼれる笑みを仰ぎ、シャオヘイは厳かに初めて口にする挨拶を告げるのだ。
「お、おかえり。師匠」
「……ああ。ただいま、シャオヘイ」
「た……ただいま? ただいまって何、師匠!」
また知らない言葉だ。愕然とする。
「ただいまというのは……すまない。シャオヘイ、少し待ってくれ。説明するから」
「師匠! ねえ、絶対今のわざとでしょ! ねえってば! ただいまってどういう意味!」
その日シャオヘイは蒸らしすぎた茶の味と、そしておかえりとただいまの意味を知り、さらに俯き肩を震わせて笑うムゲンという実に珍しい光景を目にしたのだった。
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