まるい顎の先までずるずると垂れ、涙と一緒になってしまっている洟を手でぬぐってやる。嗚咽の合間にようやく呼吸を思い出したシャオヘイの小さな体は、全力で泣きじゃくっていたせいでほんのり熱くなっていた。
師匠、と呼ばれた。
一緒にいたい、と告げられた。
まだ十年も生きていない妖精の子のこれからがすべて、ムゲンの懐中にずっしりと、そして驚くほど具合よく、収まっている。
「シャオヘイ」
涙目で駆けてきたシュイが渡してくれた手布で水分を拭きとった。にこりと笑ってすぐに駆け戻る娘の、ふっくらした狐尾が踊るように揺れている。
シュイの向こうには大きく手招きするキュウ老がおり、何やら深々と頷くパンジンがおり、そしてつまらなそうな顔をごまかしもしないナタがいる。顎をしゃくって館を示すのは、ひとまずそこでシャオヘイを休ませろと言いたいのだろう。ナタは口こそ悪いが、なかなか面倒見がいい。
「シャオヘイ?」
彼らへ向かってゆっくりと歩きながら、ムゲンは胸にしがみついて離れない子の返事を待っている。まだ濡れた目がうろうろと瞬くたび、小さな水滴が散る。
「泣き疲れたか? 静かだな」
「し……」
ず、と洟を啜ってから、シャオヘイは実に気まずそうに唇を尖らせた。
「師匠って、呼んでいいの……」
皺になるほど道服を握りしめる手の強張りを見る。
懐中の普段とはかけ離れた尻すぼみの声と、初対面を彷彿とさせる仏頂面を、ムゲンはそっと揺すり上げて抱き直した。
「もちろん」
ほうっと落ちた小さな吐息を龍遊の風がさらって行く。
「もうおまえは私の弟子だから、やはり龍遊がいいと言っても聞かないぞ。枝に下げて担いででも連れて行く」
「そ、そんなこと言わないよ!」
「どうかな。きっとシュイは今からごちそうを用意してくれる。ナタもおまえの知らない遊びを教えてくれるかもしれない」
黒い猫耳がそわっと揺れるので笑ってしまう。するとムゲンを見上げるシャオヘイはぶすくれて、掴んだままの道服を強く引くのだ。
「い……いい! 師匠と行くって決めたから、ぼく!」
「そうか。……調子が戻ってきたな」
むうっと膨れる頬の涙は風と光が乾かしてしまった。
シャオヘイの白い髪を揺らし、輝かせ、赤く腫れた目の水気も引かせてくれる。ムゲンが親指の腹で目尻をこすると、不機嫌顔がほのかにはにかんだ。へへへ、とこそばゆげに笑う声が、桟橋に射す光よりもあたたかい。
ここで別れることになると思っていたと言えば、この子は怒るだろうか。
気のいい妖精たちとともに過ごす日々はきっとシャオヘイのためになる。ムゲンなどとともにいるよりよほど得るものが多いはずだ。腕のなかに落ちついて離れようとしない子どもの重さとぬくもりは心地よいが、同時にムゲンにこのかけがえないものを守りぬき教導する覚悟を求めてくる。
「あのさ」
「……うん?」
考えこむうち足が止まっていた。神妙な顔をしたシャオヘイがじっとムゲンを仰いでいる。
「あの……一回しか言わないから、ちゃんと聞いてて」
ああ、とムゲンが返事をするより早く、シャオヘイは横を向いてきらきら輝く水面へありがとうと呟いた。
桟橋に寄せて砕けるさざ波にも負けてしまいそうな声量だったが、それは不思議なほどはっきりとムゲンの耳へ届いたのだ。
「霊域の中でさ、ずっとぼくのことじるって、守るって、ぼくならできるって、思ってくれてたの、ありがとう」
見開いた視界のなかを風がゆき、シャオヘイの白い髪もふわりと揺れる。初めて会ったころ、この子の髪は黒かった。
「全部ぼくが知らなかったのばっかりだった。う、嬉しかったからさ、えっと、ちゃんと言っときたくて、それだけっ」
「……そうか」
「そうなの! ……も、もう言わないからね!」
「そうか……」
肩が軽くなったようだった。すとん、と、何かが呆気なくムゲンの背から転げ落ちた気がする。もともとさほどのものを負って生きていたわけではないが、今ムゲンが感じる重みは腕のなかにいる子どもひとりぶんだけでしかない。
それでよいのだと、この重さがそう伝えてきている。
「……そ、それに、また師匠がボコボコにされるときにさ、ひとりじゃかわいそうじゃん。ぼくが助けてあげなきゃ」
「……あれは……たまたまだ。そうあることじゃない」
「本当にー?」
下から迫ってくるにやにや笑いを避けて空を仰ぐ。
ただ青く、ただ広い。あるがままあり、それでよいのだろう。
「では行くか、シャオヘイ」
「ん」
「いつまで仲良しこよししてんだおまえら、来るなら来るでさっさと来い!」
我慢の限界が来たらしいナタの怒鳴り声も、龍遊の空へ溶けていく。
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