シャオバイはぐっすり眠っている。アゲンはひょっとすると家を抜け出すシャオヘイを窓から眺めているかもしれないけれど、あいつは意外と聡いから、呼び止めるような無粋はどうせしない。おじいちゃんだってもう夢の中だろう。
なのでシャオヘイは羅家の人々に咎められることなく、深夜にとっとこ月影を踏んで気楽に川辺まで歩いて行けた。アゲンから借りた服は軽くて薄くて、少し風を受けるだけでタンクトップの裾がのんびり翻る。
飛んでいけばもっと速かった。猫の姿で駆ければ人型より速く着いた。それでも人間の格好で地面を踏みしめ歩いたのは、今日はなんだかそんな気分だったからだ。
「師匠」
村の子どもたちが日中よく釣り糸を垂らしている岸辺に、昔からちっとも変わらない胡坐の後ろ姿がある。
月光を受けてシャオヘイのほうへ長く伸びる影まで姿勢がいい。
師の影を踏まぬよう、静かに隣へ回ったシャオヘイを、ムゲンは穏やかなまなざしで待ち構えていた。
「眠らないのか?」
「……ん」
ムゲンの真似をして胡坐を組む。さあさあと微かに聞こえる水音と虫の声、土のにおい、湿気を含んだ夏の風は熟れた野菜の甘い香りをうっすら含んでいる。
ムゲンと同じ空気のなかにいることが嬉しく、何年も離れていたわけでもないのに懐かしい。村へやって来たムゲンを約束通りシャオバイに紹介することもできたし、今日の昼間はいろいろあったけれどとても楽しかった。
「……師匠。あのさ」
「うん」
けれどそれより以前から、シャオヘイの胸には刺さって抜けない小さな棘がひとつある。
たぶん、ムゲンもそれをわかっていた。だから夜中にこんなところで涼むふりをしながらシャオヘイを待っていたのだ。今も、口ごもるシャオヘイを急かしたりせず待とうとしてくれる。
「あのさ」
なんだか本題に入る前から泣きそうだ。シャオヘイはもう十歳になったのに、ムゲンといるとどうしても小さな子どもみたいになってしまう。照れ隠しにごつんと隣の肩にこめかみをぶつけ、少し強めに擦り寄った。
「師匠、教えて」
「うん?」
「悪い人間なら、そいつは殺されていいの?」
すう、とムゲンの肩がゆっくり上がり、少ししてから同じ速度で下がった。
「……なぜそう思った?」
シャオヘイは川に踊る月光のかけらを数えている。
きらきらと明滅するからすぐに数え直しになるそのむなしさが、今はちょうどよかった。
一度問いかけてしまえば胸にわだかまるものをすべて吐き出すのは簡単だった。野良犬を誘拐しては自宅で狭い檻に閉じこめて完了としていた男のこと、悪い奴だと思ったのにそいつを無邪気に慕う小さな子どもがいたこと、シャオヘイにとって男は悪人だったけれどあの子には違うかもしれないこと。そいつを狙って現れたいけすかない妖精のこと。
「その妖精、人間しか食べられないんだって。館から許可をもらって悪いやつだけ狩ってるんだって」
「……ネパか?」
「え? どうかな、そう言ってたかも。……シャオバイにちょっかい出そうとしたから嫌いだ。あいつ」
思い出すだけで腹が立つ。シャオバイがあんな奴の冗談の種に使われたこと自体許せない。
「シャオヘイ。落ちつけ」
憤ろしさで逆立った髪の上にムゲンの手が置かれた。
あやすような仕草は昔よくシャオヘイを撫でてくれたときの動きだ。とん、とん、とつむじの上を大きな手で叩かれると背筋から強張りが抜けていく。
「私もおそらく、その妖精を知っている」
「あいつの狩りのことも?」
「……聞いている」
川面を見つめたまま、ふ、と息を吐いた。ムゲンのこの沈黙を聞けただけで、今夜の会話に意味が生まれた。
「師匠、ぼくわかんないよ。犬を攫ったあいつが悪人でもさ、食べられちゃったらあの女の子はどうなってたんだろ? きっと悲しむと思うんだ」
「そうだな」
「けどだからって、あの妖精に飢え死にしろとも言えないよ。……言えないけど、でももし本当にシャオバオが狙われたら、ぼくはあいつを殺す」
「……シャオヘイ」
「でもシャオバイの無事を確かめたあときっと後悔するんだ……」
胸が苦しくて、頭を撫でてくれるムゲンの手が優しくて、泣きそうだ。いっそ涙が出てくれたらよかった。
小さなころのようにわんわん泣くだけですっきりできるなら、そのほうがずっといい。
「……強くなるって、できないことが減ることなんだと思ってた」
もうシャオヘイは泣かない。
シャオヘイはもう六歳の何もわからない妖精ではなく、妖精館に属する執行人候補で、ムゲンの弟子だからだ。
「でも違った。自分にできないことがはっきりわかるようになるんだ」
「今の自分、だ」
優しい手の上から強い声が降ってくる。
「今の無力を越えるために私たちは研鑽を積むんだ。シャオヘイ」
ムゲンはいったいどれほど、今日のシャオヘイのような夜を過ごしてきたんだろう。答えの出せない問いをいくつ抱えているんだろう。シャオヘイを寄りかからせてくれるこの肩が、くたびれて丸まった日がどれだけあるんだろう。
「……うん」
そのたび顔を上げてきた師の強さに、シャオヘイは初めて気がついた。
ムゲンの強さは決して戦闘技術の高さだけではないのだ。
そしてこの人は、その別種の強さをもシャオヘイに教示しようとしてくれる。
「うん。師匠」
「ああ」
胸の棘はまだ抜かないまま、シャオヘイはムゲンの横でじっと月光のさざめく川を見つめつづけていた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.