やまだ
2026-01-20 17:49:04
1895文字
Public 羅小黑戦記
 

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2021.01.05 霊域と師弟

 最近できたばかりの弟子が、ムゲンを仰ぎ厳かな声でもって師匠、と呼んだ。
「なんだ?」
……ぼく知ってるんだからね。師匠、夜たまに霊域の中に遊びに行ってるでしょ」
……遊びに行っているわけではないんだが」
「今日も行くんでしょ! ぼくも行く」
……シャオヘイ」
 そういえばムゲンは前回も、街中のビジネスホテルに宿泊した際の深夜に霊域へ向かったのだったか。再び条件が揃ってしまったからシャオヘイの警戒心が爆発したらしい。
 迂闊だった。単にふたり旅で増えた所持品の整頓に使っているだけなので後ろ暗いことはないが、シャオヘイはすっかり熟睡しているものと思っていた。
「私が昔言ったことを覚えているだろう? 他人の霊域には無闇に」
「無闇に入るなって言うんでしょ。わかってるよ。……最悪どういうことになるかも」
 狭い部屋へベッドを捩じこんで無理矢理ツインルームにしたような客室だ。窓辺のベッドに陣取って駄々をこねるシャオヘイの声は、たとえどんなに俯いて呟かれたものであっても容易に聞き拾える。
 だからムゲンがその隣のベッドへ腰かけたときの、スプリングの僅かな軋みもまたシャオヘイの肩を緊張させた。膝が触れあう距離でふっと落とした呼吸もこの子どもは聞いたのだろう。
……怒った?」
 問う声が怯えに揺れている。
「いいや。わかっているならなぜとは思うが」
 ぺたんと伏せられた耳の上をごしごしと撫でるうち、気がつけばシャオヘイの小さな体がムゲンの膝の上に丸くなっている。
「し……師匠の家、ちゃんと見てみたいから……
 答えるうちに唇が尖っていくものだから聞きとりづらいことこの上ない。けれどシャオヘイの気まずそうな一語一語は、耳を澄ませていたムゲンを微笑ませるに十分すぎた。
 腕から外した鉄片を引き伸ばして輪を作り、今までシャオヘイが座っていたベッドの上に設置する。大きな目を輝かせながら顔を上げた子を抱えて立ち上がった。
「いいの、師匠?」
「いいよ。だが、ほかの者には同じことをねだらないように。トラブルの元になる」
「しないよそんなの」
 霊域へムゲンが爪先を落とす間際、さも心外だと言わんばかりにシャオヘイが皇を膨らませた。先端が少し赤い。
「他人になんか頼むもんか。師匠は他人じゃなくて師匠なんだからいいじゃん」
 ふん、と横を向いたシャオヘイのつむじを、目して見下ろしてしまう。意表を突かれて声の出ないまま霊域へ沈みつつ胸に湧くのは、どうにもこそばゆいような納得と理解だった。
 なるほど信頼とはこれほど重く、無防備であけすけで、そしてあたたかなものであったか。
 
 

 家を見たいと言ったはずなのに、ムゲンの霊域へ降り立ったシャオヘイがまずしたことといえば水辺に浮かぶ筏へ大はしゃぎで走り寄ることだった。その途中で赤いスクーターも見つけたものだから声はどんどん高くなる。
「これ! 筏、あのときのやつ? この赤いの、龍遊に行くとき乗ったよね? そうでしょ? ねえ、ねえそうだよね! ぼく覚えてる!」
「ああ」
「筏に乗ってるとき、ぼく師匠のこと大っ嫌いだったのに」
 屈託のない声と表情だ。スクーターに跨ってみたかと思えば進まない筏の上で胡坐を組んでみたり、何度か往復したあと満足げにムゲンの腰へ飛びついてくる。
 霊域のありようを理解していてなおムゲンに対してこのふるまいなのだから、あえてシャオヘイの内面を読む必要もない。ただ小さな頭に手を置いた。
「そうか」
 へへ、と笑って額を擦りつけていたシャオヘイがふと瞬いた。
「師匠」
「ん?」
「捨てないの? ぼく人間がいろんなの捨てる所知ってるよ。教えてあげようか? あんまりおいしくないけどたまに食べ物もあるんだ」
 シャオヘイの頭を撫でる。
 いつもムゲンから学んでばかりいるから、逆に教えられることが嬉しくてたまらないのだろう。まだ十年も生きていない子どもの得意げに輝く瞳が無邪気だ。
「それは捨てる物ができたときに教えてくれ」
……ふーん。……わかった」
 しばらく考えてから、ムゲンの言葉を正確に聞き拾ったシャオヘイがにんまりした。
 紅潮する頬をそのままにムゲンの手をとり、今度こそ家へ向かってぐいぐい歩きだす。狭い歩幅で雑に引きずられるまま進むムゲンは、どうしても口元が綻んでしまうのだ。
「シャオヘイ。他人の霊域では」
「もー、わかってるってば! 師匠はいいのっ」
 振り返らず言い返してくるシャオヘイの声はムゲンにとってどこまでも重く、無防備であけすけで、そしてあたたかい。