千代里
2026-01-20 08:05:04
8668文字
Public 君ふれ短編
 

君触れ・クガネ編・6話


 ケイとミィハのルーティンワークのひとつに、夜寝る前に今日一日中あったことをお互いに報告するというものがある。同じ部屋で寝るようになって、その時間は緩やかに長くなるようになっていった。
 本日も、いつも通り布団を整えて部屋のランプの灯りを小さくする。夜の帳が、心地よく部屋の半分以上を包み始めたころ、
「あのさ、ミィハ。今日、リムサ・ロミンサで俺と別れたあとに何かあったでしょ」
 遠慮などひとかけらもない直球が相棒から投げこまれて、ミィハは猫が尻尾を踏まれたように肩をはねさせた。もっとも、ミィハ本人の尻尾が踏まれても、彼は驚かないのだが。
……ムヒョウさんから聞いたのか」
「ちょっとだけね。うちの息子がお友達に失礼なことを言ったようですみませんって」
 広場で紹介されたヒョウセツの父親であると言う人物を思い返し、ミィハは肩を落とす。いかにも好々爺といった風情の彼に謝らせてしまったのは、ミィハの本意ではない。
「ミィハたちが三人で揃って帰ってきたんだから、そんなに大したことじゃなかったんじゃないかって言っておいたけどさ」
 ケイの返答に、ミィハは少しばかり安堵の表情を見せていた。普段は先走りがちなケイに対してミィハが頭を下げる側になることが多いのに対し、今日の二人はいつもの逆となっている。そして、友人が些細なこともひどく気にする性質の人間であると、ケイはよくよく知っていた。
「それでおしまいかと思ったら、家に帰ってきてからも、ミィハの尻尾がずーっと落ち着かないし」
 指摘を受けて、話題にあげられた尻尾の毛がぺたりと下がる。なお、つい先ほどまではぶわっと膨れ上がり、落ち着きなく揺れていた。
「耳だってぴくぴくしっぱなしだったよ。だから、息子さんのヒョウセツさんとの和解がうまくいかなかったのかなあって気になってたんだよ」
「謝罪はきちんとした。ユキハネには、少々気を遣わせてしまったが……
 フェリキシーたちを含む四人の中では、最年少のユキハネに仲を取り持ってもらったのを、ミィハなりに恥ずかしく思っているのだろう。ミィハの尻尾が、今度は元気なく垂れ下がり始めた。
「じゃあ、何をそんなに落ち込んでるの?」
「感情的になって言い返してしまったことを。ユキハネの家族のことを、僕はあんなふうに受け止められなかった。だが、そうだとしても、他にもっと言い方はあったはずだ」
 ぱたぱたと、ミィハの尻尾が落ち着きなく揺れる。これは相当動揺している時だなと、それなりに長い付き合いであるケイにはすぐわかった。
「ユキハネの家族がどうかしたの?」
 話の流れを知らないケイに、ミィハはぽつぽつと今日あったことを伝えた。
 ヒョウセツが、ユキハネと共に東方に帰還したいと言い出したこと。
 躊躇うユキハネに、彼がユキハネの家族が待っていると告げたこと。
 楽観的なヒョウセツの意見とは対照的に、ミィハは真逆の意見を述べて、結果として言い合いのようになってしまったこと。
 それらを全て聞き、ケイは腕組みをしたまま「うーん」と唸ってしまった。
「俺が言っていいのかわかんないけど、さ。ミィハは、自分の家族のことを思い出したから、軽々しく家族が待ってるなんて言うものじゃないって指摘したんだよね?」
「自分の言葉を自分で分析するのは面映いが……結果的に、そうなるな。僕が僕の家族に対して思うところがあるからと言って、他人にまでそれを押し付けるべきではなかった」
「そこはきっとミィハのことだから、ものすごく反省してそうだし、俺は口出ししないよ」
 そこまで言ってから、ケイはこの件で話題になった『家族』というものへ思いを馳せる。
 幼少の頃、ケイは伝統的なムーンキーパー族の生き方をしていた。
 両親はいたものの、常に移動しながら狩りをする小規模な集団の中で育ち、子守りは少し成長した子供たちや老人の仕事だった。そのため、ケイは、家族という特定の集団に対する執着が薄いと自負している。両親が早くに亡くなったことも、それに拍車をかけたのだろう。
 だが、ミィハはそうではない。
 彼には、家族と呼べる血縁関係の集団で長い時を過ごし、それに対して親愛とも嫌悪とも言い難い感情を抱いている。家族というものを知らないケイにも、ミィハがかつて家族について語った時の顔を見れば、それくらいは伝わっていた。
「でも、実際のところ、十年ぶりに違う国から帰ってきた親戚の子を、手放しに喜べるかっていうと……難しいところだよね」
「シャーレアンの中では、自分の国以外で育ったものを無知で粗野な者と見下す風潮もなきにしもあらずだった。東方の文化については詳しくないが、自分たちと異なる文化のものを受け入れるかは未知数だ」
「あ、そういう考え方もあるか。てっきり、俺はご飯の取り分減るとか、そういう問題があるかなって」
 幼少期、ケイを育てていた群れの面々にとって、群れの仲間が増えるのはそのまま衣食住の負担が増えることに直結していた。よそ者を迎え入れる時は、それらの負担を賄える価値が自分にあるか示さなければならなかったほどだ。
「君の意見も、強ち的外れではない。家に誰かを招きいれば、当然経済的な負担も増える。しかし、親戚を外に放り出すわけにもいかない。世間体もあるからな」
「うーん。やっぱりそういう感じになるのか」
 ケイが育った環境ならば、たまたま親戚が見つかったとしても、無理に群れの中で休んでいけとは言わない。だが、ウルダハで使用人生活をしていたときに、家族のつながりというものはケイもいくらか学習していた。
(おじさんもおばさんも、俺のこと息子も同然だって言ってたんだけどな……
 思い出したくない苦い記憶まで掘り当てそうになり、ケイはブルブルと首を横に振る。
「とにかく、ユキハネが行きたいって言うならそれは応援するし、行きたくないって言うのならそれまでの話じゃないかな」
「ああ。外野の僕が口を出すまでもなく、そうなるだろうとはわかっていたんだが……
「それに、そんなに心配なら、追いかければいいんじゃない?」
 再び反省の渦に落ちそうになっているミィハを、ケイの言葉がひょいと掬い上げる。
「追いかける?」
「クガネまでの船賃くらいなら、俺たち既に稼げてると思うよ。帰りの船賃は、まあ、もう少しいるかもだけど」
「待ってくれ。それは、僕たちがユキハネを追いかけるということか?」
 他に何があるのかと、ケイは首を傾げる。
「だが、あれはユキハネ自身の問題で、僕たちが口を出せる立場ではないはずだ」
「何言ってるのさ、ミィハ」
 ピンと背筋を伸ばし、大きく尻尾を左右に振りながらケイは言う。
「友達が悩んでるんだよ。理由なんてそれだけで十分じゃないか!」
 そうしてニッと笑顔を見せるケイに、つられてミィハも口角を緩める。
 自分もまた、この笑顔に助けられたなと思い返しながら。
 
 ***
 
 ――お前に向けての依頼なんだろ。
 ――だったら俺に相談するんじゃねえ。お前がそれでいいって思う交渉をしてこい。
 数分前に自分がユキハネにぶつけた言葉を振り返り、フェリキシーは眉間に皺を寄せる。そうすると悪人ヅラがますます悪人に見える、と揶揄って笑った女がいたことを思い出し、ますますピリピリと頭の端が疼いた。
「ぐだぐだ考えるなんて、らしくもねえ。明日も依頼があんだぞ」
 今、フェリキシーはリムサ・ロミンサ内にある宿の自室にいた。
 もし依頼がなければ、このまま階下に行ってエールの一杯でもひっかけてやったのだが、あいにく朝からはムヒョウと行動を共にする予定だ。さすがに、二日酔いの危険を冒すわけにはいかなかった。
 首を巡らせれば、数分前にユキハネが座っていた寝台が見える。杖の手入れをしたいからなどと理由をつけて、彼女はフェリキシーにとある相談を持ちかけていた。
 それは、ヒョウセツから打診された、東に来て彼の指導を続けてほしいが、フェリキシーはどう思うかというものだ。それに対して返した答えが、先ほど振り返ったものである。
(別に俺は間違ったことは言っちゃいねえ。依頼の報酬も、労働の対価も、冒険者なら真っ先に考えることだ)
 今回ムヒョウから依頼を受けたのは、彼が提示した護衛の額がフェリキシーにとって時間や労働、それに危険性も含めて妥当と思えたからだ。
 街中での労働や客人の整理は当初の依頼には含まれていなかったが、金額を思えばちょっとした雑用も含めていいと判断した。だからこそ、彼は店の品出しや片付けも言われるがままに行なっていた。
 ユキハネがヒョウセツから向けられた依頼はどうなのか。
 金額なども定かでないうちに首を縦に振るのは、愚の骨頂だ。とはいえ、東方に伝手を作るのは、この先西方――エオルゼアで活動を続けるとしても、そうでないにしても、悪い話ではない。
 ユキハネは一旦保留としたようだが、現状においてそれは正解と言えるだろう。
(だが、もしあのガキがユキハネを連れていくだけの報酬を見せたらどうなるんだ)
 ユキハネは彼についていくのか。それとも、向かう先が故郷であっても、この地に留まることを選ぶのか。
……故郷なんざ、俺には分からねえ感覚だな」
 物心ついた頃から、野盗崩れの両親と共に行動していたフェリキシーには、暖かな家庭も、安心する家も、全く縁がなかった。だが、それを求めるユキハネの気持ちまでを否定するつもりはない。求めるなら、その手で掴めばいいとすら思う。
 ただ、それでもフェリキシーの胸の燻りがどうにも消えないというだけだ。
 結局、一つ大きなため息をついたあと、フェリキシーは宿の廊下へと出た。エールは飲めずとも、酔客を眺めながら軽食くらい口に入れても問題あるまい。
 しかし、階段を下っていく踊り場の途中で彼は足を止めることとなる。
「お前は……
 視線の先にいたのは、フェリキシーにとっては馴染みのある人物だった。
「あ、フェリキシーさん。お久しぶりです」
 ぺこりと頭を下げた、この宿『ミズンマスト』の従業員のお仕着せを着た、ミコッテ族の女性。雪のように真っ白の髪の毛はユキハネに似ているが、彼女と異なり、童顔の面差しですら隠しきれない、相応に歳を重ねたものだけが得られる落ち着きが宿っている。手に持っている鍵束からも、彼女がこの宿屋の職員の中でもそれなりに信頼を得た立場であるとみてとれた。
 だが、フェリキシーにとって、彼女はただの従業員ではない。
「ク・ハナじゃねえか。てめえ、こんな時間にこんなところで何してるんだ」
「見ての通り、物置の片付けの確認と空き部屋の戸締りの確認です。空いている部屋に勝手に忍び込んでいる酔っ払いさん、たまにいますからね」
「一人でやってんのかよ。そんなことしてっと、面倒な連中に絡まれるんじゃねえか」
 すると、ク・ハナと呼ばれた女性は、穏やかに目を細めて「心配してくれてありがとうございます」と頭を下げる。
「でも、ここで荒事を起こしたら、下の冒険者さんも宿屋の用心棒さんも、黙ってはいませんから。……あの時の店とは、全然違います」
 その言葉に、フェリキシーは唇を引き結ぶ。
 フェリキシーとク・ハナの関係を一言で表すのは難しい。
 かつて、フェリキシーはウルダハを拠点としていた冒険者だった。
 冒険者として依頼を受けて、日々の糧を得て、依頼が終わればその報酬で酒を飲み、飯を食らい、時には女を買った。
 ク・ハナはフェリキシーの馴染みの店――娼館にいた女性だ。そして、フェリキシーの相棒でもあった青年――ビリーが入れあげていた女性でもあった。また、フェリキシーもその店で、リトという名前のミコッテ族の女性と何度か夜を共にしていた。
 しかし、ウルダハの富豪が引き起こしたとある事件により、フェリキシーは、相棒も、馴染みの女も、共に失った。ユキハネは、その時同じ店にいた娼婦でもあり、フェリキシーの事件解決に協力した同志でもあった。
 どうにか事件に蹴りをつけたフェリキシーは、ク・ハナとユキハネを買い取り、二人を連れて海を渡ったのである。富豪の気まぐれにより命を落としたリトが、一度は見たいと願った海は、今も壁の向こうで波音を響かせている。
「そういうフェリキシーさんこそ、ユキハネも連れずにどちらに行かれるんですか? お酒なら、部屋にも持っていけますよ」
 暗に、今日はもう階下は満席だと伝えたいらしい。フェリキシーは何度目かになるため息を吐くと、
「別に飲みにいくわけじゃねえ。単に、ちょっとした気晴らしでうろついてただけだ。それに、俺だってユキハネと四六時中一緒にいるわけじゃねえぞ」
 そこまで言って、フェリキシーはク・ハナが何か言いたげに視線を彷徨わせていることに気がつく。普段は通りがかっても軽い挨拶だけで済ませる彼女が、わざわざユキハネの名を出すからには、何か意味があるはずだ。
「あいつになんか言われたのか」
……一時間ほど前に、ユキハネに偶然会ったんです。そのとき、急に『ク・ハナさんは、ウルダハのことを懐かしいって思うことはありますか』なんて、あの子、そんなことを聞いてきたんです」
 ユキハネにとって、ク・ハナはかつて同じ店にいた仲間であり、お世話になった先輩であり、辛い時を慰め合った同志でもある。抱え込んでいた思いをつい口にしてしまったのだろうと、フェリキシーには察しがついた。
 しかし、ク・ハナは東方の話やヒョウセツと何があったかなどを全く知らない。そのせいで、脈絡のない問いかけに驚いてしまったようだ。
「私は、物心ついた時から、母の借金の代わりにあの店で働き詰めでした。だから、ウルダハを懐かしいなんて思うわけないって、言うつもりだったんだけど。……なかなか、それだけにすることもできなくて」
 言いつつ、ク・ハナは指にはまっている細い銀の指輪を撫でる。それは、彼女に思いを寄せていたフェリキシーの相棒が贈ったものだ。
「ユキハネに、何かあったんですか」
 ク・ハナの問いかけは静かだ。だが、彼女の視線は言い訳や誤魔化しを許さない鋭さがあった。
 かつて同じ店にいて、ユキハネの面倒を見ていたものとして。もしくは、それ以外の誰かの代わりにという気持ちもあるのかもしれない。
 迷いのない問いかけに、流石のフェリキシーも素直に白旗をあげた。
「ここ最近、あいつの故郷に関して、立て続けに色々あったんだよ」
 それから、フェリキシーはかいつまんでこの数日で起きたことについて語った。その時にユキハネが見せた表情のいくつかを、フェリキシーは自分自身が驚くほどはっきりと覚えていた。
 全てを聴き終える頃、ク・ハナは踊り場の隅に置かれていた木箱に腰掛け、真剣な面持ちでフェリキシーを見つめていた。仕事はいいのかと尋ねたら、今日はこの見回りで終わりだと返された。
……そうだったのね。それで、私にウルダハのことを聞いたのね」
「俺は、あいつがやりたいようにやりゃいいと思っている。故郷に帰りてえっつーなら、そのための旅費くらいは出してやるつもりだ」
「ありがとう、フェリキシーさん。でも、その時は私にも協力させてください」
「要らねえよ。宿屋の従業員に施しを受けるほど、貧しいわけじゃねえ」
 ク・ハナに話をしたからか、少しばかり胸のモヤモヤが減った気がする。
 考えてみれば、ユキハネの人生はユキハネのものだ。フェリキシーは、そこに少しばかり手を出しただけの端役にすぎない。
 彼女が若さゆえに過ちを犯し、手酷い目に遭うと言うのなら見捨ててはおけないが、ヒョウセツやムヒョウの様子を見る限り、ユキハネが東の地で当てもなく路頭を彷徨うということにはならないだろう。
(あとは、あいつの腹が決まるかどうか、か。もし本当に東に行くのなら……
 そこまで考えていると、ふとク・ハナが「でも、ちょっと意外だったかもしれませんね」と寂しげな微笑みを浮かべていた。
「あいつは、故郷の話なんざ殆どしなかったからな」
「それは、フェリキシーさんに一人前として認めてほしかったからだと思いますよ」
 まだまだ扱いなれない新品の杖を握りしめるようにして、フェリキシーの後を追いかけ回していたユキハネの姿を、ク・ハナは昨日のことのように思い出せる。お師様に買ってもらいました、と首にかけている赤い花のネックレスを、こっそりと見せてもらったこともあった。
「そういうもんか? 俺にはわからねえ話だな」
「それに、意外って言ったのはそっちではなくて。ユキハネのことを好きになる男の子が現れたことですよ」
 ク・ハナが何気なく告げた言葉。しかし、その言葉の意味がフェリキシーの思考に突き刺さるまでは実に十秒を要した。
……今、なんつった?」
「ユキハネのことを好きになる男の子、です。話に出てきたアウラ族のヒョウセツ君は、きっとユキハネに一目惚れしたんですね」
「あのガキが、ユキハネに? 強くなりてえって、刀振り回してるだけのガキが?」
「でも、ユキハネと一緒にいたくてあれこれ理由を探してるところなんて、ビリーにそっくりですよ」
 フェリキシーは、今は亡き相棒であり、ク・ハナにとっては思い人であった冒険者を思い返す。
 言われてみれば、彼からク・ハナへの思慕は相当なもので、彼女と夜を共にした翌朝は寄ると触るとク・ハナの話をしていた。その熱の入れっぷりは、確かにあの青臭さが抜けないヒョウセツに似ているところがある。
「てめえの言うとおりだとして、ユキハネはその気は全然ねえぞ」
「それはそうでしょう。ユキハネみたいな子は、自分から誰かに好かれるってこと、多分考えたこともないでしょうから」
 ク・ハナの言葉には、予測では終わらない確信があった。
 彼女自身も、生まれた頃からウルダハの娼館で客を取る女性たちを見てきた身だ。誰かから差し伸べられた手を簡単に受け取れない立場の者が何を考えるか手に取るようにわかるのだろう。
 何しろ、彼女自身がかつてはそうだったのだから。
「それに、ユキハネには、大事な師匠もいるわけですから」
「俺はあいつにいつも言ってるぞ。てめえの好きなようにしろって」
「私たちにとって、それは励ましにもなるんですよ」
 フェリキシーには突き放すように言った言葉も、どうやらユキハネにとっては激励になっていたらしい。実際、彼女は自分の足で考えて行動する力を少しずつ身につけている。
(誰かのせいにした方が、ずっと楽だったから、とか言ってた頃のガキの時代は終わったと思ってたんだがな)
 他責的な思考は、誰かに虐げられる立場だったユキハネなりの処世術だったのだ。それらから解放されて、これまでと違う世界で生きる選択肢も示され――そこでユキハネはまた躓いている。
「でも、少し心配でもありますね。ユキハネはあのとおりの子ですから、ヒョウセツ君みたいに押しが強い子が相手だと、押し切られてしまうかも」
「あいつがユキハネを良いようにするってのか?」
「別に、言いなりにさせようと思ってなくても、ユキハネって相手を困らせたり悲しませたりするようなことをするの、苦手だと思うんです。それに、少し流されやすいところもありますし」
 ユキハネが聞いたら、ぐうの音も出ずにうずくまっていただろう。そのあたりは、短い間でも同じ店にいた姉貴分の方が一枚上手であった。
「だから、ヒョウセツ君みたいに、自分の気持ちを真っ直ぐにぶつける人に出会うと、つい流されちゃうじゃないかって心配になります。フェリキシーさん、すみませんが、そう言う意味でもユキハネの様子を見守ってもらえますか」
 頼まれるまでもなく、フェリキシーとしてはユキハネを猫の子のようにヒョウセツに任せるつもりはなかった。
 ヒョウセツが無自覚の自己中心的な考えを押し付けるなら、無防備なユキハネがそれを受ける前に、間に入って一喝するぐらいはわけないことだ。
「最後に決めるのはあいつだ。俺はそこに口出すつもりはねえ」
「はい。その時まででいいですから」
「どっちにしろ、あいつが抜けると色々面倒臭え。どこで何やらかしてるかもわかんねえしな。他所でトラブル作って持ち込まれちゃたまんねえよ」
 素直じゃないんですから、と言いかけた言葉をク・ハナは飲み込む。ここで妙な意地を張られてしまったら、ユキハネにとってもフェリキシーにとっても良いことにはならないだろう。
(ユキハネ。あなたには、輝かしい未来がある。私みたいに、いろんなことを諦める前に、誰かの手をとる勇気を得ることだってできる)
 不安に足を取られて一歩を踏み出すのを恐れていたせいで、自分の恋人は命を落としてしまった。もっと早く、店の呪縛から逃れたいと彼に訴えていたら、手続きなど全て無視して、手と手をとって海の向こうに逃げられたら。そんなことを想像したことは一度や二度ではない。
(でも、決して慌てないで。その手が本当に誠実な人のものかどうか、あなたはもうきっと見極められるのだから)
 ク・ハナの無言の祈りは、誰知らず夜の中に消えていく。
 波の音が、静かに世界に響いていた。