guttaru
2026-01-19 00:22:43
34183文字
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ディオジョナ

・もしディオが吸血鬼になったときにジョナサンを屍生人にしていたらという妄想です。
・しかしファンタジーな世界線パロのため、完璧な原作軸ではないです。
・モブがメイン。
・ワンドロ『かじかむ』『反比例』から着想を得たためややその辺りの表現が頻出します!

ファンタジーをテーマに練習で書きたかっただけで、、ディオジョナは風味です><

 太陽が強くなったのは人間のせいだ、という話は、シェーンが”七歳”の頃から聞き続けてきた“常識”である。”七歳”──つまりは、彼がこの屋敷に奉公に来るようになってからだ。そしてそれから十年以上、シェーンは同じ愚痴を聞き続けている。まるで同じ鳴き方を繰り返す朝の鳥みたいに、大人たちは太陽を話題に延々とくだを巻いた。彼ら彼女らは口を揃えて『昔はこんなに暑くなかった』『こんなに地上から森が消え、剥き出しになったことはなかった』と嘆き、増えすぎた人間を痛烈に批判する。

 シェーンはパーティの場でそれらの話題を耳にするたび、いつも同じ動画を繰り返し流しているような気分になった。この会場に放りだされてビクビク働いていたときには緊張で周りの話など聞き取れなかったが、きっと聞き取れていたとてそれから十年が経った今のシェーンが耳にしている情報と何ら変わりはなかっただろうと思う。彼ら彼女らはずっと同じ話ができるのだ。
 それに、人間の問題が“長い目で見る”と差し迫った問題であることは確からしいと思っていた。シェーンの雇い主であるトイケット家の主は、昔から世の中に様々な人脈を持っていて、その脈から零れ落ちる血族の多さをよく口にしていた。彼女はシェーンが知る限りこの世で一番のプラグマティストで、人脈を金脈としてしか見ていない人物だが、だからこそ確かな情報を持っている。沢山の従僕を大きな屋敷に抱えているが、主はとりわけシェーンを気に入っており、眠りにつく前には彼を膝の上に抱いてその日の愚痴を言うことが多かった。
 ここに来た頃のシェーンは幼くて何も考えていなかったが、今のシェーンは主人のこの行為に心臓が暴れるようになっている。とにもかくにも、おかげで主人のように世の中にネットワークがなくとも様々なことが学べている。そして、「またあそこの血が絶えたわ」という言葉を主人の口から聞く頻度は、シェーンがここに来た七歳の頃より明らかに増えていることにも気付いていた。世界を見に行くなどできないシェーンには実感が乏しいが、人間の人口増加に反比例してこちらの世界の人口が減っているのはたしかなようだと感じている。主は『人間が科学と呼んでる正体不明の魔法を扱い始めたせい』とこぼしていた。きっとそうなのだろう──それならいつか、その魔法を見てみたいともシェーンは思ったことがある。

 トイケット家のビジネスは伝統的な商い、質屋である。夥しいほどの人脈から手繰り寄せた“首が回らなくて困っている人”のもとに出向いて、金目のあるものを嗅ぎ分け、それを担保に金を貸し付ける。その人たちが回す首すら無くなると不思議な力を使って担保として差し出させていたモノを商品に換えてしまうか、私物化するかのどちらかである。シェーンは今のところ後者で、奉公者という所有物であった。トイケット家に担保として入れられた頃のシェーンには自分の身に起こったすべてが理解できなかった。生家には他にも兄弟がいたが、一番物覚えがよさそうだという理由でシェーンが選ばれたのだ。せめて消えそうなほど病気がちな妹の方を担保にして男手を減らさないで、と母が泣いていたのと、その母の後ろで蝋燭みたいな顔をしている妹を見たのが血の繋がった家族との最後の思い出だ。
 この屋敷に来てから三年目の冬に、主人はシェーンに「あなたの所有権が私に移りましたよ」と優しく言ってきた。それはつまり、家族が夜逃げしたか、消滅したか、シェーンを売ってその金を返済に当てたか、の三つのどれかが起こったということであった。シェーンは家族の運命の行方を確かめなかった。分かったところで、シェーンの首と屋敷を繋ぐ契約の鎖は軽くならない。両親は泣く泣くであったかも知れないが、シェーンをまるごとトイケット家の主人に売ったのだ。彼の“肉体”はもちろん、命も魂も、この大きくて黒くて不気味なトイケットの屋敷に縛られている。心で感じることだけは自由だったが、ときに彼はその自由にこそ絶望を感じた。

『でもまあ、オレはましだよなあ……
大きくて重たい石の扉を開けながら、シェーンは考えた。
『こうして主人の私物にされて、さ。商品にされるよりうんとマシじゃないか?』
ひたひた、と冷たい大理石の階段を、ろうそくの明かりを頼りに降りていきながら、シェーンは地下からふきあげてくる冷ややかな空気の流れにぶるりと身体を震わせた。
 屋敷には巨大な地下空間があり、シェーンのように主人に所有印を押されている者だけが入ることができる。侵入者を惑わせるために迷路のような造りとなっており、財宝を隠すのによく使われるのだ、要するに、信頼された者だけが入れる場所である。そのうえ、もし迷っても所有印があれば主人に見つけてもらえることができる。尤も、迷うような従僕は捨てられるので、地下迷路で迷って苦しむ従僕に気付いたとしても主人は助けることはしない。そうして身体や服を残していく同僚は迷路の中で目印となって、もともと物覚えがいいシェーンをさらに助けてくれた。

 迷路はもう怖くないシェーンでも怖いものがある。それが、“商品”だ。屋敷の広間で毎月開催される市場に出されるものたちの世話をすることもシェーンの仕事なのだが、その商品には意識があることもしばしばある。なかには、七歳の頃のシェーンのように、理解もできないうちに担保としてこの屋敷に連れてこられた者もいる。シェーンは偶然、主人に気に入られ、少なくとも目に見える鎖には繋がれずに屋敷内を比較的自由に動けるが、そうでない者も勿論いる。来た瞬間から光のない地下に繋がれ、湿った石の上でネズミや虫の這いずる音だけを聞きながら何年も過ごすのだ。
 シェーンが怖いのは、そういう者たちの目だ。この世に存在するのが信じられないくらいの闇が目に覗いている。これまでの十年間で四人ほど、地下に繋がれた者を見たことがあるが、彼ら彼女らの目は恐ろしかった。この世界の住民でも、一切の交流がなくなると人はああいう目になるのだろう。シェーンにとっても他人事ではない。だからいっそ、彼ら彼女らを見るのが怖いのかもしれない。

 そして、今回、シェーンはあらたに一人の“商品”の世話を任された。
『クソ、せっかくここ半年はこの仕事がなくて安心してたのに。運がないよ……
シェーンと同じように地下に入れる家来の一人が先日ミイラにされたのだ。担保として扱っている呪いのミイラの棺にうっかり当たってしまったらしく、弾みで開いて出てきたミイラに中身を吸い取られてミイラ化してしまっていた。主人がいち早く気付き、満腹になったミイラがうとうとしているうちに素早く棺に戻せたので大事にはならなかった。同僚がミイラ化してよかったとシェーンはその時だけは思った。そうでなければ主人の仕置きが待っていただろう。
 だが、その同僚の仕事を任されると聞いたときには好き勝手に死んだ同僚に腹が立った。地下は危険がいっぱいなのだ、こうして任される仕事が増えるほどに危険が増していく。
『しかも、珍しく主人が「丁重に」って注文をつけて来たな。つまり、商品化するかどうか、まだ考えてるんだろう』
シェーンは伸ばした足の下にしっかりと石盤が触れるのを感じてから、足に力を入れて立った。手の中のランプの灯が揺れて、洞窟じみた空間の壁や床の上で影を躍らせている。
 うっすらと濡れた壁がてらてらとオレンジ色に光っている。その中をさっと、虫や何かが走っていくのが見える。昔はここで大勢が寝泊まりしていたという空間で、今は象やクマが入れそうなほど大きな鉄製の檻が積み上げられている。シェーンは直接見たことはないが、かつての同僚が『人間がやってるペットショップみたい』と言っていたので、きっとそんな感じなのだろう。
 檻の中はほとんどが空だが、空間の手前の二つと、奥側の一つは埋まっている。手前二つは先日ミイラが飛び出た棺も入っている“基本は動かない”ものたちを集めた檻だ。それぞれ棺だったり箱だったりと封をされているのに、さらに檻に入れられている状態である。そしてその奥側に、大きな布を被せられた檻がひとつ見える。布はこちら側に見える面の半分だけ開いている。こんなに暗いのにさらに分厚い布で覆われているのだ。今回、シェーンが世話をするのは間違いなくあの檻の中のものだろう。

 シェーンはそっと裸足の足をさしだし、目を凝らしながら檻に近づいた。檻と檻の間の一メートルほどの隙間を進んでいくと、その全貌が見えてきて、彼はあっと驚いた。布に掛けられているのが真っ赤なベルベットだったのだ。暗くて真っ黒に見えていたが、炎のかすかな光をこまかく反射する高貴な布のつくりは見間違えようがない。そのうえ、フチ飾りには金糸さえあしらえられてる。
『これは、商品じゃないな?主人め、本当はとっくに私物化するつもりなんじゃないか?』
これまでの商品ならありえない好待遇にシェーンは唸った。主人がシェーンのミスを誘うために嘘をつくことは今に始まったことではない。ミスをして、その許しを請うと、また新たな契約をさせようとしてくるのだ。もう五年は前だが、主人に騙されたも同然でミスをしてしまい、左の前腕の皮をさしだす契約をさせられたことがシェーンにはあった。彼女は剥ぎ取ったそれをなめして刺繍をして額縁に入れ、玄関口に飾って珍しい作品だとか言って客人に自慢している。この世界は口約束だろうと、契約が最も力を持つ。

『売りに出される商品だと思ってテキトーに接すると危険なのかもな。“これ”を傷つけたらやばいのかも。とにかく、慎重にしないとな……
シェーンは檻の近くまで来ると、腕に抱えていたどっしりとした大きな包みを床に下ろした。かすかなすきま風が空気を揺らしている。この動きで包みの中の羊肉の匂いに気付いて檻の中のものが近づいてきてくれたら正体が分かるかもと期待したが、しばらく待ってみてもうんともすんとも音はしなかった。
『やっぱ、血が要るのかな?食べそうになかったら小瓶のなかの血を差し出せってシェフが言ってたし』
キッチンでシェーンに包みを渡してきたシェフの台詞を思い出しながら、シェーンは屈みこんだ。ランプも床に置くと、あかりが檻の中に射しこんだ。それでも一見、何も見えない。
……大丈夫、こんなデカい檻だ、狼人間でさえ開けれてなかったんだし、襲われないさ』
シェーンはぶるりと身体を震わせた。檻の中の正体が不明なのはやっぱり怖い。主人に聞こうにも、それであれよこれよと新たに契約をさせられるのはもっと怖い。
『気をしっかり持てって……にしても、寒いなあ……
布の包みを開けていくうちに、洞窟内のかすかで冷たい風が背中に何度もぶつかってきた。ここに降りて来るまでにすっかり手足が冷え──なんせ、地下には貴重なものが多いので、うっかり傷つけないように従僕は薄着であることを求められる。そのために靴も履かせてもらえないのだ──、指先がこごえている。
 シェーンが動かしづらい指先に熱いと息を吹きかけてほぐそうとした、そのときだった。
……かじかむの?」
檻の奥から、声が聞こえた。

 気付けば、シェーンは立ち上がって胸を押さえていた。全身に汗をかいて、拳の下でドクドクと心臓が胸板を叩いているのを感じた。寒いと感じた一瞬後に、身体中が汗にまみれている理由がよく分からなかった。
「だいじょうぶかい?」
声が、さらに言葉を発した。シェーンの拳の下で心臓がさらに暴れて、胸を突き破って拳の中にもぐりこんできそうだった。ぐにゃっと、まるでやわらかいチーズの上に立っているみたいに世界が曲がった。それからなん呼吸か、あえぐようにしてから、シェーンは自分の動揺の理由を理解した。声が、そして言語が、あきらかに人間のものだったのだ。

 一気に、懐かしい記憶が蘇っていく。生家は人間の住む町に近くて、シェーンの両親らはよくそこを狩場に生気を集めていた。だがどんどん町が電気とやらで明るくなって、両親らは狩りができなくなった。それで生きるのに他所に住まいを動かさなくてはならなくて、引っ越し先にすでに縄張りを敷いていた人から土地を買い取るためにシェーンを手放すことになったのだ。
 うんと小さい頃は、兄弟とよく人間の家に忍び込んで人を驚かせたものだった。両親曰く、シェーンもうんと昔はポルターガイストと呼ばれる前は人間の魂を持っていたそうだ。だから私たちは人間に近い見た目で、人間が好きなのだと両親は機嫌のいい時には言っていた。シェーンも人の町が好きだった。あのやかましい言語、忙しなさ過ぎる動き、ちょっと脅かすとものすごく変な動きをするあの人々──……

 なにかやわらかいものに触れた気がして、シェーンはまた胸を押さえた。彼があると信じ込んでいる形のままの身体がぶるぶると震えている。そして、同じくあると信じ込んでいる温度の感覚の方は、今ばかりはすこし変だった。シェーンには暑いのか寒いのかもわからなかった。
……無理に、話さなくていいよ。ただ、寒いんじゃないかと思っただけなんだ」
また声が言った。今度は、若い男性の声だとも理解できた。
 シェーンのこわばる顔の裏で、『やっぱり商品じゃないな』という思考だけがさっと過る。声だけで、シェーンには分かる。この檻の中のイキモノは魂が綺麗だ。きっと、目が沢山ある蜘蛛の頭を持つ主人にも、この魂の透明さは見えている。この男が担保として来たときから私物化したくてうずうずし、丁重に扱っていたに違いない。
『ますます、なにか変なことを吹き込んだら危険だな。話なんて絶対にできないや』
シェーンは考えて、ショックでさらにかじかむようにこわばっていた指先を動かした。なんとかそっと包みを持ち上げて、檻の目の前に近づける。包みの中身が見えるように置いて、赤黒い液体の入った瓶の方は檻の間に入れて転がしてやった。ガラスが石の床をするかすかな音が鳴ったあと、数秒後に止まった。
 シェーンは息を殺していた。さらに数十秒後、瓶を動かすような音が聞こえた。蓋が開く音はしない。やがて、ベルベットの分厚い布越しに、イキモノが近づいてくる気配がした。シェーンはますますじっとした。大きな毛むくじゃらの腕が檻の間から見えるかと思ったが──狼人間の声にも聞こえたのだ。彼らは誇り高いイキモノで、たまに人間の脳みそを持っている──、見えたのは土気色の肌だ。アルコールに漬けられた蝋燭みたいにどこか線の曖昧な肌で、それだけで人間ではないことが分かった。だが、檻の鉄棒を掴むその動きは、説明のしようがないほどに人間的だ。
……何もしていないのに、お腹が減るんだ。本当に嫌な身体だよ」
 若い男が囁いた。光沢のある布の下で、ほんのかすかに橙色が反射している。それが男の眼球の白い部分にうつりこんだランプの光だと分かったときに、シェーンは慌てて目を逸らした。もっと前に出て、顔を傾けてしまえばきっと相手の顔がすっかり見える。だけど、それはしたくなかった。これまでの“商品”ならさっさと正体を把握して危険を避けようと思うのに。今回ばかりはなにかが違った。この十年間で、いや、下手すればシェーンがこの世に生まれ(留まり始め)てから初めて、こんなにも人間を近くに感じている。
 いや、これは、人間じゃない。だけど、ひどく──

 混乱が、七歳の身体を保つ老練な思考を揺さぶってくる。シェーンの考えの方は、檻の中のものが人間ではないと理解している。だけど本能的な心の部分は、今まで会ったどんな人間よりも人間らしいと感じていた。シェーンが記憶しても居ない、魂だけが覚えている何かに触れられたような心地。泣いていた母にさえ感じたことのない温度を、なぜか感じる。
……だいじょうぶかい?君は幼く見えるね。ごめんよ、こんな所にこさせて」
声が言った。シェーンは頭蓋骨の下で、すぐに離れるべきだという警告を聞いた。だけど、警告の強さとは反比例して、足は此処から離れまいと踏ん張る力を強くしているようだった。
……僕は、ジョナサンっていうんだ。ここは、トイケット家の屋敷の地下だと聞いたよ。レインのことは、すごく悲しかった。君も知ってるんじゃないかな?」
レイン……ミイラになった同僚の名前を聞いた途端、シェーンは足を床から剥ぎ取ることに成功した。脳内の警告が勝ったのだ。レインの二の舞になるぞ、と──……

 シェーンは走って逃げだした。ガチャガチャと檻の間を抜けながら、ふと、レインもこうやってあの檻の中のイキモノに近づきそうになったことに慌てて逃げだしたんじゃないかと思った。あの子はまるっとした一つ目の子供だった。シェーンみたいに本気になれば物をすり抜けるなんて芸当はできない。

 地下から出ると、シェーンは与えられている自室に逃げ込んだ。ものの数分、主人に呼ばれるまでは、シェーンの頭からは明日のパーティへの準備のことなどすっかり抜けていた。彼の頭の中にあったのはあの声だけだった。あの人間じゃないのに、人間らしい声。誰もが一度は焦がれるような、本当にやさしい声──……
「シェーン!」
廊下をぼうっと彷徨っていたシェーンの耳に、主人の声が飛んできた。シェーンは肩を跳ね上げ、文字通り壁を通り抜けながら主人のもとへと急いだ。

 ドアベルを鳴らし、返事を待ってから主人の部屋へと入る。いつものことながら、濡れた鴉みたいな黒い床に、天井のあちこちから白いレース飾り──に見える、白い巣の網目が張り巡らされた部屋は、それでも質素とは程遠かった。担保にされた価値のある財産の中で彼女が自分の懐に入れることのできた多くの財産のうち、彼女がとりわけ気に入った家財が並んでいるのだ。特に、立派な骨でできた執務机はお気に入りだ。そのうえで、主人の好物の鮮やかな蛾のおやつが力なく羽を広げたり閉じたりしている。
 女主人はその前で真っ黒な絹のドレスを纏ったいつもの姿で右往左往に動いている。いつも物事をじっと待つ彼女にしては珍しく、落ち着きなく顔の脚も動かしていた。シェーンの鳴らしたベルの音が消え切らないうちに彼女は顔を上げ、シェーンを沢山の目できっと見据えた。
「シェーン、屍生人に会いましたね?」
 屍生人……
シェーンが戸惑っていると、主人はドレスの下の足と顔の脚の動きを止め、シェーンに向き直って姿勢を正した。自分の落ち着きのなさを今自覚したかのような表情だった。毛むくじゃらの顔なので、本当のところどんな風に思っているのかは今一つ分からないが。
「ミイラのある地下室に行ったでしょう?前の子がミイラになったので、いよいよお前にあの屍生人の世話を頼みました。檻に、大きな布の生地が掛けてあったでしょう?あそこに居るものに、食事を持って行った。そうですよね?」
主人はシェーンを見ると、いつも七歳の子供に話すような口調になる。もう十年間かわらないのだ。それでもシェーンは、自分の名前を覚えられている点では、他の従僕が『主人はお前が死んでるからお気に入りなんだ』と意地悪そうに言ってくるくらいにはこの主人に気に入られている感覚がある。“前の子がミイラに”──主人はレインのことを覚えていないのだ。とはいえ、シェーンも、先ほどあの檻の中の男がレインの名前を口にしなければあの子の名前を忘れてしまっていたのではないかと思った。
 シェーンはおずおずと頷いた。主人が求めているので、いつも通りうんと子供らしく振る舞っておくことは気をつけている。あの檻の中の男が屍生人いわゆるゾンビには見えなかったが、布の下に隠されていた男に食事を持って行ったのは事実だ。
「あれは、食べていましたか?そう。今度から、食事をしたかどうかをしっかり確認するのよ。それと、布が落ちないかを確認すること。万が一にも、太陽の下に出してはいけません。屍生人ですから、消えてしまいますからね」
主人はさっと手招きし、シェーンを呼び寄せた。シェーンは大人しく従い、彼女の手の届く所まで進んだ。彼女の真っ黒な手袋に包まれた手が、シェーンの大きな穴の開いた頬を撫でる。なにも温度を感じないが、紙のようなものに頬を擦られるようないつもの感覚がする。
「シェーン……彼は話しかけてきたでしょう?お前はなにを感じたの?」
シェーンは目を瞬き、首を横に小さく振った。本当は、ジョナサンのことがまだ頭から離れていない。だけど、“これ”は、隠すべきだと思った。主人は手を一瞬止めたが、すぐにまた指でシェーンの頬を擦った。彼女は、シェーンが遥か昔に命というものを落とすきっかけになった身体中の穴のふちをなぞるのが好きだった。特に、あったはずの口がほとんどなくなっているのが好きらしい。おかげで、シェーンは意思疎通ができないフリをすることができた。
「そう……やはりお前は、元は人間だったから、影響を受けないのかもしれませんね。この屋敷には滅多に来ませんが当然ね、通常、価値なんてないものあれは屍生人といって、もと人間なんです。それが魔法で、半永久的な命を得ているの。太陽に弱いですから、もうあまり見なくなりましたが、ウンと昔は流行っていたのよ。奴隷にするにはちょうどいいですからね。ただ、普通は、知性が残らないの……あんな風には」
主人はぶるりと身体を震わせた。彼女の珍しい恐怖に、シェーンは目を丸くした。このときほど口がなくてよかったと思ったことはない。笑いそうになったのを、シェーンはなんとか堪えることができた。幸い、トイケットの主人はシェーンの様子に目をくれず、八つ以上ある目をどこか遠くに向けている。
「本当はね、お前に世話をさせたくなかったの。世話係はみんな消えてしまうのよ。あの屍生人……お前はなにも感じなかったようだけど、わたくしにはアレが太陽みたいな……
主人は怖いとか恐怖を感じるとか、そういう類の言葉を吐かずに沈黙で埋めた。言葉を紡ぐ間をおいてから、彼女は再び口を開いた。
「とにかく、これまで扱ったもののなかでも、あれは格別に異常よ。あんな風に、死んだ体に生きている魂が入っているのはおかしいんだから。きっとすさまじい禁忌の術を犯してつくられたに違いないわ……いいこと?シェーン」主人はぐっと指をシェーンの頬の穴に突き立てた。シェーンは痛みを覚えた顔をした。
「あれはね、商品じゃあないの。担保でもない。ウチはあれを、預かっているの。つまり、金庫代わりに使っていただいているのよ……名誉なことなの。詳しくはわたくしにも……でも、とにかく、王族の方からの依頼なんです」
詳しいことを教えてもらえなかった悔しさが主人の中を荒しているのをシェーンは初めて見た。彼女はその悔しさをごまかすようにますますシェーンの古傷に爪を立てた。
「なんでも、ありきたりのところに隠していたんじゃあ奪われかねないとのことで、巡り巡ってうちが預かることになったの。遣いの方は、毎日あれの様子を報告することを望んでらっしゃるわ。わたくしが蜘蛛の巣で報告しますから、シェーンはあの屍生人が食事をしたかどうか、健康かどうか……を、見て、わたくしに毎日報告なさい。このことはあなただけに伝えます。分かりますか?」
シェーンが返答に困って目を細めると、八つ以上の目がぐっと近づいてきた。硬いくちばしのカチカチという音が聞こえる。
「王族の方でも、隠すということは、なにか危ない橋を渡って手に入れたものに違いないということです。あの屍生人はあれ自体も危険ですが、あれを手元に管理していることはもっと危険ということよ。誰が敵か分からないの」女主人の目が一瞬ひるんで、彼女が自分の口から“分からない”という単語が出たことに驚いたのが伝わってきた。ますます口を鳴らして怒りながら、彼女は話を進めた。
「だから、誰にも、あの屍生人の話をしてはなりません。ああ、まったく!あんなにわたくしの奴隷たちがあの屍生人に動揺するなら、もっとお預かりの金額を上げるべきだったのに。いまからでも遅くはないかしら?……とにかく、シェーン、あなたには期待していますよ。他の子たちは、あれを前にするとひどく動揺していて、あなたのようにはいかなかった。わたくしも、お預かりの時にほんの五分ほど近くに居ましたがあの声!どうしてあんな声が出せるのかしら、どこを見たって屍生人なのに」
顔の周りの脚がかさかさっと震えた。彼女の毒の入ったこまかい毛が宙を舞うのが見える。
「ふう……シェーン……あなたは人間に近いから、きっと大丈夫なのでしょうね。やっぱり特別だわ。わたくしの一番のお気に入りの奴隷よ」
 そう言って見せながらも、彼女はシェーンが地下室に行く前に屍生人が居るだとかなんだとか、親切な警告はしない。あくまで先に試してみて、使えると分かったら残す。それがこの主人のいつものやり方だ。
 シェーンはゆっくりと頷いた。彼の心は既に地下室に向かっていた。主人に言われるまでもなく、シェーンにとっても、すでにあの“ジョナサン”は特別だった。

 
 それから、わずか五日の間で、シェーンの頭は“ジョナサン”でいっぱいになった。十年間この屋敷で働いてきた様々な記憶を、ジョナサンはたった五日ですっかり塗りつぶした。屋敷で覚えた礼節や作法、どんな客人が危険でどんな関係性が彼ら彼女らの中に在るのか──そのように、生き残っていくうえで欠かせない蜘蛛の巣のごとく複雑な情報を時間をかけて労力を割いて集めてきたはずなのに、ジョナサンといると、シェーンにはそれらの全てがどうでもよく感じられた。
 ジョナサンはいつも話しかけてきた。最初の会話は、彼の声を聞くだけであったが、次の会話ではシェーンも彼に伝えたいことがあった。まずは名前だ。シェーンはそれをうつろな喉を通じてなんとか発音してみせた。ジョナサンは聞き取れなくて、最初は「ジョン」と呼んできた。シェーンはその名前を気に入ったが、ジョナサンは気付いて、謝って特別そうに「シェーン」と呼んでくれた。シェーンは自分の名前がかっこいい響きを持っていることに初めて気が付いた。二回目の会話はそんな風に自己紹介で終わった。

 そして、三回目には、ジョナサンは自分がこの檻にもう七年は入っていることや、そのきっかけが太陽を浴びたい病気を治すためだと言われたことを話してくれた。四回目には、未だに太陽が恋しくてたまらないことを教えてくれた。
 そして彼は、自分の話をする以上に、シェーンのことを知りたがった。屍生人が物を知りたがるなんてシェーンは知らなかった。屍生人にかぎらず、だれもシェーンにこんな風に質問したりはしなかった。ジョナサンはシェーンの声にならない声に熱心に耳を傾け、シェーンの声にはすべてに特別なものがあるかのように頷いてくれた。
 彼はほとんど姿を見せなかったが、シェーンには次第にジョナサンの動きが分かるようになった。そして、どうやら若い人間風の男の姿をしていることも。屍生人は二足歩行であること以外に人間的な部分を残さないことが多いと聞くが、ジョナサンはむしろほとんど人間的なようだった。彼は、屋敷の中の他の誰もしないことをしてみせた。声を上げて、笑うのだ。 
 それは五日目の、五回目の会話の時に起こった。彼の吠えるような笑い声があまりに聞き馴染みがなくて、シェーンは最初、ジョナサンの笑いをなにかの発作だと思った。それは小さなきっかけだった。ジョナサンが「そういえばここって寒いのかな?僕は感じなくて。君は初日、手がかじかんでたみたいだった」と言うので、シェーンは『寒い気がするからそうしただけ』と伝えたくて、ぜ~んぜん、とばかりに肩をすくめて、小躍りしてみせた。それをどう受け取ったのかは分からないが、ジョナサンにはよっぽどシェーンが陽気に見えたらしく、彼は肩を揺らして笑い声を上げたのだ。
 そして、彼が死んでしまうのではないかと思って大慌てで檻の中に飛び込んだシェーンを前に、ジョナサンはびっくりしてから、さらに「君、通り抜けられるんじゃないか!」と笑った。ジョナサンは光をほとんど通さないベルベットに四方を覆われた檻の中に居たので、シェーンにはやっぱり見えなかったけれど、突然暗闇の中に太陽が顔を出したような気分になった。さあっと、言いようのないあたたかなものがシェーンの胸を貫いた。

 瞬間、シェーンは“王族の誰かがジョナサンを違法に奪った”という主人の話は真実だろうと思った。ジョナサンは、この地下の、いや、屋敷中の、国中の財宝を集めたって叶えられないなにかを満たしてくれる。主人がジョナサンの近くに居られなかったように、きっと王族のその誰かもジョナサンを目の前にはできないに違いない。太陽みたいだからだ。この世界の住民が太陽を忌々しく思いながらも消えて欲しいとは決して思わないのと同じで、王族の誰かもそして主人も、ジョナサンの存在を感じるだけで十分に落ち着くのだろう。
 だから、主人は毎日オレの報告が楽しみなんだ。

 シェーンはジョナサンが食事を取ったことを報告しに主人の部屋に行くたび、彼女の機嫌がいいことを察知せずには居られなかった。シェーンは彼女の様子を見ながら、次第にジョナサンの世話をすること以外の仕事を勝手に手放しているのだが、あの女主人はそれに気付いた様子も見せなかった。こんなことは、今までにあり得なかった。そもそもそんなリスクを犯そうとシェーンが思ったことも、これまで一度もなかった。このリスクは、ジョナサンに時間を割くためだけのものだった。
 主人はしきりにジョナサンが食事をした後の包み紙や皿を見たがった。肉を食べる人は奴隷には居ないし、食べた皿を綺麗に布巾で拭うような人も居なかった。そのうえ、ジョナサンは食事後にシェーンと話しながら紙を折って遊ぶことがあり、その跡のある包み紙やナプキンを見ると、主人はなぜかとても喜んだ。夜明け前に外に出して、夜に回収する衣服に太陽の匂いがほんのかすかにするのを好むのと同じだ。決して直接は見ないけれど、彼女は特別な預かりものの屍生人の存在を感じることが明らかに好きだった。

 トイケット家が長年栄えてきたのは代々の主に人を見る目があり、どこまでも冷静で公平に人に接するからこそである。だから信用して金を借りに来る人が常にいるのだ。そんな家は当然、何千年と続く王家に忠実で──少なくとも敵対はしない立場を保ち続けることで─一定の信用を寄せられていた。
 だが、シェーンは時おり、主人はジョナサンを王族に返さないために何でもするんじゃないかと思えた。これまで徹底して贔屓をつくらず、誰に対しても公平に接してきたからこそ紡がれて来た膨大な網の目のどこかにハサミを入れてしまうんじゃないか。シェーンはそれまで感じたことのなかったそんな感覚を、ジョナサンの報告を主人にする度に感じるようになった。ジョナサンを手放さないために、私物化するために、なにか勢力図を変えるような働きをしてしまうのではないか──五世紀は続くトイケット家の大きな転換期が近づいているような、そんな落ち着きのなさを、シェーンは感じ取っていた。


 ジョナサンに会い始めて七回目のパーティが終わったころ、すなわち七週間の月日が過ぎた頃の晩のことだった。
 シェーンはせっせとジョナサンの食事を準備して、彼と交流して、彼が昔買っていた犬について詳しくなってから、報告のために主人の部屋に向かった。その日は、ベルを鳴らした瞬間から違和感を覚えた。昨日までの彼女なら、ジョナサンの報告が聞けると分かれば機嫌よく返事をしたのに、今日の彼女の声はハサミを思わせるほど尖っていた。シェーンは一気に警戒態勢を全身に敷き、とはいっても運命に身を委ねるしかない我が身を嘆きながら、子供らしい足取りで部屋に入った。主人は机の前でウロウロとしていたが、シェーンを見るや否や手招きした。
 鋭い紙やすりのような手が頬を撫でまわすのを感じながら、シェーンは女主人が口を開くのを辛抱強く待った。彼女はシェーンの頬に指先を埋め、ほっと息を吐いてから話し始めた。
「次のパーティから、吸血鬼の一族が参加します。知っての通り、彼らは秘密主義で、王族とは長年……“良好”な関係を築かれています。お互いに流した血は同じくらいでしょうからね。王族は現在、すこし力を落とされている。血族にあんなに死者が出ているのは初めてのことです。我が一族のことを考えると……以前から、吸血鬼一族はパーティに関心を示されていました。ただ我が一族は中立の立場のために、彼ら彼女らに関心のあるようなものは揃えていないという理由と、彼らの根城の膝元ですでに“賊”が市場を持っていることを理由に、首を縦に振ってはきませんでした」
“賊”とは同業のことで、トイケット家主人は決して彼らのことを名称で呼ばない。シェーンは、以前から感じている“転換期”をまた強く感じた。主人が王族の力の弱体化をかんじとり、他の勢力図との結びつきを強めようとしている。しかも、吸血鬼─
 ぶるりと震えたシェーンの前で、主人は“奴隷”が感じている恐怖を理解するかのように頷きながら話を続けた。
「そう、吸血鬼です。彼らは人間から派生したこの世界の者たちのなかで一番人間を殺している獰猛で危険な存在です。数こそ少ないですが……あれだけしかいない人数で、王族を敵に回せる……常々言い聞かせてきたように、吸血鬼はこの世で最も恐ろしい化け物です。王族の血を引く者でさえ、トイケット家の屋敷で担保になったことがあるのに……彼ら彼女らの力の強さに敵う者は、太陽以外にはありません。その方々が、ついにこの屋敷の敷居を跨ぐの……我が家には初めてのこと……
主人はぐるりと周りを見回した。壁中に飾られた代々の屋敷の主の頭や、彼女が家を継ぐために殺したとされる兄弟たちの頭に、まるで助言を求めているかのようだった。くちばしがかすかに鳴るのが聞こえる。その鋭い顎が、脅迫以外の場面で鳴るのを初めて聞いた。主人が恐怖で途方にくれた様子こそが、シェーンには怖かった。見たこともない吸血鬼への怖ろしいイメージがどんどん頭に描かれていく。きっと見るもすさまじい化け物なのだ。
これまで頭がない人物や、血の匂いをさせている蛭の顔のもの、人間の手足を首に飾った巨大なイノシシ顔のもの、カマキリのハサミを持つものなど、いろんな客人を見てきた。主人はシェーンを雇ったときから、シェーンを屋敷外に出さないにもかかわらず、外で吸血鬼に会ったら一言も話してはいけないことを命じてきた。シェーンの穴だらけの頭では考えられないような恐ろしいイキモノなのだと、口をすっぱくして警告したのだ。それなのに、そんな化け物がやってくるなんて。

 それから次のパーティまでの三日間はあっという間だった。シェーンはできるかぎりジョナサンの傍にいた。そうすることで、驚くくらい恐怖を覚えずに済んだのだ。他の従僕は大変そうで、屋敷のことさらの掃除や主人の商品の選定作業につきそって忙しくしていたが、シェーンだけはジョナサンの傍に居ることでそれらを免れた。女主人は今ばかりはシェーンのようなゴーストよりも“肉体派”の従僕に目が行くようで、シェーンからのジョナサンの報告をほとんど聞き流すくらいに奔走していた。
 ジョナサンは、シェーンが不安がっていることをすぐに察知してくれた。彼は「なにかあったんだね?」といつもの透明な声で言ったあと、「君が抱え込み過ぎないで済むといいのに」と、遠回しに話すことを促してくれた。
 シェーンはジョナサンを心配させたくなくて、彼には何も言わないことに決めた。屍生人はかつて色んなイキモノの奴隷として流行していたそうだが、なかでも吸血鬼に大勢が仕えていたと聞いたことがある。そして今はほとんど数を減らしているというのだから基本的には不死だというのにかなり惨い扱われ方をしていたに違いないのだ。この世界で王族と同じくらい、いやそれ以上に恐れられている種族がついにこの屋敷に来ることを、ここから出られもしないジョナサンに伝えるなんてそれだけで酷だと思えた。
 シェーンはジョナサンに『ダニーの話をして』とか『前に言ってた川遊びの話をして』などと書いてねだって、心配する彼の関心を逸らそうとした。ジョナサンはシェーンが気丈に振る舞っているのを察知した、うんと優しい、けれど主人のようにネズミに爪を立てるネコのようなわざとらしさの全くない自然な声で話をしてくれた。ジョナサンのおかげで、世にも恐ろしい吸血鬼が来る前の恐怖からシェーンは遠ざかることができたのだ。

 そうして、ついにその日が来た。
 当日のパーティ会場にシェーンは呼ばれなかった。いつもなら給仕も仕事に入るのに、その日は締め出されたのだ。彼だけでなく、ほとんどの従僕が屋根裏や地下に追いやられ、息を潜めておくことを命じられた。そのことに多くの者がホッとした。だが、主人に選ばれた、何世紀もトイケット家に仕えている者やシェフたちは気が気ではなさそうであった。
 もちろん、当日働くことになった従僕たちは誰もが名誉なことだと言わんばかりに喜んでいた。だが、本当は、主人でさえも、ちっとも喜んではいなかった。これまで五世紀も続いてきた伝統的なパーティの夜に、こんなにもこの屋敷で恐怖と緊張感が露出したことは未だかつてないだろう。パーティは本来気軽な市場であり、交流会であった。王族主催のパーティより遥かにフレンドリーであたたかみのある空気だと、ワインを受け取りながら客人が話していたのをシェーンは会場で聞いたことがあったくらいだ。王族主催のパーティに比べれば駆け引きの数が圧倒的に違うのだろうと思ったものだった。そのパーティと近い空気が、今晩は流れているようだった。

 パーティが始まってから終わるまで、シェーンは地下に入るように命じられた。まさか仕事がないと思わなかったので、シェーンは一気に空気と混ざって銀色になりながらホッとした。他の従僕たちはまだ恐怖に震え、主人の言いつけを守って息さえ止めようと奮闘していたので、シェーンは彼ら彼女らと一緒に居るのが気詰まりで漂っているフリをしながら壁をすり抜け、さっそくジョナサンのところまで流れていった。
 ジョナサンはさっと顔を上げて、シェーンの登場に息だけで笑った。その声だけで、シェーンはさらに蒸発しそうだった。
「こんばんは。今日中にまた会えるなんて」
ジョナサンは声を落として話してくれた。パーティのある日はそうした方がいいと伝えて以降、彼は律儀にそれを守ってくれている。そのことに気付いたのは五週間ほど前だったが、そのときシェーンはジョナサンが日にちを数えられるくらいに理性的なことに驚き、そしてそのことをひどく哀れに感じたものだった。もう七年も同じ檻に入れられておいて、その日々を違わず数えられるほどに正気を保っているなんて、聞くだけでこちらが正気を失いそうである。
『ごめんね、食事じゃないんだ』
シェーンがランプに火をつけて、その近くで小さな山になっている紙を引っ張り出していつものごとく炭を使って文字を書くと(シェーンはこれでも一世紀は存在しているが、字を書くようになったのはこの屋敷に来てからである)、ジョナサンはまた押し殺した声で笑った。
「さっきいただいたばかりだからね。僕ってそんなに食い意地が張って見えるのかい?」
『足りなかったよね?』
「残念ながら、満腹になることがなくなって……昔はそんなことなかったのに」
『昔は手づかみで食べてたんでしょ?』
「ふふ、だからそれは、うんと小さい頃だって。十歳くらいかな?」
『十歳!オレより上だ!』
「え、恥ずかしいな、今のは聞かなかったことに……
シェーンは欠けた頬を持ち上げて音もなく笑った。何十年も動いてなかった頬に動きがあると、びっくりするくらい変に感じるので、その違和感に驚いていつも笑った途端に宙に浮いて足をバタバタとしてしまう。ジョナサンいわく、このシェーンの動きは面白いそうで、彼はますます笑うのだ。
「またひっくり返って」くすくす笑うジョナサンの声は、かつてどこかで注がれていたなにかを思い起こさせるものがある。シェーンは意識して暴れる足を止め、地面に立った。
『前も書いたけど、オレのが先輩だからね』
「だから、それは分からないから不毛だって言っただろ?シェーン。僕の方が先に生まれたかもしれないじゃないか」
何時も張り合うんだから、と呆れた口調に、シェーンはまたバタバタっと足を揺らしてからいつものごとく応酬を始める。
『そりゃあ、長生きで言えばジョジョの方が!何歳で死んだんだっけ?』
「毎回、変な感じだよなあ、君とこの話してるの……二十一歳だって」
『オレより年上だ!』
「まったく、こんなにユニークなゴーストはいないよ」
ジョナサンが困ったように、すこし悲しそうに反応してくれるので“いつ死んだでしょう”ネタはシェーンが好きなやり取りだった。

 シェーンが“身体の穴は何個あるでしょう”ネタでジョナサンを笑わせたり困らせたりしていると、パーティが終わったようだった。主人が蜘蛛の巣を使ってみんなに片付けに来るように命令を出してきたのだ。シェーンはジョナサンにのんびりと礼を言って、漂って何食わぬ顔で他の従僕たちのもとに戻った。何人かはこの地下に居る間のストレスで石みたいになっており、シェーンが壁の中からスーッと出てくるのを見てそのまま気絶した。猫の顔をしたスカート服の一人が慣れた手つきで失神者の頬を爪で引っ掻き、起こしながら、みんなを引き連れて上階へと戻っていった。
 シェーンもその後ろを漂いながら、緊張しつつもパーティ会場に辿り着いた。もう客人の姿はほとんどなく、主人と事務手続きをするために残っている三人がいるだけだった。会場が血の海になっていないことに誰もがホッとし、特に何もせずじっと何時間も固まっていただけなのにまるで大きな池を一晩で掘ったかのような達成感のある顔で片づけを始めた。女主人は礼儀正しくも忙しく手元で手続きを進めている。商品が売れた時に彼女が見せる上機嫌の毒針が背中の方で舞っているので、つつがなくパーティが終わった上に商品も三つは売れたようだ。
 従僕たちは作業をしながらもときおりベテランの従僕に目線を投げている。シェーンは、ふだんさして注目を浴びない従僕が、他の従僕から話を聞きたそうな尊敬まじりの眼差しを向けられることにかなり驚いていることを察知していた。だれも顔に出していないが、そのことを心地よく感じているのは明らかだった。ジョナサンと話すうちにそういう目に見えないものを感じ取る力がシェーンには鍛えられたように思う。吸血鬼の参加は、始まる前はあんなにも恐怖をこの屋敷にもたらしたのに、終わった今は驚くほど穏やかでこれまでにないほどあたたかい空気で満たしてくれたのだ。思ってもいなかった屋敷の変化に、シェーンは内心とても驚いた。そしてがぜん、吸血鬼に興味が湧いた。
『どんな姿だったんだろう?きっと、みんな主人が話すなって言うからって教えてくれないんだろうけど。あ~あ、そんなに噂ほど怖くないなら、オレも会場で働きたかったのに』
 今晩は待機させられた他の者も同じことを思っているだろうなと感じながら、シェーンは漂った。物を片付けるフリをしながら、しだいに、浮かれた気持ちでまた地下室に行ってやろうかと思い始めていた。吸血鬼がそんなに怖くないなら、ジョナサンに今日来たって教えてあげようか?彼が知っているなら、吸血鬼についてなにか教えてくれるかもしれないし──

「やあ、こんばんは」
廊下の壁をすり抜けると同時に聞こえてきた声に、シェーンは石みたいに固まった。石像のように上半身だけを壁から出したままさっと振り向くと、そこに人間の男が居た。いや、人間なんかじゃない──そうは見えるけど、全く別の、なにか、底知れないもの──
「こんばんは。驚かせたかい?」
男は再度、丁寧に言った。シルクハットの上品な帽子に、毛皮飾りのある外套、艶やかな靴まで、彼は頭からつま先まで美しい黒に覆われていた。胸元にレースと、大粒のルビーの飾りがのぞいている。手袋だけは白くて、そのせいで敵意というものを感じさせない。
 だが、男にそのつもりはなくても、男が周囲のなにもかもをも脅かす存在であることは言葉にされずとも感じられた。生き物を芯から凍らせる冬の気温に悪意がないのと同じだ。男に他意はなくても、彼が歩けば足元で自然と蟻が潰れるし、その死骸で山ができる。そういうのが自然なことだと感じさせるものが男にはあった。
 シェーンは全身をどうしようもなく震わせながら壁からなんとか出た。女主人にも感じたことがないほどの恐怖。それが恐怖なのかもわからないほどだった。心臓が胸に空いている穴から飛び出て、鎖骨の上で脈打ち始める。それを咄嗟に手で隠し、シェーンはただ深々とお辞儀をした。
「ああ、話せないんだね?はは、その傷は君の命を奪ったのだろうが、同時に沈黙という素晴らしい武器をもたらしたわけだ」
楽しそうに言って、男はシェーンを指先で招いた。ぐいっと、何もないのに身体が引っ張られた。契約をしている主人にさえ感じたことのない圧倒的な力。銀色の塵になりかけながらも男の前に立たされた時、シェーンにはなぜこの男を最初人間だと思ったのかさっぱり分からなかった。こんなに死にたいと思ったのは初めてだ。何トンもの泥みたいな恐怖に首元まで浸かっている心地だ。
「そんなに緊張しなくても、とって食いやしないよ、君。ゴーストは珍味だと“友人ら”は言うけれど……ははは、冗談さ!」
男はそっとシェーンの肩に手を伸ばしたが、途中でとめた。それから男は、震えているシェーンを前に、しばらくの沈黙を挟んでからそっと囁いてきた。
「寒いのかい?指先までかじかんでいるようだ」
 シェーンはハッとした。胸に、とつぜん、温度が戻ってくる。地下でも──ジョナサンにもこうだった。初めは言いようのない驚きで全身にかくはずもない汗をかいたと思った。だけど彼も、こうして、シェーンのことを気遣ってくれた──

 シェーンはそっと、顔を上げた。そして、黄金の瞳と目が合った途端に、身体が沸騰したかに思った。そこに居たのは、シェーンが見た中で最も美しいイキモノだった。シルクハットの鍔のしたで、髪と同じ色の睫毛が輝いて見える。鱗粉を輝かせる鮮やかな蝶みたいに、男の全身が毒々しいほどに強い、それでいて目に見えないほどやわらかい細やかな光に包まれているようだった。何人もの首を切り落とした刃が見せる虹色の脂のもつ鈍い輝きに似ている。力強くて、圧倒的で、危険で、だからこそ美しい。
 男はハンサムな人間の顔を持っていた。白い頬にえくぼが刻まれて、簡単に壊せるシャボン玉を前にしているような気づかいを感じさせる完璧な笑みを浮かべている。恐怖から先の感情は、尊敬に違いない。シェーンは初めて、畏怖と呼ばれるものを胸に抱いていた。

「寒いのかい?大丈夫か?」
男は繰り返した。まるでどこかで聞いたことを繰り返しているような言い方だったが、シェーンは畏敬の念で混乱している胸がいっぱいで、そのことを気に掛ける余裕はなかった。彼はただ頷いた。
「驚かせるつもりはなかったんだ、本当に。なんだか悪かったなァ、君……名前は?」
男の方も戸惑っているみたいに、そっと怪我を確認するかのような言い方で言った。名前を聞かれるなんて何十年かに一回くらいなのに、ジョナサンといい、最近はよく聞かれる。
 シェーンは慌てて、かじかんだようにぎこちない指で壁に字を書いた。男はすぐにくみ取ってくれた。
「シェーン君。私はディオというんだ。これからよろしく……
 ディオ。まるで神様みたいな名前だ。
親切そうな男に、シェーンはドキドキしながらも頭を下げた。ディオはニッコリ微笑んだ。あの地下に響く、生命の塊みたいなジョナサンの笑い声とは全く違うのに、ディオの笑い方はシェーンの腹の奥をなんだかあたたかくした。感じたことのない類の、ゆっくりと流れる熱。
 いつの間にか心臓が鎖骨の上から身体の中に戻っている。シェーンはドキドキしているのがバレなくてよかったと思いながら、ぎこちなく笑みを返した。すごく頬に違和感がある。ジョナサンの前なら足をバタバタさせるけど──この人の前では、そんなことはしたくなかった。
ディオはシェーンの微笑みに何を思ったのか、ますます笑みを深めた。
「笑顔のゴーストに会えたのは初めてかもしれないな。素敵な笑顔じゃないか。誰かに教わったのかい?」
 教わる?
シェーンは疑問に思ったが、ただぎこちなく頷いた。この目の前の存在に関心を持たれることが、あまりにも心地よかった。頷いた方が、彼は此処から去らないと思った。
「やっぱり。きっとそうだと思ったよ。ああ、私は運がいい、ちょうど、君のような友を探していたんだ」
 友?オレのような?
「そう、まさしく君だよ。シェーン、友達になろう……
 もちろん、ディオ、あなたのためなら……
「ああ、嬉しいな。壁をすり抜けられるなんて、素晴らしいじゃあないか。知っているかい?吸血鬼は、招待されない場所には入れないんだ。人々はわれわれを恐ろしい化け物だと言うこともあるけれど聞いたことがあるだろう?嘆かわしいことにね、昔の戦争の名残さ。実際のところ、私たちはそんなに強くないんだ。意外かい?」
シェーンが秘密話を打ち明けられた感覚に陥って驚いていると、ディオは前のめりになった。彼の肩とシェーンの肩がほとんど触れそうだった。触れなくても分かる、強靭な筋肉を感じさせる身体だ。ほとんど透明の、厚みのないシェーンのとは比べ物にならない。シェーンが一生、なれない身体。憧れの、大人の身体。
 頷くシェーンに、吸血鬼はえくぼを見せてニッコリした。香ったこともないはずの異国の濃い花の香りを嗅いだ心地がした。
「ここだけの話……君の主人は意地が悪いね?今回は招待状をいただいたんだけど、会場の書き方がすごく限定的で……通れないところだらけなんだ。それで、迷って、ここに居るんだよ」
彼が瞬きをするだけで瞳の奥でキラキラと金粉が舞うように見えた。先ほどの主人の背中はずいぶんと機嫌がよさそうだったことをシェーンは思い出した。トイケット家を吸血鬼が踏み入れた歴史的な瞬間は、相手がこのディオならば、きっと輝かしいものに感じられたに違いない。ディオは吸血鬼の代表としてきたのだろうか?いや、きっと複数人だ。ディオ一人でこんなに美しいなら、この一族が揃ったらどんなに華やかなことだろう。ディオはなんで、此処に、一人で──
「おっと、君に、ご主人の陰口は悪かったかな?」
ディオが冗談っぽく、そしてどこか不安そうに囁いた。浮かびそうになった疑問はさっと消え、シェーンは慌てて首を横に振った。
「そうかい?はは、よかった、君を怒らせたかと」
 まさか!あの主人が好きなもんか!
「そうだよな、自分の手綱を握っている奴なんて振り落としたくてたまらないものだよなァ。ふふ……なあ、君、シェーン、すこし助けてくれないかい?」
 ここから出る方法だろうか?
シェーンが首を傾げると、ディオは同じように首を傾げて、黄金の目で見つめてきた。なにもかも溶かしそうな色をしている。
「ふふ……この屋敷に、あらためて招待してくれるかい?」
 招待?
「君の主人ではなく、君からがいいんだ。なんせ、私と君には、共通点がある。なあ、知っていたかい?憎しみってのは、どんなに隠してたって必ず顔に出るんだ。君がゴーストだからじゃアない、そういうものなんだよ」
さっと顔を手で覆ったシェーンに、ディオは目を細めた。
「それに、誇りに思うといい。そう、誇りさ。私は主人に媚びへつらうタイプの従僕はどうにも苦手でね……君みたいに、しっかりと感じる心がある人に魅力を覚えるんだ。シェーン、君のようなゴーストは稀だよ。そのことを誇りに思うといい」
 誇り?オレはこんな、売られるような身分なのに?
「出自は関係ないさ、ははは……君は自分で判断する力があるんだ。“友達”になった記念に、一言でいい、君の口から『どうぞお入りください』の言葉が聞きたいんだ。それとも、書けるかな?ここに?」
 ディオはさっと胸ポケットから紙とペンを取り出した。シェーンはその陶器のペンの美しい白さに驚き、他の何もかもが頭から抜けた。たとえば、用意がよすぎるように感じるこの紙とペンや、会場から死角になるこの廊下の片隅での出会い──
 思わずペン受け取ったとき、シェーンはディオの顔を窺い見た。ディオはとても親切そうな表情をしている。なにも悪意は感じない。でも、契約はなにより強い力を持つ。
……ああ、そうだよな。こんな風にしたら、主人に悪い気がするよな。すまない、つい、君が稀なゴーストに見えたから、君のサインが欲しかったんだ。私たちは長い時を生きるせいで、目の前の時間を大事にしないところがあるだろう?だから、後で思い返したかったんだ、君との初対面の記念を。本当にすまない、不躾なお願いをした」
ディオは親切そうな顔にさっと苦痛を過らせた。悪いことをしたな、と言わんばかりの表情で、ペンを取り戻そうと手を伸ばしてきた彼から目を逸らし、シェーンはペンを握りしめたままうなじを熱くした。
 いま、初めて、シェーンは一人前として扱われたのに。それを自分で台無しにしようとしている。シェーンを認めてくれた人を失望させてしまっている。
 シェーンはさっとペンの蓋を開け、インクが飛び出すぎたり陶器の柄を割ったりしないように気をつけながら、『どうぞ、ディオ、お入りください。 シェーン』と書き綴った。綺麗に書こうとしたのに、ガタガタの文字になった。こんなペンを握ったのは初めてだ。いつも、文字を書く時は炭で代用してきたのだ。自分の書いたものが残るなんて、すごく変な感じで、なんだかすごく嬉しい。
 不格好の文字の並んだ紙をディオに渡し、ペンも返すと、その時になってシェーンは自分の手が炭で汚れていたのに気が付いた。真っ白なペンがすこしだけ煤けたように汚れている。ディオはペンを受け取って、頭を何度も下げるシェーンの前で小さく笑った。
「ははは、気にしなくていい、と、言いたいところだが……参ったな、これは友人からの贈り物なんだ。大切な物なんだよ。こんな風に汚れてしまうなんてなア」
ギョッとするシェーンに、ディオはえくぼを見せた。
「もし君の気が咎めるなら、もう一つ、教えてくれないかい?」
ぐっと近づいてきたディオに、シェーンは反射的に肩を小さくした。瞬間、嗅いだことのない異国の花の芳香さに、鉄のようなにおいが混ざっていることに気が付いた。血の匂いだ。
「屍生人だよ……私のところから盗まれて以来、ずっと探してるんだ」
 ジョナサンのこと?
シェーンのセリフは言葉にこそなっていなかったが、ディオは頷いた。彼の目に大きななにかが走った。それが一瞬、彼の金の目を蛇みたいに真っ赤にさせた。
……君の力が必要だ。私と取引をしよう」

 三度やって来たシェーンに、ジョナサンは今度は心配の声を上げた。
「あれ、珍しいなあ、シェーン。それに……どうしたんだ、大丈夫かい?」
シェーンはまっすぐにジョナサンの檻の中に入った。いつもは檻の端を出入りしても、彼の目の前まで近寄ることは少ない。滅多にないシェーンの行動にジョナサンが立ち上がった。シェーンを心配するように抱きしめようとして来てくれたのを、シェーンはとっさに身を捩って逃げた。なぜそうしたのかは分からないが、なんだか怖かったのだ。太陽は幽霊を焼いてしまう。
「シェーン?」
『あの、ジョナサン、急だけどお願いなんだ。あなたの髪を切り取らせて』
「誰が来たんだ?」
ジョナサンが突然するどい声を発した。シェーンは心臓が鎖骨まで飛び出た。途端に、ジョナサンが「すまない」と慌てた声を出した。
「大きな声を出すつもりはなかったんだ。シェーン、どうして……
『主人が、あなたの安否を確認するのに今すぐに持って来いって』
シェーンは吸血鬼に言われた通りの台詞を書き綴った。
『ごめんね、ジョナサン、早くしないとオレ折檻されるかも』
「わかったよ」
シェーンが肩を抱いてみせると、ジョナサンは大急ぎで自分の髪を石のナイフで切り取って(彼は暇だからと落ちている石を割って眺めていた)、そのひと房をシェーンに渡した。シェーンは思えば初めてジョナサンの髪を灯りの下で見た。黒くて、思ったよりも硬い毛髪だった。

 ディオはシェーンからそのひと房を受け取ると、さっと鼻先にかざした。一瞬、なんのためらいもなく彼がそれを飲み込むのではないかとシェーンはギョッとした。無音の時間があった。その数秒の間、シェーンはディオにすっかり忘れられたのではないかと思った。
 吸血鬼は完全に目を閉じていて、嗅覚に専念しているようだった。息を殺して見守っていると、ほんの刹那、ディオの口元が歪んで見えた。歪な痙攣だったが、なぜか、強烈な笑顔にも見えた。品のある優美な形の唇がめくれたかすかな隙間から、トイケット家主人のとは比べるに及ばないほどの獰猛さが染みついた牙が覗いた。
 ディオの目が開く。金の睫毛の下で、ルビーよりも紅い瞳が見えた。シェーンが見ている間にその真っ赤な虹彩には金がまざり、次第に黄金の雫のような見事な色に戻っていった。
……間違いなく、私のものだ」
ディオは指先で握りしめた青みがかった毛髪から目を逸らし、囁いた。無理やりに視線を剥いだような痛々しさのある目つきだった。シェーンは畏怖の念にすり潰されそうになりながらも、ディオに対して心からの同情を寄せた。
 奪われたのですね、オレの主人に。あいつ……
「いいや、あの蜘蛛にそんな力はない。だが……
ディオは何度か意識的に瞬きをしていた。やがて、彼は手の中の毛髪を胸ポケットから取り出したハンカチにさっと包んで、それを懐に収めた。顔には完璧な笑顔が戻っていた。
「今日は長居し過ぎた。また来るよ。シェーン、ところで……このことは内密にしてくれるだろう?君の主人にはもちろん、私の屍生人にも伝えてはいけないよ。サプライズにしてやりたいんだ。彼はもう私の屋敷に戻ることはないと思っているだろうから、私に、ふふ、私に会えたら泣いて喜ぶだろうから……ククッ」


 翌日、ジョナサンのところに行くと、彼はシェーンの表情に息を吸って驚いた。
「シェーン、どうしたんだい、すごくご機嫌じゃあないか……でも……
シェーンは、ジョナサンが言いたいことは分かった。どうしたって笑顔が溢れてくるのだが、彼の左手は手首から先がすっかり無くなっていた。ディオが帰った後、誰かが主人に『幽霊が誰かと話していて、仕事をしていなかった』と告げ口をしたのだ。きっとベテランの誰かだろう。そのために、主人に呼ばれ、誰とどんな話をしたのかを問い詰められた。
 主人は昨日のパーティが無事に終わったことで機嫌はよかったが、シェーンが『お帰りになる吸血鬼に玄関の場所を聞かれたので指さしたら、そのまま話されていたので聞いていた』と言うと、するどいくちばしを勢いよく開けて怒った。このセリフは、ディオの助言に従ったものだった。
 お客様に路を聞かれたので対応することは仕方ない、という点は主人も分かっていただろう。そもそも、吸血鬼が全員帰ったと思いこんだのは自分だということも、彼女は分かっていた。それでも腹が立ったらしく、彼女はシェーンの手首をハサミでジョッキリと切り落とした。落とされたとき、シェーンは風穴の喉から悲鳴を上げたが、それでも、主人にディオのことを話さなかったことを“誇り”に思った。誇り──昨日までのシェーンにはなかった、素晴らしい概念。自分には誇りがあると思うと、なんだかすごく力が湧くのだ!

 ジョナサンの顔は見えないが、彼がシェーンの手首に凍り付いているのは感じ取れる。シェーンはクスクス笑った。ジョナサンが言う通り、本当に笑えるのだ。だって、今や、ジョナサンにも秘密にしてやっていることがある。彼は此処から逃げられる。あの蜘蛛女ではなく、本当の主人のもとに彼を返してやれる。それまでは秘密だ。
……痛みはどうだい?」
ジョナサンの痛ましそうな声に、シェーンは手を横に振った。
「大丈夫なの?その……戻ってくるといいのにな」
シェーンより痛そうに話すジョナサンに、シェーンはますます笑った。彼に全部教えてやれる日が待ち遠しかった。昨日、シェーンは初めて、自分の手で紙に字を書いて、契約を交わしたんだぞ、と。とはいっても、ディオは既に屋敷に入れていたのだから、きっと“ごっこ遊び”に過ぎないのだろうけど……それでも認められたのだ。吸血鬼の友人ができたのだ。

 それから数日間は、シェーンにはこの十年で一番長い時間だった。次にディオに会えることだけが彼の関心だった。ジョナサンと一緒にいると、彼の話ばかり夢中になっていたのに、それと同じくらいの、いやそれ以上の熱心さで、シェーンはディオのことを考えていた。またパーティの後の片付けに呼ばれたら、きっと彼に会える。きっと、彼は待っていてくれる。

 そうして、ついに次のパーティが開催された。
その日も吸血鬼の一族が来るということで、前回と同じように従僕はベテランばかりが仕事を振られ、頼りない者たちは地下や屋根裏に押しやられた。シェーンはまた壁の中を伝い、ジョナサンに会いに行って、会の間中彼と話をした。とはいっても、「もう、なんだい?」とジョナサンを困らせてしまうくらいには、ずっとニヤニヤしっぱなしであった。

 パーティが終わった頃、また蜘蛛の巣を伝って主人からの伝令が届いた。前回よりも一時間は遅い時間だった。帰らない吸血鬼を気にしたのだろう。
 シェーンは思わず上階に肉体を忘れて飛んでいってしまわないように気をつけながら──もちろん彼に肉体はないのだが、在るような感覚は有るのだ──他の従僕者に混ざって移動した。会場に行くと、今度は主人の姿も見えなかった。なんだかすえたような匂いが満ちていると思いながら、シェーンはさっと目を走らせ、あの真っ黒な紳士の姿がないかを探した。前回いらっしゃった廊下にはお姿はなかった。ベテランの従僕らがこちらを監視しているような心地を覚えながらも、シェーンは慌ててウロウロとディオの姿を探し始めた。てっきり、彼は居てくれると思ったのに!
 なにか、大事なサインを見落としてしまったような、大きな失敗をしてしまったような気分になって、シェーンは廊下を動き回った。仕事をしているフリをすることすら頭から飛んでいる。混乱が、シェーンの喉を締め付けていた。会場と廊下を五往復もして、なぜかまた地下に行ってジョナサンの声を聞きたいと思ったとき、シェーンは主人の伝令を受け取った。
『シェーン!執務室へ!』
有無を言わせない命令口調が蜘蛛の巣を伝って頭に流れ込んできた途端、シェーンは頭が真っ白になった。言いようのない恐怖がこみ上げてくる。自分の身体から酸っぱくなった葡萄みたいなにおいが立った気がした。そしてふと、さきほどもぬけの殻の会場に入った瞬間に感じた匂いはこの類のものだったと思った。ただ、だから何、としか感じなかった。頭が回らない──トイケット家の歴史の転換期を感じていたのに、それどころかシェーン自身の人生の大きな変化の目を感じていたのに、今、彼は自分はどこを向いているのかもわからなかった。

 真っ白な頭で、ほとんど考えもせず、契約の力に引っ張られるように主人の執務室のドアベルを鳴らした。主人の返事を聞いて、シェーンは扉を押した。いつもなら主人の機嫌が返事だけで分かるのに、今の彼には何も考えられなかった。投げやりな気持ちで扉のなかに身体を押し込めて中に入った途端、シェーンは肩を掴まれた。目の前が蜘蛛の恐ろしい口でいっぱいになる。八つ以上の真っ赤な目がシェーンを見抜いていた。
「あの屍生人!」
主人は歯を食いしばった声で言った。シェーンのフリーズしていた頭が、その単語でなんとか動きだした。
 ジョナサン?ジョナサンがどうしたって……
「アレを隠すの、屋敷の外に出すのよ。今すぐはダメ、太陽のある時間に、昼間にやるの。お前がおやり!」
誰かに聞かれることを恐れた声で主人が言った。彼女の強すぎる手の力に骨が軋むのを感じながら、シェーンは目を大きくした。いったい、なにがどうなって……
「騙されたのよ、シェーン、わたくしは騙された……王族の方は、あろうことか、ディ……あの方から、あのお方からアレを盗んでいた。このままではわたくしが盗んだことにされてしまうわ。アレをここには置いておけない、すぐにでも……いいえ、まだ早すぎる……とにかく、移さないと」
 でも、でも、王族の方に頼まれたならそのときの契約書があるのでは?
シェーンは机の方をちらちらと見ながら訴えた。主人は目をさらに赤く染め、手のないシェーンの手首を握りしめた。
「おだまり!王家の方に書類を残していただくなんて……清算だったのよ、先代が残したものを解決するのに力を貸していただいた借りがあるの。だからペーパーは無しで、物々交換をした……あのお方が気付く前に、動かさなければ。あの屍生人、ちゃんと生きてるんだろうね?」
主人が恐怖でいっぱいになっている。シェーンはなんだか笑いそうになった。
 ディオ様はこの蜘蛛女に嫌味を言ったんだ、きっとそうだ。それでこんなに彼女は慌てて……ざまーみろ!
「シェーン、きちんと世話を……もう、いいわ、自分の目で見に行きます。お前は明日、昼間に屍生人を護送なさい。そのあとは、そのまま屋敷に戻って来なくていいわよ。まったく……今は来るのです、この使えないゴミ!」
主人はシェーンの首根っこを掴み、歩きだした。怒りと不安で、彼女の毛むくじゃらの顔から毒針のある毛がさあさあと降り注ぐ。シェーンは我慢し損ねた笑顔を、ついに剥き出しにしながら彼女に引きずられていった。通り過ぎた何人かの従僕だけが、引きずられるシェーンが笑っていることに気付いて無表情のまま凍っていた。なんだよ、まるで幽霊でも見たみたいに。


 ジョナサンの居る空間に繋がる地下に入ると、主人はぶるりと身体を震わせた。シェーンを階段に突き飛ばし、転がして、彼女の長くて黒いドレスの裾を持ち上げて階段を下りるのを手伝わせた。シェーンは顔を下に向ける口実ができてよかった。笑いが止まならないのだ──ああ、ディオ、あなた様の言った通りだ。オレはこんなに、この女を憎んでいたんだ。知らなかった!
 主人は階段を下りきると、ひと呼吸した。緊張を肺から絞り出そうとする呼吸だった。危険な者で溢れている檻の間を通って、ベルベッドの掛かる檻の前へとするすると進む。ベルベットの檻の前に灯りがあるのを見て、彼女はハタと足を止めた。先ほどまでシェーンはここに居たので、まだランプの燃料が残っていた。
「どうして灯りが?シェーン?」
主人が鋭く発し、振り返り、そのままシェーンの頬を右手でぶった。シェーンは笑顔を消そうと努力しながら、手で自分がつけたというジェスチャーをした。
「また仕事もせずに?あなた、先週お仕置きをしたばかりなのに、足りなかったの?」
「失礼ですが、マダム?そこにいらっしゃるのは、どちら様ですか?」
ジョナサンが、シェーンが聞いたことのないほどの怒りを込めた声を出した。主人はハッと息を吸いこんで固まった。赤い目が頼りなくてんでばらばらに瞬きし、暗がりのなかで赤を点滅させている。知らずのうちに、顔の脚がきゅっと閉じられ、しおらしくなる。
……シェーンの雇い主の方でしょうか?彼から手首を奪った?」
「わたくしがわたくしの奴隷をどうしようと、あなたに関係ございません」
主人はなんとか威厳をかき集めた声で言った。火傷して咄嗟に手を引っ込めるような、本能的な動揺は隠せていない。ドレスを握りしめる手に力がこもり、手袋から鋭い爪の先が見えていた。
マダム、僕はシェーンの友人です。彼には世話になりました。だから」
「友人!」
主人はハサミみたいな金切り声を上げた。笑おうとして失敗した喉で、咳ばらいをして、彼女は急いで言葉を紡いだ。
「いやですわ、屍生人ごときが、わたくしにモノを言うなんて。あなたを太陽の下にいつでも差し出せるのですよ。そうね、それもいいわ……証拠がなければ……明日、あなたを移動させますから、そのつもりでいらしてね」
「おや、そうなんですか?」
 冷ややかな声が、空から降ってきた。

 その場の何もかもが凍りついた。時が止まったかのようだった。音がこもって反響していた濡れた壁も、そこかしこを走っていたネズミや虫も、足元のランプも、歴史と危険が詰まった呪いの品々が入った檻も、すべてが一斉に動くのをやめた。本能という意識を持っているものはきっと何秒も前から逃げだしていたに違いない。この圧迫感──間もなく落盤して、何百トンもの岩に押しつぶされるのではないかと思わせられる、圧倒的な重圧──
 シェーンはかすかに目を動かした。天井に立っていた真っ黒な影が、さっと地上にうつり、すくっと立ち上がった。先日と違い、シルクハットを被っていない吸血鬼は見事な金髪を波打たせ、それをかすかな顔の動きだけで払った。頼りのないランプの光が彼のまっすぐ伸びた鼻梁の先で白い点をつくっている。白い顔の、青い暗がりの中で、炎が踊るのに合わせて瞳は黄金にも真紅にも見えた。やわらかな下唇の端に、鋭い牙がわずかに食いこんでいる。
 誰も声を出せなかった。ディオ様が音もなく歩きだし、四歩目で、シェーンの背後から静かな声が響いた。
「ディオ、お前がここに来るとは」
「貴様は後だ、ジョジョ」
全身の皮膚が波打つのをシェーンは感じた。恐怖を越えた、畏怖の念が肌の下を走り、身体中が痺れている。何に驚けばいいのかも、もはや分からない。先日よりも遥かに巨大で獰猛に感じるディオ様に対しても、そして誰のことも平等に照らしそうな明るいジョナサンの怒りを抑え込んだような声に対しても、思考が追いつかない。怯えてもいるし、憧れてもいるし、愉しんでもいる自分が居た。出会った瞬間からシェーンの中にあったなにかをそれぞれに変えた、この世にたった二人しかいない存在が、いま同じ空間に居る。
しょ、招待しておりません、許可をしていない!わたくしは、許可をしていません、吸血鬼でしょう、あなた様は、なぜ……
主人が堰を切ったようにパニックに陥った。彼女が取り乱して喚くのを初めて見て、シェーンは笑った。蜘蛛の脚が開いたり、威嚇のためにくちばしを鳴らしたり、咄嗟に威嚇してしまった自分に驚いたりして忙しなく動いている。ディオ様を前に後ずさり、ガクガクと膝を震わせる姿はシェーンには面白かった。
「ああ、トイケット様のお屋敷は広いですね。いやあまったく、見事な御屋敷で、ほれぼれします」
ディオ様がえくぼを見せ、親切で甘い紳士的な笑顔をした。それでも、先日よりも見えている牙のせいで動物的な獰猛さを感じさせられる。
「どうして、どうして、あり得ない、吸血鬼は……
「ええ、許可なくは御宅に入れません。招待してくださいませんでしたか?」
「しょ、招待状は……会場だけを契約の力は絶対……どうして……
主人はその場にへたり込みそうになったのを、なんとかプライドだけで留めていた。風が吹けば倒れそうな姿勢だ。ディオ様は彼女にうんと優しく微笑み、シェーンに意味ありげに目配せをした。
「許可はいただきました。あなた様の所有物に。屋敷のどこにでも入れる権利を与えられている数少ない奴隷のひとつに」
「まさか……そんなこと、可能なわけが」
主人の中では、シェーンの裏切りによる動揺よりも契約の効力に関する疑心の方へ天秤が傾いたらしい。彼女の頭の中でつじつまを合わせるためのパズルピースの組み合わせを試す音が聞こえてきそうであった。
「意外な方法ですよね。実は私もごく最近、気が付いたのですよ。ある程度の裁量が与えられている所有物は、屋敷そのものであると言える。あなたはその奴隷をかわいがり、彼を屋敷の一部として見なしているのです。彼の身体を屋敷のそこかしこに飾っているのがいい証拠ですね。額縁入りの皮膚や……先日は手を解体し、会場の燭台に飾っていたじゃあないですか。家の装飾品にすなわち、家として、その奴隷をカウントしている。個人的には、とても素敵な趣味だと思いますよ」
ディオ様は足下にランプが近づくまで前進した。彼とベルベットの檻の距離はもう三メートルもなかった。主人は気丈に立っていたが、今にも気絶しそうなほど震えていた。
「そ……シェ……シェーン、お前、わたくしを裏切りましたね?」
主人はかすかに怒りで力を取り戻したが、すぐに震えを抑えられなくなった。シェーンに向かって手を振り上げたが、結局、その手を止めたまま動けなくなった。ただ、かすれた声で「契約違反では……」と呟いた。
「契約を違反できる者は居ないと知っているだろう?トイケットの末裔よ。このディオですら苦労しているんだ。ところで……
ディオ様が伝法な口調で言った。途端に、シェーンには目の前の吸血鬼がひどく人間的に見えた。なのに、だからこそ、言葉の通じないと思わせる何かがある。ディオ様はひたとベルベットの檻を見据えたまま、話を進めた。
「先ほども話しましたね?私のものを探していると……一体だれから、“コレ”を預かったか、お話しできますかな?おっと、契約だから難しいのか。それなら聞くことはもうありますまい」
吸血鬼はサッと右手を上げた。主人は蜘蛛のような素早さで身を屈め、床に這った。
「ぁああ待って!お待ちください!お伝えしますから」
「ほお?」
主人はシェーンにすら哀れに感じるほど全身を震わせていた。恐怖の酸っぱい匂いが立ち込めはじめる。
「けっして、決してわたくしは知らなかったのです、“コレ”がまさかあなた様のものだなんて、決して!わたくしはギ……さ、様に、ギ……グぅ、アグ……
主人は突然、自分の喉を掻きむしり始めた。シェーンがギョッとしている間に、「ディオ!」と、ジョナサンが鋭い声を出した。ディオ様は肩をすくめ、喉の奥を鳴らして笑った。
「ジョジョ、決めつけはよくないんじゃないか?俺は何もしてないさ、この女が勝手に契約を破ろうとして、それに殺されかけてる……
「やめさせるんだマダム!話そうとしないで」
ガチャガチャと金属音が鳴る。ジョナサンが檻を叩き、主人の気を引こうとしたようであった。だが、主人はまだ喉を掻きむしっている。顔の蜘蛛の脚がもがくように宙を掻く。
「残念だな」
ディオ様が氷より冷たい声で言った。
主人は一度ぐんとのけぞって、天を仰いだ。顔の脚がピンと伸びる。かと思えば、崩れ、ゆっくりと脚を開いていった。瞬間、シェーンは目に見えない鎖の分だけ身体が軽くなったのを感じた。トイケット家の最期は、じつにあっけなかった。

「さて、では」
「シェーン、君は自由だ、屋敷から離れるんだ!」
ディオ様の声をジョナサンが遮った。
 次の瞬間、シェーンの背中は地面に着いていた。主人の遺体の横で寝ころんでいる状態に、わけがわからず、彼はただ瞬きをした。視界に真っ赤な何かが見える。最初は主人が甦って睨んでいるのかと思ったが、次第に、それがディオ様の真っ赤な目だと分かった。シェーンは彼に触れられもせずに地面に押さえつけられていた。いや、触れられたのだろうか?とにもかくにも、あっという間だった。
「ディオ!」
ジョナサンが、シェーンが飛び上がりそうなほどの怒気を発している。ディオ様の方は、シェーンを見下ろしていた目を動かしてジョナサンを見るだけで、驚いた様子もなかった。彼の目に熱がこもるのが分かる。シェーンを見下ろしていたのとは、全く違う色だ。
「水臭いじゃないか、ジョジョ……“シェーンは僕の友人”、なんだろう?挨拶くらいさせてもらわないとなァ」
「その子は関係がない。もう行かせてやるんだ」
……久々に話すと、胃もたれがする。なんら変わりがないようだな、お前は」
ウンザリとした口調とは違い、ディオ様のきれいな形の唇は吊り上がり、牙は剥き出しになっていた。瞳のギラギラとした動きはランプの炎に関係がないようで、捕食者の頂点に相応しい赤と金の混ざった色合いだった。
「そういう君もだ、ディオ。昔から変わらない、ダニーを蹴り飛ばした時から……
「よせよジョジョ、喉が渇くだろ……それに、いつまでガキの頃の話をするんだ?ハハ、若々しくて羨ましいよ」
ディオ様の目が細まる。二人は幼馴染なのだと、シェーンはすとんと腹に落ちる感覚を覚えた。きっと、だからディオ様は彼を探していたのだ。子供時代のことが話せる相手は、吸血鬼ならいっそ、少ないに違いない。でも、それならジョナサンはなぜ吸血鬼ではないのだろう?屍生人は、吸血鬼とは違う存在だと聞く。なぜ──……
……単刀直入に言おうか?」
ジョナサンが不満でいっぱいの様子で黙っている間に、ディオ様が囁いた。ジョナサンはほんのかすかに「どうぞ」と言った。彼の骨に沁み込んだ紳士的な部分が彼にそうさせたようだ。吸血鬼は獰猛な笑顔で続けた。
「では、君にも分かるように、率直に。友達だというこのゴーストを粉々にされたくなかったら、そこから出てこい。そして、契約を結ぼうか……まさか昼間に屋敷を出て行くマヌケが居るとは思わなかったもので、ずいぶんと驚いたよ」
……君がここに入ってくればいいだろう。それならその悪趣味そうな契約のことも考えるよ」
「その檻の中に?誘ってくれてありがとう、ジョジョ。だがなあ、くくく、お前……フハハっ、七年も考えてそれなのか?ふふふ……
ディオ様はひとしきり肩を震わせた後、ぐっと前のめりになり、シェーンを覗き込んだ。シェーンはギョッとし、ただディオ様に意味もなく頷いた。
「えー……そうだ、シェーン君。わかるかい?このアホがなぜこんな檻に入っているか……契約の力だよ。彼は、吸血鬼の特性を考えて、自分の家と呼べる空間をつくったんだ。檻に七年も入ってりゃあたしかにそれなりに契約の力が生まれるからな。あの中に居る限り吸血鬼は入れないって心づもりさ。自分も屍生人のくせに……くくく」
 ディオ様はシェーンの胸ぐらをつかんだ。体を起こし、シェーンも持ち上げると、片腕でシェーンの腰を抱くようにして抱え込んだ。まるで夢に見たお父さんみたいだ、とシェーンは思ったが、ディオ様の手が肩を掴んでくるとそんな考えは一瞬で消えた。信じられないくらい冷たい。こちらは幽体のはずなのに、命を吸い取られているような感覚がする。主人が吸血鬼の恐ろしさを語っていたことを遠い記憶のように思い出した。
「この男は、太陽が恋しくて仕方がないそうでね」ディオ様はシェーンに構わず続けた。「主人である俺の屋敷を勝手に離れた挙句、勝手にとっ捕まって……自ら太陽の下に行くことは禁じられているが、誰かが焼いてくれることを期待したんだろう。ひとつハッキリさせておきたいんだが、ジョジョ、この七年の間で誰かとなにか契約を交わしたか?」
「シェーンを離せば答える。彼は関係ないんだ」
ジョナサンは辛抱強い口調で言った。屍生人だと知らなければ、血の通っているとしか思えない声だ。その心配がゆえの怒りの滲んだ低い声に、シェーンはなんだか目が熱くなった。そして、これだから彼が屍生人だと分かっても誰も彼を焼かなかったのだと思った。たぶんこの場で、太陽の下に行くことを阻止される理由が分かっていないのはジョナサン一人だけだ。
「ふふ、そうか……シェーン、出会ったばかりなのに誠に残念だが、彼は君の命をさして重く感じていないようなので、君とは此処でお別れだ。まったく、屍生人になるときはオーガストリートのチンピラで、今度は幽霊か。レパートリーが増えてきて嬉しいかぎりだよ」
「君はまったく進化しないな、ディオ」
「“友人”が俺の手の中に居るのに挑発か?ジョジョ」
ディオ様の手に力がこもる。シェーンは一気に寒くなって、手がぶるぶると震えた。かじかむ手で咄嗟に胸を押さえ、心臓をすこしでもあたためようと本能的な動きをした。
「ディオ」
「気安く何度も呼んでくれるじゃあないか。それが返事か?」
「誰とも契約はしていない。シェーンを離してくれ」
「で?だから?」
吸血鬼が笑った。ジョナサンは突然、ガンッと音を立てて檻の鉄棒を掴んだ。それがあっけなくひしゃげて、どんどん曲がり、人が通れるほどの空間をつくった。
 布の下からぬっと姿を現したのは、どう見たって人間だった。ただ顔を上げた彼の目は、人にしてはありえないほどに瞳孔が細く、赤みを帯びた光彩をしていた。彼はひざ丈のズボンの他には何もつけておらず、煤けたように薄汚れた肌が剥きだしだった。まるで彫刻みたいな体躯だ。異様な点を挙げるならば、腕や胴に何針も縫ったような跡があることだ。人なら死んでいるであろう傷を何度も負ったのではないかと思わせられて、シェーンは身震いした。
 震えたのはシェーンだけではなかった。彼を子供のように腕で支えている吸血鬼も、なんらかの理由でぶるりと身体を震わせた。彼の脊髄になにかが走ったに違いない。背中側が特に痙攣した──そう感じているうちに、シェーンは床に落とされていた。目の前に主人の亡骸が近づいてきて、慌てて身体を起こした。
 
 ディオ様はシェーンを見てもいなかった。彼は目を見開いたまま、姿を現した自分の屍生人を見つめていた。ジョナサンはやれやれと言わんばかりに首を横に振り、さっとシェーンに近づいてきて手を伸ばしてきた。シェーンはギョッとした。覗き込んでくるジョナサンが吸血鬼のディオ様と同じくらいいやそれ以上に見えるほどに上背があることにも、そして鎖骨の辺りまで伸びている長めの黒髪が被さるなかで見えた表情があまりにも懐かしさを覚えるものだったことにも驚いた。
 とっさに手を握り返したシェーンは、まるで湯を浴びた様な心地を味わった。ジョナサンは口の端を持ち上げながら、ゆっくりとシェーンを引っ張り上げた。
……まだ太陽が恋しいのか?」
ジョナサンの様子を間近で黙ってみていたディオ様がとつぜんに囁かれた。ジョナサンはディオ様を見もせずに、シェーンの背中の埃を払いながら、「まあね」と冷ややかに答えた。
「何度も言ってるけど、ディオ、君も太陽をたまには浴びるべきだよ。青白いじゃないか」
「ふふ……そうだな、たまには、いいだろう」
ディオ様の答えに、ジョナサンは胡散臭いものを見る目をした。シェーンには二人がどういう歴史を共有してきたのかはサッパリわからなかった。ただ、今、ディオ様は太陽を浴びているんだろうなとだけ思った。

☆☆☆

ファンタジー書くの楽しすぎて延々と書ける。
 吸血鬼の古城をつくるディオの過程や、その傍らに常にジョナを侍らせてる様子、吸血鬼同士のばかしあいや殺し合い、闇の世界の住民たちを古くから束ねる王家との争いとか、いろんな妄想が滾っております^^