真夜中に眠れない鶴さんと、そんな鶴さんにおくすりを処方してあげる光忠くんの話です。細かいことあんまり決まってないパッションのみの現パロ(うすらぼんやりと転生現パロのイメージですが本当にぼんやりです)、同棲しています。
キッチンって起きているあいだは割と団欒の象徴って雰囲気あるのに真夜中になると急に憂鬱の象徴になるみたいなところがありませんか?
しん、と静まりかえった真夜中に裸足がぺたりと床を踏みしめるかすかな音だけがただよっている。藍色の夜の空気に冷やされたフローリングは想定よりもはるかに冷たく、触れる足の裏から体温を奪っていこうとしていた。
いつまで経ってもやってこない眠気に嫌気が差した鶴丸が、そっとベッドを抜け出して忍び込んだのはキッチンだった。いつもはここに光忠の姿があって、だからこの場所はなんだかあたたかさを感じるのだけれど、今、鶴丸が独りたたずむこの真夜中のキッチンは普段と違って寒々としている。吐いた息が白くならないのがいっそ不思議なくらいだ。夕食後に光忠によって綺麗に片付けられたここは、この時間に見ると整頓されているというよりはがらんとしているように感じられる。
シンクの上にぶら下がる紐を引いて、小さな蛍光灯をつけた。普段あまり使われていない――基本的には、天井の大きな明かりをつけて光忠はキッチンを使っている――この備えつけの小さな蛍光灯は、光量が頼りないくらいに弱々しく、そして鈍い。それゆえに真夜中の冷たい暗闇に慣れた鶴丸の瞳にも比較的優しかった。それが良いのか悪いのかは分からないけれど。
シンクの端に両手をついて中を覗き込むような体勢で、鶴丸はしばらくぼんやりとしていた。ぼんやりというか、何も考えたくないから考えないようにしている、というほうが近い。
いつまでも眠れずにベッドで丸くなっていると、夜が自分を圧迫してくるようで苦しかった。だから寝室を抜け出してここにやってきたのだけれど、キッチンに来たとてその感覚は変わらない。
相変わらず、闇が鶴丸を圧迫している。真っ暗で、狭苦しくて。弱々しい蛍光灯では、この暗さを払うことができずにいる。
口の中がべたついているのに、同時に乾燥していた。
喉が乾いているのに喉の奥には何か――たとえば、憂鬱さが形になったような鉛色の何か――がべったりと貼りついているような感覚があって気持ち悪い。鶴丸は何度か唾を飲み込んだり、咳払いをしてみたりしたけれど、不快感は解消されなかった。
ときどき、こういう眠れない夜がある。その理由がなんなのか、鶴丸には分からない。
ただ言えることは、そういう夜はいつもよりもとても暗くて寒いということと、眠れない夜の体感覚がとても不快で、それに影響されて気分もなんだか憂鬱になるということだけだ。そして今晩もいつものように、鶴丸という器は真夜中の暗い憂鬱で満たされていた。
こういうとき、どうしたらいいのかよく分からなかった。いつも隣に寝ている光忠を起こしてみたらいいのだろうか。以前、一度起こそうとしてみたことはある。でも、深く眠る彼の寝顔はとても穏やかだったから自分の憂鬱に付き合わせるのは忍びなくて、そして、それ以上に彼になんて言えばいいのかが分からなくて、鶴丸はその時、結局起こせなかった。今夜も同じく。
――喉の奥の感覚が不快だ。
鶴丸は水切りかごで乾かされているグラスを一つ手に取って、シンクの水栓を開けた。注いだ水道水を喉の中へ流し込む。この季節の外はとても冷えているから水道管を通る水はとても冷たくなっているはずなのに、口に含んで飲み込んだ水道水はなんだか生温く感じる。冷えて澄みきるような綺麗な清涼感はなく、とはいえ身体をあたためるというにはあまりにもぬるすぎる、絶妙に嫌な生温さ。
水栓の閉め方が甘かったのか、水滴が蛇口の先端から漏れ落ちている。落ちるしずくが、キッチンの静寂の中で、トン、トン、と規則的な音を叩いた。心音のようなリズム。けれど、心音とはかけはなれた無機質なリズム。
鶴丸はしばらくその水滴がシンクを叩く様子を眺めてから、一度水栓を開けて、また閉めなおした。滴り落ちる水滴は完全に止まって、キッチンは再び静かになる。ときどき冷蔵庫からブーンという重低音がわずかに響くだけだ。
鶴丸はシンクに背を向けて持たれかかると、そのままずるずると床に沈み込んだ。
シンクキャビネットに背中を預けてまた一口、水道水を飲む。それは生温いだけではなく、どことなく金属っぽく感じられて不味い。喉の奥の憂鬱をこの水で流し去ってしまいたいのに、口に含むこの水は結局のところ憂鬱の一つの形態でしかないように感じられた。
自分が浅く呼吸する音と、冷蔵庫の重低音、ときどき、窓の外から遠く聞こえる幹線道路の音。弱々しい蛍光灯のスポットライトを浴びて、鶴丸はそれらの音にぼんやりと耳を傾けていた。
どのくらいぼんやりしていたのだろう。眠っていたわけでははない(むしろキッチンであったとしてもいっそ眠れていたならどんなによかっただろう!)。ただひたすら虚を見て、ときどき不味い水を口に含んで、ぼうっとしていた。何も考えたくない。
ベッドを抜け出すときに見た時刻は午前二時をだいたい半刻回っていて、だから今はもう午前三時くらいにはなっているかもしれない。人によってはもうまもなく明け方となっていくのかもしれないけれど、眠れずに憂鬱で身体を満たしている鶴丸にとってはまだまぎれもなく深夜だった。
大きく息を吐いた鶴丸がまた水道水に口をつけようとした瞬間、不意に空気の流れが変わった気がした。鶴丸は水を飲むのをやめて、視線を床から上に上げた。気配の方向を見る。
「鶴さん、?」
それと同時にやわらかな声が、キッチンのあるこの部屋に投げかけられた。床に座り込んだまま鶴丸が声のした方を見ると、辺りを見回しながらこちらへと入ってきた光忠とちょうど目が合った。
「あぁ、鶴さん、ここにいたんだね。ベッドにいないからどうしたのかなって思って」
光忠はこちらを見て優しく微笑むと、部屋全体の明かりをつけた。カチ、というスイッチの音と共に、白熱色で部屋が満たされる。それはやわらかい橙の色だけれど、鶴丸には少し眩しくて――けれど、不快ではない――目を細めた。
「喉乾いた?お水飲んでたの?」
光忠は座り込んでいる鶴丸のそばにしゃがんで首を傾げた。鶴丸は彼の顔を見てなんだか呆けてしまって、しばらくその整った顔を見つめていた。なんとなく、あたたかなお湯に浸かって呆けるような感覚に似ている。見つめられている光忠は不思議そうにした。
「鶴さん、どうかした?」
「……あ、いや、これは、水道水、」
気の抜けた鶴丸は噛み合わない返事をしてしまって、しかし噛み合わない返事をしたことにしばらく自分では気づかずにいた。光忠が笑いだしてからようやくわけの分からない返事をしたことに気づく。
「鶴さん、寝ぼけてるのかな」
「いや、そんなことはないが、……」
「そうなの?それなら、いいけど――、ウォーターサーバーのお水を飲んでよかったんだよ?水道水、おいしくないでしょう」
「あれは動かすと音が存外うるさい。きみを起こしてはいけないと思った」
「えぇ……、寝室まで聞こえるほどうるさくないから、いいのに」
光忠は困ったように言って、でもありがとう、と言った。たぶん、鶴丸が口にした気遣いに対して。
もっとも、鶴丸がウォーターサーバーを使わなかったのは、そんなきちんとした理由ではなかった。なんというか、暗く寒い憂鬱の中で、そういう丁寧さを自分に向けることができなかっただけなのだ。上手くそれを説明することはできなかったけれど。
「……鶴さん、何か飲む?僕が淹れるよ。水道水のお口直しにね」
「それはありがたいが……、眠くないのかい、光坊。まだ夜は明けてもない」
「まぁ、確かにまだ全然寝れるけど……、鶴さんを放っておけないからね。だって、鶴さん、すごく心細そうで――」
独りにしたくはないよ、と光忠は微笑んで、鶴丸の手からグラスを取り上げた。まだ半分以上残っている水道水の水面が揺れる。グラスをシンクの中に置いた光忠がこちらに手を差し出すので、彼の手を取ると立ち上がらせてくれた。
「鶴さん、寒くない?いや、寒いよね。ちょっと待ってね、」
光忠はそう言いながら彼が寝間着の上に羽織ってきたカーディガンを脱ぐと、はい、とこちらに着せようとしてくる。
「そうすると今度はきみが寒いだろう」
「僕はまた何か羽織るもの取ってくるから大丈夫。だから鶴さんはこれ着て」
「……そうか、」
光忠に半ば強引にカーディガンを着せられて鶴丸はまた呆けてしまった。さっき光忠が現れた時と同じ感覚でぼんやりする。そうしているうちにダイニングテーブルへと光忠に連れていかれて、促されるままに鶴丸は椅子に腰掛けた。
「羽織るもの取ってきたら何か淹れるから、ちょっと待っててね」
光忠が一度、寝室へと引き返していく。その背中を見送りながら鶴丸は少し長めの袖の中に手を完全に引っ込めて仕舞いこんだ。こうするとさっきまでとても寒かったことが分かる。カーディガンがあたたかい。
着せられた光忠のカーディガンは密度があって少しだけ重くて、同時に彼の体温を孕んでいた。なんとなく、背後から光忠に抱きしめられているような感覚を覚えて、鶴丸はぼんやりとする。
このぼんやりは、先ほど独りでキッチンにいた時のような、何も考えたくなくてぼんやりする感覚とは違っている。あの時のはもっと虚ろなぼんやりとした感覚だ。
光忠が来てからぼんやりと呆けるような感覚はもっとあたたかい。湯に浸かったときに一息つくような、寒い屋外で熱い飲み物を口に含んだときのような。
……そうか、こういうのを、安心、というのかもしれない。
あたたかい、と思って鶴丸はダイニングテーブルに突っ伏した。
「……、あれ、鶴さん、大丈夫?飲まずにもう寝る?あ、これは靴下。足も冷えるから履いたほうがいいかなって思って」
別の羽織物を羽織って寝室から戻ってきた光忠が、こちらにモコモコとした靴下を差し出すので鶴丸は受け取りながら首を振った。
「いや、何か飲みたい。口がずっと不味いんだ」
「オーケー、鶴さんは何がいい?僕としてはこんな時間だし何か優しいものがいいんじゃないかと思うけど……、鶴さんはコーヒーが好きだからコーヒーにする?」
「別にコーヒーが特段好きというわけじゃないさ。光坊の淹れるコーヒーが好きなだけだ」
鶴丸が言葉尻を捉えて訂正したら、光忠は笑っている。嬉しそうだ。そうだろう、この男はコーヒーにやたらと凝っているから。
「光坊の淹れてくれるものなら俺はなんでも好きだ。だから今は、きみの言うとおり何か優しいものがいい」
「うん、そうしよう。このあいだ買ったハーブティーを開けようかな」
ちょっと待っててね、と鶴丸の頭を撫でながら彼は言って、キッチンの方へ向かった。鶴丸は手渡された冬の靴下を履いた。あたたかさに触れてみて初めて、足先も心底冷えていたことが分かる。
しばらくのあいだ、ケトルが水を沸かす音や光忠がお茶を淹れる音があたたかく部屋に響いていた。先ほどまでの空虚で寒い静けさとは大違いだ。
「――お待たせ、ラベンダーとミントのハーブティーだよ」
光忠が二人分のカップをトレイに載せて戻ってきた。ソーサーと共に目の前に置かれたカップからは、やわらかでありながら少しすっきりとした香りがただよっている。
「ありがとうな」
「ううん、気にしないで」
光忠は穏やかに微笑んで、どうぞ、と一口飲むように鶴丸に促した。素直にそれに従って、カップに口をつける。香りの印象と同様に、口当たりはすっきりとしていて、しかし、その清涼感は冷たすぎず、やわらかな花のようなうっすらとした甘みも含まれている。穏やかな味だった。何より、あたたかい。
こちらがハーブティーを飲むのを確認して、光忠もカップに口をつけている。うん、良い香りだね、という彼の満足そうな一言。
しばらく、二人のあいだには沈黙が満ちた。この沈黙はけっして居心地の悪いものではなく、先ほどまで鶴丸が感じていた圧迫感に比べると、明らかに開放的なものだった。ときどき、どちらともなくカップに口をつけて、少しずつハーブティーを飲む。
「……光坊、」
「うん?」
また一口飲んだハーブティーで喉を潤した鶴丸が口を開くと、目の前の光忠は首を傾げている。
「きみは俺に、なんで起きていたのか、とか、眠れないのか、とは訊かないのかい」
「訊いたほうがよかった?」
「……いや、それは、」
質問に質問が返ってきて、鶴丸は口ごもった。光忠からの問い返しが意地悪でないことは彼の表情を見れば明らかだ。むしろ、気遣いに近い。鶴丸が口ごもったのは、自分でも光忠にどうされたかったのか分からなかったからだった。
しばらく鶴丸は手元のカップに視線を落として、自分の心を探った。目の前のこの青年に、自分はどうしてほしいのだろう。分からない。この分からないという感覚は、眠れないときになんと声をかけて光忠を起こせばいいのか分からない――だから起こせない――、という感覚に似ている。
またしばらく考える。そして鶴丸は、分からないけれど、分からないなりに、彼に「眠れないの?」と訊かれたいような気がした。
こちらを見つめる光忠は口ごもった鶴丸を急かすことなく、穏やかにしている。
「分からん、が、……訊かれたい、かもしれない」
「ふふ、じゃあ……、訊こうかな。眠れなかったの?鶴さん」
鶴丸は頷いて、暗くて寒かったからだ、と言った。それを聞いて光忠が慈しみと気遣いのあいだのような表情で微笑む。
「そっか、それは憂鬱だったね」
「……、ん」
鶴丸はまた頷いた。憂鬱だったね、という寄り添うような言葉に何か救われるような気持ちがあった。あれは確かに憂鬱だと自分では思ってはいるけれど、なんというか、光忠の言葉でちゃんとあの暗さ、寒さ、圧迫感に形が与えられて、それを苦しいと言うことが許されたような気がしたのだ。
「鶴さん、ちょっと待っててくれる?」
「……?」
光忠は不意にそう言って、テーブルから立ち上がった。そしてキッチンの方へと向かっていく。しばらくして戻ってきた彼の手には、小さな三角の包みがあった。それにそっと祈るように口づけてから、光忠は鶴丸のカップの横に置いた。
「……?」
置かれた包みを鶴丸が持ち上げると、中身はどうやら小さな金平糖のようだった。
「それはね、眠れない鶴さんのためのおくすり」
「薬、」
「うん」
前になんとなくかわいくて買っていた金平糖なのだ、と光忠は言った。
「鶴さんがよく眠れますようにって僕がおまじないをかけた、おくすりだよ」
そう言って光忠は困ったようにも見える曖昧な表情で微笑んだ。
「鶴さんがときどき眠れなくて起き出してることは知ってたんだ。でも、いつも鶴さんは黙って独りで行ってしまうから、干渉されたくないのかなって、僕にできることはないのかなって思ってそっとしてたんだけど……」
いつも気がついたらいつの間にか鶴さんは戻ってきていたし、と光忠は困ったように眉を下げて続けた。
「今日、いつもより長く鶴さんが戻ってこないから、お節介かなって思いつつ様子を見に来て、そうしたら鶴さんはすごく心細そうで――、それで僕はもっと早く鶴さんのもとに来てあげればよかったんだって思ったんだ」
「そうか、いつも起こしていたんだな、すまん」
「ううん、そうじゃなくて。むしろこれからは起こしてほしいなって思ってね。鶴さんが嫌じゃなければ、お茶が飲みたい、とか、おくすりがほしい、とか、僕に声をかけてよ。そしたら僕は今日みたいに何かあたたかい飲み物を淹れて、そのおくすりを処方してあげる」
光忠は子供に言い聞かせるような声音で言う。鶴丸は、彼が例示した言葉を口の中で転がした。
「……茶が飲みたい、と、きみに?」
「うん」
「薬がほしい、と?」
「うん、どっちを言ってくれてもいいし、どっちも言ってくれてもいいよ」
「……」
黙ったこちらを気遣うように光忠は、やっぱりお節介、かな?と自信なさそうに訊いた。
鶴丸は彼の提案のあたたかさになんだか困ってしまって、でも、首を振った。お節介だなんてことはない。光忠の優しさはいつも誠実で、二人が起きている時間、鶴丸はその優しさに自然に甘えている、と思う。
なのに、これまで彼を起こせなかったのは、声をかけられなかったのは、こういう夜の甘え方は分からなかったからだ。こういうとき、どういうふうに頼ればいいのか分からなかった。夜に独りでたたずんでいると、声の上げ方が、助けの求め方が分からなくなるから。
でも、分からなかっただけで、むしろずっと、光忠に頼りたいと思っていた。たぶん。
「いや、何もお節介なんかじゃない。こういう夜の紛らわせ方を俺はいつもよく分からなくてな。きみになんと声をかけてみればいいのかも分からなかったんだ。こういう夜、いつも喉には何か詰まっているような気がするしな、……」
「そっか。じゃあ、もし鶴さんが上手く声を出せなかったら、名前を呼んでくれるだけでもいいよ。身体に触れてくれてもいい。僕は必ず起きるから」
約束するよ、大丈夫だよ、と光忠は優しい声音で言って、慈愛のような表情で微笑んだ。
「……そう、か。もし光坊がこういう夜にそうやっていてくれるなら、俺は――、寒くない、かもしれない。あたたかい」
「ふふ、安心できそう?」
「あぁ、そうだな」
「よかった。じゃあ決まり。鶴さんはこれから眠れないときは僕を起こして。僕は起きたら鶴さんにお茶を淹れて、おくすりをあげるよ」
だから、お茶を飲んでおくすりも飲んで、そのあと一緒に寝ようね、と光忠は穏やかに言った。それに頷いて、鶴丸は三角のパッケージを開けた。カラフルで小さな金平糖がわずかばかり入っている。それを一粒手にとって口に含む。ほのかにやわらかい甘み。光忠の体温を味にするなら、こういう味だと思う。また一粒食べる。
鶴丸が処方された薬を口の中で溶かしているあいだ、光忠は愛しそうにこちらを眺めてハーブティーを口に含んでいた。同時に、少しばかり眠そうでもあった。
「眠いよな、すまん」
「大丈夫だよ。眠いのは眠いけど、このあと鶴さんとすぐ寝るし」
「俺はすぐ寝つけるかは分からんが」
「そう?鶴さんも眠そうだよ。おくすりが効いてるんじゃないかな?」
「そう、なのか」
光忠の指摘を受けた途端、鶴丸の中に急に眠気が膨らんで満ちた。少し前まで鶴丸に満ちていた憂鬱はもうどこにもなくて、鶴丸の中にあるのはぬくもりと、甘みと、眠気。ふわ、と欠伸が漏れた。
「お茶、最後まで飲み終わらなくてもいいから、寝ようか」
「ん」
鶴丸は頷いて最後に一口、ハーブティーを飲んだ。穏やかな清涼感が喉の奥に流れていって、べったりと貼りついていた鉛色の憂鬱は綺麗に流し去られていく。喉の奥は、今はすっきりしている。呼吸がしやすい。
「ベッド行こう、鶴さん」
先に立ち上がった光忠は、カップはそのままでいいよと言いながらこちらに手を差し伸べた。その手を取って、立ち上がる。鶴丸が立ち上がったのを確認して、彼が寝室へいざなう。
二人で寝室に戻ると先にベッドに入った光忠が、こちらに手を伸ばしながら言った。
「追加でおくすりをあげるね」
「……?」
「僕がここで鶴さんをぎゅっとして寝ることが、追加のおくすり」
「おっと、薬っていうからには、眠れないときしかぎゅっとしてくれないのかい?」
鶴丸は軽口を叩きながら、とはいえ、いそいそとベッドに上がって光忠の腕の中に身体を横たえた。頭を彼の胸元に預ける。
「あはは、もちろん、いつでも鶴さんのことはぎゅっとするよ?でも、今夜は鶴さんが安心して眠れるように、特別しっかり抱きしめようかなってこと」
光忠はそういって、鶴丸の身体に回した腕の力を強めた。しっかりと抱き寄せられて、自分がぬいぐるみだったなら潰されてしまっている。でも、彼の体温でとてもあたたかかった。
「こりゃちょっとオーバードーズかもな」
「いいんだよ、過剰摂取くらいで。これは僕から鶴さんへの愛なんだから」
光忠がそう言いながら、赤子を寝かしつけるように鶴丸の身体を手のひらで叩いた。
「おやすみ、鶴さん。きっと眠れるから安心してね」
「あぁ、おやすみ」
鶴丸の返事を聞くやいなや、すぐに光忠の呼吸は寝息に変わった。やはり眠かったのだろう。鶴丸は少しだけ申し訳なく思って、しかし、彼が来てくれたことのあたたかさを思って、嬉しい、嬉しかった、と思った。
光忠がこういう夜の頼り方を教えてくれたから、もう、暗くて寒い憂鬱がやってきても大丈夫だ。
自分と光忠が深く呼吸をする音と、彼のかすかで規則的な心音、ときどき、窓の外から遠く聞こえる幹線道路の音。ベッドから抜け出した時とは違って、真夜中の青さは憂鬱さではなくあたたかさだった。
あたたかい。眠い。本当に薬が効いているのかもしれない。
いや、薬ではない。光忠の優しさとあたたかさが効いているのだ。
ゆっくり目を閉じる。まぶたの裏の夜は、暗闇ではなく、光忠の体温の色をしていた。甘くて、優しい、あたたかい色。
「ありがとうな、光坊、おやすみ」
吐息のようなかすかさで呟いたら、光忠が寝ながら頭を撫でてくれたようだった。そのことに微笑んで、鶴丸は眠りの中に意識を手放した。あたたかな微睡みの中に沈んでいく。
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