暗く長いHAND本部の廊下に、ヒールの音が響く。新しく買ったパンプスは、前のものより少しヒールが低く歩きやすいが、どうやら靴擦れしてしまったようで、かかとに鈍い痛みがはしった。体調不良で仮眠室で休んでいる、と連絡をしてきた悠真の様子を確認したら、デスクに戻って足を休めましょう。そう考えながら、角を曲がった。
目的の部屋の前でノックをし、返事を待たずに入る。この階の仮眠室にいるのはどうせ彼一人だし、寝ているなら返事は無いはずだ。
「…っと、月城さん。早かったですね」
予想外に、彼は携帯を片手にベッドに腰かけていた。
「…。会議が早めに終わったんです。…元気なら戻って報告書のひとつでも進めたらどうですか」
「相変わらず手厳しいなあ。元気がないのは本当ですよ」
へらへらと笑う彼の顔色を観察するが、普段通りのように見える。ずいと近づいて、頬のあたりに手を触れると、蜂蜜色の瞳の中心がきゅうと縮んだ。
「な、大胆…。職場で、そういうの、良くないですって…」
「熱は無いみたいですね」
「完全無視やめてくださいよ、僕が可哀想じゃないですか」
「可哀想なのは貴方の分まで仕事をしている他の課員です」
「…正論すぎて何も言い返せない」
「…なんて。昨日、私の机から書類が少し減っていたの、あれ、貴方でしょう」
言いながら、彼に頼まれていた飲み物を差し出した。
「さあね。ってこれ、水じゃないですか!コーヒーって言ったのに」
「眠ろうとしている人にコーヒーなんておかしいでしょう?」
「…実は僕、コーヒーを飲んでも眠れる体質なんです」
「そうですか…。さて、サボりの浅羽隊員の代わりに出た会議のメモと議事録のデータはあとで共有しておきますから、ちゃんと目を通しておいてくださいね。私はそろそろ課に戻ります」
水を握りしめてわざとらしく悲しむ悠真を横目に、立ち上がって出口へと向かおうとした。
「待って」振り向きざま、背中に声をかけられ、足を止める。
「…何ですか。休暇届は受理しませんよ」
「出しませんよ。…足、血出てるじゃないですか」
「え…」どうやら、靴擦れに気づいたらしい。
「座って」
悠真は自分の隣をぽんぽんと叩いて示した。デスクに戻れば応急処置の道具はあるから、と考えていると、「いいから!」と強く促される。言われるがまま、ベッドに腰かけると、彼は柳の足元にかがんで、靴を脱がせ始めた。
「何してるんですか…!?」
慌てて止めようとするが、彼はそれを制止して、お構いなしに手を動かし続ける。
「何って。痛いでしょ、絆創膏なら持ってますから」
「汚いですよ」
「綺麗です」
「頭がおかしくなったのですか?まさか浸食症状…」
「あのね…。…ほら、どうです?」
様々な最悪なパターンを高速で思考している間に、いつの間にか悠真は満足げな表情で笑っていた。かかとを確認すると、随分と可愛らしい兎柄のファンシーな絆創膏が貼ってある。
「…意外ですね」
「この前、5歳ぐらいの女の子がくれたんです。お気に入りで特別だけど、元気になるから、あげるって」
「その子は貴方のためにプレゼントしたんじゃないですか?それを私に…」
「お気に入りで特別だから」
「はい。だから…」
「だからですよ。分かんないかなあ」
「意味が分かりません」
「…。まあいいか。それじゃ、もう少しここに居てもらえますか」
そろそろ、と思った矢先、読んだように悠真はそう言った。
「それは遠慮します。まだ仕事が残っていますし…」
「最近よく眠れてないんです。…ちょっと、その顔やめてくださいよ、これは本当だから」悠真はそう言いながら、柳の隣に腰かけた。
「これ『は』?」
「あー。言葉の綾です。月城さんがいてくれたら、眠れる気がするんだけどなあ」
「…。貴方、さっきからわざと足止めしてません?」
「そうです、わざとですよ。もう少しそばに居てほしいから」
真っ直ぐ、恥ずかしげもなくそう言われ、狼狽えてしまった。
「…。本当に体調が悪いなら、今日は帰って自宅でゆっくり休んだ方が…」
「家に貴方はいないでしょ」
「……。浅羽隊員、からかっているならやめてください」
「からかってませんし、やめません」
わずかに細められた明度の高い瞳が、妖しく爛々と光った気がした。両腕をつかまれて、ゆっくりと距離を詰められる。
「あ、の。職場だと言ったのは、あなたでは…」
彼の匂いが近づく。観念して、目を閉じた。呼吸が、温度が、近い。
「や……」
その時、ベッドに転がっていた携帯が、低くうなった。画面に表示されているのは、『雅課長』の文字。
「よし、準備終わったみたいですね~。いやあ、どうしようかと思った。さ、行きましょ、副課長どの」
「は……」
「ほら早く」
***
悠真に促されるがまま、6課のオフィスに向かうと、その内装は様変わりしていた。正面に置かれたホワイトボードには、大きく『HAPPYBIRTHDAY YANAGI』の文字。周辺の机は、カラフルな風船やガーランドで飾られている。
「ナギねえ、お誕生日おめでとう!!あんぱんと、ケーキもあるよ!!」
パーティハットをかぶった蒼角が、手作り感満載のケーキをもって近づいてきた。それを見て、悠真が首を傾げる。
「あれ、フルーツケーキにするって言ってなかった…?乗ってるの、メロンだけに見えるんだけど…」
「ああ、それなら、蒼角が味見でほとんど食べてしまったからな。私が取り寄せたメロンを使用して、事なきを得た」横から出てきた雅が、誇らしげな顔でそう言った。
「全然事なきを得てないでしょ。課長の誕生日じゃないんですよ…?」
やり取りを眺めながら、柳は立ち尽くしていた。…そういえば、今日は私の誕生日だった。先ほどまでの悠真の行動の真意は、この準備のための時間稼ぎだったということだ。
「さてと…こんな感じになっちゃいましたけど、一応サプライズは成功?ってことで。月城さん、お誕生日おめでとうございます。」
「柳、誕生日おめでとう」
「ほら、ナギねえここ座って!早く食べよー!」
にぎやかな声に、柳は自然と笑顔がこぼれた。緊張や疲れが一気に抜け、幸福感に満たされてゆく。
「皆さん、ありがとうございます。私は本当に、幸せ者です…」
***
「あー良かった。正直、わざと足止めしてるの気がつかれたとき、もう察せられちゃったかと思いました」
食事を終え、オフィスにはゆったりとした時間が流れていた。眠ってしまった蒼角を横目に、柳はふふ、と笑った。
「全く気が付きませんでしたよ。てっきり、またサボるための策略か何かかと」
「酷いなあ。あ、プレゼント、忙しくて用意できなかったんですけど、何が良いですか?オーダーメイドの靴とか?」
「大丈夫ですよ。もうさっき食べましたから」
「よく僕があんぱんの買い出し係だったって分かりましたね」
「あの老舗店のあんぱんは、午後一の発売時間に間に合うように並ばないと買えませんから。今日そんなことができたのは、不調を理由に自由時間を得ていた貴方しかいないでしょう?」
「言い方にトゲが……」
「あとは、しいて言うなら、時間稼ぎであんなことをしない真面目さ、ですかね」
「ああ……あれは、冗談じゃなかったりして」
「え?」
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