陽の残り香が静かに街をかすめて、闇を連れてきた。徐々に明かりが灯り始める。カフェの窓辺で、ヒューゴはその様子を眺めていた。人々は忙しく行き交い、誰もこちらの視線に気づく様子はない。
「……」
カップの中身はいつの間にか空になっていた。底に描かれた中途半端な円を目でなぞって、ひとつため息をつく。こんなふうに一息つけたのは久しぶりだ。最近は、表向きの仕事の方で手を焼いていた。どうして面倒事というものは、更なる面倒事を呼んでくるのだろうか。
疲労の記憶を辿ろうとした頭に、それを遮るように柔らかな情報が舞い込んだ。珈琲の香り。…確か、ビビアンが好んでいる銘柄だ。しばらく家を空けてしまっていたし、土産ついでに買って帰ろう。
地下駐車場から車を出す。空は暗い。
助手席に置かれた挽いたばかりのそれは、芳醇な香りで存在を主張してきた。おかげで車内は完全に珈琲の匂いに包まれてしまっている。まあ、薬剤や煙草に染まるよりよほど良い。獣に染まっていた時期もあったが。
いつか、この珈琲の香りも忘れてしまう日が来るのだろうか。歩道橋から飛び立つ鳥を目の端に、ハンドルを切った。遠ければ良いと望むのは、いささか自分本位か。
重い足取りで玄関までたどり着いて、のろのろと鍵を探している間に、目の前の扉が開いた。
「ヒューゴ!!どこに行っていたのですか」
「……」
きりりと吊り上がった眉の下、赤い大きな瞳がこちらを覗き込んでいる。つんと立った長い睫毛が愛らしい。…立腹のようだ。原因は分からない。いつも通り、心当たりが多すぎる。
「…貴方、隈が酷くなっていませんか…?」
ぼうっと立ったまま無反応だった俺に、彼女は少し心配そうに言葉を続けた。
「…早くあがってください。ケーキがあるのです」
「……。ケーキ?」
「…あ、その珈琲!グーなのです、ヒューゴ!丁度切らしていたので。これも淹れましょう。準備するので、貴方は座っていてください」
働かない頭に、彼女の明るい声が流れ込んでくる。言われた通り、席についてぼんやりと待っていると、目の前に出てきたのは、手作りの小さなホールケーキだった。
「君が作ったのか」
「そうなのです。口に合うと良いのですが…。あっ、大事なアレを忘れていました」
ビビアンは、慌てて何かを取りにキッチンに行ってしまった。その間に、フォークを手に取り、ひとくち。…甘い。けれど、繊細で優しい、控えめな甘さだ。かろやかで、重たくない。
「あ!もう食べてしまったのですか!?」
「…なんだ」
「なんだじゃないのです、これがあったのに…」
そう言って、彼女はケーキの真ん中にチョコレートのプレートをのせた。それを見て、初めてケーキの意味を知る。
「…誕生日、か」
“HAPPY BIRTHDAY HUGO”と白いチョコペンで書かれていた。細く整った線に、彼女の性格がよく表れている。
「まさか忘れていたのですか…?」
「…これも君が?」
「そうですよ」
「……」
「ヒューゴ?」
過去の清算をして、初めて迎える誕生日。陳腐な命題に踊らされ続けた日々は収束し、今、愛しいひとが隣にいる。
いつから今日の準備をしてくれていたのだろう。どんな顔で、先刻まで俺を待っていたのだろう。珈琲が香る。…離したくない。俺の元から、いつか飛び立つ日が来るなんて、考えたくない。俺は、つくづくわがままな人間だ。
口の中の甘さが、ゆっくりと溶け、消えていく。
「ビビアン、俺と…」
「…?」
「…。……なんでもない」
「は…?」
ビビアンは怪訝そうに眉をひそめて、そして、面白くなさそうにフン、と鼻をならした。
「……意気地なし」
「…なんだって?」
「なんでもないのです」
「分かった、言い直そう」
「待っ、ダメなのです!!そんな風に言っていいものじゃないでしょう!!」
「嘘だ」
ひらひらと手をやると、ビビアンは不服そうに目を細めて、やれやれとばかりにケーキをとりわけ始めた。
「…もう。ムードも何もないじゃないですか。そういうのは、得意分野のはずでしょう」
「どうだかな」
「何です、その適当な答え…」
「君が遮るから」
「本当はちょっと安心してる癖に?」
「………」
「このままだと貴方、凄く格好悪いですよ」
随分たちの悪い言い回しで笑ってくれるものだ。誰がこんな風に育てたのだろう。
「まあ、お疲れのようですし。いじめるのはこの辺りにして、ちゃんとお祝いしますから」
ビビアンは、切り分けられたケーキをのせた小皿を、俺の前に差し出した。
「ハッピーバースデー、ヒューゴ。これから先も、何度でも。こうしてお祝いさせてくださいね」
そう言って、彼女は幸せそうに微笑んだ。ゆるんだ目元が優しい。真っ直ぐであたたかな言葉の持つ熱に耐えかねて、誤魔化すように唇を奪った。きっと、彼女には全てお見通しだ。
このクリームの味は、一生忘れることができないだろう。
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