ゆるやかに意識が浮上した。いつのまにか眠ってしまっていたようだ。ビビアンは、ベッドサイドに置いてある紙袋を見て、今朝のことを思い出した。ずっと狙っていた限定品のコスメを、早朝から並んでやっと手に入れたのだ。帰宅後、インターノットで、共に限定品を手に入れた戦友たちの投稿や、使用レビューをしているインフルエンサーの投稿を見ているうちに、いつのまにか寝落ちてしまっていたようだ。
時計を確認して、思ったよりも眠ってしまっていたことに気づく。慌てて起き上がり、キッチンへ向かった。今日の夕飯の当番は私だ。冷蔵庫には何が残っていたっけ。
リビングを通り過ぎかけて、開けっ放しのドアの向こうに長い影が見えて、足を止めた。窓辺のチェアに、ヒューゴが座っている。窓の外は濃霧のせいか重い灰色で、部屋は薄暗い。長い足をくんで、窓の方を見る彼は、こちらに気づいていないようだった。
「ヒューゴ?」
声をかけてみるが、こちらを振り返らない。近づいていくと、足音でやっと気づいたのかこちらを向いた。
「どうしたのですか。考え事でも?」
「…いや」
一言、小さな呟きで否定し、黙ってしまった。様子がおかしい。疑念を抱かれていると思われれば、隠し事があろうとなかろうと、矢継ぎ早に言葉を続けるのに。体調が悪いのであれば、こんなところにいるはずもない。であれば、不調なのは――
「…ビビ、アン?」
両の手で、彼の左手を包み込むようにとった。顔を上げた彼の、異なる色の瞳が、こちらを見据えている。しかし、遠いどこかを眺めているか、何もとらえていないようにも思えた。妙に感情が読み取れない。しかし、すっと通った鼻筋の下で、くちびるが微かに震えている。
「何か、あったのですか」
座るヒューゴに目線を合わせ、彼のそばにかがみこむ。真剣に取り合う彼女の姿を見て、ヒューゴはしばらく考え込んだかと思うと、自嘲気味に笑って、苦し気に息を吐いた。
「笑わないでくれ」
「…もちろん」
また、しばしの沈黙。乾いたくちびるに無意識に手をやる。決心したように口を開いた。
「……君が、昔亡くしたひとに、重なった…」
「……」
「君の…。眠っている姿が……」
手が震えている。指先が急速に冷えていった。視線がせわしなく泳いで、また表情が消えた。
「……」
それ以上彼は何も言わなかった。
「…話してくださって、ありがとうございます、ヒューゴ」
優しく手を撫で、彼の指に絡ませるようにその手を握り直す。小さな動作にも、ぴくりと肩を揺らす彼は、叱られた幼子のよう。なぜだかいつもより弱々しく、小さく見える。
「ヒューゴ、よく聞いてください。私はビビアンです」
「…?」
「ビビアンです」
「…知っている」
「本当に?」
ヒューゴは、戸惑いながら、その手を握り返した。
「…違うのか?」
「違いませんよ。貴方の目の前に居て、手を握っているのはビビアンです」
「……申し訳ないが、今は言葉遊びに付き合えるほど頭が回っていないのだが」
「…素直なのもたまには、悪くないですね」
くす、と笑って頬に軽くキスをする。離れると、苦いのか甘いのか分からない、なんともいえない表情で惚けているから、それすらも愛おしい。
「私を見て、ヒューゴ」
「…憂いにのまれないで、私の愛しいひと」
「貴方が私の涙をぬぐってくれたように…」
「私が貴方の涙をぬぐいましょう」
うたうように、祈るように。彼を蝕む暗い記憶が、冷たい感情が、少しでも溶かされますように。手元から顔に視線を動かすと、彼の白い頬に赤みが差していた。
「…え?」
それがあまりにも信じがたくて、思わず声が漏れる。
「……っ、なんだ」
「貴方、まさか照れ…て…?!」
「……」ヒューゴは、誤魔かすように顔を隠して、手をほどいて立ち去ろうとする。
「あ!ちょっと!どこにいくのですか!」
ビビアンは慌ててその背中を追いかける。が、彼は扉の前で足を止め、こちらを向いた。そして、困ったように、気の抜けた顔で笑った。
「…何処にも。もう俺は何処にも行けまい」
「もう……」
「君のせいだ、ビビアン」
「…それはお礼ととらえて良いのですか?」
「さあな」
さきの真剣さから一変、へらりと柔らかい表情で笑う。ビビアンはそれにどことなく違和感を覚え、そばに寄った。
「…あの、一応確認なのですけど。熱はないですよね?」
「ん?…ん」
ヒューゴは腰を折って、身をかがめる。ビビアンは少し背伸びし、彼の額に自分の額をあてた。伝わってきた熱に、む、と眉根を寄せる。
「…ありますね、熱」
「…え」本人はまったく気づいていなかったようだ。
「…まあ、私のせいみたいなところもありますし。仕方がないので看病してあげるのです」
お夕飯は食べられますか?あたたかいものが良いですよね…。そんなことをぶつぶつと呟くビビアンを眺めながら、ヒューゴはふわふわと、幸せに漬かっていた。
***
「ごちそうさま」
「おそまつさまでした」
ヒューゴは、空になった皿を、ベッドの上から手を伸ばしてサイドテーブルに置いた。食事をとったことも相まって、身体があたたまっているのか、眠たげにあくびをしている。
「眠いですか?」
「…ん」
「薬飲んでから、ですよ」
「…」
「ヒューゴ?まだ寝てはダメなのです」
「……ビビ」
「なに…?」
「きみにとって、俺は、『愛しい人』なのか?」
上目遣いでこちらを見る。熱で充血している瞳が、またたくたびにきらきら光った。
ビビアンは少し考えて、こほん、と咳ばらいをした。
「『ふん、愚問だな』」わざとらしく気取って、精いっぱい低い声を出す。
「………それは俺の真似か?」
「はい。どうですか?」
「どうも何も。可愛いが」
「…………」どんな顔をしたらいいか分からない。
「…愚問、ときたか。光栄なことだ。…同時に恐ろしくもある」何事もなかったかのように続けるから、ビビアンはとても可笑しな気分だった。けれど、彼はいたって真面目な表情で、慌てて返答を考える。
「…失うことを?…安心してください、私はそんなにやわじゃありませんから。だって今、貴方の隣にいるでしょう」
「…きみは強いな」
「強いわけでは。…強くありたいと願っているだけです」
「…そうか。……そんな君に愛されて、俺は、幸せものだな」
噛みしめるような言葉に、今度はどうしてか緊張してしまった。それはきっと、そこに寂寥が含まれていることを、感じ取ってしまったから。
「…。貴方の口から、そんな言葉が出るなんて思いませんでした」
「自覚がない方が失礼だろう」
「なんというか……変わりましたね」
「そうかもな」
話しつつ、薬を飲み終えたようだ。いよいよ眠たいのか、瞳が閉じていく。
「今日話したこと、忘れないでくださいね」
「…ん…?なんだ……」
「なんでもないです。おやすみ、ヒューゴ」
実は前にも何度か、うなされていた彼に、違う名で呼ばれたことがある。しかし、彼は決まってその時のことを覚えていないのだった。防御本能なのか、わざと何も覚えていないふりをしているのか。…けれど、今のビビアンにはどちらでもよかった。今日のこの触れ合いは、覚えていてくれるような気がするから。
早く元気になってくださいね、と願いを込めて、さらさらと流れる金糸のはじに小さく口づけた。
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