ナワーブはとある芸術家のアシスタントだ。元々搬入の力仕事要員として日雇いで入り、開催前の展示場とそこでライトアップされた作品、それから同じように照らされる作者の顔を知った。
作品は確かにその人が完成させたはずなのに、展示が始まるのを、まるで作品の完成を楽しみにするように浮き足だっていた。ご機嫌に鼻歌を奏で、踊るように展示場を練り歩いた。
それになんとなく着いて歩いてしまったものだから、そこから彼のアトリエまで送らされたし、そのアトリエでも片付けを手伝わされたし、何故か夕食を作らされた。保存庫にはなんにもなかったから、その前に二人で買い出しにも行った。食材を選ぶナワーブの横から余計な菓子やつまみが入れられるが、相手は家主なので文句を言う筋合いは当然ない。そうして一緒に囲んだ夕食の味を、ナワーブは今でも覚えているし、きっとこれからも忘れない。
帰ろうとすると泊まって行かないのかと不思議そうにされた。何故不思議そうにされているのか、逆に分からない。ナワーブは成り行きで食卓を共にしたことも含めて、全部に奇妙な焦りを覚えて、良く分からない言い訳を唱えて、その時は帰った。
自宅で一人になった途端、良く分からない芸術家に、良く分からない恋をしてしまったことに気付いた。後悔する理由は特になかったが、まさかこんなふうに、まるで片手で一捻りされるように、恋に叩き落とされるとは思わなかったので、それは後悔よりただただ混乱による悔しさだった。
次の日複雑な気持ちでナワーブは目覚めた。仕事の予定をあれ以降入れていなかったはずだが、連絡が幾つも入っていた。件の芸術家が、自分が来ないとご立腹らしい。いったいなんのことだ。
良く分からないまま昨日行った家に向かうと、その芸術家はナワーブを待ち構えていた。怒っているとのことなので、何か誤解があるのだろうと思っていたが、到着したナワーブを迎えた芸術家の態度は、ナワーブの思っていたものとは違った。
訪ねた途端に抱きすくめられて、遅いだの何故来なかっただのばかだのあほだのまぬけだの、理不尽なことよりも拙過ぎる罵倒ばかりを浴びせられナワーブはわけがわからなかった。幼い中傷はナワーブに自分が悪かったのかもしれないと逆に錯覚すらさせる。覆い被さって来る相手は自分より余程背が高いのに、全然色っぽい気持ちにならない。抱き着いて来るその芸術家は、自分のぬいぐるみが取られないとしてそうしているようだった、同時にそれは、彼の気が逸れればぬいぐるみはあっさり手放されそうであった。
だからつい、やっぱり昨夜帰さなければ良かったとさめざめ言う男に、そうかもなと返してしまった。それで芸術家は漸くナワーブから距離を置いて顔を見合った。同意が得られたことに満足そうだった。男はそのままナワーブから離れて、チップを渡した。これは。
「おまえのお給料は翌日渡しますから。だからちゃんと毎日来ないと、ダメですよ。」
幼い子供みたいだと思っていた男が急に大人の給料の話をし出したので、ナワーブは面食らった。昨日の搬入の給金なら、別の支払い口との契約が勿論きちんとある。だからこれは昨日彼を手伝った分の個人的な給料なのだろう、たぶん。チップを受け取りながらナワーブは、わかった、と言った。芸術家は満足そうに、否、安心したような顔をした。だからナワーブは、一先ず自分の恋心は置いておくことにした。
それから朝食を用意しろと言うので、とっくに昼を過ぎてしまったけれど「朝食」を作る。昨日から何も食べてないのか、と言うと。だっておまえが来ないから、とまた怒り出すので、そうだなそうだよな悪かったと誠意を持って謝る。だから出来上がった朝食を二人で囲む。
雛鳥の刷り込みというもので、親だと思って後を着いて回るのは聞いたことがあったが、自分に着いて来る相手を子分だと思う者もいるのかもしれない。いや、わけがわからないが。
そうしてナワーブは良く分からないけれど毎日その芸術家の元へ出勤したし、昨日分の日給を受け取った。毎日三食作って一緒に食べて買い出しも一緒に行って、片付けや掃除もして、件の展示会にも着いて行ったし、そしたらそこで、ナワーブは芸術家にアシスタントだと紹介された。そしてナワーブは、自分がリッパーのアシスタントだと初めて知ったのだ。
それからナワーブはアシスタントらしくリッパーを先生と呼んだ。リッパーは満足そうにしていたが、時々ジャックと呼ぶようにねだった。リッパーは雅号だ。ナワーブは言われるとそのままにジャックと呼んだ。ねだられるのは専ら、食事時などの、芸術活動とはあまり関係のない時だ。だが明確に分けているようには見えない。彼が呼ばれたい時にそう呼ばせているだけに過ぎない。
ナワーブはリッパーの画材の買い出しにも付き合う。それが当然になった。元々力仕事で搬入作業をしていたのだ。リッパーは買い物メモをナワーブに渡し、これはこれ、これはこれのことでこの番号はこれ、と説明しながら店を回った。リッパーのメモにはメーカーも記されてあり、代用は許されない。
その頃になるとナワーブはもうリッパーにべったりで、必然的にリッパーもそうだった。リッパーの生活にはナワーブが組み込まれ、他に特定の相手は見られない。ナワーブはリッパーがそう呼んだからアシスタントの自覚があるが、本来アシスタントとはなんなのだろうか。アシスタントとはみんなこうなのだろうか。リッパーはナワーブをアシスタントとは呼んだが、本当に、それだけの感情しかナワーブに抱いていないのだろうか。
暫くして、リッパーは大きな画板を買った。流石にそれは、一枚を運ぶより幾つか絡げて必要なアトリエに運ぶ時に一緒に届けて回るとのことで、その場からナワーブが持ち帰るようにとは言われなかった。ただ受け取って、リッパーに言われた場所に運ぶのはナワーブだ。そしたら急にリッパーは言った。
「やっぱり帰らないでほしいです。」
それをナワーブはやっぱり、わかった、と二つ返事をして、先に運べる日用品を一番大きな鞄に詰めて、リッパーのアトリエに戻った。おれの家はどうすれば良いと問えば、リッパーは一も二もなく、売り払ってと言うので、数字で手続きをして、言う通りにした。
その初日に、おれは何処で寝れば良いと問うと、リッパーはわたしの隣でと言うので、ナワーブはリッパーのベッドの隣で床で寝ろという意味だと思った。しかしリッパーの自宅にゲスト用の寝具はない。ナワーブは自分が持っていた寝袋を持って来て敷いた。
「待って。」
リッパーの静止にナワーブが振り返ると、彼は不思議そうに小首を傾げていた。
「わたしの隣で寝てくれるんですよね?」
「?ああ。」
「わたしのベッドに一緒に寝てくれるんですよね?」
ナワーブは芸術家リッパーのアシスタントだ。そのはずだ。
「ああ。」
ナワーブは寝袋を片付けた。
次にナワーブ、は風呂の準備をしろと言われたのでそうした。いつも通り夕食を作って、一緒に食べて、暫くして腹ごなしも済んだ後だ。
「なぁ先生。湯は溜めるのか?」
アシスタントの問いに、リッパーは少し考えた後、逆に問うて来た。
「一緒に入りますか?」
この芸術家先生から選択肢を与えられることは珍しいことだった。だからつい動揺して、自分も質問を質問で返してしまった。
「それは……今日以外でおれが一緒に入りたいって言ったら、そうしてくれるのか?」
リッパーは笑った。
「分かりません。」
だと思った。リッパーは気紛れな芸術家だ。その時にならないと、ナワーブがその気の時にリッパーもそうだとは限らない。何に限ったことでもなく。
「なら、一緒に入る。」
リッパーはもう一度笑った。
「でしたらお湯溜めてください。」
浴室に戻ったナワーブは、蛇口を勢い良く捻った。水の音に自分の心臓の音が紛れこませて誤魔化した。
湯が溜まったことをリッパーに伝えると、彼は真っ直ぐ浴室に向かった。ナワーブはそれに着いて行った。
初めて彼に出会った時を思い出す。展示場で、あの日もこうしてこの人の後を着いて回っていた。ここはその相手の自宅だし、風呂場だし、状況も全然違う。信じられない心地だ。
浴室前の脱衣所に着くと、リッパーはさっさと衣服を脱ぎ捨てる。ナワーブはぎょっとする気持ちを、風呂に入るんだから当然だと抑え込んだ。自分の衣類に手を掛け、意識を反らす。
そんなナワーブのことなどどうでも良さそうに、リッパーは湯船に大きな手を浸からせてちゃぷちゃぷと遊ぶと、浴室に置いていた幾つかのボトルから一つを選んで、とろとろと中身を湯船に垂らした。湯の色はどんどん乳白色になり、底が見えなくなった。
元々リッパーの家の浴室は、浴槽も白くタイルも白く、今は湯気も上がって真っ白で、おまけにリッパー自身の素肌も白かったので、ナワーブは雪原のような眩しさを感じ、あまり見ないようにした。そう、目が眩むので見ないようにしていただけだ。
ナワーブが一人でそうしている間に、リッパーは手で掬った湯水をナワーブの体に掛けてあたためた。そんなことをされなくても充分あたたかかったが、湯は心地良かった。二人で軽く体を流してから湯に浸かった。浸かってしまった。
リッパーの家の浴室は広く、浴槽もそうだ。二人で入れるくらい。リッパーが目の前で湯水を掬った乳白色からは、普段のリッパーの匂いがした。当然だ。リッパーは湯を掬っては開け、掬っては開けを繰り返した。暫くすると飽きたのか、ナワーブの頬に触れて来た。リッパーの手はナワーブほど熱を持っていないと思った。ナワーブはとっくに、湯に浸かる前から、ずっとほてっていた。
「先生。」
「ジャックって呼んで。」
「ジャック。」
「なに。」
視界の全てが真っ白だったが、ジャックの長い脚がナワーブの脚に当たっていた。幾ら広いとはいえ、家庭の浴槽である。必然、触れ合う。だからそんな視界の中でも、ここにジャックと共にいることは明らかだった。誤魔化しの効かないくらいに。
「おれ以外のアシスタントでも、こんなことするのか?」
ジャックは笑った。こうなる原因の問答の時と、同じ笑い方だった。
「分かりません。」
だと思った。
だったら、そうならないようにこっちがなんとかしなければならない。そうなるのが嫌なのであれば。
「なら、おれだけにしてくれ。」
ジャックは無邪気に問うた。
「なにを?」
「今からおれがおまえにすること。全部。」
ナワーブはとある芸術家リッパーのアシスタントで、搬入搬出の力仕事や画材の買い出しを行うのにも、随分慣れたものだ。買い出しくらいならリッパーのメモさえあれば、何処にあるどんな画材か一人で選べる。ナワーブはリッパー本人の身の回りの世話も焼くアシスタントだが、ナワーブはそれをアシスタントの仕事だとは思っていない。今している買い出しだって、リストに画材が並ぶ中、さも当然のようにコンドームの名前が入り込んでいるので、珍しい画材のお使いなんかよりも動揺して、一人でにやけてしまうのを堪えている。
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