窓から差し込む光が弱くなっていたのは、日が沈んだからだけではなかったらしい。ルミナモールの中でも、西向きの大きな窓が目の前にあるこの衣料品店では、強い西日で洋服が日に焼けてしまうからと、夏は早めにブラインドをおろしていたっけ。
そんな昔のバイト先の風景を思い浮かべながら、ビビアンは両手にたくさんの荷物をかかえ、途方に暮れていた。外は大雨だが、こんなに荷物を持っていては傘をさすことも難しい。何より、今日買ったものは絶対に濡らしたくないのだ。袋の中身は、愛するパエトーン様人形に着せる、新しいお洋服を仕立てるための布や装飾品なのだから。
「ああ、そう。今ルミナモールの中にいる…」
若い男性が、スマホを片手にそう言いながら目の前を通り過ぎていった。…どうしてこんなに簡単なことに気づかなかったのだろう。ビビアンはスマホを取り出した。
ほどなくして、モールの地下駐車場に見慣れたクラシックカーが入ってきた。旧文明時代後期でも、ほとんどの人が乗っていなかったとされる古く珍しい車種だ。悪目立ちするその車を、彼は愛用している。
「ありがとうございます、ヒューゴ。助かりました」
後部座席に荷物を置きながら、声をかける。ヒューゴは軽く手をやって、「礼には及ばん。俺もちょうど画廊の方の仕事の帰りだったからな。」と応えた。確かに、後部座席には既に何枚かの先客がいる。すべての荷物を積むと、乗るスペースが無くなってしまった。
「助手席に乗りたまえ」
促されるまま、ビビアンは左側のドアを開けて乗り込んだ。普段二人で車に乗る場合は、たいてい後ろに乗っているから、なんとなく不思議な感覚がする。車が走り出すと、揺れ方も大きく違い、ビビアンはまたひとつ驚いた。
違い、といえば、今日車内でかかっているのはゆったりとしたジャズだ。普段は専ら、情報収集のためにラジオがかかっていて、TOPSの後ろ暗い話題が出た日には、聞いてもいない話を饒舌に語るのが彼の常だった。不規則な雨音にまぎれ、低くゆるい旋律が流れる車内は心地が良いが、その小さな差異は良いものではない気がした。『今日はラジオを聞かないのですか?』『何かあったのですか?』――質問を浮かべては、雨音の中に溶かした。どれも聞くのはなんとなくはばかられる。そもそも、互いにそこまで詮索しあうたちではない。今日はなんとなく落ち着いたものが聞きたい気分だったのかもしれないし。
「ビビアン」
突然話しかけられて、ビビアンは必要以上に肩を震わせてしまった。幸い、前を見たままのヒューゴは気づいていないらしい。
「夕食は済ませたかね?まだであれば、何か買ってから帰ろうと思うのだが」
「か、買い物の途中で済ませました」
「?…そうか。」
「ヒューゴは?もう食べましたか?」
応え方に疑問を持たれたことを誤魔化すように、慌てて質問をかえす。言葉にしてから、余計にわざとらしいかもしれないと気づいて、同時に何を焦っているのだろうとも思った。思考を読まれているわけでもあるまいし、悪いことを考えていたわけでもない。
「いや…。だが、まあ…必要ない」
ひっかかる言い回しだった。誤魔化すのが下手なのは、どうやらビビアンだけではなかったらしい。右折する動きに合わせて、車外の光と、車内の影が動いてゆく。ビビアンは運転席の彼の横顔をちらりと見たが、窓の外から差し込む光でよく見えなかった。
家に着くころには雨はさらに強まっていて、ジャズはほとんど聞こえなくなっていた。
「ビビ、荷物はガレージに入れてから運ぶから、先に降りて傘を取ってきてくれないか」
「…あ、玄関のカギ、後ろの荷物の中に紛れてしまっているかも…」
「ならば、これで」
ヒューゴが手渡した鍵を何気なく受け取って、ビビアンは違和感の正体に気づいた。一瞬だけ触れた指先が、冷え切っている。元々体温が高い方ではない彼だが、流石におかしいと感じる程度には冷たい。
「…。」
今ここでそれを指摘しても仕方ない。ビビアンは言われた通り、傘を取りに車から降りた。
***
「…まだ起きていたのかね?」
シャワーを終え、水分をとりにキッチンにやってきたヒューゴは、そこにいたビビアンにそう声をかけた。
「ええ。…ヒューゴ、明日の予定はありませんよね?」
「なんだね、藪から棒に…。まあ、特には無いが」
「では、今晩は私に付き合ってください」
「…。…?」
普段より遅い反応に乗じて、ビビアンは彼の手をとり、リビングのソファまで連れてゆく。そうして座らせると、「そのまま待っていてくださいね」と言ってキッチンまで戻っていった。さっぱりなんだか分からないが、気合の入った様子のビビアンにけおされて、ヒューゴはぼんやりとソファに座っていた。しばらくして、キッチンから戻ってきたビビアンは、ヒューゴの前にカップとソーサーを置いて、香りのよい紅茶をついだ。最後に少しだけ蜂蜜を加えて、カップの向きを整える。
「お待たせいたしました、ビビアンスペシャルです」
「ほう?…名前が安直すぎないかね」
「失礼ですね…」言いながらも、ビビアンの口元は笑っている。「では、ノアプテ・ブナとでも名付けましょうか」
「これはまた随分と洒落ている」
「貴方の真似です」自分の分をつぎながら、うたうように応える。
「もしや今、俺は揶揄われているのか」
「どうでしょう」小首をかしげ、くす、と笑ったビビアンは、愛らしさと聡明さの中に、ほんの少し陰をみせるような、引き込まれる魅力をはらんでいた。あてられたヒューゴは、かすかに瞳を揺らす。どうやら気づかぬうちにとんでもない子になってしまっていたようだ。それとも、俺が夜と甘い応酬に既に酔わされているのか。
「今日は、私の隣で映画を見てほしいのです。眠ってしまっても構いませんから」
デッキにあのビデオ屋で借りてきたビデオをセットしながら、ビビアンはリモコンで音量を調節する。
「食欲があれば、何かつまめるものも持ってきますよ」
「いや、いい。…至れりつくせりだな」
「何を言っているのですか?私の我儘に付き合っているだけでしょう」
「…全く、完敗だ。いつそんな言い回しを覚えたのだね?」これでは俺が幼子のようではないか。
ビビアンは何やら満足げな顔で、ヒューゴの隣に座った。
「まあ、今日の送迎のお礼とでも思ってもらえれば良いのです」
「…いつから気づいていた?」
「眠れていない日が続いていることですか?正直、ずっと気が付いていませんでした。」
「…けれど、私も昔、悪夢にさいなまれて、眠れていなかった日々があったことを思い出したのです。死体のように冷え切った手を。感覚が過敏になって、大きな音や光が苦痛に感じたことを。」
「…ねえ、ヒューゴ。貴方はいつも、自分の手を、既に汚れきっているみたいに言うけれど」
「その手は確かに、私のことを守ってくれたのですよ」
***
次の朝、ヒューゴはすうと目を覚ました。相変わらず体調はすぐれないが、ここ数日で一番寝覚めが良い。雨音が止んで、低い空調の音だけが部屋に響いている。身体を起こそうとして、左半身の重みに、動きをとめた。ビビアンが、俺の左腕を抱くようにつつんで、手を握っている。冷えた身体をあたためているようだった。起こさないようにそっと解いて、立ち上がる。…今日の朝食は、なにか彼女の好きなものを作ろう。
昨日あんなに大人びて見えた彼女の寝顔は、年相応のあどけなさがある。肩にかかるウィステリアの髪は、細く繊細で、美しい。
「…。」
数秒の逡巡、思考を手放して、ただ愛しいという感情に身を任せた。カーテンの隙間からのぞく、柔らかい光が二人を照らす。その額から顔を離すと、こちらを見るビビアンの深紅の瞳と目が合った。
「ひゅ…!?」綺麗な並びの睫毛が震えている。
「なんだ、起きていたのか」しれっと言い放つ。
「なんだじゃないのです!!い、今私の額に、キ…?」
焦った様子のビビアンは、目を泳がせて、耳まで真っ赤だ。
「はは、夢じゃないか?」
笑いながら、これが夢ではないこと願わずにはいられなかった。
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