雑種栗丸
2026-01-17 17:33:03
17772文字
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猫の話

ミス晶♂ですが、二人の絡みはありません。猫のお話です。

やぁやぁ諸君、ごきげんよう。我輩は猫である。名前はまだない。おそらくね。
ところで諸君。さっそくだが我輩は現在危機的状況にある。端的に言えば、腹の中から何かがせり上がり、口から溢れそうになっている。紳士である我輩の口が悲惨なことになるまで、およそ一分もかからないと見た。
なぜそのような状況に陥っているのかと言うと、現在我輩の腹はある男の手で容赦なく鷲掴みにされているからである。しかもその男は我輩を小脇に抱えたまま、ずんずんと歩みを進めているため、お腹の圧迫感だけでなく乗り物酔いによってもゲ……ごほん、ばっちい何かが喉元までせり上がっているのである。アッ、これは本当にまずいね。
脳内で吐しゃ物の片付けまでを想像して覚悟を決めた我輩をよそに、その男は我輩が吐くよりも早く、それも唐突に我輩を放り投げた。ぎゅっと握られていた腹が途端に解放されて、喉まで上っていた何かが胃の中に帰っていく。無様に嘔吐することからは免れたものの、我輩が次に注意すべきは着地の仕方だった。先ほどまで我輩を抱えていた男は、生き物に対する所業とは思えないほど素っ気なく我輩を投げたものだから、空中にいる間に体勢を整えなければ、地面に体を激しく打ち付けることになるだろう。
と、思っている間に背中から着地してしまった。ごろごろと回転してから我輩の体は止まった。予想していたほどの痛みがなかったのは、落ちた先が固い地面ではなく、ふかふかの絨毯の上だったからだ。深紅の絨毯に感謝の念を送ってから、我輩は顔を上げて、たった今我輩を放り投げた男を睨みつけた。
そいつは背がすっと高く、絨毯よりも少し明るい赤髪の不愛想な男だった。白衣に黒いシャツを着て、愛想がないけれど整った目鼻立ちが華やかに見えた。緑色の瞳は、我輩に乱暴した直後とは思えないほど無感情にこちらを見下ろしている。どこかで見たことがある気がする。
「めんどうなので……
男は本当に面倒そうに口を開いた。
「さっさと持ち主のところに行ってください」
まずはごめんなさいでしょうが!と我輩が声を上げると、男は「はぁ……」と返事をした。どうにも普通の人間に見えるが、我輩の言葉が伝わるらしい。会話が成立するのか確かめるために名前を訊いてみることにしよう。
「お前、名前は何と言う」
「名前なんてどうでもいいでしょう。俺のそばをうろうろされるのも鬱陶しいので、早く行ってください」
カッチーンと頭痛に似た怒りが我輩の脳内を走った。はいはいわかりましたよと、怒りのままに冷たい態度で立ち去ろうと腰を上げると、その男はすでに身を翻して来た道を戻っていたのでなおさら腹が立った。何だったのだ、今までのやり取りは。単なる動物虐待だったのか。
怒りで逆立つ毛並みを舐めて整え、気持ちが落ち着いてきたところで改めて周囲を見回した。そうして初めて気が付いた。
我輩、なぜこんなところにいるんだ。
ここはどうやら大きな屋敷のようだ。我輩を受け止めてくれた絨毯は廊下に敷かれたもので、上を向けば高い天井、横を向けば金の装飾が施された壁に大きな窓が見える。外は晴れていて、青く滲む空が随分近くに感じられた。壁は片側にだけあり、もう片側は格子の手すりになっている。我輩は吹き抜けの部屋の二階にいるようだ。格子の隙間から下を覗くと、長いテーブルがいくつも並んでいて、大きなシャンデリアのろうそくがその部屋を照らしている。大きな屋敷で、大家族が住んでいるらしい。もしかするとシェアハウスというやつかもしれない。
とすると、先ほどの男もここの住人なのだろうか。それ以前に、我輩の家もここなのではないだろうか。持ち主のところに行けとあの男は言っていた。それはつまり、我輩の飼い主もこの家の住人だということではないだろうか。
どうにも記憶が曖昧だ。嘔吐寸前になった恐怖と乱暴をされた怒りで記憶が飛んでいるらしい。歩き回っているうちに思い出すことだろう。
そうと決まれば焦る必要はない。のんびりと飼い主を探すことにしよう。お腹が空く前に見つけられたらいいだけだ。我輩はゆったりと伸びをして体をほぐした。放り投げられた時の緊張と衝撃で手足が固まってしまっていたため、何度も伸ばして入念に柔軟をした。
さて、風の向くまま気の向くままに歩いてみよう。とりあえず、先ほどの男には会いたくないので、あの男が帰った道とは逆を行こう。



階段を降りて薄暗い廊下を進むと、テーブルがいくつも並んでいた部屋とは違うけれど、再び吹き抜けの部屋に出た。明るくて、室内なのに陽だまりの匂いがする。部屋いっぱいに陽の光が差しているからだろうか。床に広がる光が大きな花の形をしており、不思議に思って顔を上げると、部屋の二階部分に当たる壁がきらきらと眩しいほどの輝きを放っていた。白と緑色を基調にした三つのステンドグラスが、太陽の光に淡く色をつけている。晴れた日の若葉の瑞々しさを思い出させるそれは、見ていると風に揺れる新緑の森で日向ぼっこをするような心地よさが感じられた。我輩は光の中で足を止め、うっとりとそれを眺める。
「なんだあれ」
不意に声がした。我輩は驚き、体を低くして身構えた。声はそれほど大きくはなかったけれど、広い室内に反響して我輩の体を覆ってしまう波のように聞こえた。
我輩が通って来た廊下から少年が二人、こちらに来ている。どちらもまだ幼さの残る顔つきで、背の低い方が黒髪に赤い瞳、もう一方が金髪に青い瞳をしている。黒髪の方が躊躇いなく我輩に近づいてきて、目の前でしゃがんだ。ここの住人だろうと思いつつ、我輩は警戒を解かずに声を低くする。
「むっ、なにやつ」
……おいヒース、こいつ喋るぞ。言葉が通じる」
我輩の問いには答えずに、そいつは後ろを振り返った。背後から我輩を覗き込んだ金髪は目を丸くして、黒髪と顔を見合わせた。
「なんだろう。誰かが魔法をかけたのかな」
「敵の刺客か?」
「刺客にしては、随分可愛らしい見た目だ」
「可愛さで俺たちを惑わせようとしているのかもしれない。おいお前、どうしてここにいる」
それは我輩も知りたい。しかし、まだ迷いがあるようだけれど、黒髪の赤い瞳が僅かに敵意を帯び始めているように見える。弁明しておくに越したことはないようだ。
「我輩は猫である。飼い主を探しているところだ。あまり覚えていないのだが、この屋敷に住んでいるらしい」
「わっ、本当に喋ったね」
「だろ?お前、猫なのか。刺客じゃないのか?」
黒髪はそう言うと、我輩の方へ手のひらを差し出した。我輩が反射的に匂いを嗅いでいると、人差し指が顎の下を撫で始め、止める間もなく頬の横、耳の後ろ、頭の上と次々と触れていく。しかも触り方が上手い。動物の扱いに慣れている手だ!と気づいたときには全身くまなく触られモフられ、検査されていた。我輩はただただ気持ちが良かったので、ごろごろと喉を鳴らしていた。その結果――
……こんなにリラックスしている奴が刺客とは思えない」
「そうみたいだね」
無罪を獲得した。
「ところで我輩の主人を知らないか」
散々情けない姿を見せた後なので、我輩は警戒心もプライドも投げうって率直にそう尋ねた。ここの住人ならば知っているかもしれない。そう期待してのことだったが、二人は各々黙ってから、互いにヒントを求めるように目を合わせた。
「こんなのを飼ってる奴なんていたか?」
「使い魔だとしても、思い当たらないな」
二人はしばらく何人かの名前をあげて話し合っていたけれど、結局どれもしっくりこなかったようだ。名前をあげては却下されていく声を聞いていると、どうも無理らしいなと諦めがついた。
「悪いな、力になれなくて」
「いや、話を聞いてくれて感謝している」
最後に黒髪に撫でてもらっていると、ヒースと呼ばれていた金髪の方が眉を下げて静かに微笑んだ。
「でも、君のことはどこかで見た覚えがあるよ」
「そうなのか?」
「うん。どこでだったのかまでは覚えていないけれど、朝のイメージがあるな」
彼の白くきれいな指先が、我輩の喉をそっと撫でる。控えめな優しい手つきだった。
「こいつの色が赤いから、そう思うんじゃないのか?」
「朝焼け色ってこと?そんな単純な発想かなぁ」
それ以上のことは彼もわからないらしく、我々は別れを告げた。
二人は出会った時と同じように、再び並んで歩き出した。会ってすぐは警戒していたのに、その背中を見送るのが少し寂しいのは、心を許したような距離感で仲の良いやり取りを交わす様を見たからだろうか。
我輩の飼い主も、我輩に対してあのように親しげに話しかけてくれるのだろう。なぜだかふと、そう思った。



屋敷の中をあてもなく、我輩はずんずんと歩いた。それ以外にこれといった策が思いつかないからだ。似たような廊下をいくつも通り過ぎ、階段を登っては降りてを繰り返しているうちに、どこを歩いてきたのかよくわからなくなってきた。
大きなソファと暖炉がある部屋や、本がたくさん並んでいる部屋に立ち寄ることもあった。暖炉のある部屋には髪の長い男がソファに一人で腰掛けていたので、話しかけようかと試みたけれど、無言でこちらを見るばかりでにこりともしなかったため、怖気付いて何も言えなかった。気まずさを誤魔化すために、長い髪の毛先で少しの間遊んでから、部屋を後にした。
そうして歩いているうちに、とある部屋から数人の笑い声が聞こえてきた。運良く扉に我輩が通れるくらいの隙間がある。入ってしまおう。
先ほど会った二人の少年は飼い主に心当たりがなかったけれど、ヒースと呼ばれた少年は我輩を見たことがあると言っていた。であれば、やはりこの屋敷の住人が飼い主である可能性は残されている。早々に見切りをつけず、もう何人かにあたってみて判断したいところだ。
そう考えていた我輩にはうってつけの状況だ。一度に多数の人間の相手をするのは少し緊張するけれど、引き返すわけにはいかない。そんな風に意気込んで、我輩はその部屋へ足を一歩踏み入れた。
扉の隙間をするりと抜けて室内に入ると、まず目に飛び込んできたのは宙を舞うバケツと雑巾だった。
「待ってムル!雑巾が逃げちゃう」
「雑巾が群れを成して、まるで渡鳥のようだね」
「まぁ、もう渡りの時ですか?掃除はまだ終わっていませんよ」
「じゃあ止めるー!」
そんな会話が聞こえたかと思うと、パタパタと体を二つに折ってV字に並んで飛んでいた雑巾たちの後ろから、バケツが二つふわふわと舞い降りてきて、V字の端から雑巾を器用に身に納めていった。あっという間に雑巾を回収すると、バケツはちょうど我輩の目の前に降り立った。
「よかった!ありがとう、ムル」
バケツを追う足音がこちらに向かって来ている。けれど我輩は今までの光景に呆気に取られてしまい、座り込んだまま動けずにいた。
「よいしょっと……あれ?」
床を通じて我輩の体を揺らしていた足音が、ピタリと鳴り止んだ。音の主が我輩の存在に気づいて、立ち止まったからだ。彼は若い青年で、明るい赤髪にバンダナを巻き、黒地に赤い柄の入ったエプロンを着ている。いかにも掃除をしているスタイルで、雑巾を持たせればバッチリだ。
そんな彼の紫の瞳に、夜空の星のようにキラキラと光が灯る。みるみるうちに口角が上がり、今にも笑い出しそうだと思ったときには歓声が上がっていた。
「わー!可愛い!」
「猫だ!にゃ~ん」
彼の頭を越えて、バケツと同じ軌道でふわりと男が飛んできた。顎のあたりで切り揃えられた紫色の髪がさらさらと揺れている。
「シャイロック、お客さんだにゃーん」
男が歌うように「エアニュー・ランブル!」と声高に唱えると、驚くべきことに今度は我輩の体が浮いた。そして浮いた勢いのまま、山なりにポーンと飛んでいくではないか。ああこの感覚、本日二度目である。
「いらっしゃいませ。インヴィーベル」
落ちる先はどうやら木でできたカウンターテーブルの上らしい。痛そうだ、と思ったけれど、カウンターの中にいた黒髪の男が我輩に微笑みかけるのと同時に、小さなクッションが出現し、我輩は無事そこに着地することができた。着地の寸前に飛行速度が落ちるという優しさも感じられたので、我輩の中でのひどい人間ランキング一位は、相変わらずあの男のままである。
ホッと胸をなでおろした我輩に、カウンターの男は艶やかな笑みを向けた。
「こんにちは、お客様。私はシャイロックと申します。こちらは私の店で、あなたが本日最初のお客様です。清掃中のため、少し散らかっておりますが、よろしいですか?」
「あっ、ああ、お構いなく……
あまりにも自然に話しかけられたため、我輩は変に恐縮してしまった。ふわふわのクッションの上でぎこちなく手足を揃える。
言われてみると確かに、今までの部屋とは違って店らしい作りの部屋だった。シャイロックの後ろには棚の中でグラスがいくつも出番を待っている。ここはバーなのだろう。お酒の似合う大人な雰囲気の良い店だ。
辺りを見回していると、宙を飛んでいた男が我輩の隣に降り立った。すると「俺も猫になる!」とよくわからないことを言って、本当に猫になってしまった。数秒前まで人間の男だった彼は、今我輩の隣で紫色の毛の長い猫になってカウンターでくつろいでいる。
「お客様、こちらの猫はムルと言います」
「む、むる」
事態を飲み込めないままでいると、今度はこの部屋で最初に出会った赤髪の青年がこちらにやって来た。その隣にもう一人、同じくお掃除スタイルの白いエプロンを着た、そんな格好でも上品さが感じられる男がいた。
「すごい、喋れるんだ。こんにちは、俺はクロエって言うんだ。で、こっちはラスティカ」
「ごきげんよう。素敵なお客様だね」
彼はそう言って我輩と握手をした。こちらが警戒する隙を与えず、刺客と疑われることもない、凄まじい歓迎っぷりだ。
シャイロックにムル、クロエにラスティカ。名前を胸中で反芻してみたけれど覚えはなく、彼らの反応を見る限りでも我輩の飼い主ではないようだ。我輩は目的を情報収集に切り替えることにした。
「我輩は猫である。飼い主を探しているところだ。記憶が飛んでいて思い出せないのだが、おそらくこの屋敷に住んでいる人物だ」
「そうなんだ……大変だね」
「ところで、この屋敷には何人の人間が住んでいるのだ?」
「人間?人間で言うと一人だよ」
頭にはてなマークが浮かんだ。現時点で我輩は七人の人間に会っているはずなのだが。我輩のはてなマークがクロエにも見えたのだろう。彼は慌てて付け足した。
「人間は賢者様だけで、あとは魔法使いが二十一人いるよ」
「魔法使い?」
「えーとね。魔法って言って、こんな風に色んなことができる人のことだよ」
クロエはテーブルに体を擦り付けているムルを指し示した。なるほど、魔法使い。初めて聞いた言葉のように感じられたのに、奇妙なほど馴染みがあった。当たり前に知っていたのに、ど忘れしていたかのような感覚。そして思い出してしまえば、忘れていたことが不思議に思えるほどだった。
「魔法使い……知っているな」
「じゃあ飼い主は魔法使いかな」
誰だろう……と腕を組んで考え込むクロエに、ラスティカが柔らかな視線を送る。戯れついてくるムルに猫パンチで返していると、シャイロックが口を開いた。
「猫好きの魔法使いといえば、ファウストでしょうね」
「そうですね。彼はとても猫思いだ」
ファウスト、という名前は、先ほどの少年二人が真っ先にあげた名前でもあった。こちらでも第一候補としてあがるとは。余程の猫好きのようだ。
「ファウストとはどのような人物だ?」
「東の国の魔法使いで、とても可愛らしい方ですよ。帽子と眼鏡を着けているので、一目でわかるかと」
「そうか」
「あとは、そうですね……ミスラはどうでしょう」
「ミスラ?」
「クロエよりも深い色の赤髪で、背が高く――
おっと、雲行きが怪しいぞ。
「白衣を着ています」
予感的中だ。我輩のことを放り投げたあの男ではないか。
「それはないな。そいつが我輩に飼い主のところに行くように言ったのだ」
「おや、そうですか」
シャイロックはそう言ってラスティカと目を合わせ、それ以上どの人物の名前もあげなかった。
「とりあえず、そのファウストという魔法使いのところに行ってみよう」
「ファウストなら、さっき中庭にいるのを見たよ」
「ではそちらに行ってみよう」
ふかふかのクッションの座り心地が良く、長居をしたくなってきたため、名残惜しくも我輩は立ち上がった。
我輩を囲む三人に順番に礼を言う。最後に我輩が座っていたクッションに早々と横になっているムルに礼を言うと、彼は空中を泳ぐように手足をバタバタとさせた。
「まだ硬いみたいだから、俺とお揃いにしてあげる〜」
そう言って彼が呪文を唱えると、我輩の体の表面がじんわりと温かくなった。干したてのほかほかの布団の中にいるような気持ちの良さに、マッサージをされているようなコリの解消まで感じる。危うく一瞬で寝てしまいそうになったところで、どちらの感覚も潮が引くように薄れていった。
「わぁ、さすがムルだね!もっと猫らしくなったよ」
クロエが感嘆の声を上げる。確かに。凝り固まっていた体が随分と軽くなっている。毛の艶も増していて、後ろ足で体を掻くとするすると滑った。
ムルに礼を言い、出発しようとカウンターから飛び降りた。最後に振り返ると、ラスティカが膝をついて手を差し出した。別れの握手に応えると、彼は両手で我輩の前足を包み込み、優しく微笑んだ。
「大丈夫。きっと見つかりますよ」
……ああ。ありがとう」
我輩はそう言ってバーを後にした。
部屋の外に出ると、来た時よりも廊下の静けさが身に沁みるように感じられた。バケツや雑巾が飛んでいるのを見たときはとんでもないところに来てしまったのかと思ったが、思い返すととてもワクワクしていたようにも思う。
我輩の主も彼らのそばにいるときはそんな気持ちを抱くのだろうか。彼らの自由な明るさに驚きながらも、彼らのことを愛し、思わず一緒に笑ってしまうような、そんな主の姿を早く見てみたいと思った。



外に出られるところを探して歩いていると、吹き抜けの二階から眺めた覚えのある、長いテーブルがいくつか並んだ部屋に辿り着いた。涼しい空気を身に感じて部屋の奥に進むと、窓が開いているのが見えた。我輩はムルのおかげで軽くしなやかになった体を十分に活かして、窓枠へ飛び移ると、するりと外へ抜け出した。
草花の多い美しい中庭だ。景色が変わると気分も変わる。踏み出す我輩の足も、心なしか愉快そうだ。
しばらく歩いたところで、真っ白いシーツが四枚干してあるのが見えた。雲の少ないよく晴れた空の下、それはバーレッスンをするバレリーナのように、風に身を任せて踊っている。
シーツの足元を歩いていると、二人の人影が見えた。「すっかり乾きましたね」と溌剌とした声が聞こえる。噂のファウストという魔法使いだろうか?と我輩はシーツの間から様子を窺ってみる。
「あっ猫さん!ミチル、ほら見て」
一人が我輩に気づいて顔を綻ばせた。続いてそばにいたもう一人も振り返り、よく似た口元でパッと笑みを浮かべた。
帽子も眼鏡も着けていない。ファウストではないことを少し残念に思いながらも、気の良い二つの笑顔につられて、心は明るく照らされた。我輩は前足を揃え、声高に応える。
「ごきげんよう。我輩は猫である」
「に、兄様!喋りましたよ!?」
我輩も言葉が通じることにそれなりに違和感を覚えていたのだが、先ほどの四人があまりにも早く受け入れていたため、そういうものなのかと納得しかかっていた。やはり普通のことではないらしい。
目を丸くする少年に対して、兄様と呼ばれた彼はのんびりと頷いた。
「本当だね。こんにちは、猫さん」
こちらもなかなかの許容っぷり。気にするほどのことでもないのかもしれない。
話しをすると彼らは兄弟で、兄がルチル、弟がミチルと言うらしい。始めはおそるおそるだったミチルも、次第に我輩を撫でる手に余裕が出てきた。二人の手は日向のように温かく、優しい手つきも相まって、我輩はとろとろに蕩けた声を何度も上げてしまった。
「ふふ、可愛い」
「それで、猫さんは飼い主さんを探しているわけですね」
「そうなのだ。今のところ第一候補はファウストという魔法使いだ」
ファウストの名前を聞いて、ミチルが顔にパッと笑みを広げる。
「ファウストさんなら、猫の溜まり場にいると思いますよ」
「猫の溜まり場?」
「はい。魔法舎の裏の方で、ここからならあっちの角を曲がって……行ったことないですか?」
「記憶にないな」
単純に忘れてしまっただけかもしれない。我輩はミスラに放り投げられて、かなりの心理的ストレスを感じたらしい。飼い主が誰かということだけでなく、これまでの日々の記憶も抜け落ちているのだから。
ミチルに猫の溜まり場への道順を聞いている間、ルチルが我輩の顔をじっと見つめていることに気がついた。光に透けると金色に輝く髪を指先で耳にかけ、彼は素敵なことを見つけたかのように口角を上げた。
「我輩の顔に何かついているか?」
「いえ。猫さんが知り合いに似ていたものですから」
「知り合いとは?」
「ミスラさんです」
不名誉だ。
「不名誉だ」
思わず声にも出てしまった。
「そうですか?猫さんはミスラさんを知っているんですね」
「我輩を虐待した人物だ」
ええー!と二人は揃って驚いてから、ミチルは妙に納得したような気まずい表情を浮かべ、ルチルは困ったように眉尻を下げて微笑した。優しそうな二人にそんな反応をさせてしまって、我輩も若干気まずい。
……まぁ、良い。飼い主探しを始めたのも、あいつのおかげでもある……かもしれない、のでな」
ぎこちないフォローになってしまったが、二人ともホッとしたように肩の力を緩めたので、良しとしよう。
……不名誉かもしれませんが、確かにミスラさんに似ていますね。毛も赤色だし、眠そうな目も似てる」
「そうそう。ミスラさんが魔法で猫さんになったら、こんな感じになりそうだよね」
い、嫌だ!と叫びそうになるのを、腹に力を入れてグッと堪えた。この話題、広げたくない。
「ところで君たち。ファウスト以外に、我輩の飼い主に心当たりはないか?」
話題の切り替えには成功した。二人は同時に空を見上げて、細く唸り声を漂わせる。よく似た仕草は兄弟らしく、微笑ましい。我輩も真似をして空を仰ぎ見た。
上空を小鳥が気楽に囀りながら通り過ぎる。その影が我輩の鼻先を撫でていく。小鳥は誰にも縛られずに、自らの思うままに飛んでいる。その自由さは眩しくもあったが、羨ましいとは思わなかった。我輩はやはり、飼い主に会いたいのだと、気持ちの居場所がわかったような思いになった。ミスラに言われたからという理由だけでなく、我輩が会いたいのだ。
……誰かが猫を飼っているという話は聞いたことがないですね、兄様」
「そうだね……すみません。お役に立てなくて」
……いや、構わない」
ではファウストのところに向かおうか、と我輩は毛を整えて立ち上がった。ミチルに教えてもらった道順を再確認して、我輩は礼を言う。
「感謝する」
「こちらこそ、お話ができて楽しかったです」
「今度は僕の友達も紹介します。また会いましょう」
陽だまりのような指先にひと撫でしてもらって、我輩は別れを告げた。
ファウストのもとへ一歩踏み出す。背中にはまだ二人の温かな視線が感じられる。
――そういえば、前の賢者様も猫が好きだったね」
風に乗って届いた彼らの声を遠く聞きながら、我輩は走り出した。



シャイロックが言っていたように、ファウストは見れば一目でわかった。帽子に眼鏡という外見的な特徴だけでなく、足元に転がっている猫たちのくつろぎ具合からも、彼が猫好きなファウストだというのが伝わってきた。彼はベンチに座って、横顔に微笑を湛えながら猫たちを眺めている。暗い服装をしているが、恐ろしいような印象は受けない。
我輩が近づくと猫たちの方が警戒し、耳を立てて不審そうな眼差しで出迎えた。
「やぁ、我輩は猫である。あなたがファウストか?」
……ああ、そうだよ」
珍しい奴が来たものだ、と呟いて、ファウストは我輩をまじまじと見つめた。反応が鈍い。圧倒的に第一候補ではあったけれど、これはどうやら飼い主ではないようだと思いつつ、確かめるためにも我輩は問いかけた。
「あなたが我輩の飼い主か?」
「いや、違うな」
はっきりと、言い淀むこともなく彼はそう言い切った。それは清々しいほどにてきぱきとした受け答えで、我輩の胸には残念に思う気持ちよりも、やはりかと腑に落ちる感覚の方が強く残った。これで飼い主探しは振出しに戻ってしまったわけだが。
次の言葉に迷う我輩に、ファウストは風を読むように穏やかに目を伏せた。
「君の飼い主はミスラだろ」
今度はとんでもないことを言い出したな。口の中一杯に綿を詰め込まれたように、我輩の喉の奥から低く短い悲鳴が響く。
「なぜだ?我輩が似ているからか?」
……確かに似ているな」
ふっと彼の口角が僅かに上がった。静謐な微笑みに、我輩は諭されるような心地で、反論を重ねる気にならなかった。
「君に魔法をかけているのがミスラだからだよ」
……我輩に魔法をかけたのはムルのはずだが」
「ムルはその後だ。最初の魔法はミスラだよ。覚えていないのか?」
覚えていない。我輩は何も覚えていないのだ。あの男の腕の中で目覚めたあの瞬間までの日々のことを。
押し黙る我輩に、ファウストは唇をそっと閉じて、手のひらでベンチを指し示した。促されるままにベンチへ飛び乗り、彼の隣に腰かけると、白い手袋をした指先が我輩の首をかりかりと撫でた。
「魔法をかけた理由までは僕にはわからない。直接訊くといいだろう」
……気が進まないな」
「嫌いなのか?」
「我輩を放り投げたからな」
「それも何か理由が……あるといいな。なかったら僕に訴えるといいよ。注意くらいはできる」
ファウストの柔らかな手つきに甘えながら、我輩は自分の体が耳やしっぽの先から冷えていくのを感じた。もう一度あの男に会う不安からなのか、他の要因からなのかはわからない。ただ、ファウストの指から伝わる体温が、より一層貴重なものになっていくように思われた。
「あの男は……ミスラは、我輩に飼い主のもとに行けと言ったのだ。それでも奴が主なのだろうか」
……それならば違うのかもな。主人にも心当たりはないのか?」
そう問われて改めて考えてみる。ここまでに至る様々な出来事を思い出して、記憶の道を辿る。ミスラの手の中で気がついたときよりも前のことは、やはり思い出せない。夕暮れから夜に変わるように、それよりも以前の記憶は光が失われて暗く閉ざされてしまう。手を伸ばしても歩いてみても、何にも触れられない。けれど、暗闇に手のひらをかざせば暖かな気配だけが感じられた。それは漠然とした空気のようなもので、触れたいと思うのに、触れられないのだ。
「思い出せない」
不意に声が震えた。自分でも驚くほど悲痛な囁きだった。我輩は何をそんなに悲しんでいるのだろう。
ファウストはしばらく口を閉ざしてから、我輩から手を離した。彼の手は我輩の冷えた体に唯一熱を送ってくれる存在だったけれど、その手を追おうとは思わなかった。我輩が追うべきは、このぬくもりではない気がしたからだ。
……僕にも思い出せないことがある」
彼は屋敷の窓を遠く眺める。誰かがそこから顔を覗かせるのを待っているかのように、ただじっと見つめている。
「友人のことだ。僕とよくここで猫と触れ合っていた。猫にも好かれていたよ。僕は人間のことが嫌いだけど、彼のことは好ましく思っていた。でも思い出せないんだ。彼の顔も、名前も」
ファウストは小さくため息を吐いてから、我輩へ視線を巡らせ、目を細めた。
……主人がわかったら、僕にも教えてくれ。探すのならば、君だとわかった方がいいかもしれないな。表面だけ魔法を解いておこう」
彼はそう言って呪文を唱えた。我輩には彼の言っていることの意味が半分もわからなかったけれど、魔法を解かれたことで柔らかさを失った毛並みが早くも懐かしい再会を感じさせて、ありがとうと礼が口をついて出ていた。前のも良かったけれど、これもきっと悪くない。
「それでは、行くとしよう」
「ミスラのところか?」
「そうだな。だがもう少し他の可能性を探ってからにする」
……君はやはり、彼に似ているな」
我輩はファウストと、ベンチの下で転がっている猫たちにも別れの挨拶をして、猫の溜り場を後にした。



太陽が傾き始めている。雲の流れが速くなって、澄んだ青空を滑っていく。その流れに乗って足早に中庭を回っていると、窓から外に飛び出したところに戻っていた。ルチルとミチルが干していたシーツが取り込まれて、なくなっている。さて、ここからどうしよう。
ファウストという第一候補がいなくなった今、他に誰がいるだろうか。どうもここの住人ではないようだ。庭師であったり郵便配達員であったり、たまにここを訪れる人物だろうか。そうなるともっと外の世界に出た方が良さそうだが、戻って来られるのか不安ではある。
立ち止まったまま、ああでもないこうでもないと逡巡していると、高く響く靴の音が聞こえた。とりあえず動くしかないと、我輩はその足音を追ってみることにした。
追いかけた先にいたのは、一人の少女だった。白いパーカーと白いズボンに身を包み、明るい茶色の髪が腰のあたりまで伸びて軽やかに揺れている。我輩は扉を開けて屋敷の中へ入ろうとする彼女を急いで呼び止めた。
「ま、待ってくれ!」
我輩の声に気づいて彼女が振り返る。一旦視線の高さを変えないまま辺りを見回して、不思議そうに首を傾げてから下を向いた。そして我輩と目が合うと、それはもう見事な驚きっぷりを披露した。
「ごめんなさい、ごめんなさい!私まだ慣れていなくて」
驚きのあまり尻もちをついた彼女に、我輩がいかに無害であり、敵意は微塵もないのかを一生懸命に説明した結果、今度は謝り倒されてしまった。
「魔法も見慣れてきたと思っていたけど、まだまだだわ……驚かせてしまってごめんなさいね」
「我輩の方こそすまなかった」
これまで出会ってきた魔法使いたちがあまり驚いていなかったため、気軽に声を掛けてしまったが、やはりこうして怖がる者もいるのだろう。我輩は反省し、背筋を伸ばした。
「動いて喋る人形なんて見たことなかったから……ああびっくりした」
ぶつぶつと独り言をこぼす彼女に、我輩は微かな引っ掛かりを覚えた。見たことがあるような気がする。けれどこの反応を見る限り、我輩の飼い主ではないようだ。
「君は、我輩とどこかで会ったことがあるか?」
え?と透明感のあるグレーの瞳がきょとんとする。考えるように宙を見つめてから、彼女は身を起こして地べたに座り直すと、我輩を上から下までじっくりと眺め始めた。
……言われてみると、あなたのことを見たことが……あるような気がするわ」
おお!と期待が心の中で小躍りする。新しい手掛かりを得られるかもしれないし、互いに忘れていただけで、彼女が飼い主である可能性すらある。どのような答えが返ってきたとしても、何かしらの進展にはなるだろう。そう思い、我輩は固唾を呑んで彼女の次の言葉を待った。
しかし――
「思い出した!あなた、ミスラの猫よ!」
胸の中でぱんぱんに膨れ上がった期待が、しゅーしゅーと音を立てて萎んでいくようだ。知っている。もう何度目だ、この展開。
結局元のルートに戻ってしまい肩を落とす我輩とは対照的に、彼女は自信満々に意気揚々と語り出した。
「そうよ!私がこの世界に来た最初の日にあなたを見たのよ!私の部屋に置いてあって、可愛かったから嬉しかったのだけど、ミスラが持って行っちゃったのよ。“これはあなたのものではありません。俺のです。”って言って!」
なんだそれは。もはや言い逃れができない。自分が飼い主だとはっきりと言っているではないか。
「残念だったけど、ミスラは怖いって先に聞いていたから、黙ってあげちゃったのよね。でもこうして魔法で動かすなんて、素敵だわ」
もう彼女の声は我輩の耳には届いていなかった。ミスラが飼い主だとは。呆れる。振り出しに戻るなんてものじゃない。スタート地点がゴールだった。
ではなぜ我輩に飼い主を探せなどと言ったのだ。我輩はふらりと立ち上がると、彼女が屋敷に入ろうとしていた扉へと足を向ける。
「ありがとうお嬢さん。最後にミスラの部屋を教えてくれないか」
「え?えっと、一階の……
我輩は彼女に一礼して、再び屋敷へと足を踏み入れた。



我輩がミスラの部屋の扉の前に辿り着くと、招き入れるように扉が厳かに開いた。夜を先取りしたような薄暗い部屋の中、当のミスラはベッドに横になって、退屈そうに我輩を見下ろしている。そして開口一番にこう言ったのだ。
「戻りましたか」
まるで我輩がここへ来ることがわかっているかのような物言いだった。もう少し親切さと親しさがあれば、そこに「おかえりなさい」が追加されそうなくらいだった。
我輩はベッドの近くまで歩みを進め、そっと腰を下ろす。
「持ち主、居ましたか?」
……お前だと言われたぞ」
「俺?俺じゃないですよ。誰が言ったんです?そんなこと」
「お前がそう言っていたと、娘に聞いたぞ」
「娘……ああ、賢者のことですか。あの人は知らないですから」
我輩は決定的な証拠を出したつもりだったが、ミスラは何ということもないといった風に軽くあしらってしまった。それはもう相手にもされていないような態度で。これまでの程々に長い旅路が思い出される。朝靄のようにそれらは脳裏を漂っていたけれど、ミスラの手のひらで虫のように払われて霧散してしまったような気持ちになった。
それにしても、静かな部屋だ。この世界から切り離されてしまったのではと思えてしまうほどに。おどろおどろしいものも部屋のあちらこちらに散見されるけれど、皆息を潜めるように黙り込んでいて、我輩が何か問いかけようものなら深く深く響き渡ってしまいそうだ。
ミスラは我輩から興味を無くしたように、仰向けになってベッドに身を沈めた。我輩からは彼の高い鼻ばかりが見えて、表情までは窺えない。なぜか疲れた様子の彼は、ため息のような吐息を漏らした。
「あなたの持ち主は前の賢者様ですよ。忘れたんですか?」
ミスラはあっさりと、そう言い放った。
「なっ……
「俺があの人のために買ったんじゃないですか。魔法舎を壊した償いだかなんだか、あの双子に言われて」
絶句する我輩をよそに、ミスラは淡々と続ける。肩透かしもいいところだ。手品の種明かしだって、もう少し勿体ぶってやる。
「我輩の飼い主が誰なのか、知っていたのか」
「当たり前じゃないですか。むしろあなたが忘れていることに驚いていますよ」
さして驚いてもいない口調でミスラはそう言うので、呆れも相まって、足元の絨毯から吸い取られるように体から力が抜けて行った。飼い主がわからないという不安を抱き続けていたからか、怒りよりも、「なんだそうだったのか」という安堵の方が大きかった。それにしてもまったく、なんて無茶苦茶な奴だ。
「あなたなら見つけられるかもしれないと思ったのに、忘れているなんて、期待外れですよ」
「お前の説明不足が原因なところもあるだろう」
遠慮することもないかと、我輩はミスラのベッドに飛び乗った。ミスラは今にも寝てしまいそうな眠たげな瞳で我輩を一瞥したが、再び放り投げるようなことはしなかった。ただ静かに我輩の存在を受け入れた。
「マエノケンジャサマ、というのが我輩の飼い主の名前なのか?」
「は?違いますよ……名前は、俺にもわかりません」
わからないとは。ミスラと話していると、疑問が次々に湧いてくる。そういえばファウストも似たようなことを言っていた。顔も名前も思い出せない友人がいると。ここの住人は記憶喪失が多いのか?と問うと、「まぁそうですね」とミスラは答えた。そして、独り言のようにぽつりと続ける。
「俺が魔法をかけたから、あなたも忘れているのかもしれませんね」
「なぜ我輩に魔法をかけたのだ?どのような魔法だ?」
……あなた、全然わかってないじゃないですか」
ミスラは呆れの色の強いため息を吐き、体を横にした。ベッドが大きく揺れて、我輩は危うく転がり落ちそうになる。我輩の悲鳴を彼は気にせずに片手で頭を抱え、我輩の方を見た。初めてちゃんと目が合ったような気がした。
「自分が何者かわかりますか?」
ミスラの問いに、我輩は胸を張る。
「我輩は猫である」
……間違いではありませんが、あなたは木彫りの猫ですよ。俺が動けるようにしました」
「ほぅ」
ミスラの説明を受けても、間の抜けた相槌しか出てこなかった。我輩は意識が芽生えたときから猫だったのであるから当然だ。とは言え、ムルの魔法で駆動が滑らかになったが、依然として我輩のゴツゴツとした体から立ちのぼる森林の清らかな香り。そう明言されてしまえば、否定はできないようだ。
「あなたはいつも賢者様の机に居ましたよ」
我輩の記憶にないことを、ミスラはつらつらと語る。
「何か書いている賢者様の隣にずっと居たじゃないですか。あなたはあの人が選んだものですし、よく撫でてもらっていたので、俺より可愛がられていたんじゃないですか」
我輩はその情景を頭の中に思い描いてみる。我輩のそばに誰かがいる。我輩に笑いかけて、優しく撫でてくれる。その表情も顔も思い出せないのに、記憶の中の暗闇に問いかけてみると、仄かに何かが返って来る。それは光であったり気配であったり、温度であったりする。あの頃の、我輩と飼い主の間にあった、大切なものたち。
「俺がいくら賢者様のところに扉を繋げようとしても無理だったので、やり方を変えれば何か手がかりを掴めるかと思いましたが、駄目でしたね。俺にもわからなくて、あなたにもわからないのなら……
ミスラの薄い唇がすっと閉じられた。次の言葉を口にするのを、躊躇うかのように。
我輩は彼の代わりに、おそるおそる口にした。
「飼い主には、もう会えないのか?」
「そうですね」
意外にもミスラは、あっさりとそう返した。ぼんやりとしていたものに、名前がついたように。彼の中にも、一つの事実が舞い降りたかのように。我輩の今日の旅路に、終着点ができたように。
「そうか」
口にしてしまえば、それまでだった。空虚な記憶の穴を風が通り抜ける。体も手のひらも、心も冷えて仕方がない。顔もわからない誰かに、会えないとわかっただけなのに。
「そうなのだな」
自分に言い聞かせるように言葉を重ねた。その儚い空気の揺れが、我輩の胸を震わせる。温かさを求めるようにミスラの体に前足で触れてみたけれど、彼の体も我輩と同じように冷えていた。ミスラは我輩と違って生きているはずなのに。我輩に命が欠けているように、彼の中にも欠けているものがあるのかもしれないと思った。その欠けたものは、とても温かなものだったのだろう。
なぜ会えないのか。なぜ忘れてしまったのか。ミスラに問いかけても明確な答えは得られなかった。彼も理由を知らないようだった。ただ、彼にも答えられることが全くないわけでもなかった。
「あの人は、変わった人でしたよ」
そう言って、ミスラは目を細めた。
「すぐ死にそうなくらい弱いくせして、たまに無茶をしていましたし、俺の睡眠が何よりの重要事項なのに、勝手に任務を優先していましたし、しょっちゅう俺より先に寝ていました。北の国に連れて行ったら、よく雪にはまって遊んでいましたね。変な人だったなぁ」
この男に変だと言われるとは、我輩の飼い主はどんな人物だったのだ。聞けば聞くほどわからなくなったけれど、ミスラはどこか楽しそうに話していて、その声は触り良く我輩の耳に届いた。
「あげると何でも喜ぶので、色々なものをあげましたが、全て置いて行ってしまいました。あなたもその一つですよ」
……我輩は不要になったのだろうか」
「さぁ……そうなると俺もいらないものだったみたいじゃないですか。嫌な言い方だな」
ミスラは再び仰向けに寝転ぶと、沈黙に身を浸した。我輩もベッドの上に体全体を沈めて、ゆったりと息を吐く。ミスラの髪がふわふわと耳に触れた。
……あなたは愛されていましたよ」
ミスラはぽつりとそう呟いた。相変わらず淡々と語っているのに、その声は穏やかな響きをもって、我輩に降り注ぐ。
「愛されているあなたを見るのは、なんだか、嬉しかったです」
そうか、と、我輩はベッドに突っ伏したまま口元で微笑んだ。なんとなくそれだけで、救われたような気がした。
……疲れたな」
「そうですね」
飼い主に会えないとわかると、今日の疲労がどっと襲ってきた。あるはずだと信じていたものを失って、拠り所を無くした体はベッドに重く倒れ伏すのみだ。もう一歩も動けそうにない。もう動く必要もなくなってしまったのだけれど。
……会いたかったな」
「そうですね」
体の表面が硬くなっていくのをじわじわと感じる。この部屋の冷えた空気が触れたところから氷に変えられていくようだった。ミスラが魔法を解こうとしているのか、役目を失って自然と魔法が解けていっているのかわからないが、もう動けなくなるのだろうということは理解できた。
――我輩が動いているところを彼が見たら、きっと喜んだだろうに。
まどろむように揺れる意識の中で、我輩はふとそんなことを思った。それが何を意味しているのかも、よくわからなくなっていたが、なぜだか無性に悲しかった。
我輩が黙ってしまったのを不思議に思ったのか、ミスラがこちらに顔を向けた。顔見知りであった我輩を放り投げた薄情な男という認識だったのに、今は彼のことが哀れだった。
記憶が残っている彼は、今どんな気持ちなのだろう。記憶のない我輩がこんなにも会いたいと思っているのに、彼の願いはどれほどか。そしてそれが叶わないとわかったとき、途方もないほどの悲しみが胸に巣食うのではないか。
せめて、彼にも救いがあればいい。何かできることはないだろうか。
不鮮明になっていく意識の中で、我輩は先ほどミスラにかけてもらった言葉を思い出した。あなたは愛されていましたよ、という言葉を。
……お前、も…………ていた……う」
“お前も愛されていたのだろう?”と言いたいのに、硬さを増した口元は上手く動かなかった。これでは届かないともどかしく思ったところで、ミスラが口を開いた。
「ええ、俺はあの人を愛しているので、諦めませんよ」
そう、淀みなく言い切った。胸がすっとするほど、はっきりと。
思わず笑ってしまった。もう声にはならなかったけれど、可笑しくて喉を鳴らした。そうだ、そうだった。こういう奴だった。
あの頃から、我輩はミスラのことがいけ好かなかったのだ。こんな風に飼い主を強欲に独り占めしてしまうところが、羨ましかったのだ。
けれど、それさえも今は頼もしく思える。彼ならば、本当に我輩を飼い主と再会させてくれるだろうと思えた。
それならば、別れの言葉は不要だろう。微笑みを口元に残したまま、再び目覚めるときを夢見て、我輩はそっと目を閉じた。