木綿子
2026-01-16 20:49:54
9420文字
Public 👹(義炭)
 

【アンソロ寄稿サンプル】東雲に、愛色そめて花となれ

義炭アンソロジー「狐福に溺愛」へ寄稿作品サンプルです。
アンソロジー情報は下記Xアカウントをご確認ください。よろしくお願いいたします。
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 酉の刻、あーあーあーと烏の声。
 西へと傾き始めた日の光が、鰯雲を黄金色に染めている。薄青い空に描かれた錦のようだ。ずっしり重い車輪の音を深まりつつある秋の風が掬い上げ、草木の隙間へ流していく。
 きしきしごとごと、さらさらざわざわ。
 足音は二人分。さくさくほてほて、軽い音。
 細い細い切り通しを抜けた先、草むらを緩くうねる蛇腹のような起伏の向こうには、遠目にもまだまだ緑の濃い小山があった。鎮守の森だろうか。所々色が変わり始めた部分はあるものの、ふんわりこんもり丸く茂った枝葉の様子が抹茶餡の餅に見える。美味しそうな景観に、炭治郎は思わず風の匂いを嗅いだ。
 土の匂いと草の匂い。それから、ほんのりと甘く清らかな水の匂いがした。
「禰豆子、今夜はあの森の中にしよう。もう少し頑張れそうか?」
「大丈夫。起伏も少ないし、余裕で行けるよ」
 大八車を曳く、結い上げた長い髪を姐さん被りの手拭いで隠した妹は元気いっぱいだ。息遣いも足取りもしっかりしたものである。本当に大丈夫そうだと安心して、炭治郎は屋台の担ぎ棒を握り直した。首から伝わる振動で、一つに括った髪が揺れ、耳に下げた飾りがからりと鳴った。
 仕事場は、たくさんの人が住む町から遠すぎず、程よく姿を隠せる所がいい。使える水場があれば更にいい。少しずつ近付いてくる森は、良い条件が揃っていそうな気配がした。
 炭治郎と禰豆子は、実の兄妹である。本性は狸。人ではない。妖の類だ。
 けれど今は、人の世の人の道を歩いている。故に姿かたちも人そのもの。耳も尻尾も毛皮もない。変化の技を使えば、全く違和なく人になる。大抵の妖はそうして姿を変えて津々浦々に紛れ込む。変化は、妖の子供が必ず最初に覚える技だ。炭治郎と禰豆子も、物心ついてすぐ父から教え込まれた。
 兄弟であるがゆえに、二人はよく似ている。人でも、狸でも。変化の技は幻術ではない。生まれた姿と同じように、変化の姿も決まっている。親兄弟はどんな姿でもどこか似通うもの。炭治郎は父寄りで禰豆子は母寄りの面差しではあるが、毛色や模様は似通っているし、鼻の形などそっくりだ。
「今夜は雨は降らないかな? 昨日は昼間はよく晴れてたのに、夜になったら一晩中降ってたから」
「雨の匂いはしないけど、よく茂った森だから、多少は降っても大丈夫そうだ」
「やっぱり、木がある所はいいよね」
 故郷の山を思い出してか、禰豆子がにこにこしながら言う。
「うん。問題なさそうだったら、しばらくこの森で仕事するのがいいかもしれないな」
「お社があるなら、御伺いを立ててみようよ」
「どなたかがいるお社ならいいけど。あと、お客さんも」
 炭治郎と禰豆子の生計は、主に屋台。時々棒手振り。売り物はその時々で変えていて、煮売り屋の時もあれば団子屋の時もある。
 今日は蕎麦屋だ。今年最後の夏蕎麦が手に入ったから、これを売り切る予定だった。秋の新蕎麦はもう一月ほど待たねば出回らないので、売り切り御免でしばらく蕎麦屋は閉店となる。
 炭治郎と禰豆子の屋台、とりわけ蕎麦屋は客受けがいい。炭治郎が打つ湯練り蕎麦そのものの味は元より、担ぎ屋台ではあるものの一緒にお菜や天麩羅を注文できるのがいい、と言われることが多い。今日も禰豆子が曳く大八車には、そういった副菜の材料をもりもりと積んでいた。そのせいで大分重量があるのだが、妹はにこにこしながら軽々と歩いているので、なかなか逞しい。たおやかで器量よしな見た目に似合わず、意外と肉体派なのだ。
(今日もたくさん、稼がないと)
 目下、炭治郎の目標は金二十両の貯金である。二十両に及ばずとも、できるだけ多く。それを全部、禰豆子の持参金にする予定だ。
 禰豆子は次の春に嫁入りが決まっていた。嫁入り先は炭治郎の親友でもある、吾妻善逸。婿側は「俺と炭治郎の仲なんだし、持参金とかそういうのどうでもいいから嫁入り早く!」と会うたび言ってくるのだが、嫁の兄としてはそうはいかない。友だからこそきっちりさせたい。そもそも、先にきっちり結納金を寄越してきたのは善逸の方である。ならばきっちり嫁入り道具と持参金をたんまり持たせるのが筋と言うものだ。
 炭治郎の頑固さをよく知っている妹は、苦笑いしながら「無理はしないでね」とだけ言って決して「いらない」とは言わない。その代わり、これまでと同じように炭治郎と一緒に張り切って働いてくれていた。
(祝言が終わったら、おれ一人になるんだもんなぁ。ちょっと寂しい)
 妹の婚家に世話になるわけにはいかない。嫁の兄など、とんだお荷物だ。例え新郎新婦が是としたって、炭治郎は是としない。言語道断である。それに、一人になったって大した問題はない。一人分の食い扶持を稼ぐくらいなら、訳もないことだ。家族が隣にいない寂しさも、いずれは時薬が癒してくれるだろう。これまでと、同じように。
 こうして商売道具を担いで二人で歩いた記憶を、しっかり覚えておけばいい。
 あーあーあーと烏がまた鳴く。東側の草むらには、まだ色の浅い実をつけた柿の木が。色付く頃にまたこの道を通ろうかと、思い出ついでに記憶に刻んだ。
 抹茶餡の端っこに辿り着いたのは、空の錦が藍染になり始めた頃だった。秋の日は釣瓶落とし、あっという間に暗くなる。けれど物の怪は夜目が効く。歩くだけなら、明かりはいらない。鬱蒼と茂った森の道を、二人は臆することなくぎしぎしほてほて歩いて行った。
 やんわりとした上り坂。台地のような小山はみっしりと樹木に覆われていた。昨夜の雨で湿った道は雑草だらけで轍はなく、人の気配も全くない。草の隙間に時折青いどんぐりが散らばっており、見れば楢や樫の大木がそこかしこに生えていた。
 うねり、うねり、緩やかな曲道。時々苔むした石畳や石塔が顔を覗かせる。さあさあ鳴るのは小さな滝。大八車がやっと通れる幅の石橋が、滝から続く小川に架かっていた。薄暗がりの中、二人で慎重に橋を渡り更に道を辿っていくと、少しだけ開けた場所に出た。
 ぽつりぽつりと朽ちかけた灯篭が並ぶ、細い参道。脇には小さな平地があり、こちらも灯篭がいくつか並んでいるようだ。神楽台の跡地だろうか。参道の先にはこれまた苔に覆われ蔦が絡まる石の鳥居と、細く長い九十九折りのごつごつとした石階段。階段は途中で大きな根に遮られ、先に何があるのかは見えない。
 炭治郎が三人束になったくらいの巨大な根は、欅のようだ。根だけではなく、別の樹木も絡みついている。ぎっちりと波のように幾重にも重なる木肌は、恐らく藤だろう。根から続いている幹は、三人の炭治郎どころではなく小さな家ならすっぽり収まりそうな太さである。大層立派な欅だ。風が吹けば、ざぁざわわざぁざわわと音が重なり、枝葉が海原のようにゆったりと揺れていた。
「すごい木だなぁ」
「なんだか森の屋根みたい。苔苔だけど、お社はありそうな感じ」
「誰かいらっしゃるかな? ちょっと見てくる」
「うん。あ、お兄ちゃん、髪の毛解けかかってない? 直そうか」
「ああ、頼む。ありがとう」
 移動の間に緩んだ髪を、妹に頭の後ろで結い直してもらい、炭治郎はすっきりとした首の後ろを右手で撫でた。何がいるのかわからないが、身だしなみは整えておいた方が無難だろう。
「じゃあ、わたしはここで開店準備しておくね」
 鳥居の前で荷物を禰豆子に任せ、炭治郎は一人で石の階段を上り始めた。社があるなら主がいるはずで、軒先で商売させてもらうなら挨拶が必要だ。
 これまでの道と同じく、石階段は全体的に元気な苔で緑色だった。多少の行き来があるのか、真ん中辺りは所々緑色が剥げていた。ただし、石と石の隙間からは羊歯が力強く生え、かなり野趣溢れる景色になっている。気を抜くと滑って転んでしまいそうだ。炭治郎は慎重に歩を進めた。
 丁度振り返っても妹の姿が見えなくなった辺りで、踊り場のような少し開けた場所に出た。枝の途切れ目なのか薄っすらと明るく、星の散らばる夜空が見える。元は石畳だったと思しき地面で好き放題に成長した雑草の向こうには、二階建ての小屋が一軒建っていた。かつては水茶屋でもやっていたのだろうか、瓦屋根にかかる朽ちかけた看板の掠れた墨文字は「雨月堂」と読めた。小屋のすぐ脇には滔々と水が湧き出る泉がある。きれいな匂いの水だ。黒々とした水際をよく見ると水汲みできそうな石段があり、そのまま緩やかな流れの水路になっている。どうやら先ほど通った滝に続いているらしく、落水の音が微かに聴こえた。
 まだ上に上る階段がある。草を掻き分け見上げれば、小さな鳥居に続いていた。鳥居の向こうは、欅の幹。屋根を支える柱のような幹と根の隙間に、背景に溶けてなくなりそうな社があった。
 大きさは、お地蔵様がお二人入るくらい。蝶番が壊れたのか、扉は少し歪んでいる。屋根の色は元は青色だったようだが、苔が浸食しているせいで斑な緑色だ。やや傾いた軒下には精緻な龍の彫刻があり、社としては大層立派な造りである。けれど、見るからに手入れはされていない。
 辺りに人の気配はなく、けれど嫌な気配もなかった。大抵こういう朽ちかけた社の周りは雰囲気が悪く、社の主も荒魂になりかけていることが多いのだが、そういうことはなさそうだ。逆にしんと冷たい清澄な空気に包まれている。見た目にそぐわない清らな匂いが不思議で、炭治郎は赤い瞳をぱちぱちと瞬いた。
 不思議ではあっても、何事もなく商売ができるならそれに越したことはない。この社に主がいるのかいないのかわからないが、ひとまず作法通りに手を合わせた。
「すみません、下の鳥居前をちょっと間借りさせてもらいます。ご迷惑なことがありましたらお知らせください」
 よろしくお願いします、と頭を下げ、来た道を戻る頃にはもう、森は宵闇の暗さに包まれていた。屋台の隣では禰豆子がすっかり準備を整えていてくれている。近くにあった石と土で作ったのだろう焚火炉で、天麩羅用の銅鍋が温められていた。
「お兄ちゃん、どうだった? どなたかいらした?」
「いや、いなさそうだった。一応お社にご挨拶はしておいたけど、どうだろうなあ。何かあったらすぐ店仕舞いして移動しよう。あと、この上で水が汲めそうだ。いい匂いの湧き水だから、たぶんそのまま飲める」
「やった! お水あるの助かる!」
 禰豆子の大八車には、たっぷり満たされた水桶も積んでいる。これが結構な重量で、しかも現地調達できなければ極限まで節約しなければならないのだ。供給源があるのはありがたい。何しろ今日は蕎麦屋だ。殊更に水が必須である。
 左手に空いた水桶を一つ抱えてもう一度階段を上り、さっきの泉で水を汲んだ。虫や蛭はいない。注意深く匂いを確かめ、一口飲んでみるとやさしい甘さがあった。やわらかく、いい水だ。これで酒を仕込めばきっと旨いに違いない。匂いの通りきれいな水は、屋台に持ち帰ると禰豆子が熾した炭火を映してきらきら光った。
 釜の湯が温まれば、開店時間だ。
 担ぎ屋台の行灯看板に火を入れる。菜種油はなかなか値が張るが、魚油では臭くていけない。妖の好みは人に似ていて、人よりももっと匂いに敏感だ。市松模様の屋根から下げた風鈴が、秋風に揺られてちりんと鳴った。
 人が使うものと同じ見た目の屋台であっても、機能は人のそれとは少し違う。看板に火を入れた屋台は、もう人には見えない。橙色の光が届くところまで、簡易の結界になる。稀に人が紛れ込むこともあるが、この人気のない森の中ではその心配もなさそうだった。
「やあやあ、蕎麦屋かい。一杯おくれよ」
 最初のお客は、穴熊だ。気のよさそうな初老の男は、かけ蕎麦の上に牛蒡と菊の葉の天麩羅を載せ、組み立てた床几に腰かけてうまそうに蕎麦を啜った。
 その音を聞きつけたのか、次にやってきたのは貂の夫婦。細身の男女はかけ蕎麦一つに大海老天。さっと食べきり満足そうに帰った後には、河童の兄弟。水で〆た蕎麦を塩で食べ、三年漬けの奈良漬を「うまいうまい」と頬張った。
 辺りには蕎麦と油と味噌の匂いがぷんわり漂い、木々の間に流れていく。その匂いに引き寄せられるのか、行列ができる程ではないものの客足は途切れない。どうやらこの森は、妖たちの通り道でもあるようだ。立ち寄る客は、旅装が多い。蕎麦とお菜で腹ごしらえし、それぞれの目的地へと去っていく。その際、旅人たちは必ず階段上のお社へ手を合わせているようだった。
「だってここは鬼狩り様の森だもの」
 里芋の煮ころがしをむちむちしていたツチノコが、不思議がる炭治郎にさも当然という風情でそう言った。
「鬼狩り様?」
「そそそ。あれ、ここへ来るのは初めてかい?」
「はい、そうなんです。いつもはもっと南で街道沿いに店を出してて」
 なるほどなるほど、と呟きながら、ツチノコは首をゆっくり大きく縦に振った。
「じゃあ知らんのも無理ないかぁ。鬼狩り様は呼び名の通り、鬼をやっつけてくれるのさ。だからここみたいなお社は、お参りするだけでも結構なご利益があるんよ。最近物騒なもんだから、みんな安全祈願しとる。ついこないだも町で鬼が出たって話だし」
「鬼、ですか」
「結構な数、食われたらしくてねえ。町の人間たちも大騒ぎだったそうだよ。あいつら、人も妖も見境なしなもんだから」
「そりゃあ大変だ。目をつけられたら、逃げるのは難しいですもんね。しつこく追っかけてくるし」
「おや、鬼に出会ったことがあるんかい?」
「はい。ずっと昔に。おれたちは運よく逃げられたんです」
「あんれまあ。随分な強運持ちだ」
 むぐむぐ煮ころがしを平らげたツチノコは、「ごちそうさん」と立ち上がる。
「まあこの森なら鬼は来んし、屋台をやるにはいい場所だあな。明日もいるかい?」
「はい。ああでも、蕎麦は今日で終わりで」
「そりゃ残念。そんなら、お菜はやるかい? 煮ころがしが旨かったから、また食いたいねえ」
「じゃあ明日は煮売屋になりますね」
 「また明日」と言い残し、ツチノコがするする羊歯の間に消えていくと、辺りは途端に静かになった。
 客の途切れた丑三つ時。ぱちんぱちんと炭の爆ぜる音だけが響いている。火を弱めた天麩羅鍋は、禰豆子がきれいに天かすを掬って気泡もなく、ゆったり凪いで静かになった。
 担ぎ屋台の抽斗は空からだ。蕎麦は残り一玉のみ。禰豆子のお菜も好評で、今日の稼ぎは十分だ。二人で夜食替わりに残り物を片付けて、焚火炉の火を落としてしまってもいいかもしれない。海老が何尾か残っているから、全部揚げてしまおうか。
「もう夜はだいぶ冷えるね」
 桶で丼を濯いだ禰豆子が、両手をにぎにぎしていた。火の前にいるとそうでもないが、水に浸した妹の指先が冷たい。働き者の手をさすり、炭治郎は「蕎麦湯を飲もう」と椀を出した。
 ほわりほわり、茹で釜と同じ湯気が手元から立ち上る。木の椀に満たした蕎麦湯はもったり重く、いい味だ。とろとろ美味しく温まる。蕎麦の香りも、とてもいい。
 二人で客のいない床几に腰かけて、頭上に広がる森天井を眺めた。空気は冷たいが爽やかで、危険な匂いはちらともしない。ツチノコの言う通り、商売するにはもってこいの場所である。
「今日は売り上げも上々だ。もう店仕舞いにして、余った天麩羅は食べちゃうか」
「悪くなりそうなの、海老と紅鮭かな。でもほとんど売れちゃったから、全部揚げちゃってもいいかも。お兄ちゃん、かき揚げ好きだよね」
「豪華な夕飯になるなあ」
「たまにはいいんじゃない?」
 手際よく、禰豆子が油に海老を泳がせた。温め直した銅鍋で、ちゅんちゅんしゅわわと泡が立つ。鍋の油は椿油。町中では贅沢品だが、今鍋にあるのは炭治郎が絞った油だ。街道から少し離れた海岸沿いの、およそ人が立ち入らない絶壁が藪椿の群生地で、毎年収穫しに行っている。油を搾るのは重労働で骨が折れるが、その分味わいは大変いい。ついでに禰豆子の髪艶もよくなるので一石二鳥だ。
 風が吹く。風鈴が揺れる。ちりちり、ちりん、びいどろが奏でる涼やかな音が木立の間に吸い込まれ、すうっと水の匂いを運んできた。鼻の奥がひんやりして、炭治郎は天麩羅を世話する禰豆子の箸先から視線を上げた。
 音もなく、空気が動く。行灯看板の光の輪に、誰かの足先が現れた。鮮やかな露草色の鼻緒に、墨染め足袋。濡羽色の脚絆で締められた深藍の袴。同じ深藍の半着に鮮やかに映える青の半襟。腰に垣間見えるは刀の柄。羽織は不思議な片身替わり。右が小豆、左が亀甲。一つに結わえた黒髪に、ぴんと真上へ伸びる獣の耳。
 銀狐だ。
 長い前髪の隙間から、橙色の灯りを映すは深い青。黒々とした虹彩は、底が遠い海のようだ。深く深く、凪いでいる。吸い込まれそうなその色合いに、炭治郎は瞬間、息を忘れた。
「お兄ちゃん、お客さんみたい」
 禰豆子の声に、我に返る。ひゅっと空気を吸うと、また水の香りがした。
「いらっしゃい。かけ蕎麦の他に、お菜と天麩羅がありますよ。天麩羅は海老と紅鮭とかき揚げ、お菜は煮ころがしときんぴら牛蒡、鰯の鮓煮と奈良漬けが。あ、油煤豆腐と田楽もできますね」
 蕎麦湯の椀を脇に寄せ、ささっと立ち上がった炭治郎に、狐の黒い三角耳がぴこりと向く。
……蕎麦と、天麩羅を。鮭とかき揚げがいい。いくらになる?」
 硬質で低めの、けれど芯がやわらかな声音。やたらと鼓膜に心地よく、炭治郎の耳もぴこりと動きそうになる。代わりに耳朶から下げた飾りが、からりと鳴った。
「ええと、四十八文です」
「では、これで」
 四文銭を十二枚。受け取った銭貨は、温かい。狐の懐の温度だ。確かめて銭入れに仕舞い、炭治郎は「毎度あり」と微笑んだ。これで蕎麦は完売だ。
 最後の蕎麦を釜に入れ、いい塩梅で引き上げる。水で〆て汁をかけ、丼を差し出すとすかさず禰豆子が天麩羅を載せた。注文にはない、海老天も。恐らく本日最後の客だから、完売御礼おまけである。
「海老はお好きですか? 今日の余り物なので、よかったらどうぞ。おまけです」
「そうか。ありがたく頂こう」
 蕎麦を受け取る狐の所作は、どことなく上品だった。腰に刀があることから、どこかの宮の剣士だろうか。揺るぎなく強そうな雰囲気がある。刀以外に荷物はなく、旅人ではなさそうだ。
(それに、耳だけずっと出てるの、すごいな)
 炭治郎が知る限り、この狐のように一部だけ本性にしている妖は、相当の熟達者だ。変化は子供が習得する技であるものの、身体の部位で分けることは難しい。繊細な力加減が必要で、炭治郎もやろうと思えばできなくはないが、長時間は遠慮したい。気を抜くと人か狸かのどちらかにすぐ寄ってしまうから、積極的にやろうとは思わない。それなのに、この狐は艶々した毛並みの耳を涼しい面差しで維持していて、もしやとても簡単な技なのではないか、と錯覚しそうになるくらいだ。
 銀狐は床几に腰かけ、静かに蕎麦を啜っていた。食べ方もきれいだ。するする啜り、もぐもぐ噛み締め、時折むちむちかき揚げを。たっぷり衣の天麩羅は、汁を吸うとふわふわになる。美味しくて食べ応えがあるので炭治郎も大好きだ。黙々と箸を進める狐の三角耳が小さくぴこぴこ動くのが、持ち主の見た目とそぐわずなんとも可愛らしい。
……馳走になった」
 蕎麦と天麩羅はすいすい狐の口へ消えていき、返された丼はつるりときれいだった。衣の欠片も残っていない。客に残さず食べてもらえるのは嬉しいものだ。炭治郎は丼を受け取りつつ微笑んだ。
「お口に合ったんならよかったです」
「明日も来るのか?」
「はい。蕎麦はお客さんのが最後だったんで、明日は煮売屋ですけど。この辺は旅の方が多いみたいですから、お弁当も売るかもしれません」
「そうか。米を炊くなら、その焚火炉はそのまま竈にするといい」
……ここの主さんに、怒られませんかね?」
「竈の一つや二つ、問題ないだろう」
 音もなく、狐が立ち上がる。ここへ現れたときもそうだが、この黒い狐の動作はどれもこれも酷く静かだ。歩くときも、食べるときも、すいと刀の位置を正すときも。
「では、また明日」
「あ、はい。お待ちしてます」
 さっきのツチノコと同じことを言い残し、狐はするりと宵闇へ溶けた。やっぱり静かで羊歯の葉はこそりともせず、幻の如く気配も消える。さながら、一滴の水が川の流れに落ちたかのようだった。ついさっきまで座って蕎麦を食べていたのが嘘みたいだ。兄妹は顔を見合わせ「なんだか化かされたみたいだねぇ」と笑い合った。なんとなく銭入れを確かめてしまったが、木の葉は入っていなかった。
 帰りの大八車は随分と軽い。蕎麦は売り切り、お菜も残りは少ない。天麩羅は残り物を全部揚げ切り、僅かに残った衣は薄焼きにしてしまった。これは明日の朝餉になる。残ったお菜を巻いて食べるのだ。
 床几は焚火炉の側にそのまま置かせてもらったから、仕事終わりの妹も来た時と同じく軽々歩を進めていた。この調子なら、夜が明ける頃には住処に帰られそうだ。
「今日、お客さんいっぱいだったね」
「うん。明日もいっぱい来てくれるといいなあ」
「少なくとも二人は来るよ。ツチノコさんと狐さん!」
「里芋はまだあったよな。あとは何か魚でも……後で簗を見に行ってくる」
「鮭、今日もかかってるかな」
「はららごが獲れたら、半分は醤油漬けにしよう」
「子持ち鮭、獲れてますように!」
 鮭の卵は塩漬けにして保存するのが常ではあるが、生のまま醤油漬けで食べるのが兄妹揃って大好きだった。当然日持ちはしないので、滅多に食べられない贅沢品。昔は季節になると弟たちを連れて鮭を獲りに出かけたものだ。
「秋はおいしいものいっぱいだねえ」
「松茸も採りに行こうか。そろそろ香り始める頃だから」
「いいね! ついでに他の茸も見つけられたらいいな。お兄ちゃん、茸狩り得意だもんね」
 禰豆子の声が弾む。茸は見分けが難しいものだが、炭治郎が間違うことはまずない。
 昔、家族から「お前の鼻は特別製だね」とよく言われた。そのくらい、匂いを嗅ぎ分けることが得意だった。
 山の匂いも、茸の匂いも、心の匂いも。
 嗅覚が優れた妖は数あれど、心の機微までを嗅ぎ分ける炭治郎はかなり特殊な部類に入るだろう。強い感情の匂いは、意図せず嗅ぎ取ってしまうこともある。ただし、口にすることは滅多にない。ろくなことにならないことが多いからだ。だから己の鼻のことを誰かに話すこともない。今は、知っているのは妹と、少数の親しい者だけだった。
 だが、実生活では「ものの匂いがよくわかる」というのは大変助かる。食材探しや、それ以外でも。薬になるような茸は結構な収入源になり、貯金も捗る。
「栗拾いにも行かなくちゃ」
「甘藷も少し掘ってみよう」
 和気藹々と秋の味覚を口にしながら、二つの影は家路を急ぐ。軽くなった荷物で足取りも軽く、薄っすらと明るくなり始めた澄んだ空に、笑う狸たちの声が吸い込まれていく。
 今日は、きれいな快晴になるだろう。