ugatuno
2026-01-23 19:00:00
1863文字
Public 二次小説
 

その心臓は世界のかたち 27話(第一章完)



 *

底もない。天井もない。
ただ、沈み続けている感覚だけが、身体を包んでいた。
それが、痛みも温もりも奪ってくれる。
息をする必要も、考える必要もない。
……ようやく、静かになれた。

 *

世界は、音を拒絶していた。
青でも黒でもない、ただの静けさが広がっている。
何かを踏んでも沈まず、触れても感触がない。
それでも、確かに水のような重みが空気に満ちていた。

……チッ、どいつもこいつもクソみたいに静まり返りやがって。
 ……安らかに眠ってますってか?
 こちとら寝不足なんだよ、……起きろバカ」

ミケッティオは、足音のない世界を歩く。
吐いた息が泡になって浮かび、かすかに心臓の鼓動みたいに弾けた。

——見つけた。

遠く、漂う影。
体を折りたたむように沈んでいるジンペイ。
髪が水草みたいに揺れて、目は開いているのに、何も映していない。

「ここ、気に入ってんのか」
……楽だよな。何も聞こえねぇし、何も感じねぇ」

 *

——何もない。
動く理由も、戻る理由もない。
水でも光でもない何かが、全身に貼りついている。
息をする理由が、どこにもなかった。

 *

……“もう頑張らなくていい”なんて、誰が言ったんだ?」
一歩、近づく。
……お前がそれ言うと、マジで腹立つんだよ」

声が沈む。
それでも、ジンペイの髪が一瞬だけ、揺れた。
風も波もないのに。

ミケッティオは目を細めた。
……動いたな」
彼の声に、ほんのわずかだけ、空気が震えた。
その揺れを、ミケッティオは見逃さなかった。
……ほら、聞こえてんだろ。逃げんな」
 
 *

ざらざらとした、でも冷たくない紙の感触。
……呼べばいい。
そんな言葉を、どこかで聞いた気がする。

何も変わらない。
でも、胸の奥が一瞬だけ重くなった。
その重さが、まだここに心臓がある証拠みたいで、少しだけ腹が立った。

 *

……ベッドの横、なんかごちゃごちゃ知らねぇもんが置いてあった」
「誰が置いたかなんざ興味ねぇけどよ」
……チッ……それ見りゃ、わかんだろ。“お前のこと、まだ待ってるやつがいる”ってよ」

 *

隣に座った、ぶっきらぼうな気配。
背中を見送ったときの視線の高さ。
叱られる前、少しだけ笑ったような空気。
ふわりと、一瞬、柔らかな香りが漂った。

……さっきまで、何も感じなかったはずなのに。
なんでこんなに胸が重いんだろう。

 *

 「……それでも寝てんのかよ。目ぇ開けて、何も見ねぇのかよ」
ミケッティオは、声を落とした。
叫びではなく、吐き捨てに近い。

 *

『今は、生きろ』
誰かの声が響いた。
淡々と話して、出て行った背中を見送った。
でも、寂しさはなかった。

かすかな泡が、水の中に溶けて消える——
息が詰まった気がして、
指先を何かに向かって動かした。
触れたのは、水でも空気でもなく、あたたかいものだった。
形は思い出せない。けれど、そのぬくもりだけが確かに残っていた。
……誰の手だったか考える前に、熱が胸の奥へ沈んでいった。

 *

「くだらねぇと思ってた。
 ベラベラ喋ってる連中も、お前を心配してるフリしてる奴も」

その言葉は空間に溶けていき、苦い味だけが残った。
だから舌打ちのように、短く――

「でも、俺も……俺は何かしてねぇと、落ち着かねぇんだよ」
 ミケッティオの顔に、ほんの一瞬だけ素が混じる——それは薄い苛立ちと、拗ねの混ざった表情だ。

……おい、ジンペイ。
 お前が平気だって言ってた時の顔、今でもムカつくんだよ」

声が吸い込まれる。その瞬間、ジンペイの指先がまた軽く反応した。
ミケッティオはそれを見逃さない。

「どいつもこいつも、辛気臭ぇ顔でお前を信じて待ってやがる」
……でもな、俺は待つのは向いてねぇんだよ!」

言葉が跳ね、空間の静けさにひびが入る。
そして、怒りが熱を帯びて燃え上がると同時に、どこか不器用な優しさが混じった声音が被さる——

「起きろ、ジンペイ!一度しか言わねーぞ!
 俺は――お前がこのまま静かに腐ってくの、見たくはねぇ!」

叫びに近い声が走る。世界が割れた。
光が滑り込み、胸がかすかに上下する。
ミケッティオの手が、ようやくその胸板へ届いた。
指先が震えながらも、しっかりと掴む。

その瞬間、音が戻る——規則的な機械の音、遠い廊下の足音、誰かの息遣い。
目を開くためのひと押しが、そこにあった。