roku
2026-01-16 15:41:54
1843文字
Public 松イチワンドロライ
 

第44回『棘』

・別れた松イチの話

今でも十分幸せだからこれでいいんだ
それは何度となくオレとの未来を語ってくれた松本に対して、最初から最後まで変わらなかったオレの答えだった。松本はいつだって「そうだな」と笑ってくれたけど、その瞳の奥に悲しみの色があることを知っていた。それでも松本と未来を約束できるほど、オレは強くなかった。

ようやく新しい部屋が見つかり今まで暮らしていた部屋を引き払うことになった。
「本当に引っ越すピョン?」
「うん。ここにはいい思い出が多すぎるから」

一人暮らしの引っ越しなんてたいしたことないのに、松本は「手伝いに来たぞ」と引っ越し蕎麦を持ってやってきた。調理器具も食器もまだ何も買い揃えてなくて、松本の持ってきた蕎麦は後日食べることにして、近くの蕎麦屋へ行ったっけ。オレも松本もその蕎麦屋の雰囲気が気に入ってしょっちゅう食べに行った。
もうあの蕎麦屋に行くことはないかな。

松本はよく朝ランの途中でここへやって来た。夜ならゆっくりできるのにって言うと、「夜だと我慢できなくなるからな」と苦笑いをこぼしていた。最終的には朝だって我慢できなくて、オレが色々大変だったから夜会うことが増えたんだよな。
松本の腕の中で微睡む時間が好きだった。

クリスマスに何が欲しいと聞かれて何もいらないと答えたら面倒くさいぐらい拗ねてた。〝物〟は欲しくなかったんだ。手元に残っちゃうからさ。松本に機嫌を直してもらうために、家でパーティーをすることにした。チキンとケーキを準備した。松本はせっかくだからと小さなクリスマスツリーを買ってきた。
さて、これどうするかな。
「深津、いる?」
「お下がりはごめんだピョン」

頻繁にここへ来るようになった松本が同棲を持ち出したのはいつだったっけ。その時もオレは「今が幸せだからこれでいい」と告げた。ただあまりにも松本が傷ついた表情 かおをしていたから合鍵を渡してやった。そしたらあいつ、どうせまた来るからとか言って自分のもんどんどん増やして、この狭い部屋でほぼ同棲みたいになった。
拒否できないくらいには、松本のこと好きだったから。あいつはきっとそれをわかってた。

休みの日の朝は松本が準備してくれることが多かった。こういう言い方するとスパダリっぽいけど、食パン焼いてバターとジャム塗っただけのトーストと、インスタントコーヒー。文句言ったら「男の朝メシなんてこんなもんだろ」と笑ってた。そういうところが松本らしくて好きだった。

ソファなんて良い物ないからテレビを見る時は床かベッドに並んで座る。いつも気づくと空いてた距離がなくなってて、視線を感じて顔を上げるとキスされた。初めは遠慮がちだったそれもそのうち何の遠慮もなくなって、息ができなくなるほどだった。

「イチノ、手止まってるピョン」
深津は呆れながらオレの代わりに荷物を詰めている。
「ごめん」
「そんなに好きなら別れなきゃよかったピョン」
その黒い瞳は、オレが松本との出来事をひとつひとつ思い返していることに気づいていた。
深津の言葉は胸にチクリと痛みを与えた。
「知らなきゃよかったって、この先何度思うかな」
深津は何も答えない。ただ何くだらないこと言ってるんだという視線を寄越してきた。
「でもさ、松本を好きだったオレを捨てたくはないんだよね」
紛れもない本音。松本と未来の約束はできなくても〝今〟を重ねていけるところまでそんなことを思ったオレは嘘じゃないから。
「ならこのツリーはちゃんと新しい部屋に飾るピョン」
………そうだな」
必要ないから捨てたんじゃない。松本を誰よりも愛してしまったから、手を離したんだ。

◆◆◆

オレはずっと知ってたんだ。一之倉がオレとの将来を思い描いていないことを。それでも、何度も語ればそのうち絆されてくれるかも、なんて淡い期待を抱いていたのも事実だ。だけどそこはさすが一之倉。意志の強さは半端じゃなく、なし崩しに同棲まで持っていったが今が幸せだからという一之倉の答えが変わることはなかった。
そんな一本真っ直ぐ芯の通っている一之倉が好きだった。
だけど別れは突然やってきた。
「松本の気持ちに応えられなくてごめんな」
そう紡いだ一之倉は、薄い唇をきゅっと結んでそれ以上は何も言わなかった。オレは一之倉を繋ぎ止めることもできずに荷物をまとめて部屋を後にした。
「ごめんな」
その言葉と涙を堪えたような顔が、いつまでもオレの胸に刺さっている。