松本と一之倉とはクラスも寮室も違う。共通点といえばバスケ部であることぐらいだった。誰とでも仲良く話をするけれど深いところまで踏み込ませない、松本はそんな掴みどころのない一之倉を、子どもの頃に網と籠を手に夢中で追いかけた空に舞う蝶のようだと思った。
「何調べてるベシ?」
図鑑とにらめっこしている松本に声をかけたのは部屋に戻ってきた深津だった。
「捕まえたい蝶々がいてな」
「この年齢で虫取りベシ?」
「まぁそんなとこ」
「イメージと違いすぎてファンが泣いちゃうベシ」
「何のイメージだよ」
呆れたように返せば「男前の松本くんは虫取りなんかしないベシ」と後ろから覗き込む深津。
「ははっ!男前かどうかは別として、この歳で虫取りは引かれるかもしんねぇな」
今しがた男前と言われた顔をくしゃっと崩して大きな口を開けて笑う。
「罪な男ベシ」
ベッドにごろんと寝転がり天井を仰いだ深津は「あの蝶はなかなか捕まらんベシ」と視線だけを向けた。それは全てを悟っているかのようで松本は一瞬驚いたが「そうなんだよな」と今度は眉と目尻を下げ、困ったように笑った。
◇◇◇
「お腹すいたな〜」
燃費の悪い大食漢の一之倉のそんな口癖に気づいたのはいつだったか。それからというもの、松本は常日頃からポケットにお菓子を忍ばせている。そしてここぞとばかりに、だけど不自然にならないようにポケットから取り出す。
「一之倉、手出せよ」
「ん?」
「やる」
「いいの?」
「おう。もらったんだけど食わねぇから」
初めは遠慮がちだった一之倉も回を重ねるごとに向こうから「松本〜何か食べ物持ってる?」とやって来るようになった。
「餌付け成功ベシ?」
「どうだろうな」
まだわからないけど、蝶は甘い密に寄ってくる生き物なんだ
◇◇◇
「ちょっといいか?」
みんなと一緒だと試験勉強が捗らないと部屋に戻った一之倉のもとを訪ねてきた松本。その手には教科書とノート。
「どうしたの?」
「一緒にテスト勉強しねぇか?わかんねぇとこも教えてほしい」
「え?オレより松本の方が頭いいじゃん」
一之倉は松本を部屋に入れたくなくてやんわりと断ったが、「英語はお前の方が得意だろ?」と事実を述べられ招き入れるしかなくなってしまった。
床に置いた小さな机の上で教科書を広げてわからないところを教え合った。時折じっと見つめられている感覚で顔を上げたけれど視線がかち合うことはなく、松本は手元の問題をすらすらと解いていた。
消灯時間少し前に「ありがとう。助かった」と何事もなく部屋を出て行った。
深みにはまらないように適度な距離を保っていたはずなのに、いつの間にか松本との距離は近くなっていた。時に思わせぶりな松本の態度は一之倉の心を揺らし、乱していった。
◇◇◇
「なぁイチノ」
「…え?」
部活開始前のストレッチは大体が二人一組だ。少し前までは決まった相手はいなかったふたりが、ここ最近はどちらからともなく声をかけ、ふたりで仲良くストレッチを行っている。
「あいつら知らないうちに随分仲良くなったべ」
「蝶が罠にかかったベシ」
「なんのこと?」
「虫取りの話ベシ」
深津は高校生にもなって虫取りに行くのかと茶化され「オレじゃないベシ」と目を細めた。
一之倉が松本の背を押す手を止めたのは今朝まで〝一之倉〟と呼んでいた松本が〝イチノ〟と呼び方を変えてきたからだった。
「もっと力かけろよ」
「あ、ごめん。で、何だった?」
「今日誕生日って聞いた」
「深津?」
「おう。おめでとう」
「ありがと」
「でさ、知らなかったから何も用意してねぇんだ」
どういうつもりで松本がそう言ったのか、身体を前に倒している松本の表情は一之倉からは見えないが、知っていたら何かを準備してくれた。そんな風に聞こえる言い方だった。
「別に何もいらないけど」
「そんな寂しいこと言うなよ」
「……あ、そしたらお願いがあるんだけど」
一之倉は思いついたようにそう口にした。
「叶えてやれるやつか?」
「うん。自由時間に部屋行っていい?」
「おう」
一之倉は快諾してくれた松本の背に「ありがとう」と小さく投げかけた。
◇
その夜一之倉は約束通り松本の部屋を訪ねた。同室である深津は一之倉と入れ替わりに部屋を出て行った。一之倉は松本が普段使用しているベッドに腰を下ろし、「お願いなんだけどさ…」と視線を足元に向けたまま切り出した。
「うん」
隣にやってきた松本は一之倉の言葉の続きを待っている。一之倉は松本をうかがうように顔をゆっくりと上げた。
「キスしてほしい」
絡まる視線の先、松本の瞳が大きく開かれる。
その表情に、やってしまったと後悔が押し寄せる。
「あ、うそ。ごめん、違うん――!!?」
今度は一之倉がその目を見開く番だった。
ぼやけるほど近くにあるのは瞳を閉じた涼やかな松本の顔。唇から伝わる熱に、松本にキスされているという現実が輪郭を帯びる。「キスしてほしい」そう言ったのは一之倉だったし、今までの松本の行動や言動から可能性がゼロではないとは思っていた。だけどいざ現実のものになると焦りやうれしさ、恥ずかしさ、そして松本がどういうつもりなのかという不安もごちゃ混ぜになって心臓が締めつけられた。
そして離れた唇が綺麗な弧を描き紡いだ言葉に時間 が止まる。
「やっと捕まえた」
頬に触れた手が、唇をなぞる指が、名前を呼ぶ声が、一之倉の止まった時間を再び動かし、その唇の隙間から覗く赤い舌に吸い寄せられるように唇を重ね合わせた。
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