一之倉の様子がおかしいことに気づいたのは1週間ほど前。松本は、気づいてすぐにどうしたのか、何かあったのかと訊ねてみたが、「何もないよ」と返された。その表情は明らかに何かあるものだったが、その日はそれ以上深く聞かなかった。数日経っても一之倉は元に戻らず、二度三度探りを入れたが「何でもないって言ってるじゃん!」と怒られてしまった。
そして今日、家に帰れば一之倉はいなかった。
◇◇◇
「で、お前は何でここにいるピョン?」
「もう別れる!」
ビニール袋いっぱいの酒を持ち突然押しかけた深津の家で一之倉がそう宣言する。
「またピョン?イチノのそれは聞き飽きたピョン」
ビニール袋からガサゴソと取り出した缶ビールでゴクゴクと喉を潤す。
「今度は本当に別れるからな!」
深津は盛大なため息を漏らしながら「今日のおつまみは豪華ピョン」と惣菜のパックを開け、手で摘んで口へ運ぶ。
「また松本に何かされたピョン?」
小首を傾げ、正面に座る一之倉に話しかけた深津だが、心の中で「どうせ内容はいつもと同じ、“もうやだと言ったのに朝までコースだった”とか“風呂で襲われた”とかそんなことだろう。お前らの痴情はもうお腹いっぱいピョン」とひとりごちた。
「女」
「ピョン?」
「女の影があるんだ」
まさかの一之倉の発言に深津は耳を疑った。
松本は高校生の頃から一之倉のことが好きで、同性であることに頭を悩ませていた。うじうじと考えすぎて空回っていたのも深津にとって今や懐かしい思い出。釣った魚に餌をやらない男はたくさんいるが松本は片思いの期間が長かった分、一之倉を溺愛している。それはもう周りが目を瞑りたくなるくらいに。
そんな松本が女に靡くなど、深津には考えられなかった。
「気のせいピョン。松本に限ってそれはないピョン」
「オレだってそう思いたいよ。でもさ…」
先週の金曜日、松本は職場の新年会だった。飲み会があっても比較的早く帰ってくる松本は、その日も一次会で帰ってきたのであろう時間だった。
「なら何の問題もねーピョン」
深津は空になった缶を軽く潰して次の酒を開ける。
「いつもなら一直線にオレのところへやってくるんだ」
「……やれやれ。結局惚気ピョン?このチューハイ美味いピョン!」
それはレモンのスライスがそのまま入ったチューハイだ。
「惚気じゃないし!あ、それオレが飲みたくて買ったのに…」
一之倉はまだ一本目のビールを半分も消費していなかったが、「飲むピョン?」と渡された缶に口をつけた。
「オレと間接ちゅーピョン。松本にバレたら怒られるピョン」
わざとらしく困り顔を作る深津に「お前との間接キスぐらいで怒るわけないだろ」と言い返す一之倉。
「松本はお前が思ってる以上に重たい男ピョン」
だから黙っておくと缶を奪い返し、「で、結局何がどうなってるピョン?」と逸らした話の筋を元へ戻した。
この前は、帰ってすぐに風呂に入ってくると言い、一之倉に指一本触れなかった。風呂上がり、普段なら松本の軽くタオルドライしただけの濡れた髪を一之倉が乾かしているが、リビングへ戻ったときにはきれいに乾いていた。
「それで?」
「……オレ、いらなくなったのかな?」
一之倉は寂しさを流すように残り半分のビールを飲み干した。
「それを松本に言ってみろピョン」
―足腰立たなくなるに決まってる―
さすがにその言葉は飲み込んで「そんなことあるわけないピョン」と伸ばした手で一之倉の頭を撫でた。
するとタイミング良く(この場合、悪くが正解か)ピンポンとインターホンが鳴った。モニターを確認することなく「お迎えピョン」と一之倉を追い返そうとするが、首を左右に振り嫌だと駄々をこねている。
深津は、はぁ〜と大きくため息を吐き一之倉を寝室へ連れて行き、靴を隠して玄関の扉を静かに開けた。
「こんな遅くに何の用事だピョン?」
「一之倉、来てるだろ?」
ここにいないという選択肢は松本にはないようだ。
「いねーピョン」
「ならどこにいんだよ?」
「知らねーピョン」
「一之倉!いるんだろ?迎えに来た。帰るぞ」
松本が部屋の奥に向かって声をかけるが返事はない。
「だからいねーピョン」
「いる」
「何を根拠に」
「匂いでわかる」
深津の家の匂いに微かに混じる一之倉の香水の匂いを嗅ぎ取った松本は確信を持っていた。
ほら見たことか。イチノ、いい加減こいつの重さを思い知れピョン。
深津がそんなことを思っている間に松本は「邪魔するぞ」とリビングへ進む。テーブルの上の空き缶に目を止めて「来ただろ?」と深津を睨む。その視点を軽くいなしてそこへ座れと促した。
「飲み会帰ってすぐシャワーを浴びた理由が聞きたいピョン」
「あ?」
「教えてくれたらイチノの居場所教えてやるピョン」
「……やっぱ知ってんじゃねぇか」
背に腹は代えられず、松本は渋々ながらも口を開いた。
松本の話はこうだ。
飲み会の席で、何かの流れから彼氏の話になった女性陣。これはよくあることだから特段気にも留めていなかったが、その中のひとりが酔って帰った彼氏が居酒屋の臭いをさせたまま抱きついてくることに不満を抱いていた。たばこ、油、香水…浮気を疑う云々ではなく萎えると。それに多くの女性陣が同意を示した。
そこで松本は気づいたのだ。
自分は一之倉に同じことをしていると。
このままでは一之倉に嫌われてしまうと思った松本はすぐに風呂で臭いを流した。
「はぁ〜じゃあ髪を自分で乾かした理由は、ピョン?」
「……そんなことまで話したのか?」
「今度は本当に別れるって言ってたピョン」
「いや、ちょっと待てよ!」
松本は目の前の缶チューハイで喉を潤すと話を続けた。
元々は面倒でタオルドライで済ませていたが、そのままだと傷むからと一之倉が乾かしてくれるようになった。いつしかそれが当たり前になっていた。
『そういえば私の彼氏、髪濡れたままソファ座ってテレビ見てたから一回乾かして上げたのね。そしたらそれからずっと私がすることになってて…』
『はぁ?マジでありえない。自分でやれよ』
『だよね!そりゃ一回しちゃった私が悪いんだけどさ〜』
それに関しても心当たりしかなく、気まずさにトイレに立ったぐらいだった。
「………」
黙って話を聞いていた深津は感情のない瞳で松本を捉えている。
「話したぞ。一之倉はどこに「ここにいるよ」
寝室から出てきた一之倉は松本の背中に声をかけた。振り返った松本は傍にやってきた一之倉をぎゅうと抱きしめた。
「オレ、いらなくなったんだと思ったんだ」
「何でそんなこと!」
「だって松本がいつもみたいに甘えてくれなくなったから、オレじゃない、甘えられる女の人ができたんだって…」
「はぁ!?」
「でも違ったんだな」
「違うに決まってるだろ!オレがどれだけ一之倉のことを好きなのか、まだわかってねぇのか?」
松本が一之倉の頬を両手で挟んで視線を絡ませたふたり。ゆっくりと目を閉じた一之倉に顔を近づける松本。
その唇が触れようとしたそのとき――
「お前らここがオレの家だとわかってんのか?いい加減にしろ。これ以上くだらねーことに巻き込むな」
接尾語を取り払い、静かに怒りをあらわにした深津に追い出されたのだった。
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