roku
2026-01-15 22:35:33
2205文字
Public 松イチワンドロライ
 

第9回『ベランダ』

・大人軸/同棲中

「お風呂どーぞ」
「あ、あぁ
いつもならば一之倉が作った夕飯を共に食べ、松本が片付けを終えたところで共に風呂に入る。だが今日は年に数回、あるかないかの別々の日、のようだ。その場合、大抵松本が自覚なく一之倉を怒らせてしまい、口を聞いてもらえなくなる。翌日に持ち越すことはしたくない松本が理由を訊ね納得し、謝り、事なきを得る。
ただ、今日は心当たりがあった。
退社ギリギリにトラブルに見舞われて、連絡を取る暇もなく残業となってしまった。猛スピードで仕事を終わらせ、早く帰ることに必死で「今から帰る」という連絡さえも失念していた。それに気付いたのは、クタクタでたどり着いた部屋の鍵が開いていなかったからだ。しまったと思った時にはすでに遅く、内側からガチャリと鍵が開く音がして、松本は恐る恐るドアを引く。
「遅かったね」
「すまなかった!!トラブルで!!」
「声が大きい。迷惑だからとりあえず中入ってからにして」
くるりと背を向け短い廊下を進む一之倉。怒りを背負っているように見え、とにかく謝らなければと、そんな気持ちでいっぱいだった。
リビングのテーブルには丁寧にラップがかけられた夕飯がひとり分並んでいる。
「一之倉……
「遅かったからご飯先に食べちゃった。お風呂入ってくるね」
松本と目を合わせることもなく風呂へ向かう一之倉。
謝ることすらさせてもらえない現実に、松本の胸が軋んだ。
温めなおした夕飯はいつもと変わらず美味しいはずなのに、ジクジクと疼く胸の痛みのせいで味を感じられず、咀嚼し胃へ運ぶ作業と化していた。
片付けを終えたタイミングで風呂から出てきた一之倉が吐いたのが冒頭の言葉。
松本はぎこちない返事をひとこと返すのが精一杯だった。

―――

暑いな
風呂から出た一之倉は「お風呂どーぞ」と松本を風呂へと促した。松本は短い返事の後に何か言いたげだったが、続く言葉がなかったため一之倉もそれ以上何も言わなかった。
冷蔵庫から缶ビールを一本取り出して、風通しの悪い部屋からベランダに出ると、秋を感じる湿気のない風が頬を優しく撫でていく。
あ、涼しい。
ビールで喉を潤せば、空に浮かぶ月がこちらを見ていた。
松本早く上がってこないかな。
空になった缶を足元に置いて、笠木に手をかけゆったりと流れる時間の中で恋人を待っていた。はずなのに……

ガチャガチャ!!ガラガラ!!

勢いよくベランダの窓が開いた音に振り返ると、びしょ濡れの髪のまま腰にバスタオルを巻きつけただけの松本が青い顔をして立っていた。
「こ、こんなとこにいたのかっ!!」
「え?なに?」
松本は一之倉を認めてホッとしたのか、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。
「本当にすまなかった!!」
謝罪とともに足を折り正座の姿勢をとった松本が膝の上で拳を握っている。その姿に先ほどまでの一之倉の優雅な時間はどこへやら、不穏な空気へと変わる。
「ちょっと待って。なに?どうしたの?」
……怒ってるだろ?」
目線を合わせるためにしゃがみ込んだ一之倉を捉えた瞳は不安の色を宿していた。
「何に対して?」
本当にわからなくて首を傾げる。
……連絡、しなかったから」
「え?しなかったんじゃなくて、できなかったんでしょ?」
「そうだけど……どっちでも一緒だろ!?」
しないとできないは違う。だけど松本にとって連絡を取っていないという結果が同じである以上そこは同じらしい。
「違うし、別に怒ってないけど?」
「へ?」
一之倉の言葉に松本の口から間抜けな音が漏れる。
「松本が一生懸命仕事頑張ってるのに怒ることじゃないでしょ?」
……でも玄関鍵かかってたぞ」
「物騒で危ないって松本が怒っただろ」
一之倉は田舎出身だから家の鍵をかける習慣があまりなかった。寮の部屋にも鍵はついていたが面倒だったのでほとんど使用することもなかった。同棲を始めてからもその流れで暮らしていたら危ないからと怒られた。それからは松本から帰ると連絡があるまで鍵をかけるようにしていたのだ。
「夕飯は?」
今日仕事忙しくて昼メシ抜きだったんだ。腹減りすぎて待てなかった。ごめん」
「そうだったのか。お疲れさま」
大きな手で頭を撫でると嬉しそうに目を細めた一之倉。
……風呂は一緒でもよかったんじゃねぇか?」
以前、先に食事を終えた一之倉が松本の食事を眺めていたら食べづらいと言われたから先に入っただけだった。
頭に乗っていた松本の手がするりと頬へ下りてくる。親指の腹で一之倉の薄い唇をなぞれば、上下の唇から覗いた舌が松本の指を舐め取った。
「フッ。何?一緒に入りたかったの?なら言ってくれればよかったのに」
チュッとわざとらしく音を鳴らし手のひらにキスを落とす。
「煽んなよ。出て行ったのかと思ってマジで焦ったんだからな」
「ふはっ!なんでそんなことで出て行くのさ?松本ってたまにびっくりするぐらいの思考してるよね」
けたけたと笑い立ち上がった一之倉に、そんなに笑うなよと顔を赤くする松本。
「暑かったから涼んでただけだよ。ほら、月が綺麗でしょ?」
「ほんとだな」
同じように立ち上がった松本が一之倉の肩を抱き寄せ、少し腰を屈めて顔を近づける。
「それより早く服着なよ!」
ふいっと顔を背けると「どうせ脱ぐんだからもういいだろ」と頬にチュッと口づけた。