今夜はもうアデリンに会いたくない、と俯きながら訴えたディルックとガイアを、父は穏やかな苦笑で許した。少し待っていなさいと言い置いてひとり馬車を降りた父は、しばらくして戻ってきたとき大きなバスケットを提げていた。
馬車のたよりない灯りの下でぴったり身を寄せあって黙りこくるディルックたちへ微笑みながら、ガイアの膝にそれを置く。
「今はそんな気分でもないだろうが、落ちついたら腹が減る。ふたりで食べなさい。明日、今夜のことを詫びながらアデリンへ返すんだ。できるな、おまえたち?」
ディルックはちらっとガイアを見た。ガイアも顎を胸にくっつけたまま、横目でディルックを窺っている。
視線を交わし、瞬きを揃え、そしてディルックがおずおずと顔を上げた。ディルックは兄なので、ガイアに返事をさせることはできないのだ。
「……はい、父さん」
「……まったく!」
盛大な苦笑を浮かべた父が、右手と左手それぞれでディルックとガイアのまだ湿り気が残る髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「まるで二十年前の私を見ているようだよ。こっちまで照れてしまう」
「父さんも僕たちみたいだったの?」
「そうとも。しかも私には弟がいないから、行きも帰りもひとりだったんだぞ」
父はディルックの額を弾くとにやっと笑った。いたずらが成功したときのガイアと少し似ている。
「さあ子どもたち、まさか馬の世話もできないほどショックを受けたとは言わせないぞ? 馬車を外して馬を休ませたら、裏口から部屋へ戻りなさい。せいぜい私はメイドたちにわがままを言って困らせておこう」
特に前もって示し合わせたわけでもなかったが、バスケットを持ったガイアがためらいなくディルックの部屋のドアノブを回したのでほっとする。どうしたって今夜はひとりでいられる自信がなかった。
すたすたと、ディルックより先にディルックの部屋へ踏み入ったおとうとは、窓辺の小卓にバスケットを置くとようやく背中を丸めてうなだれた。
まだドアの施錠を確かめていたディルックを、そのまま恨めしそうな目で振り返ろうとする。きっとガイアを見る自分も似たような表情をしているだろう。
「……恨むぞディルック・ラグヴィンド。よくも俺まで巻きこんでくれたな」
「……こんなときだけ都合よく他人ぶるなよ。第一、僕がねだったわけじゃないからね」
「嘘だろ?」
「嘘なもんか」
ぎょっと隻眼を見開くおとうとの前を突っ切って、靴も脱がずにベッドへうつぶせに倒れこむ。ふーう、と深呼吸するとこの家の香りが胸に満ちてきて安心できた。気高い魔女のように全身を甘く美しく磨きあげた人の残り香がやっと上書きされて消えてくれる。
「クリプス様、何も俺にこんなことまでにいさんと一緒に学ばせなくてもいいだろうに……」
ぎしっ、とベッドが軋む。少し顔を上げるとガイアもディルックと同じ姿勢で布団に突っ伏していた。深呼吸するところまで同じだ。
「……どうだった?」
ディルックの質問を聞いて、ガイアの大きく上下していた背中がぴたりと動きを止めた。やがて、石のようになった体がゆっくりゆっくりとベッドへ沈みこんでいく。
「どうだも何も」
布と羽毛に埋まった頭の底からくぐもった声がする。
「もうこりごりだ。そもそも、俺はあんな高級娼婦に手取り足取り教えてもらえるような身分じゃないんだから」
「ガイア」
「にいさん、いいか、もし次があったら絶対おまえひとりで行ってくれよ。俺はごめんだからな」
「僕だって行きたくないよ……」
ふっ、とガイアが噴き出した気配がする。
「バカだな、にいさんが断れるわけないだろ。未来のラグヴィンド夫人を不安がらせたいのか?」
「わかってるけど」
いつか妻にしたいと思う人と出会ったときのために、と、父がディルックたちきょうだいを連れて出かけたのは璃月の娼館だった。
父が慎重に選んであてがってくれただろう相手は美しい人だったし、肉置きも素晴らしかった。何もかもが初めてで硬直するディルックの緊張を穏やかに解き、丁寧に導いてくれた。ラグヴィンドのぼっちゃまの最初のお相手がわたくしなどで、としきりに恐縮していたが、むしろそうしたかったのはディルックのほうだ。
良い人だったとは思っている。きっとガイアの相手をした人もそうだろう。それでも、彼女たちの柔らかく、熱く潤んだ肉の味をしっかり堪能させてもらっておきながら、もう一度あの官能をとはどうしても願えなかった。快感を凌駕して、あまりにも恥ずかしすぎる。
「あれを全部照れずに順番通りにやらなきゃいけない
なんて……」
「初めてくらいは好きな子とがよかった……」
呟く声音はディルックもガイアも深刻極まりなかった。だが互いで互いの嘆声を拾いあい、揃ってベッドに腕を突っ張って上体を起こせば、呆れ顔で見やった相手も同じ顔をしているのだ。
「……さすが、勉強熱心だな、にいさん」
「……ガイアでもそんなかわいいこと考えたりするんだ」
「はあ? 俺はいつでもかわいいだろ」
「あのね、僕たちは勉強しに行ったんだ。気持ちよかった、だけで帰ってきたら本当にバカみたいじゃないか」
同時に発声し、同時に言い返すので、めちゃくちゃに反響した音が耳を刺す。しかめっ面で睨みあってからディルックもガイアも再びベッドに突っ伏した。溜め息も同時だ。
「……ガイア」
「……なに」
「……お腹減らない?」
ガイアは黙っていたいようだった。どうやらまだ、ディルックに対して自分の傷心を訴え足りないらしい。
慰めてもらいたいのはディルックも同じだというのに、さっきは他人ぶったことをもう都合よく忘れて甘えてくるのだからいっそ清々しい。
「ガイア」
ひとまずなだめる声で名前を呼んだところ、ぐうう、とガイアの腹が返事をする。ディルックがちょっと横を向くと、おとうとの耳は血を集めて色を濃くしていた。
目の前にある日常に、ふと笑ってしまう。
「……ガイア、僕お腹が減ったってば。一緒にバスケットの中見てみようよ」
しつこく脇腹を突いてやるとガイアも観念して起き上がった。一応半目で不機嫌ぶっているが頬が赤い。
どうせこのおとうとも、根が素直で陽気なのだから、いつまでもうじうじと傷ついたふりなどしていられるわけがないのだ。腹がくちくなるころにはきっと、ディルックもガイアも今回の体験をただの知識として消化できるようになっているだろう。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.