こんばんは、と礼儀正しく扉を開けて酒場へ現れた小柄な人影を見とめて、正直なところディルックは心から安堵した。カウンターの一番壁際で、床につかない足をゆらゆらさせながら舟を漕ぐ少女の保護者が、ようやく現れてくれたからだ。
「やあディルック。ガイアからの伝言を聞いたよ。クレーの面倒をみてくれてありがとう」
「……僕は何もしていない」
真実そうだった。そもこんな酒場になどクレーを連れてのこのこ現れたのはガイアだ。はしゃぎすぎて早口で何事かを語りつづけるクレーににこにこと相槌を打つガイアを少々見直しかけていたところ、ふいに現れた西風騎士の耳打ちを受けてあの男は実に軽やかに椅子を蹴ったのだ。
「おっと、仕事だ。じゃあそういうことだからクレーは任せたぜ、ディルックの旦那」
「おい、ふ……」
ふざけるな、とガイアへ言ってやりたいのは山々だった。けれど同じ場所にクレーがいる。万が一にも彼女に向けた言葉だと勘違いさせたくなかった。
結局中途半端に口を噤むしかないディルックの、胸中を見透かしたような笑みをひらめかせ、ガイアはさっさと店を後にしたのだ。
その後のディルックが負うはめになった気まずさといったらない。
何しろ男所帯で育ったものだから、クレーのような無邪気で爛漫とした少女相手にどんな話をしてやればよいかがさっぱりわからないのだ。社交会に出てくる年頃の娘相手ならいくらでもできる世間話が、クレー相手には何ひとつ出てこない。さて困った、と内心冷や汗を流しながら手渡したシャーリーテンプルに大はしゃぎしてくれたときには、思わずほっと息が漏れたほどだ。
幸いガイア相手に喋りすぎて疲れていたのか、クレーはさほど経たないうちにこっくりこっくりやりだした。ディルックがしたことといえば、その小さく薄い肩に暖かで軽いブランケットをかけてやったくらいだ。
そのクレーの姿を、彼女の保護者であるアルベドが穏やかに見守っている。
「へえ、そう? キミがそう言うならそうなのかもね。……ああそうだ、ついでに持ち帰りのできる食事を少し包んでもらえるかい? 帰って、クレーが起きてからふたりで食べさせてもらうよ」
「ここで食べて行っても構わないが」
「うーん……」
アルベドはほんのり笑って首をななめにした。
「気持ちはありがたいけど、遠慮するよ。ここはこれからどんどん賑やかになるだろ? クレーが興奮してしまうかもしれないし、ボクは騒がしいのはあまり得意じゃないからね」
そうか、とディルックが頷くと、アルベドも微笑んだまま頷いた。眠るクレーの隣の椅子に腰かける彼の足もまた、床に届かせるには少し足りない。
それでもアルベドがカウンターに頬杖をついて微笑む姿は、下手な成人よりもよほど様になって見えた。
「ガイアがクレーの相手をしてくれるのは本当に助かるよ。彼は老若男女問わず人当たりがいいし、親切だ」
「……そうか?」
「おっと。失礼。キミ以外には、と言ったほうがよかったのかな?」
ローストビーフを削ぎながら、ついアルベドをじっとりと半日で見つめてしまう。男前が台無しだ、とガイアによく呆れられる形相を、少年は穏やかに目を細めるだけで受け止めた。
「ボクはクレーの兄だけれど、彼の兄にはなれない。彼がクレーの兄ではないようにね」
「なんの話だ?よくわからないな」
「そう? ならキミにひとつ教えてあげようか。いいことかどうかはボクにはわからないけれど」
ふふ、と笑ったアルベドの肩に、眠るクレーがいつのまにかもたれかかっている。無防備な寝顔は隣に座る人物をすでに理解しているかのようだ。
「ガイアはボクにこう伝えていったよ。自分の知るところで一番安全かつ安心できるところにクレーを任せてあるから、何も心配する必要はないって」
ディルックは何も言えなかった。睦まじい兄妹の姿から顔を背け、手元を確かめるふりで深く俯く。
「ガイアにとってのキミは、今でもそうであるようだね。誰にでも親切だけれど誰とも親しくなりすぎない彼からの評価としては破格じゃないかな?」
ディルックは、何も言えなかった。
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