ガイア・アルベリヒのサインが、家庭教師へ提出される課題の隅に走り書きされている。どこかの店の広告書きでも任せられそうな見栄えのするその筆跡を、テーブルの前に立つディルック・ラグヴィンドはむっつりと見下ろすのだ。
「……アルベリヒ」
「綴りが気になるのか? 知りたいなら教えてやるぞにいさん」
「別にっ」
ぷいっと横を向くディルックを、窓辺で日に当たっているガイアが楽しそうに笑う。人慣れした家猫のようにソファーで全身をだらりと伸ばして横たわるおとうとは、隙を見てはディルックをからかおうとする。
ガイアはディルックのおとうとだ。
おとうと、とは、家族のことだ。
それなのにディルックとガイアは姓が違う。
「もううちに来て三年も経つじゃないか。ガイアはいつになったら名前を変えてくれるのさ」
窓辺を振り返ると、ソファーに寝そべるガイアはいつものにこにこ顔でディルックを見ていた。つまり、ディルックの心からの言葉はちっともガイアの胸に響いていないということだ。
昔は父も折を見ては改姓を提案していたが、ガイアがはるばるスメールまで家出するという大事件のあとからぴたりと話題にしなくなった。父の態度を知りながらガイアにそれをそそのかすような家人がラグヴィンド家にいるはずもなく、畢竟ディルックだけが唇を尖らせて文句を言いつづけているのだった。
「姓がどうだろうと家族は家族だろ。俺はクリプス様にもにいさんにも本当に感謝してるし、ふたりのことは大切な家族だと思ってるよ。心からな」
「僕だってそれはわかってる。……だから余計不思議なんじゃないか」
蜜色の頬を柔らかな陽光に晒して、ガイアはまたにこっとする。
「にいさんは不思議なままでいいんだよ。わからなくていい問題だって世の中にはあるって、先生も言ってただろう?」
「……そうだけどさ」
きっと父もガイアの胸中を理解したから追求をやめたのだ。ディルックだけがわからなくて、わかりたくて、胸をもやもやさせている。俯いた視界の端で、ガイアの頬を温めている光の切れ端がインク壺にきらっと反射した。
俯き、無造作に手を伸ばし、蓋を回す。紙上では美しい菫色になるインクは、壷の中では真っ黒だ。人さし指を沈めると少しひんやりした。
「……何してるんだにいさん?」
ソファーに飛び起きるおとうとの問いかけを無視して、ディルックは濡れた人さし指でガイアのサインを、姓の部分を強く撫でた。
菫色の華やかなアルベリヒが、ディルックの指の下で同色のインクに溶けて消えていく。
ディルックはそれを確かな達成感とともにじっと見下ろしていたが、肩にかかるおとうとの腕の重みと呆れたような溜め息にぎくっとする拍子に目が覚めた。
一瞬で、インクに染まった指先よりも青ざめる。
「……にいさん、おまえなあ、課題になんてことするんだ。また家出するぞ?」
「ご……ごめん、僕、こんな子どもみたいな」
「みたいなって、俺たちまだ子どもだろ」
ガイアは噴き出すように笑った。ディルックの無情なふるまいに腹を立てる様子はない。少なくとも、ディルックが見るガイアはそうだった。
「……本当にごめん。先生には次の授業のとき、僕がちゃんと説明するから」
謝罪を重ねるディルックを苦笑いで見守っていたガイアがふと表情を変えた。少し目線が下がると、ガイアの瞳は独特の光彩がきらめく。
「……にいさん」
「なに、ガイア」
「……本当に、俺がラグヴィンドになってもいいと思ってるか?」
「……当たり前だよ!」
ガイアが隻眼をぎょっと見開くほどの大声が出た。
何を今更、どうしてこれまで、どれほど自分が、と、叫びたいことが多すぎて結局何ひとつ言葉にならない。
それなのに、ガイアはディルックの顔を見てにやっとした。おとうとにしては珍しい、へたくそで不恰好な照れ笑いだった。
「そうだな……じゃあ、もしにいさんが騎士になれたら、そのとき俺も名前を変えるよ。どうだ?」
「そんなの」
ふん、と鼻で笑ってディルックは胸を張った。ディルックの肩に顎を乗せてにやにやするガイアを、自信たっぷりに見つめ返す。
「楽勝だよ。そのときになってやっぱりやめたはなしだからね、ガイア」
「ああ、いいぜ。でもにいさんが騎士じゃなくなったら、俺もラグヴィンドの姓を返すからな。そのときはまたアルベリヒに逆戻りだ」
「そんな日は絶対来ないよ。僕が騎士になって、モンドと父さんとガイアのことをずっと守るんだから」
インクに浸していたことを忘れて、おとうとの鼻の頭を人さし指で突っついてしまった。ぽつんと昇先だけ青くなったガイアの顰め面を笑い、ディルックはすっかり憂鬱の晴れた胸からすっきりと声を張りあげる。
「約束だよ。絶対に君のことをガイア・ラグヴィンドにしてやるからね、ガイア!」
「前から思ってたけど、あんまり響きがしっくり来ないよな。ガイア・ラグヴィンド」
「……まさか、それが理由で嫌がってたわけじゃないよね?」
ディルックの視界いっぱいを埋めつくすおとうとは、何も言わずにただにっこりと人懐っこい笑顔を浮かべた。
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