やまだ
2026-01-15 20:14:58
2229文字
Public 原神
 

No title

ガイア少年の家出の話

「ガイア……!」
 荷台の枠木と樽の隙間に挟まって小さくなっていたガイアを抱き上げてくれたのは父ではなかった。
 ガイアは宙ぶらりんの足をゆらゆらさせて、モンドにいるはずの養父の燃えるような赤毛を見つめている。
 とても目を見る勇気は出なかった。ガイアが持っていたなけなしの胆力は、モンドで潜りこんだ荷馬車の中から見送る景色と、岩神や草神の像を見かけるたびにみるみるすり減っていたのだ。
「無事でよかった……腹は減っていないか? 喉が乾いただろう」
……そんなには」
 腹が減ったら荷台の果物を齧って凌いだ。荷物と荷物の隙間に詰めこまれた帆布とぼろ布はくるまると具合よく寝ることができたし、父とふたりで旅をしていたころを思い出してガイアの胸をぎゅうっと苦しくさせた。
 ガイアが潜りこんでいるとは思いもせずにスメールまで旅してきたキャラバン隊は、養父の指示を受けて出発してしまった。
 彼らはスメールの奥地へ向かうのだ。もしかしたら、カーンルイアの真上を通るのかもしれない。街道のどこかでガイアの父とすれ違う可能性だってある。そう考えたら視界が滲み、いびつな眼帯がぬるく湿った。左目からはぽろっと涙が落ちる。見えない手で締めつけられた喉からしゃっくりが出た。
 ここまでしたのに、結局カーンルイアへ届かなかった。
 父と養父、どちらの信頼も裏切ってしまった。
 スメールの緑林から降りそそぐ光は燦と明るいのに、ガイアの視界は夜よりも暗かった。モンドで父から置き捨てられた日以上に、今こそ、何をどうすればいいのかさっぱりわからない。
 ただ帰りたかった。どこへ帰りたいのかももう不明瞭なくせに、ガイアはそのどこかへ帰りたい。
「ガイア」
 養父はみっともなく声を殺して泣くガイアを抱えなおした。背後にある馬車から隠すように、少し離れた草地へ歩きだす。
「スメールに何かあるのかい? 父君から連絡があったのか?」
 首を横に振った。スメールには何もなく、誰もいない。ガイアが用があったのはこの国の地下だった。
……ごめんなさい」
 心配をかけ、商売の邪魔をし、多忙な養父にふたつも国境を越えさせた。今更ことの大きさに思い至って涙が止まらない。うちの子になりなさいと言ってくれた人の優しさを踏み躙ってガイアは今スメールにいる。
 ところが養父はガイアの弱々しい謝罪を聞くと大きな声で笑った。
 驚いてガイアは涙が引っこんでしまったし、離れた場所で待機している人々の影もゆらめいて顔を見合わせている。養父とそっくりの赤毛が、馬車の窓にちらついて見えた。
「ああすまん、せっかく謝ってくれたのに笑うだなんて。……だがガイア、ひとついいことを教えてやろう」
 そう言うと、養父はにやっとした。ガイアの知る限りいつも厳しいながらに穏やかな人だったので、この人のこんな顔は初めて見る。
「おまえがいないと気がついたとき、ディルックもおまえのように泣きながら私に謝ったんだ」
……にいさんが? なんで……
 義兄はガイアの出奔に一切関係ない。正義感の強いディルックは、むしろガイアの裏切りを知って腹を立てたに違いないと思っていた。あんなおとうとはいらない、ぐらいは言われる覚悟もしてあったのだ。
 眉を寄せるガイアを見て養父はくっくと楽しそうに笑う。ガイアの体を揺すり上げて座らせてくれた肩から見る世界が眩しかった。
「ガイアが家を抜け出したのは寂しいからだろう、自分がちゃんとした兄だったらこんなこと考えたりしなかったはずなのに、と、そう言って私に謝りながらわんわん泣くんだ」
……嘘ですよね?」
 ディルックが泣くところなんてちっとも想像できない。
「どうしてあの弟大事のディルックが馬車でおとなしくしていると思う? 泣きすぎて瞼が腫れたせいでほとんど前が見えないんだ、今あの子は」
「まさか」
 ふっ、と吐息が帰れた。ガイアを見つめてくれる養父のまなざしが優しい。
 養父はガイアの濡れた頬を手のひらでぬぐってくれてから、帰ろうか、と言った。
「モンドへ帰ろう。ガイア。せめておまえが成人するまでは私の息子、ディルックの弟でいておくれ」
 ガイアは養父のつむじを見た。
 それから前髪をそろりと見下ろし、その下で微笑んでいる瞳をおっかなびっくり覗きこむ。
「でも、俺……いいんですか?」
「そう訊くべきは私だな」
 唇を噛んでいないとまた泣いてしまいそうだった。
 きっとこの人はガイアの不審さに気づいているに違いないのだ。それなのに帰ろうと言ってくれる。ガイアが抱える問題ごと存在を認めてくれている。
……か、……えっと、帰ります、俺、モンドに」
「よかった」
 ひとりで歩けると主張したのに養父はガイアを下ろしてくれなかった。肩に担いだまま待たせている馬車を振り返る。
「きっとディルックの顔を見たら驚くぞ。両目が熟れたヴァルベリーみたいになっていてな」
「あの……それ、冗談ですよね?」
「さあ、どうだろう。アデリンは自分に氷か水の神の目があればと嘆いていた」
 この人でも息子についての冗談を口にしたりするのだな、と、馬車に入るまでのガイアはそう思っていた。
 馬車の中で数日ぶりに義兄と再開したガイアは、モンドで待つ親切なメイドとまったく同じことを考え、正直に養父へそう申告し、そしてかの人を大いに笑わせながら家に帰ることになったのだった。