まるで等身大の鏡と対峙しているようだ。他に例えるなら生き写し。切り取った影絵、ドッペルゲンガー。あるいは湖面に流れる月。整った唇から流れ出る言葉と、睫毛の上がり方ひとつとってみてもヴィラン、マダム・フリンデールその人だった。
こうして相まみえると彼女が異質な存在であることが理解できた。創作から生み出されたキャラクター。他者から記憶を奪い侍らせて、それでいて悪びれなく微笑むことができる、生粋の悪女だ。あれを常々演じていた身からすると、妙な親しみを感じると同時に、うすら寒いものも覚える。美しすぎるものを見た際の、感嘆を通り越して抱いた恐ろしさは感情はどこまでもつめたいものだった。賛歌を贈るための喉まで凍り付かせるような、美しさという鎌を持つ死神にも見える。
悪役という観点から点数をつけるとすると、悔しいことにあっちのほうが格が高い。きっとあれの中身が人でないからだ。自分が人間である限り、あの異質な恐ろしさは出せない。彼女こそ本物の——
「この大切なお屋敷も、パルフェたちも、渡すことはできないわ」
異邦な貴婦人に飲まれかけていた俺を現実に引き戻したのは、実に彼女らしい一小節だった。冷えた鈴を転がしたような声音にハッと目が醒める。やべぇ、俺らしくもなくビビッちまってた、俺があっけにとられてたところ、誰にも見られてないよな。
可愛いパルフェたちはどこかに隠れていることを願いながら、同業者たちの視線を背中に集めながら心の中で繰り返した。ふう、と笑みが口の端から漏れる。
そうだ、そうだよな。マダム・フリンデールの夢はそれなんだよな。誰からも愛されず、無垢なまま歪んでしまった哀れな婦人。あらゆる者に仮面をつけて、檻に閉じ込めた色のない蝶々たちを愛でる。ゴーストたちを愛しているのは、もう彼らが死なないから。死から解き放たれたのであれば永遠に踊ることができる、一人ぼっちになることがない。
「ここで大人しく去ってくださらないのなら、歌いなさい。どちらが現実の姿かを決めるの」
マダムが芯まで凍った声で続けた。現実、本物。彼女はこの場に立つべき誰かが、己であることを望んでいる。
「まあ!とっても素敵なお申し出ね!願ったりかなったりだわ!」
俺の喉を借りてマダム・フリンデールが口を開く。
「でも、ひとつお忘れでなくて?マダム?ワタクシたちは館の主人で、パルフェを愛した独りぼっちのマダムなの」
ひとひらの願い、理想郷、蝶がひとつ羽ばたく間に溶けてしまいそうな夢……でも、夢見ることに夢中な彼女は肝心なことを忘れている。窘めるような口調のまま、前へ。
「でも、その前に――ヴィランであるのよ。ヴィランが望みをかなえちゃ、いけないわ」
ヴィランの夢は叶っちゃいけない。だって話が進まなくなる。
物語は終わるから物語へと成り、夢は醒めるから夢であり続ける。同じようにヴィランは負けるからヴィランでいられる。
夢半ばで砕け散って、崩れ落ちて消えるまでがヴィラン、マダム・フリンデールの物語。悪役には悪役なりの矜持がある。誇りだってある。それを、目の前のアイツは平気な顔で踏みにじろうとしている!一瞬でも"本物"だと錯覚しかけた自分をぶっ飛ばしてやりたいぐらいだ!人の屋敷に勝手に上がり込んで好き勝手しやがって、ぶっとばしてやる!
ここは夢でも現実でもない、ちょうど真ん中。狭間の舞踏会。ステージなら俺の独壇場だ。
「だから、あなたの願いは粉々に砕ける定めなの」
現実の姿がどちらかを決める?上等だよ!悪役の作法というものを叩き込んでやる!
「はじめてまして、鏡越しのワタクシ」
大きく息を吸って、優雅に距離を詰めていく。ここが正念場だ、間違えても声が裏返らないよう、慎重に。
「ワタクシが誰か、ご存知?――はじめまして……そうよね!今はあなたがフリンデールを名乗っていますものね!」
黒いドレスの裾が、床をなぞるように揺れる。不気味なことにこの麗人からは足音が聞こえてこない。まるで宙に浮いたヒールを履いているかのような、不思議な足取りで前へ出る。
「もう一人の自分に逢えるなんて素敵な夜なの!」
くすりと声を漏らし、無邪気に微笑む。春の鳥の囀りを思わせる純粋無垢なトーンを心がける。
「だって、はじめましては一度きりしか使えない、素敵なご挨拶!貴方様と交わせたこと、光栄に思いますわ!……自己紹介が遅れましたわ。ワタクシはマダム・フリンデール」
胸元に手を当て目を伏せる。
「マスカレードナイトの主催者、今宵を夢見る蝶たちの女主人……はじめましてを交わしたばかりの、素敵なワタクシそっくりな貴方様と巡り会えた奇跡に、まずは感謝を!」
礼儀正しく洗練された一礼を魅せる。祈りにも、祝福でもなく、敬意と悦びを純粋に捧げるための動作である。
「そして……」
空気がわずかに震えた。優雅な仕草で手を差し出す。余白。計算された呼吸音。曲に組み込まれた休符のように、吐息が霞む溜めの後、彼女は唇に笑みを浮かべ、低く囁く。
「よろしければワルツは如何?──永遠に明けぬ夜に、祝杯を共に!」
大げさなほどに身振り手振りを加えて名乗りをあげる。舞台は広い。指先まで自己シュチョーしないとメリハリがなくなって、観客に動きが伝わらなくなる。静寂が砕かれ、盛大な音楽と共に俺たちのための舞踏会が幕を開けた。ダンスに勝敗はないが、優劣はある。マダム・フリンデールを名乗るからには、ダンスと歌で劣るつもりはさらさらない。
——さっさとケリをつけろ?焦らせるな、曲には流れってもんがあるんだよ!終わり際まで観客の視線を引っ張らないとショーにならない。初めのうちにケリついちまったら面白くねえだろ!もっと俺の手番増やせ!王様、そういう場回し滅茶苦茶うめぇんだろ!さっきみてぇに散々躍らせてみろ!
マダムと相対している間に飛んでくる同業者たちからの声はちゃんと聴いていたし、心の中で悪態混じりに返していく。
俺の歌の方が綺麗?んなもん俺だってよくわかってる!あんな偽物と一緒にすんな!俺が毎日何時間ボイストレーニングしてると思ってんだ!それぐらいしねぇとこんなに高く歌えるようにはならないんだよ!それはそれとして褒めてくれてどうも!お礼にあとで鼓膜が爆発するぐれぇ嫌ってほど歌ってやる!
あの宇宙人元帥、俺の前でケバブばくばく食いやがって!美味そうにもっさもっさしやがってよぉ、羨ましい!俺だってカロリー気にせず肉にかぶりつきてえよ!それになんだその身長!たくさん食ってるならもっとでっかくなるべきだろ!俺は役作りのために頑張って少食に抑えてたのにこのありさまだ!
——そうだ、俺は頑張ってきた!ずっとずっと!
気づくと同時に、自然と背筋が伸びる。
褒めてくれるのはスチュアートだけだったけど、腐らずここまでやってきた!マナーとか淑女の所作とかたくさん覚えてきたし!頭がよくねぇから本読んでも最初はチンプンカンプンでさ。考えなくても出来るように、気が遠くなるぐらい反復練習してきた!忘れないよう今もやってる!ダンスとか歌の練習も勿論やった!毎日毎日!同じ曲ばっかり練習してたら、耳からこびりついて離れなくて魘された夜もあった!無駄にでっかくなるばっかりの身体に焦りながら、いらない筋肉とかつかないように運動とか食事にも気を付けた!
大好きなケーキだってあんなもんカロリーと砂糖のモンスターだ!ちくしょう!キャラクターダイニング の時は、お上品にナイフとフォークで小さく切って食べてたけど、本当はホールでかぶりつきてぇ!でも、一度だってその欲求に負けたことはない。だって俺は美しくも儚い貴婦人、マダム・フリンデールだから!
口紅がよれない力で唇をかみしめる。
なのになんだ、あの野郎は。この俺を偽物だって?マダムフリンデールにとって代わるだと?新しい子を当主に?俺の代わりに夢を叶える——ふざけるな!
どっ、と心臓部分が熱くなった。頭から腹へと流れた怒りが、マグマのように煮えくり返る。怒気が吐く息にすらこもり、声にならない叫びへと変わる。
俺はこの十年、いや、生まれてから!積み重ねてきた努力と才能をすべてをマダム・フリンデールに捧げてきた!たかがぽっと出のモブが、簡単に掠め取っていいような役じゃない!
フリンデールの夢はかなわないからこそ美しいんだ!なぜわからない!彼女は夢を叶えるために生きてるんじゃなく、誰かに終わらせてもらうためにずっとずっと彷徨っているんだろう!
気づかれないように拳を握りしめる。
間違ってる自分にも気づけないまま、ただ美しいのは見た目だけで、中身はとっくの昔に空っぽ。穴の開いた心のグラス満たすのではなく、ぶち壊してくれる特別な何かを求めている!それがパルフェたちなんだ!
だからこそ彼女にとってパルフェたちは特別なものになる。自分という存在が間違っていることを教えてくれる愛おしいパルフェたち。幼くて、小さくて。弱くて誰かに守られるべき存在が、自分よりもよっぽど美しく愛にあふれているのだと分かるのは、砕け散るその瞬間しかない。彼女が赦される安寧の刹那を奪い取ろうとしてるやつに、俺が負けるわけがない!100年ベンキョーして出直してこい!そのころにはもっと差が開いているだろうけれどな!
――なぁマダム。お前には聞こえているのか、曲の終わりが。俺はちゃんと聞こえている。足のないオケストラたちの吹く旋律が終焉へと差し掛かったのをちゃんと全身で感じている。俺とのダンスに夢中になっているようで何よりだが、ダンスっていうのは曲にあわせて踊るものだ。
オーケストラに耳を傾ける。狂気的だが、いい演奏だ。
最後に俺が本物のマダム・フリンデールを魅せてやる。いいか、彼女は確かに悪い魔女だ。だけどな。陽だまりの雪みたいに、いつか溶けてなくなるものだけれど、優しい心を持ち合わせている。ただの悪者ってだけじゃゲストは心惹かれないから、魅力な部分も必要なんだって。スチュアートがそう言ってた。確かにそうだ。ギャップっていうらしい。猫舌だから注ぎたての紅茶はふーふーして飲むっていう愛嬌のある癖もある。そんなフリンデールの眼差しを無機質な感じだけで演出してるのもむかつく。
……いや、彼女ならこんな風に偽物に怒ったりなんかしないだろう。今ばかりは俺の感情に蓋をしておく。そうだ、むしろ喜ぶ。見目が同じならば、紅茶の趣味も似ているかもしれない。お茶会が弾むだろうって。まあ、ワタクシとそっくりなのね。でもなんだか悲しそう。もしかして疲れてちゃったのかもしら。無理もないわ。とっても楽しいダンスだったもの。いいのよ、休んでも。ワタクシはまだ踊れるから、ここから先は任せて頂戴。
「だから──ゆっくり、お休みくださいまし」
共に踊りながら、影の唇にキスを落とす。フリンデールは偽物を倒さない、ただ愛の心で寝かしつける。親が子を寝かしつけるときのような、慈愛の口付けのつもりだ。俺はそんなふうにされたことはないから、うまくできてるのかは分からないけれど……いや、誰かにやってもらっていた気がしてきた。不思議な気持ちだ。懐かしさすら覚える。
消えていく影を最後まで抱きしめながら考える。たぶん、大丈夫。マダム・フリンデールはスチュアートと一緒に頑張って練り上げた、大事なキャラクターなんだ。他のキャストの皆だって協力してくれた。もう見た目からして洗練されてて所作も立ち振る舞いも魅力的だし、ダンスも歌もうまい。愛されるに決まっている。ムテキだ、ムテキ。
だから、俺を捉える目と、歌声が届く耳があるなら、カミサマだって魅了できる。燦然たる演出と共に降臨した黄衣の王を見上げながらも心はひどく静かだった。おびえることはない、歌と祈りで召喚されたのなら、俺の虜になるはずだ。でも怖いな、ムテキなのになんでだろうな。
泣きそうになる瞼を、優しくてしわくちゃの手が触ってくれる。いつものおまじない。泣いちゃいけないよね、化粧が崩れるから。
誰かに愛されていると気づくこの瞬間のために、俺とマダム・フリンデールはきっと生まれてきたんだ。ずっと二人を愛してくれた人がいたことに、気づけた今なら、カミサマにだって愛される存在になれる。
きっと、大丈夫だよね。ねえ、おじいちゃん——
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