高二の夏に渡米してから、後ろを振り返る暇もなく走り続けてきた。気づけばあの頃オレにチームプレーを教えてくれて、同じ釜の飯を食い苦楽を共にした先輩たちは、みんなオレの世界からいなくなった。
◇◇◇
高校を卒業してバスケを辞めたのは野辺さんとイチノさん。野辺さんは実家の家業を継ぐため、イチノさんは就きたい職業があるとか。それぞれの道があることをわかったつもりでいたけど、先輩たちとオレの世界が切離された気がした。
そしてその四年後、大学卒業と同時にバスケを辞めたのは松本さん。理由は〝就職したから〟だった。就職したからって何も辞めることはなかったじゃん!企業のチームでだって続けることはできたでしょ!と、帰国した時に詰め寄ったのは誰よりも近いライバルとして切磋琢磨しあった人だったからだった。そんなオレに松本さんは、「ごめんな、沢北」と眉を下げオレの頭を撫でたんだ。
あの時流した涙のしょっぱさは忘れられず、締め付けられた胸は今でも時々苦しくなる。
河田さんと深津さんはプロの道で活躍。それまでマイナーだった日本のバスケットボールは野球やサッカーには劣るけれどメジャーになりつつあった。そのことを嬉しく思ったのは鮮明に覚えてる。なのにこれからって時にふたりは引退を表明。若手へとバトンを繋ぎコートを去った。ふたりの引退試合の動画を送ってくれたのは松本さんだった。物理的な距離が離れて少しずつ疎遠になっていく中、松本さんだけはこうして律儀に連絡をくれる。この繋がりを失いたくなくて、お礼はメールではなく電話にした。
声を聞いたら無性に会いたくなった。
◇◇◇
インターホンが鳴りドアを開けるとそこには数日前電話で会話した相手が大きなスーツケースを手に立っていた。
「………え?なんで?」
「お前が会いたいって言ったんだろ」
「いや、言いました……っけ?」
「言ってたじゃねぇか。泣きそうな声で」
「そんな―――っ!!」
そんなことないと否定の言葉を口にできなかったのは、伸びてきた手が頬に触れたからだ。
「せっかく来てやったんだ。もっと喜べよ」
あの日のようにがしがしとオレの頭を撫でた松本さんは、オレが抑えているドアをさらに開いて「じゃまするぞ」と玄関に足を踏み入れた。遠慮は日本に置いてきたのか、「荷物はここでいいか?」「結構いいとこ住んでるな」と奥のソファに腰を下ろした。
「……コーヒーでいいすか?」
「おう、ありがとな」
オレは松本さんから2人分ぐらいの間隔を空けて座り、マグカップを両手に包み込んだ。松本さんはそれを見て、ははと笑った。笑顔は変わらないけれど、目尻に刻まれた微かな皺が月日が流れたことを感じさせた。
「で、何かあったのか?」
「えっ?」
この人は昔からそうだった。先輩という類の人間をひと括りにして嫌悪感を抱いていたあの頃。どうせこの人だってと蔑んでいた。なのに微妙な変化に気づいてアドバイスしてきたり、プライド高そうなのに後輩のオレに1on1の相手をお願いしてきたり…。いつの間にか高く築いた壁は壊され、固く閉ざしていたはずの心の扉は開けっ放しになっていた。
「言いたくなけりゃ言わなくていいけどな」
「………バスケ、しません?」
「お、いいな。ここに来る間にコートをそこら中で見かけて久々にやりてぇなって思ってた」
これは松本さんの優しい嘘なんだと思ったけど、コーヒーを飲み干してスーツケースの中から取り出したジャージに着替えた姿を見て本当なんだと嬉しくなった。
「え、沢北?お前なんで泣いてんだよ!?」
「いや、違っ…これは…松本さんのせいじゃん!」
「あ?」
「もう!そんなこといいから早く行きますよ!」
ゴシゴシと目元を拭った手で松本さんの腕を引き、近くのコートへ向かった。
◇
「お前な…手加減しろよ!」
「松本さん相手に手加減するわけないっしょ!」
「一線を退いてから何年経ったと思ってんだよ」
膝に手を置きハァハァと肩で息をする松本さん。伸びた前髪からぽたぽたと落ちる汗がやけに色っぽいな。
……って何考えてんだよオレ!
「そうっすね!松本さんはもう普通のおじさんでした!」
くだらない思考を振り払うように悪態をつく。
「1歳しかかわんねぇわ!」
「でもオレはまだ現役なんで!」
松本さんはコートの脇にあるベンチに腰掛けて空を仰いだ。
「さすがだよな」
「………そんなことないっす」
「ん?」
ベンチを背もたれにして地面に座り同じように見上げた。
「オレ、バスケしかしてこなかったから、これから先もバスケしかないんです。でもこれってオレの当たり前であってみんなの当たり前じゃない。わかってたつもりだったんです。でも実際先輩たちがひとりひとりバスケの世界からいなくなるのを目の当たりにして…そしたらオレだけ間違った世界にいるみたいに思っちゃって…。だからってバスケが嫌いとか辞めたいとか、そういうんじゃなくて…」
松本さんは静かに相槌を打ちながら最後まで要領を得ないオレの話を聞いてくれた。
「沢北」
「はい」
「目瞑ってみ」
言われた通り目を閉じた。すると近づいた気配と松本さんの香り。その瞬間、突如感じた唇への温もり。びっくりして目を開けばすぐそこに松本さんの顔があった。
「まつ、もと、さん……なに、して……」
「何だろうな。お前の話聞いたらキスしたくなった」
「はぁ!?」
何考えてんのこの人!?頭おかしいんじゃねー?そんな流れひとつもなかったし!!
「ちゃんと話聞いてました!?」
「聞いてたよ。お前が走り抜けてきた道も、今いる世界も間違いなんかじゃねぇ。だから、オレがバスケ辞めたからって切離すなよ」
「……なんで?」
「愛してるからに決まってんだろ」
「……今さらありえねーし!もっと早く言ってくださいよ!松本さんのバカッ!!」
オレだってずっと好きだったのに!さらっと愛してるとか言うなんて反則だろ!また涙出てきちゃったじゃん!
ずずっと鼻をすすれば「沢北の泣き虫は変わんねぇな」なんて呑気に笑ってるからもう一回バカって言いながら松本さんのジャージで鼻水を拭いてやった。
「汚えな!」
「松本さんが悪いんで!」
「お前なぁ…帰ったら覚えてろよ」
「存分に愛してくださいね!」
そう返せば松本さんは瞳を一瞬大きく開いたあと、フッと口角を上げて笑った。
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