Ymi:no
2026-01-14 21:11:03
30037文字
Public ビマヨダ連載中
 

それは名状しがたき純愛なれば 前編

コズミックホラー×人外×純愛×ビマヨダ
クトゥルフ神話TRPGの世界観をベースに、邪神ビーマと人間ヨダナの恋愛模様を描いた純愛ものです

 人々の技術では未だ観測できぬ、つ宇宙に漂っているに、自我が芽生えたのはいつの頃だっただろうか。
 が初めに覚えたのは耐え難い空腹――つまるところ食欲だった。身の捩れるような不快感に、おのが軟体を四方八方へ収縮させて身悶える。その姿を人が視認すれば、あまりのおぞましさに嗚咽し吐瀉物を撒き散らしたかもしれない。しかしは美醜の概念も、空腹という感覚やその解消方法も、何もかもを知らなかった。ただ気が狂うような飢餓感を抱え、永く外つ宇宙を彷徨うしかできなかった。
 そうして無知なまま宇宙そらを泳ぎ続けること数百年、ようやくは食料と呼べるものに出会った。人々が天体と呼ぶ塊を、まるでそうするのが自然なように、触手で絡めとって身体の内へと取り込んだ。途端に内側で膿んでいた痛みが和らぎ、同時に何かが満たされていくのを知覚した。この感覚はなんだろうか。気の赴くままに他の塊を二、三と取り込んで――ようやっとは〝食べる〟ことを知り、〝食べたい〟という我欲を手に入れた。
 自我が芽生えれば、世界に対する認識は百八十度様変さまがわりする。今まで漂流していたのが疑わしい速度で、は美食を求めて外つ宇宙を駆け回り始めた。
 ――世界は〝美味い〟で満ちている!
 が見渡す世界は隅々までもが輝かしい。全てが全て、の知らない美食を内包しているのだから、然もありなん。そうやってあれこれと食を楽しむうちに、生物らしい振る舞いも身についていった……ように思う。
 そうしてこの名状しがたき生物いきものは、外宇宙に遅すぎる産声を上げたのだった。

❀❀❀

『腹、減ったなぁ』
 暴飲暴食の限りを尽くしていたは、同じ外つ宇宙で暮らすなにがしから得た情報を頼りに、ひとつの惑星を探していた。青と緑で構成されたその星の名を、地球と言う。この惑星の表面に息づいた生物――人間がもたらす料理なる美食が今回の目的ターゲットであった。
『青、緑、青…………おっ?』
 見れば分かる、という粗雑な紹介で宙を泳いでいたは、色鮮やかな青を前に感嘆の息を漏らす。
『確かにこりゃ、見れば分かるな』
 永いこと宇宙を探検してきたが、これほどうつくしいあおの星は見たことがない。少し泳ぐスピードを弱め、視界いっぱいに広がる青をじぃっと眺める。の目的は美食の探求だったが、思わず足を止めてしまうだけの魅力がその碧にはあった。
『んで、リョウリっつうメシを作るニンゲンってやつが、この星で暮らしてるんだろう? ――いいじゃねぇか、俄然興味が湧いてきた!』
 某に聞いた通りぎゅうと体躯を引き絞り、宙を蹴って碧へと駆け出していく。この星には大気圏なる防御壁があり、頑丈な身体と何をも蹴散らす速さをもって突破する必要があった。そのどちらもが特別製の自覚があるは、何の躊躇いもなく一直線に碧へと向かっていく。
『次はどんな美味いもんが食えるのか――くぅぅ! 腹が鳴るぜ……!』
 新たなる美食との出会いを夢想しながら、浮ついた心のまま未知の世界へ飛び込んだ。

❀❀❀

 燦燦と降り注ぐ太陽の下、広々とした公園の一角にちょっとした人集りができていた。中心にあるのは鮮やかなミントグリーンの車と、車体の半分を覆う大きな垂れ幕である。白い布地には様々なピタパンの写真が並んでおり、ひと目でキッチンカーと分かる出で立ちをしていた。
 甘辛チキン、ハムカツ、ハムチーズ、チリビーンズ、ルーローパン。絶品揃いのキッチンカーは大変な人気を誇り、昼に差し掛かった頃から絶えず人が並んでいた。これを切り盛りしている男も、やや無愛想ながらもスピーディに客を捌いている。
 次第に辺りは小麦の香ばしい匂いやソース、スパイスの華やかな香りに包まれ、食欲を刺激された通行人が一人、また一人と釣られて列に並んでいく。正午もとうにすぎ、ターゲット層の社会人が仕事に戻ってなお、ピタパンキッチンカーには人という人が押し寄せ、大変な賑わいをみせていた。男もこの売れ行きには満更でもないのか、口の端を僅かに綻ばせている。
 そうして人がまばらになった頃には、日も傾いてうつくしい茜空が顔を覗かせていた。客層も移ろい、仕事上がりに持参のビール缶で一杯興じる者、子連れで立ち寄り家族の夕飯にと持ち帰る者、夜食に複数のピタパンを買い込む者……様々な客がこのキッチンカーを利用し、ピタパンの入ったビニール袋を手に帰路へついていく。その光景を、男は無愛想ながらも温かな眼差しで見守っていた。
「おじちゃん、ばいばーい」
 最後尾だった子連れの女性客に商品を手渡す。すると元気のいい男児がぶんぶんと手を振り回し、にかっと気持ちのいい笑顔を見せた。男も手を挙げて答えれば、母に手を引かれた子どもがきゃあきゃあと何かを騒ぎ立てる。踵を返しつつ楽しげに話しかける母と、きゃらきゃらと笑う男児の仲睦まじい背中に男が目を細める。キッチンカーを運営する楽しさは、こういうところにあるというのが男の持論だった。
 やがて賑やかな二人の姿も遠のいていき、子どもの声も聞こえなくなる。
「んん、もうほとんどねぇなぁ」
 やや機嫌の良い男が車の外に出て、垂れ幕に手を伸ばす。車中の食材は既にからに近い。少し早いが店仕舞いにしたらしかった。
 この調子なら、仕入れ量を増やしても良いかもしれない。明日以降の経営を考えながら、手際よく垂れ幕を巻いていく。
 男の人生はいつだって、料理に始まり料理に終わった。新鮮な食材を仕入れ、丁寧に調理して販売し、日の終わりと共に店仕舞いをする。何の変哲もない日々、代わり映えのしない日常。それこそが男の宝だった。結果として男の生涯は大した躓きも輝きもなく、しかして料理で満ち足りたものになるはずだった。
 ――その時までは。
………………?」
 最初の違和感は音だった。ぐじゅ、ぐじ、と粘性の何かが捻れあうような、形容し難い不快な音が微かに耳を擽る。サッシでも歪んだかと販売窓を開け閉めするが、手入れされたキッチンカーは静音性を保っている。ではメニュー看板を兼ねた跳ね上げ扉の方かと手をかけるが、やはりこちらも鉄らしい音がなるだけだった。消去法で周囲を見渡してみるが、ただの芝生広場にそれらしきものはない。それでもなお鳴り続ける音に背を震わせた――瞬間、大きな影が車ごと男を飲み込んだ。
「ひ、ぃ、」
 明らかに自然ではできようのない、蠢く何かを象ったようなどす黒い影に男が腰を抜かす。
「なにっ、なん、っ」
 がくがくと両足を震わせる男の真後ろに、〝何か〟がいる。男は本能からそれを察知していたが、同時に振り向けば戻ってこられないという確信もあった。
 既にぐっしょりと汗に濡れ、肌に張りつく服の感触すらおぞましくて堪らない。はっはっと犬のように息を継ぎ、震える身体を両腕で抱き締めて目を瞑る。男に逃げるという選択肢はない。そんなものに意味がないことは、男が何よりも理解していた。ただびりびりと肌を焼く〝何か〟という存在が、奇跡的に見逃してくれることを祈るしかなかった。
「ぅ、ぁ、あ、――あ゙」
 びちゃ、べちょと音を立てながら、触手のようなものが男の頬を撫でる。ぶよぶよとした感触の、表面を覆うようにまぶされた粘液がべちゃべちゃと頬を濡らす。
 触れられたところから肌が粟立ち、臓器という臓器が急激に収縮し始める。じゅるじゅると口の中に唾液が溜まっていき、胃がひっくり返るような、あるいは容赦なく揺すられるような不快感に喉が嘔吐く。衝撃で開いてしまった視界の端に映る、黒い軟体とショッキングピンクの粘液のマーブル模様が男の吐き気に拍車をかけた。
「ピギ――、ギ――ギギ、ィ――、ォ――
「や、ぁ、あ゙、あ゙あ゙あ゙――
 これは鳴き声だろうか、直接人間の脳を掻き回すような音が聞こえる。遂に耐えきれなくなった男は、身体中から液体という液体を吐き出し、絶叫を上げたかと思えば黙り込み、ぴくりとも動かなくなった。
「ギ――、ギュィ、ギィギィギェ――――
 何本もの触手が男へ伸びていき、激しく身体を揺らす。脱力した身体はなされるがままに前後左右へ揺れ、首がぐるんぐるんと回転する。限界まで見開かれた瞳に光はなく、心臓こそ動いているものの、男が再び意識を取り戻すことはなかった。

『なあ、おい! アンタが作ってるそれ、それがリョウリってやつだろう?!』
 急に動かなくなってしまった身体を揺すり、必死に話しかける。人間たちが身体に取り込んでいた、白い物体こそが料理だとは推察していた。だからこそその白いのを分けて貰おうとしたのに、肝心の人間が何故か動かなくなってしまっている。
 どんなに観察していようと、に白いのを再現する手立てはない。この人間だけが頼りなのだ。それなのに。
『この前も、その前だってそうだ……! 俺が近づくとみんな動かなくなっちまう! 俺はただ、リョウリが食いてぇだけなのによ……!』
 切羽詰まった、悲哀の声が虚しく響く。
 が最初に見つけた料理は茶色くてまるいやつだった。次に見つけたのは茶色くて平たいやつ。どちらも茶色い液を塗った後に、緑の粉と茶色いひらひらを乗せるようだった。
 その次は黄色の膜に、様々なものを乗せて巻くやつだ。白いモコモコ、黄色い棒、茶色いつぶつぶや液、赤い大きめの粒や液……数えきれない種類があったのを覚えている。
 更に次はピンク色に茶色の縁がついていて、少し厚みのあるやつ。これはそのまま取り込むらしい。
 そして今回が、様々な茶色い塊を白いので包んだやつである。これも種類がたくさんあるようだった。
 そのどれもに興味を持ち、は幾つか分けて貰おうと人間の前に降り立った。するとどの人間も一様に、何故か動かなくなってしまう。攻撃する意図はないと腕を差し出しても、精一杯優しく声をかけても全く変わらない。この惑星に辿り着いて少し経つが、未だには料理というものにありつけずにいた。
『うぅ……腹、減ったなぁ…………
 ギュゴゴギュゴと腹が鳴る。いい加減なにか、何でもいいから腹に収めたい。でないといつまで経っても、身体の内側にある膿んだような痛みが消えなくて苦しいのだ。
 人間が入っていた箱の中に身体を滑り込ませ、目線をあちらこちらに彷徨わせる。やはりあの白いのは見当たらない。白いのに包まれていた、茶色いあれそれもなさそうだった。ぶわっと液体が溢れ出そうになるのを堪え、男が動いていた時のことを必死に思い出す。何度も反芻して、はっと思い至る。台の上に置かれた銀色の箱を、男は何度かぱかぱかしていたはずだ。恐る恐る銀色の四角いのに腕を伸ばし、上の板をそっと持ち上げてみる。すると中に数個だけ、茶色い塊がちょこんと入っているのが見えた。
『リョウリ……! リョウリだ……!!』
 身体を近づけると、ふんわりと腹を心地よく刺激する香りがする。今まで色んなものを食べてきたが、この香りは嗅いだことがない。の中でぐぐぅんと期待値が上がる。これは美味いものだ、という謎の確信がにはあった。
 小さな塊をひとつ取り出し、ゆっくり身体の中に取り入れる。途端に甘いような塩辛いような絶妙な味が広がり、思わず身悶えてしまう。
 ――美味い!!!
 あまりの美味しさに視界がぱちぱちと弾け、身体を構成する触手が激しく蠢き収縮する。量はちっとも足りないが、その美味しさには、不満を飲み込んでなお余りある満足感があった。かっと視界を大きく広げ、銀色の箱の中を見る。茶色い塊はまだふたつ残っている。
『今のをもう二回、味わえるってことだよな……?!』
 もうひとつ塊を持ち上げ、今度は慎重に身体の中に取り込んでいく。やはり甘くて塩辛い味がする。何度味わっても飽きがこない、むしろ何度でも食べたい味に全身が震えた。
 そのままじっくり食べ進めると、今度は外側の皮だけが少し固く、中身は驚くほど柔らかいことに気づく。柔らかい食事というのが衝撃的であるし、外側がパリパリするのも大変気に入った。更にしっかりと腹の内で溶かせば溶かすほど、味に深みや厚みが増していく。人間の料理は素晴らしい。食事を腹に溶かしていて楽しいのは初めての経験だった。
『あと一個、……――?! そうか、あと一個しかねぇのか……!』
 天体がぶつかってくるような衝撃が走り、ギュウギュウと悲鳴が漏れる。もう奇跡の茶色い塊はひとつしか残っていない。当然ながらにこの塊を作るすべはない。これが本当の本当に最後なのだ。
『どうすりゃいいんだ……?! まだ食い足りん! が、もうこの一個しか残ってねぇ……
 うごうごうごうごと高速で触手を蠢かせ、は悩む。この茶色い塊を、あと百、いや千個は食べたい。しかしもうこの茶色い塊を作れる人間は動かないのだ。どうすればいい、どうすれば――
 何か手がかりはないかと、箱の中から外を見やる。そこには先程の人間が倒れており、そして。
「ゲェ……!」
 ふっと拾った音にしびびと全身を焼かれ、慌てて箱の隅に縮こまる。それはまるで宇宙そらが広がるような、澄み渡るほど綺麗な音をしていた。
「人が倒れとるではないかぁ?! ……こんな現場に鉢合わせるとは運の悪い」
 そうっと箱の縁から身体をはみ出させ、音のした方へ視線を向ける。すると動かなくなった人間の傍に、新しい人間がいるのが見えた。
…………全力で見なかったことにしたぁい」
 茜色の空を背負う、見知らぬ人間の姿すがたかたちを視認し――全身が固まる。ぴくりとも動けないまま、ひたすらじぃっとその人間を食い入るように見つめてしまう。
 ――綺麗だ。
 ぽつりと心の内で呟く。何が、と言われると答えられないが、生涯見た中で最もうつくしいと思える存在がそこにいた。
「わし様のせいではない、せいではないが……むむ、ぐむむむむむ……
 心地よい音を聴きながら、そっと人間の挙動を観察する。あのうつくしい人間は何を考え、どういう意図で音を発しているのだろうか。分からない。には一切の検討がつかない。当たり前だ。そも人間の何もかもを知らないのだから。
 すとんと腹に落ちてきた認識にはっとする。
 ――そういや、俺は人間のこと……何も知らねぇな。
 料理という美食を作る種族。に分かるのはただ一点のみ。彼らがどうやって意思疎通を図るのか、どのような生態を持つのか、何もかもが分からなかった。
………………仕方あるまい。わし様、聡明で善良な市長であるしな……救急車くらいは呼んでやろう」
 ぎゅぎゅっと小さくなりながら、触手の先を掲げてゆっくり揺らす。分からないなら、学べばいい。人間とはどういう生き物なのか。何を考えて動くものなのか。
 うつくしい人間が四角い板を身体に当て、つやつやとした薄紫をこちらに向ける。人間を観察するうちに気づいたのだが、彼らはこのつやつやとした面からは、周囲の情報を得られないようだった。つまり、あのうつくしい人間はを見ていない、ということになる。恐らく。たぶん。
 素早く触手を伸ばし、うつくしい人間との間で倒れている人間に触れる。あの茶色い奇跡を生み出した、もう動かなくなってしまった人間。彼らのことを知りたいのならば、教えてもらえばいい。
 もにもにと腹の内側で呪文を唱える。知的生命体であれば、この呪文で記憶や感情を読み取れるはずだ。
――――ウム、ウム……そうだ、加賀浦第一公園だ。歳は四十半ばくらい、呼吸はあるが意識が戻らん。それで……――
 ……少し不遜な、それでいて甘いテノールが耳を優しく擽る。販売窓からそっと外を伺い見れば、腰まで伸びた艶やかな髪に、皺のないスーツを着こなした広い背中がそこにあった。
 彼はまだ、が車内に潜んでいることに気づいていない。しかし救急との通話を終えてしまえば、あるいは男の身元を調べようとすれば、簡単にバレてしまうだろう。
 さてどうしたものか。首……首でいいのか? を捻り、考える。直感的に、あのうつくしい人と懇意になりたいなら留まるべきではないと感じる。至極単純な話だが、人間を把握したばかりの自分では、見つかった後のあれそれを切り抜けられそうになかったのだ。結果として不信感を持たれれば、悪い意味でうつくしい人の記憶に残るかもしれない。それは困る。あのうつくしい人はいずれ自分のものになるのだ。過程の障害は少なければ少ないほどいい。
 ならば……取るべき道はひとつ。
 静かに迅速に、触手でキッチンカーをぐるぐる巻きにして、音を立てないように宙に浮き上がる。
 ――撤収!
 キッチンカーごと空を駆け、大きな公園の裏手にある森林の中へ逃げ込む。この辺りは背の高い木々が生い茂っており、身を隠すには打って付けの場所だった。突然キッチンカーが消えて驚いているだろうが、あのうつくしい人に見つかることはないはずだ。
「ん、ん゙ん……、ここまでくれば大丈夫だろう」
 音の鳴る器官を弄り回し、浮かんできた言葉を吐露する。あのうつくしい人には劣るけれど、人間らしい声が耳に届いて嬉しくなる。これが人間の声、コミュニケーションの音だ。そうして音の羅列の意味が分かってしまえば、これまで観察していた人間たちの会話が、声が、するすると頭に入ってくる。
「本当に……わりぃこと、しちまったなぁ……
 感情を読み取って特に気を引いたのが、料理人の男が自分と出会ってしまった瞬間の記憶だった。身体の芯から湧き上がる嫌悪、忌避、恐慌。悍ましい存在への感情の発露は、文字通りに恐怖という感覚を刻みつけた。ですらぞぞぞと身体中が震え上がったのだ。ただ料理を振舞っていただけの男からしたら、堪ったものではなかっただろう。何も知らなかったとはいえ、随分と酷いことをしてしまった。
……怖がらせるつもりはなかった、なんてのは言い訳でしかねぇ。お前たちは……しっかり俺を恨んでくれ」
 二本の触手の先端を触れ合わせ、黙祷を捧げる。それが今のにできる、精一杯の謝罪であった。
――――――――――
 ゆっくりと姿勢を解き、触手を空に掲げる。もっと料理を味わいたいし、うつくしい人ともお近づきになりたい。何なら自らの手で料理を生み出せるようになりたいし、うつくしい人とはそういう深い仲にもなりたい。
 は人間を知り、人間に歩み寄ったからこそ、人間としての日々を謳歌してみたくなっていた。しかしこの姿は、人間にとってあまりにも危険すぎる。だから。
「俺がもしも、人間に生まれていたら。呼び起こすのはあり得ざるもしもイフだ」
 およそ人の耳には不快だろう呪文を唱え、触手を月の輝きに浸す。すると複数の触手の先が液体のように溶け、寄り集まって薄べったい皮を形成していく。みるみる袋状になって広がった皮は、ひらひらと風にはためいていて不気味だが、とても人らしい形をしていた。
「この中に、身体をねじ込んで……よっ、こいせ、っとと」
 袋の中に超圧縮した本体を捩じ込み、皮と肉の繋ぎ目を馴染ませ、地面についた二本足で踏鞴たたらを踏む。どうにも偏っていたらしい肉を満遍なく行き渡らせ、前後左右のバランスを取りながら、今度はしっかり大地を踏み締めた。
「おお……! 人間、人間だ……!」
 両の手を眼前に掲げたり、くるりと身体を回してみたり、一頻り謎のひとり踊りをして頬を緩める。確かに人間と同じ姿形であることに、得難いものを手に入れたような、何とも面映ゆい気持ちになってくる。見た目だけとはいえ、は確かに人間になれたのだ。
「へぇ。俺ってこんな顔してたのか」
 キッチンカーのサイドミラーを覗き込めば、光沢面に見覚えのない顔が映り込む。異国情緒を感じる褐色の肌に、ちょんちょんと顔のパーツが乗っている。切長の瞳は色素の薄い水色、もさもさと大雑把に生えた髪は濃い紫色をしていた。
「あいつがこの顔を気に入ってくれるといいんだが」
 あのうつくしい人を思い出す。年相応に面長な顔に健康的な白い肌、宝石のような瞳は綺麗な赤紫で、垂れ目も相俟って愛らしさがあった。すっと通った鼻筋の下にある、ぱくぱくとよく動く大きな口も大変に可愛らしい。何より陽の光を透かして、さらさらと流れる薄紫の髪があまりにもうつくしく、だからこそ人間そのものに興味を持てたのだとつくづく思う。
「美醜っつうより、好みかどうか、だよなぁ」
 人には好みというものがある。だから白い料理――ピタパンのメニューも複数あったのだ。これまでが観察してきた、たこ焼きやお好み焼きなんかもそうだ。ことクレープに至っては、混乱するほど種類が豊富だった。
 果たしてこのかおかたちは、あのうつくしい人の好みに入るだろうか。そこだけが心配である。
「まあそこは賭けになるか。あとは、」
 足りないものはまだまだある。例えば衣服。現状は全裸なわけだが、このまま人の前に出れば確実にお縄になる。邪神がお縄。なんと愉快な光景だろうか。他にも住居や仕事、うつくしい人との接点と上げればキリがないが、何より最初に確保すべきは――名前であろう。
 には親がいない。おそらくは自然発生的に生まれてきたのだと思われる。なので厳密には、同じ種族と呼べるものもいなかった。そして誰も呼び名を必要としなかったから、には名前がない。
「できればあいつと関わりのある名前がいい」
 あの料理人の記憶の中に、うつくしい人に関する記録も残っていた。名前を加賀浦夜奈ヨナといい、この加賀浦市の市長を務めている。名前は異国の叙事詩に因んでおり、一部の人からは親しみを込めてドゥリーヨダナと呼ばれている……らしい。
 集中して記憶を掘り起こしてみるが、どうやらこの人は異国の叙事詩についてはあまり詳しくなかったようだ。分かったのは、たまたま小耳に挟む機会のあった、ドゥリーヨダナの宿敵がビーマであることだけだった。
「ビーマ。ビーマか………………俺は、ビーマだ。――何だかしっくりくるな!」
 異国の叙事詩がさっぱり分からないは、ドゥリーヨダナに関わる名であるビーマをそのまま戴くことにした。自分はビーマ。邪神でありながら、人になることを望んだ一個体ビーマ。一度そう認識してしまえば、地に根を下ろしたような心強さが芽生えてくる。ビーマはこれから、人という輪の中で、他ならぬ人間として生きていくのだ。
 かくしてこの新しい命は、大地に健やかな産声を上げたのだった。

❀❀❀

「とりあえずこんなもんか」
 Tシャツに七分丈のパンツを履き、ダイニングにある木製の椅子に腰掛ける。一DKの部屋は全てがコンパクトにまとまっており、ほっと一息つける丁度いい手狭さだった。
 鬼門だった住居と衣服が手に入り、身体の奥から安堵のため息が漏れる。そのままぐでっと背もたれに凭れかかれば、脳裏に短くも濃い道程みちのりが思い返された。
 公園に留まっていたビーマは、ウンウンと唸り続けた結果、倒れてしまった男の家に向かうことにした。他に行き先がなかったのもあるし、一つ閃いたことがあったのもある。とにかく運転席に座ったビーマは、男の記憶を頼りに車を発進させた。
 木々が生い茂る公園内は人影もなく、夜闇の静けさに優しく包まれていた。初めてのドライブとしては最高の景色だったと言えよう。しかし時間はあっという間にすぎるもので、すぐに公園の終わりまで辿り着いてしまった。
 車を一旦停車させ、窓に術をかける。ビーマはいま全裸で車に乗っている。このままでは通報されかねない。そのため、窓をマジックミラー化させる必要があった。
 そうこうして夜の街へと飛び出したが、人を学んで羞恥心を覚えたビーマは、それはもう別の意味でドキドキしながら車を走らせた。誰か一人にでも見つかれば人生終了であるし、感情的にもせめて下だけは履かせて欲しかった。運転の最中さなかは内心転げ回っていたが、どうにか男の家に上がり込んで今に至る。
 ビーマがこのような暴挙に出たのには、当然ながら理由があった。前提条件として、植物状態になってしまった男は長期入院が約束されている。また男は独身であり、両親や兄も既に他界しているため身寄りがない。そこでビーマは、ちょっとしたストーリーを差し挟ませてもらうことにしたのだ。
 ビーマはこの男ので、就職先を探していたところで叔父の入院を聞いて駆けつけた。そこで叔父の家と仕事を引き継ぎ、入院費と生活費を稼ぐためにこの街で働き始めた。……といった感じのものを。
 実はこの甥は実在するのだが、有難いことに母親と共に海外で暮らしており、日本に帰ってくることはほとんどないらしい。男もあまり関わったことがなく、実質の絶縁状態にある。なのでここでの生活のために、設定だけお借りすることにしたのだ。あとは適宜説明したり記憶を書き換えたりして、人々から違和感を消していけばいい。
 ……マイナンバーとか戸籍謄本とか運転免許証とか、ややこしいことから目を背け、持ち前の楽観さで作戦を自画自賛する。大丈夫、大丈夫。きっとなんとかなる。
 ぐっと両腕を伸ばし、凝り固まった身体を引き伸ばす。まずは叔父が運ばれた病院に顔を出し、がいると認識させるところから始めなければ。当分は自分という存在を馴染ませるために、駆けずり回ることになりそうだ。
「さぁて、頑張るか……!」
 休んでばかりもいられない。決意も新たに勢いよく椅子から立ち上がり、荷物の詰まったバックパックを背負い込んだ。

「はぁー……病院に入るのも一苦労だったぜ……
 白いベッドの横にある、パイプ製のスツールに腰かけてボヤく。叔父との面会に漕ぎ着けるまでに、呪文を何回唱えただろうか。色んな人の脳を弄くり回すことになり、申し訳なさより疲労感が勝ってきてしまっている。
「しかも延命治療がどうのこうの、……俺のせいなんだから、諦めるなんて選択肢はねぇってのに」
 植物状態になってしまった叔父の、延命治療をするかどうかの確認をしつこくされたのにも少し参っていた。尊厳死という考え方も理解はできる。この様子だと、そちらの方が良いと考える人間も多いのだろう。しかしこの男が廃人になってしまったのは、他ならぬビーマのせいなのだ。命の最後まで責任を持つのは当然のことに思う。
……お前がいつか目覚めるまで、色々と借りさせてもらうな」
 もう開かなくなってしまった瞼を見据え、そっと言葉を落とす。これがいまのビーマにできる精一杯の誠意である。廃人にしてしまったことへの、そして親族を名乗り生活を間借りさせてもらうことへの。
 いつか目覚める日が来たのならば。あり得ざる未来を夢想し、叶わぬ願いに思いを馳せる。まずは何より謝りたい。そしてもし、もしも許されるならば、料理について語らってみたい。レシピも記憶も頭の中に入っているけれど、ビーマには料理をした経験がない。きっとそこには色んな知見が、驚きと学びがあるはずだ。
「ああ、きっと楽しいだろうなぁ……
 静かに横たわる男を見つめ、ぐっと口を噤む。全てを奪ったのは自分だ。も訪れはしない。だからこそ。
「入院費はちゃんと稼いでくるぜ。だから、……またな」
 スツールからゆっくりと立ち上がり、少し重たいバックパックを持ち上げる。最後に機械音だけが響く室内を見渡し、病室を後にした。

❀❀❀

「まずは一通りつくれるようにならねぇと」
 病院から帰宅し、初めての睡眠を貪ったビーマは、朝も早くに自宅のキッチンの前に立っていた。
 仕事はもう決まっている。ピタパンキッチンカーでの食品販売だ。しかしビーマには料理の経験がない。ついでに食品衛生責任者の資格もない。キッチンカーは幸い叔父のものがあるので問題ないが、実は運転免許証も持っていない。最悪のないない尽くしである。
 というわけで取っ掛かりとして、まずはピタパン作りから始めることにしたのであった。
「最初に粉を測って混ぜて……そこに水、……と、オリーブオイル、を、よいせっと」
 ボウルの中に強力粉、塩、きび砂糖、ドライイーストを測り入れ、粉のまま綺麗に混ぜ合わせる。そこに水とオリーブオイルを加え、水分が行き渡るようにドレッジで混ぜていく。すると粉が水分を吸って固まり、混ぜるほどに粘り気を持ってまとまり始める。更に混ぜ合わせ、持ち上げても崩れない程度にまとまったら、生地をボードの上に移動する。
「生地捏ねんの、楽しいなぁ! 特に手触りがもちもちしてるのがいい」
 ボードの上で生地を捏ね回し、まだひとつにまとまったばかりの塊を徐々に滑らかにしていく。続けてこねこねしていると、次第にダマの感触が減っていき、弾力が掌に返ってくるようになる。
「これを綺麗に丸めて……よしよし、いい感じだ」
 程よい弾力のある生地を綺麗に丸め、ボウルに移し替えてラップを被せる。ここから一時間、発酵タイムを取る。
 手馴れていればこの時間で具材を作れるらしいが、ビーマは初心者なので、冷凍庫の中にあった肉まんを食べてのんびり待つことにした。袋を見るに既製品のようだが、肉の旨みがじゅわっと溢れる肉まんは中々に美味しかった。これで市販品なるレッテルを貼られ、手作りより劣るとされているのだから恐るべし。その辺の星屑なんかよりずっともっと美味しいというのに。人間の食に対するこだわりには感服してしまう。
「おお! ぷっくぷくになっちまってまぁ……!」
 ぴったり一時間後にボウルを覗き込めば、生地がぷくっと膨らんで嵩を増しているのが確認できた。丸々と膨らんだ姿はどことなく愛らしい。ラップを剥がし、もちもちまあるく膨らんだ生地をしげしげと眺め、――真ん中に指先をズドムッと突き立てる。そのまま指を引き抜けば、哀れにも指先の形に凹んだ生地と目が合った。
「戻ってこねぇ、のは分かったが……ちっとばかしわりぃことしたような気分になるぜ」
 のんびり丸さを取り戻しつつある生地をボードに乗せ換え、容赦なく六等分に分割する。それぞれを再び丸くまとめ直し、バットにちょんちょんと等間隔に並べてラップをかける。
「ベンチタイムは……二十分か」
 オーブンの余熱ボタンを押し、小さくなった丸たちを眺めながら再び肉まんを頬張る。やはり肉まんは美味しい。
 そうして六個目を胃に収めた辺りで、あと百個、いや千個は食べたいと夢想する。しかし千個となれば値段は如何程のものか。叔父の預金通帳を思い浮かべ、肩を落とす。そんな余剰資金なぞありようもない。そも人の預金で贅沢をするとは何事か。
 しょもしょもと夢を萎ませて、心の内で決意する。ちゃんと働けるようになったら、貯金をして食い倒れ旅行に行こう。人間の世界には食べてみたいものが多すぎる。
「ん、ちょうど予熱し終わったみてぇだな」
 肉まんを食べ終わると同時に、ピーピーとオーブンが音を鳴らす。どうやら余熱が終わったらしい。
 休ませていた小さな丸たちを取り出し、ボードの上に移動させる。これを綿棒で押して引き伸ばし、平べったい楕円形に形成していく。
「高音で焼くと真ん中がぱっくり割れる、なんてよく気づいたもんだ」
 シートを敷いた天板に生地を乗せ、オーブンの中に押し込む。焼き時間はたったの五分、高温でさっと焼き上げれば完成である。
「見た目は完璧だな!」
 ミトンをつけた手で天板を取り出し、シートの上に鎮座した焼き色のうつくしいピタパンを眺める。外側は叔父の作っていたピタパンにそっくりだ。
 熱々のピタパンを別の綺麗なボードの上に乗せ、粗熱を取ってから包丁で二つに切り分ける。切り口には綺麗な袋状の窪みができており、大きな具材も問題なく挟めそうだった。
「問題は味か……さぁて、」
 手でひと口大にちぎり、口の中へ放り込む。途端に小麦の香りが鼻腔を抜けていき、歯を立てればふわふわもちもちとした食感が返ってくる。
――美味い!!」
 素朴な味わいはそのままでも美味しく、しかしどんな具材とも喧嘩せずに引き立てあえる力強さを感じた。あの奇跡の甘辛チキンはもちろんのこと、ハムカツやハムチーズといった定番から角煮やプルコギといった変わり種まで、色んなものを挟んでみたくなる。
 括りとしては、少し汁気があって濃いめの味のもの……と考えたところで、ぴーんとビーマの脳に閃きが飛来する。叔父のキッチンカーとの差別化として、固定メニューとは別に日替わりメニューを設けてもいいかもしれない。日々のちょっとした刺激は人生の潤いになる。叔父は体力的な問題でやらなかったようだが、ビーマの中身は人になりたい邪神である。体力だけなら誰にも負けはしない。
「驚きっつうと……きんぴらとか挟まってたら面白いかもな! あとは汁を吸った煮物とか、甘辛ダレの焼肉とか。あとは……――!! てりたまチキン……!! それは俺が食いてぇわ!」
 次々と浮かぶ日替わりメニュー案に口の中が湿ってくる。どれもこれも美味しそうで、先程朝ご飯を食べたばかりなのにもう腹が空いてきてしまった。
 ちぎっていたピタパンを手に取り、今度は真正面からかぶりつく。やはりもちもちの食感と香ばしい匂いが堪らない。このレベルならキッチンカーで販売しても問題ないだろう。
……それでもまだ先があるんだから、料理ってのは奥が深い」
 残りのピタパンも腹に収めつつ、叔父の記憶にあるピタパンを思い返す。ビーマのピタパンも充分に美味しいが、叔父の作るそれには今一歩及ばない。原因は分かっている。叔父は基礎レシピを元に、その日の気温や湿度を鑑みて、水の量や生地の練り込みを調整して調理していたのだ。対するビーマの料理は、基礎レシピに忠実に調理されている。
「感度は高く、技術は深く。料理人を名乗るなら、もっと鍛えねぇと」
 振る舞うならより良いものを。食べるならより美味いものを。美食を探し彷徨さまよっていた怪物は、ここに至って自ら生み出す側へ回った。空腹から生まれたビーマにとって、この道程みちのりは人生命題とも言えるかもしれない。
「うっし! 次は具材だな! さて、メニューはどうしたもんか」
 ピタパンが焼けたのなら、次は挟む具材を考えなければ。わくわくとした面持ちで叔父の記憶を掘り起こす。無限に湧いてくる候補に目移りしつつ、考える。候補がたくさんあるからといって、適当に選んでいいわけでもない。
 例えば叔父のキッチンカー。まだ叔父のレベルに届かない身としては、全く同じメニューでのキッチンカー運営は避けたいところである。なぜなら容易に味の比較ができてしまうからだ。〝前の方が良かった〟と思われてしまえば、客離れに拍車がかかるだろう。それは困る。非常に困る。
「秘伝の甘辛チキンは引き継ぐとして、」
 叔父の後釜を名乗る以上、トップの売上を誇る甘辛チキンは外せない。それ以外のメニューで、ビーマのキッチンカーらしさを出していく必要があった。
「仕入先が変わらねぇようなメニューならなお良し、ってとこか……?」
 キッチンカーの運営に欠かせないものとして、仕入れと仕込みがある。食品は鮮度が命であるし、調理は営業許可のあるキッチンで行うことを義務付けられている。叔父はこの問題を、懇意にしている精肉店のオーナーの協力で解決していた。ビーマも同じ道を辿るべく、閉店後の時間に打ち合わせの予定を入れてある。
「すげぇ気前の良いばあさんなんだよなぁ……助かるぜ」
 電話で一通り掻い摘んで説明したビーマに、ひとつ返事で協力を快諾してくれたオーナーには感謝しかない。ここが絶たれてしまえば、伝手のないビーマはただ右往左往するしかなかっただろう。
……いや。それこそ、ばあさんも手放しで喜んでくれるようなメニューがいい」
 叔父の記憶を手繰り寄せ、オーナーとのやり取りを反芻する。オーナーは自身の仕事に愛と誇りを持っている。仕入先が増えようが、負担が伸し掛かろうが、いいものを多くに振舞うことを良しとしている。だから叔父の頼みもひとつ返事で受け入れてくれたのだ。
 仕入先のことは一旦頭から追い出そう。ビーマが自信を持って送り出せるメニュー、それが今のビーマに出せる〝最もいいもの〟のはずだ。メニューへの妥協は、オーナーの仕事に対する冒涜に他ならない。そして何より、ビーマの本心が許せそうになかった。
「真剣に、妥協なく。――やるか!」
 脳みそに当たる部分をフル回転させ、料理や食材を片っ端から挙げていく。スマートフォンもなんのその、叔父の記憶を隅々まで掘り起こして圧倒的な物量を確保する。その中からビーマの琴線に触れるものを選定し、更に様々な条件をつけてふるいにかける。これを何度も繰り返し、トーナメントのように料理たちを競わせていく。
――…………これでよし!」
 そうして選抜した案をまとめ、吟味し、客層や需要と擦り合わせること一時間。結果として、固定メニューを七つ考案することができた。
 先ずは叔父の秘伝・甘辛チキン。甘さとピリ辛さが同居した、病みつきダレが自慢の逸品である。
 次に前キッチンカーのアレンジメニュー、ソースハムカツとハムチーズペッパー。前者は厚手のハムを折り畳んだものに、衣を付けてカラッと狐色に揚げ、お手製ソースでいただく一品。後者は厚手のハムと蕩けるピザチーズを交互に挟み、黒胡椒をかけていただく一品。どちらもザワークラウトのようなしっとり系の野菜ミックスと相性抜群で、食べ応えも十分にある。
 そしてビーマが新たに用意した四種、北海道コロッケに本格派タコス、シーザーBLT、旨味うまあじ牛焼肉。北海道コロッケはその名の通り、お手製ソースをかけたほくほくの牛肉コロッケに野菜ミックスという手堅い布陣の一品である。本格派タコスはトルティーヤをピタパンに変更した別名タコスパン、タコスミートとレタス、野菜ミックスにサルサソースをかけていただく本格派であり、食べ応えと飽きない味を両立したキラーメニューとなる。シーザーBLTはベーコン、レタス、トマトにお手製シーザードレッシングをかけた堅実なピタパンサンドであり、そして旨味牛焼肉はその名の通り、コクのある味付けの牛焼肉を野菜ミックスに挟んでいただく贅沢メニューである。
 この布陣であれば、堅実に売上を伸ばしていける。そう胸を張って言えるメニューが用意できたように思う。
「手元にあるもんで作れそうなのは……
 収納棚や冷蔵庫、冷凍庫を開け閉めして、食材や調味料を数えていく。
「ソースハムカツ、と……シーザーBLTは作れそうだな。牛焼肉も部位違いで用意できそうだ」
 職人気質だった叔父のキッチンには、一人暮らしにしては多種多様な食材が置かれていた。日替わりではないものの、固定メニューの見直しは割と頻繁にしていたらしい。
「負けてられねぇぜ……!」
 レシピを脳内に展開し、気合を入れる。仕入れの協力者であるオーナーは、言ってしまえばビーマの最初のお客様になる。オーナーに認められないようでは、キッチンカーを走らせるなぞ夢のまた夢だ。軽々しく飛び越えていく、ぐらいの勢いでなければ話にならないだろう。
 ビーマは料理人となり、それで生計を立て、この町で暮らしていく。これはそのための試練、第一歩目である。
 その後も目白押しの試練が思い浮かび、きりりと気が引き締まる。最終的な目標は叔父を超えることだが、まずはキッチンカーを開店させなければ。明るい未来に希望を膨らませつつ、食料庫から材料を引っ張り出し、調理に取りかかった。

 どうにか完成した料理を抱え、家の外へ飛び出していく。手際が悪かったのか、思ったより時間がかかってしまった。約束の時間まであと七分。距離的には徒歩十五分程度、人間の足だとかなり厳しい時間と言える。
 外はすっかり綺麗な茜色で、こんな時だというのにうつくしい人の姿が思い起こされる。身を立てるのが最優先だが、こちらの問題も放置するつもりはない。何をどうしたって、あの人には会いたくて堪らないのだ。いずれはどうにか接触を図り、仲を深めていきたいが、果たして。
「やっぱ無理があるな……! 仕方ねぇ、ここは――
 きびきびと足を動かすが、やはりこのままでは約束の時間に遅れてしまいそうだった。であれば、ここは速度をあげるのが最善か。足の裏に力を入れ、地面を思いっきり蹴り飛ばす。すると風のいななきと共に身体が前進し、推進力を得て前へ前へと風圧で押し出される。これを繰り返せば、まるで自分が風になったかのように先へと進んでいけた。
 車道の端を駆け抜けていたマウンテンバイクと併走し、精肉店へと急ぐ。途中で叫び声のようなものが聞こえたが、おそらくあれはスピードの出し過ぎによる風切り音だろう。風になるのはとても気持ちいいが、世に馴染むためにも多用は厳禁としておこう。普通の人間からは、風切り音なぞしないのだから。
「邪魔するぜ……!」
 そうして六分という新記録で精肉店の前に立ち、足の調子を整えてから軒先を潜る。こぢんまりとした店内は左右で精肉コーナーと惣菜コーナーに分かれており、どちらのショーケースもほとんどが空になっていた。
「いらっしゃい! 待ってたよ!」
 店の奥から出てきた恰幅のいい女性が、からりと声を上げる。叔父の記憶そのままの人に、実際に対面して少し感動する。ちゃんと息をして、動いて、喋っている。ビーマを見ても廃人にならない、ただそれだけの事が嬉しくて堪らなかった。
「初めまして、だな。じいさんが随分と世話になったみてぇで」
「やぁねぇ! 人間、持ちつ持たれつっていうだろう? アタシは良いものを良いって認めて、世に送り出しただけさ!」
 なんてことないようにオーナーが笑う。これでいて毎日、仕入れから店の経営まで全てこなしているのだから恐れ入る。店員も数名在籍しており、こうして居を構えているのだから、一国一城の主と言って差し支えないだろう。
「そうか……そう言ってもらえると助かるぜ」
「アンタの叔父さんはさ、本当に腕のいい料理人だったよ。アタシのお気に入りはあのチキンでさぁ」
 懐かしむ声に、思わず感嘆の息が漏れる。忘れもしない。叔父が作った奇跡の茶色い塊は、何も知らなかったビーマに様々な衝撃を齎したのだ。
「ああ、分かるぜ……! あの甘辛チキンは最高だった」
 万感の想いを乗せて同意する。誰がなんと言おうと、あのチキンは最高だった。
「だろう? なのに……もう、あれが食べられないなんてねぇ」
……………………そうだな、」
 少しだけ息が詰まる。この気前のいいオーナーは、あの人がビーマのせいで廃人になったことを知らない。もちろん教えるわけにもいかないので、ただ口を噤むしかなかった。だからこそ、心にチクリと刺さるものがあった。
「ごめんごめん、アタシよりアンタの方が辛いのに……忘れておくれ」
「いや、……惜しんでもらえるのは幸せだろう」
 優しい眼差しを真っ直ぐ見返し、首を横に振る。ぽっと出のビーマより、思うことがあるのは当然のことである。なにせオーナーの方が、叔父と親交が深かったのだから。
「全く、いい子だねぇ」
「、そうだと……いいんだがな」
「一丁前に謙遜しちゃって! ……ああ、そうだそうだ! アンタ、あいつの店を引き継ぐんだったねぇ?」
 またからりと笑ったオーナーが話題を本筋に戻す。今日はキッチンカーの仕入れと仕込みについて、考えを擦り合わせる約束をしていたのだ。
「おう! まずはそうさな……こいつを食って、判断して欲しい」
 腕に抱えていたビニール袋をオーナーに差し出す。中には先程調理したばかりの、三種のピタパンが詰められている。
「実食ってわけかい。いいねぇ、ちょっと待ってなさいな」
 ウエスタンドアを潜り、オーナーが店先へ出てくる。その理由が分からず首を傾げていると、衛生管理的にねぇと返された。
 言われて納得する。ショーケースの向こうはそのまま、精肉店仕様のキッチンに繋がっている。営業許可証を頂いている以上、衛生管理には気を配る必要があった。
「律儀だな」
「繁盛のコツさね」
 アンタも覚えときなと言われ、素直に頷く。衛生管理は全ての土台である。繁盛どうこう以前に、ここを疎かにしては飲食業が成り立たない。
「素直でよろしい! さてと……お、メニューは変えたんだね?」
 ビニールの中を見たオーナーが、楽しそうに声を上げる。
「全部ってわけじゃねぇが……じいさんと比較されても、なぁ?」
「ひよっこじゃ勝てやしない。分かってるじゃないか。それじゃあ、いただきます」
「召し上がれ」
 あ、と大きく開いた口が、ピタパンにかぶりつく。
「ん〜〜〜〜! アンタ、本当にあいつの甥かい? 弟子じゃなくて?」
 ソースハムカツを頬張り、飲み込んだオーナーが晴れやかな表情で騒ぐ。目尻に寄った皺も、綻んだ口元も嬉しげで、なんだかビーマまで嬉しくなってきてしまう。この反応が貰えたということは、合格と思っていいのではないだろうか。
「甥であってるぜ。ついでに、弟子にして欲しかったのも間違ってねぇ」
 もしそんな機会があったとして、叔父は頑固で職人気質の人だったから、弟子にしてくれと頼み込んでもすげなく断られていただろう。
「なるほどねぇ」
 あいつらしいわ、と笑ったオーナーがソースハムカツを袋に戻す。
「次のやつは……へぇ、BLTサンドぉ? 洒落てるわねぇ」
「手作りドレッシングがミソだぜ」
 笑って促せば、オーナーが嬉しそうにシーザーBLTを袋から取り出す。そのまま同じようにかぶりつき、咀嚼すると柔らかく目を細めた。
「んん、こっちも美味しい! やだわぁ、太っちゃう」
「ノンカロリーとはいかねぇなぁ」
「そこは嘘でもフォローしときなさいよ」
 朗らかにツッコミを受けつつ、続いて牛焼肉も試食される。
……アタシを試してる? これ、使いたいのはこの部位じゃないでしょう」
「! 分かるもんなのか?」
「伊達に町の精肉店やってないわよぉ」
 説明もなしに考えを看破され、面食らう。これも培った経験がなせる技なのだろうか。
「俺もいつかそのレベルまで伸し上がりてぇもんだ……!」
 まだ芽生えたばかりの、料理人としての心が感動に打ち震える。目指すべき理想のひとつが、いま目の前にいる。こんなに有り難いことはないだろう。
「いいねぇ、いいねぇ! 目標は高く、理想は遠く……しっかりやるんだよ!」
「おう……!」
 オーナーの激励に熱意を持って応える。いつか必ず、叔父やオーナーと張り合える料理人となってみせよう。
「さ、ほら! 今回は手伝ってあげるから。アンタの手の内、見せてみな!」
「ああ! いま考えてるのは――……
 先駆けて、七つの固定メニューを考案したこと。叔父との差別化で日替わりメニューを始めたいこと。現状の日替わりメニュー案。考えていることを洗いざらい語り、オーナーからのフィードバックを得てブラッシュアップする。やはり経験者の語ることは質が違う。特に売上の立て方や経営について、盲点だったところを指摘され、ああでもないこうでもないと話し合いながら考えを補強していった。
 オーナーとの会話は本当に楽しかった。話は更に波及して、食材のあれそれを中心に仕込みのミソやキッチンカーでの調理・保存のコツまで、様々なことを教えてもらった。知見が広がれば考案できることも多くなる。まるで乾いたスポンジのように、オーナーの語る言葉を吸収していった。
……――ってワケなんだが」
「うんうん、アタシは悪くないと思うわよぉ。それなら仕入れも難しくないし」
「本当か?!」
「嘘ついてどうすんのよ」
 食いつくビーマをオーナーがさらりと往なす。どこから出してきたのか、電卓を叩いて代行料の計算まで始めていた。この手際の良さは見習いたいところである。
「まあ軌道に乗るまではあいつのよしみだ、少し負けてあげる。だから頑張んなさいよ!」
「!! ああ、助かるぜ……!」
 そうしてオーナーと契約書叔父とも締結していたものらしいを交わし、閉店作業中の精肉店を後にした。

❀❀❀

 その後も波瀾万丈な試練は続き、戸籍謄本、マイナンバーカード、運転免許証と立て続けに呪文を駆使して入手し、食品衛生責任者講習を受け、改めてキッチンカーの飲食店営業許可をもぎ取り、そして。
「この景色を見るのも久しぶりだなぁ!」
 全ての始まり地、加賀浦第一公園へ戻ってきていた。やはりキッチンカーを運営するなら、この公園の広場がいいと思ったのだ。それは空から眺めていた記憶があるからか、ビーマの料理人魂を火達磨にして焚きつける。負けたくないし、追いつきたい。心が燃えるからこそ、適地だと思うのである。
 それに何より、ここならまたあのうつくしい人に会えるかもしれない。少し不純かもしれないが、ビーマにはそんな淡い期待もあったりした。
 運転していたキッチンカーを停車させ、準備に取りかかる。大きなガスボンベとバッテリーを外へ出し、車の裏に隠すように設置する。このキッチンカーはオーブンもフライヤーもガス式を採用していた。こちらの方が火力が高く、ピタパンや揚げ物が美味しく仕上がるからだろう。更に換気扇や照明をつけ、フライヤーに油を注ぎ、保温器の電源を入れて加熱し始める。キッチン内は一旦これで準備完了だ。
 今度は外に出てミントグリーンの車体に新しい垂れ幕を掛け、意気揚々と跳ね上げ扉を開け放つ。裏面に塗られていたメニュー看板も、ビーマが塗り替えた新しいものになっている。
……メニューよし、値段よし」
 販売窓の下側に張られた商品の写真や、右側に貼られたメニュー表に間違いがないか確認する。ひとつひとつ手作業で切り貼りしたそれらは、苦心しただけあって中々の出来だった。
「さあ、始めるか……!」
 キッチンカーの中に入り、販売窓を開ける。ビーマが人間になって二週間後の早朝、ビーマのキッチンカーはようやく開店と相成った。人の姿はひとつもないが、それでも達成感と満足感で満たされるものがあった。
「つってもまあ、客が来るのは昼が近くなってからだろうが」
 ゆっくり流れていく雲を眺めながら、朝の時間をピタパンを焼いたりハムカツやコロッケを揚げて過ごす。叔父のキッチンカーは朝からそれなりに人がいたが、あの事件から既に二週間も経っている。人々も次のキッチンカーを探し当て、ルーティンを変えた頃合いだろう。この公園の周囲には店らしい店がなく、キッチンカーの激戦区となっている。新参者のビーマのキッチンカーが軌道に乗るのは一ヶ月後か、はたまたもっと先か。とにかく焦りは禁物と言えた。
「あのぅ、すみませぇん……
「! おう、らっしゃい!」
 ぼーっと空を眺めていたら、唐突にこちらを窺うような小さな声が耳を掠めた。反射で出迎えれば、気弱そうな女性が窓の向こうに立っているのが見えた。
「あの、この……シーザーBLT? をください」
 販売窓の横に張られたメニュー表を指し、女性がやや上目遣いにこちらを見上げてくる。この女性がビーマのキッチンカーの、最初のお客様だ。
 初めての注文にわくわくした心持ちでピタパンに具材を挟み、ドレッシングを掛けてプラケースに閉じ、ビニール袋に入れて手渡す。袋を受け取ると、女性が千円札を差し出してくる。それをありがたく受け取って釣り銭を返し、喜びのままに声を発した。
「まいどあり!」
 まずはひとつ。遠くなっていく背中を見送り、販売窓の下でぐっと両手を握り込む。初めてのお客様、というのはここまで心に響くものなのか。じぃんと心が温まっていくのを感じる。
「こうやって地道にやっていけば、」
 いつかは叔父という目標に届くはずだ。もう一度ぐっと拳を握り込み、前を向く。一向に人らしい人が通りかからないが、ビーマの気持ちはやる気に燃えていた。

 更に時間が経ち、昼が近づいてくると、ぽつぽつとだが人影が見えるようになっていった。揃いも揃ってスマートフォンを見て歩いているが、ミントグリーンのキッチンカーに気づいて顔を上げ、物珍しそうに近づいてくる。当然ながらチャンスを見逃すビーマではない。すかさずにかっと笑いかけ、いらっしゃいと呼び込みをする。更に近づいてきた見込み客に、時には料理を掻い摘んで説明し、おすすめを語ってみせる。すると興味を持ってくれた人が、一人また一人とピタパンを購入していった。そうしてピークタイムである正午を回る頃には、ベンチや芝生に座ってピタパンを頬張る人で周囲が賑やかになっていた。
 ビーマのキッチンカーを訪れた人々は、それこそ様々だった。叔父のキッチンカーを利用していた人、たまたま見かけて興味を持った人、どこからか噂を聞きつけてやってきた人。全部が全部ありがたく、一人一人に自慢の料理を売り込んでいった。
「まいど! …………っと、もうこんな時間か」
 そのまませっせと料理を出しているうちに日は傾いていき、まばらではあるものの客足が途絶えないまま、気がつけば夕方を迎えていた。窓から見える景色は綺麗な茜色で、脳裏に焼き付いているせいか、やはりあのうつくしい人が思い出される。ぼうっとあの人を思い返していると、それだけで時間が加速度的に過ぎていきそうだ。最後の客まで捌ききったビーマは、取り留めもなくそんなことを考えていた。
「初めてにしては上々だな」
 キッチンカー内の食材を確認し、軽く頷く。在庫はかなり強気に用意していたが、その八割方が捌けている。一日目にしては相当な成果だろう。
「今日の営業は終わりにするか」
 残った分は夕飯にすればいい。どんぶり勘定で経営に花丸をつけ、販売窓を閉めて外に出る。腕を伸ばしてキッチンカーから垂れ幕を外し、くるくると巻いて紐で留める。垂れ幕は一旦車体に立てかけ、続いて跳ね上げ扉を閉めようとし――気配を感じて後ろを振り返った。
「注文は出来ますか?」
 そこには薄紫の髪に褐色肌の、少女のように華奢な女性が立っていた。一拍遅れて届いた声に、あ、と口を開く。
「ああ、まだ大丈夫だぜ。何が食いたい?」
 メニュー表が見易いようにさっと横にずれる。売り切れたメニューはない。好きなものを頼んでくれればと思う。
「ではこの本格派タコスを」
「おうよ。ちょっと待ってな…………オラ! おまちどおさん!」
 キッチンカーの中に入り、タコスを挟んだビタパンをケースに詰めて戻る。袋に入れて手渡せば、女性は事もなげに取りだしてその場で食べ始めた。
……なるほど。分かりました」
「お、おう……?」
 一口、二口と食べた女性が、何かに納得したように瞼を伏せる。面食らっていたビーマは完全に置いてけぼりになっている。
「追加注文を。本格派タコスを二つ、他のものを一つずつ」
――そうかそうか、気に入ってくれたんだな! いま用意する!」
 よく分からないがビーマの料理を気に入ってくれたらしい。直接もらえた評価にうきうきしたまま、もう一度キッチンカーへ戻る。そうして全て詰めた袋を持って外へ出れば、変わらない表情で待っていた女性が手を差し出した。
「ひいふう……丁度あるな。まいどあり!」
「ありがとうございます。ところで、こちらの日替わりはいつから始まるのでしょうか」
 女性がメニュー表を指差して問う。そこには日替わりの文字と、近々公開のシールが貼られていた。
「お、よく気づいたな! こいつは……そうだな、一ヶ月後とか、」
「早くはなりませんか?」
 ううんと唸るビーマに、女性が間髪入れずに切り返す。事情は分からないが、日替わりメニューをご所望らしい。請われれば悪い気はしない。予定を脳裏に並べ、何度か組み替えて練り直してみる。
「急ぐなら三週間、」
「原因は何でしょう」
「げんいん」
「早く始められない理由です」
 問い詰められ、うっと言葉に詰まる。見ず知らずの女性に話していいものなのか。少しだけ真面目に逡巡し、……まあいいかと口を開いた。
「実はキッチンカーは今日始めたばかりでなぁ。軌道に乗るまでは難しいってのが現状なんだ」
 俺としちゃあ早く始めたいんだがな、と本音を添えて言葉を締め括る。人間として生活していくには、売上げと利益を上げる必要がある。日替わりメニューはコストが高い分、固定メニューだけである程度の利益が確保されていないと始められない。それが現実だった。
「理解しました。……明日からは一・五倍の量を用意してください」
「うぅん? いや、今日の売れ行きで八割くらいだから、かなり余っちまう」
「問題ありません。もし本当に余るようであれば、こちらで買い取ります。増やしてください」
 ぽろっと販売量を漏らしたビーマに、女性は顔色一つ変えることなく語る。量を増やせ、と。
「そ、そうか……? よくわかんねぇが、……信じていいのか?」
「構いません。私はラニ=リペア。クレームがあれば私宛にお願いします」
 そう言って女性――ラニは何でもないようにその場を後にした。残されたビーマは目を白黒させたまま、彼女の背中を見送るしかなかった。
 片付けを再開しつつ、考える。販売量を増やす。言葉にすれば単純だが、商売としてはそう簡単な話ではない。ただでさえ商売っ気のないたちで、オーナーに口酸っぱく正された身だ。利益については腰を据えて考える必要があった。
「だが、あいつが嘘をついてるようにも見えなかったんだよなぁ」
 きちんと名前を名乗り、要望を提案してきた彼女に悪印象はない。むしろ清廉な空気さえ感じられて、何事にも誠実そうなタイプに思えた。何か秘策か、天啓でもあったのか。分からないが、ビーマとしても、食べてくれる人が増えるのは願ったり叶ったりだった。
 色々と不透明ではあるが、ビーマの直感は従っていいと囁いている。逡巡したものの、パンツのポケットからスマートフォンを取り出し、登録された番号をタップした。

❀❀❀

 次の日は一・五倍という無茶ぶりで挑んだが、驚くことにするすると在庫が捌けていった。昨日からのリピーターもいれば、新規でやってきた客もたくさんいた。朝からバタバタと騒がしく、昼は目の回るような忙しなさだった。
「昨日のやつがあんまりにも美味いもんだから、また来ちまった!」
「同僚が食べてて、いいな〜って思ったんです」
「何だか騒がしくって、気になってつい」
「こんなところにもキッチンカーってあったのね〜」
「また買いにきます」
 やってきた理由も十人十色で、様々な人に様々な言葉をかけられた。人の輪はなんてあたたかいんだろう。人にまた一歩近づけたような気がして、何とも面映い心持ちになる。
「しかし随分と人の多い……
 ある程度人の回転が収まり、あまりの売れ行きに疑問を持ち始めた頃。遠くからやってきたというおばちゃん集団が、答えを持ってやってきた。
「このね、チラシを見てきたんだけど」
「チラシ?」
 一枚の紙を差し出され、咄嗟に受け取る。そこにはビーマと思われる青年のイラストと、美味しそうに映ったピタパンの写真が並んでいた。情報も簡潔に、出店場所と時間、値段が添えられている。
「こりゃあ、」
「今朝の市報に挟んであって」
「美味しそうだって話題になったのよぅ」
「どうせおばちゃんたちは暇だから」
「お兄さんもかっこいいし」
「ねぇ?」
「ねぇ~」
 口々に喋るおばちゃんたちの言葉を総合するに、加賀浦市の市報にこのチラシが挟まれていたらしい。しかしビーマに市職員の知り合いはいないし、広告をお願いした記憶もない。疑問符を頭上に並び立てていると、ふっと脳裏にラニの姿が浮かんだ。あり得るとすれば、もしかして。
「おすすめはどれ~?」
「どれも美味しそうで選べないわねぇ」
「私は牛焼肉にしようかしら」
 ふわふわと飛んでいた意識が引き戻される。彼女達はチラシを見せにきたのではない。料理を食べたくてキッチンカーに並んでいるのだ。
「この店イチオシは甘辛チキンだが、他のメニューも美味うんめぇぜ! おん、……女性に人気なのはシーザーBLTだ。あとは――
「あら、いいわねぇ」
「私はシーザーBLTにするわ~」
「この本格派タコスの、辛さはどれくらいなの?」
「牛焼肉をひとつくださいな」
 賑やかな声に目を細める。こうしてわちゃわちゃと選んでいるのを、目の前で眺めているのも中々に楽しい。
「おうよ! 順番に用意すっから、ちょっと待ってな!」
「はぁい」
「ちゃんと待ってるわよぉ」
 手早くピタパンを用意し、それぞれ袋に詰めていく。袋からはソースやドレッシングのいい香りが漂っている。遠くからわざわざ足を運んでくれた、おばちゃんたちもきっと喜んでくれるだろう。
「お金、お金払わないと!」
「あら!」
「やぁ~ねぇ~! 忘れてないわよぅ!」
 わらわらと渡される千円札を受け取り、料理と釣り銭を渡す。
「まいどあり! また来てくれよな!」
 本心から言葉を発すれば、それぞれに明るい返事が返ってくる。そのままわちゃわちゃと世間話をしながら、料理を抱えたおばちゃん集団は去っていった。
 その後も料理を提供していると、昨日に比べて少し早い時間に在庫が空になってしまった。驚くほどの大躍進である。キッチンカーも丁度人が捌けており、早めに店仕舞いをすることにした。
 昨日より明るい空の下、キッチンカーの垂れ幕を外して巻いていく。昨日はこれを片付けた辺りで彼女に話しかけられたんだったと思いつつ、キッチンカーの中に垂れ幕を仕舞い込む。次は跳ね上げ扉かと考えながら、キッチンカーの外に出た。
「ラニ」
「こんばんは。注文をよろしいですか?」
 いつのまにかキッチンカーの傍に、ラニが立っていた。彼女には聞きたいことが複数ある。が、その前に。
「すまねぇ、完売しちまった」
……計算が外れました。この時間であればまだ残っているものかと」
 よくよく見れば困った顔をしているらしいラニに、どうしたものかと後頭部を掻く。
「あー……
「どうにも、なりませんか」
 昨日より控えめな問いかけに、本当に困っているのだと感じる。どうにかしてやりたいが、と考えていると、ぴこんと脳裏に閃くものがあった。
「ああ、そうだ。夕飯用にって残してたヤツがあるんだが、それでもいいか?」
「大変助かります」
 恥ずかしい話だが、あまりの忙しさに対応しきれず、いくつか切り口が割れてしまったピタパンがあった。それにぱらぱらと残っている食材を挟んで、賄いにして食べてしまおうと思っていたのだ。
「ちょっと待っててくれ」
 ピタパンを調理台に取りだし、残っている食材を掻き集める。しっとり野菜ミックスがピタパンと同量、甘辛チキンが一つ、ハムカツが二つ、チーズが数回分、タコスミートが二食分、レタスが少々、トマトが一スライス、牛肉が半食分。それぞれの食材を組み合わせ、ピタパンサンドを作っていく。まずはメニューにもある甘辛チキン。次にハムカツとタコスミートが入ったピタパンにチーズを挟んで、オーブンに入れて追加で焼き上げる。両方に野菜ミックスを、タコスミートにはレタスとトマトも足して、ボリュームを出す。牛肉は野菜ミックスと合わせ、少し濃いめの味付けをしてフライパンで焼く。名づけるなら牛野菜炒めピタパンだろうか。何となくしっくりこないなと思いつつ、焼けた具材をピタパンに挟み込んだ。
「昨日より少ねぇんだが」
「問題ありません。こちらはいくらになりますか」
 袋に料理を詰め、外に出る。元の表情に戻ったラニに手渡せば、律儀に財布を開いて問いかけられた。
「商品じゃねぇし、いらねぇよ」
「納得がいきません」
 少しぶすくれた声に吹き出しそうになる。昨日は機械的な性格のように思えたが、実はそうでもないらしい。
「あのチラシを作ってくれたの、お前だろう? それと相殺ってことでどうだ?」
……かしこまりました」
 やはりあのチラシを作ったのはラニだったようだ。確信を持って条件を出せば、渋々ながらも納得した様子で引き下がる。
「すげぇよくできてたぜ。広告なんて考えてなかったから、本当に助かった」
「構いません。日替わりメニューのためですから」
 つんとした言い様だが、顔は少し誇らしげである。昨日の今日であることを考えれば、相当な労力をかけたのは想像に難くない。そこまでして心待ちにしてもらえるのは、とても幸せなことだと思えた。
「日替わりか。この調子なら一週間で始められると思うぜ」
「許容範囲です。よろしくお願いします」
 軽く頭を下げたラニに笑って応える。
「おう、任せとけ! っとそうだ、お前はどんなのが食いたい? せっかくだ、最初の日替わりはお前が決めていいぜ」
 てりたま、ハムたま、豚角煮、チーズペッパーチキン、キーマカレー……日替わりメニューの候補を挙げ、ラニに問いかける。日替わり開始の立役者は彼女である。これくらいのサービスはあっていいだろう。
「ではキーマカレーで」
「了解! ……そういやお前さん、市の職員だったんだな」
 少し口ごもりつつ、核心に切り込んでいく。市職員ということは、市長であるドゥリーヨダナのことも知っているかもしれない。橋渡しとまでは言わないが、何か足がかりにならないだろうか。
……――すみません。言い損ねていました」
「構わねぇよ。……その、ひとつ聞きたいんだが」
「なんでしょう」
 ぐっと喉が上下する。
「市長ってどんな人だ?」
 どぎまぎしながら問いかける。何か、ドゥリーヨダナの情報を、ひとつでも。
「最悪です」
「最悪……?」
 返ってきた答えに首を傾げる。最悪とは。
「ですが、彼の手でこの市がよりよく運営されているのも事実です。誠に遺憾です」
「そ、そうか……?」
 人としては苦手だが、腕は認めている。彼女の表情や言い方からして、ドゥリーヨダナには複雑な感情を向けているようだった。
「では失礼します」
「おう、また来てくれよな!」
 端的な回答に困惑しつつ、オリジナルピタパンを抱えたラニの背中を見送る。
 最悪とはどういう感情なのか。好きではないが、嫌いでもない……しかし何か引っ掛かることがある、とか。分かるような分からないような、不思議な評価に謎が深まる。ドゥリーヨダナ、加賀浦市の市長を務める男。彼の元で働くラニ曰く、最悪の存在。謎が謎を呼び、手が届かないからこそ、早く尻尾を捕まえたくなる。
「会いてぇなぁ」
 気づけばすっかり茜色になった空を見上げ、ぽつりと呟いた。

❀❀❀

 約束の一週間が経ち、日替わりメニュー・キーマカレーを解禁した次の日。あれだけ心待ちにしてくれていたラニに、感想でも聞けないかとそわそわしながら、その日もキッチンカーの運営に勤しんでいた。
 ちなみに今日の日替わりメニューはてりたまで、あまりの人気の高さに早くも完売してしまっていた。しかしすっかり常連客なラニのために、二つだけこっそり残してあったりする。
「こんばんは」
「よう、ラニ!」
 今日も今日とて閉店作業中に現れたラニが、淡々と注文を口にする。てりたまが二つ、他メニューを一つずつ。ビーマも慣れたもので、キッチンカーに戻ってピタパンを袋に詰め込む。固定メニューの時はタコスが三つ。日替わりの時は日替わりが二つ。それ以外を一つずつ。ラニの注文は簡潔で分かりやすい。
「おまちどおさん!」
「ありがとうございます」
 いつものように袋を手渡し、金銭を受け取る。小銭とお札をエプロンのポケットに仕舞い込み、わくわくとした心持ちでラニに話しかけた。
「昨日のキーマカレーはどうだった? 美味かっただろ?」
「喜んではいました。ただ、もっとスパイスが効いている方が好みだと」
 半目のラニが放った言葉に、ぴしゃーん、と雷に打たれたような衝撃が走る。
「美味く……なかった、のか……?!」
「それはないかと」
 自信作だっただけに、動揺も凄まじい。衝動のままに言葉を投げかければ、ラニが即座に否定した。
「オーダーは〝この市内で最も美味いものを〟でしたので。私の判断に狂いはありません」
「な、は、オーダー? ……誰かに頼まれて来てたのか?」
 急な話の転換に翻弄されつつ、問いかける。日替わりメニューはラニが食べていたわけでなかった。では誰が。
「はい。市長の我が儘で」
「しちょう」
「市長の加賀浦夜奈です。そういえば一週間前に聞かれましたね」
 しちょう。市長。加賀浦夜奈――ドゥリーヨダナ。突然繋がった糸に、目の奥がちかちかと明滅する。
「私たちは秘書ですので。市長のオーダーを叶えるのも仕事なのです」
「そうか……そうだったのか…………
 ラニ曰く、ラニたち他にも何名かラニがいるそうだは市長の秘書室で、このラニは市長の命令でここに通っていたらしい。
「ですがピタパンは気に入っています。私たちの夕食も頼んでいるのはそのためです」
 この量で丁度、市長と秘書室の分が賄えるという。言われて得心がいく。ラニの細い身体に全部は収まらないと思っていた。であれば、誰かと食べているだろうとは考えていたのだ。
「ん? ってことは――
 ドゥリーヨダナはビーマの手料理を食べていた? ふっととんでもない事実に思い当たり、身体の中心が熱くなる。皮膚の内側でざわめく触手を必死に宥めつつ、カラカラに乾いた口を開く。
「ドゥ、よ、……市長も俺の料理を食べてくれてたんだな」
「はい。とても気に入っているようです」
 スパイスがどうのとぼやいているだけなのは珍しいです、という、いいんだか悪いんだか分からない言葉で肯定される。味の是非はともかく、スパイスの効いた料理といえば、インドやタイ、メキシコ料理なんかが思い浮かぶが、ラニがキーマカレーを選んだことを考えれば、日本食ピタパンはエジプト生まれだがよりインド料理の方が好きなのかもしれない。
 頭にメモを取りつつ、考える。これはドゥリーヨダナに接近するまたとないチャンスである。ビーマはドゥリーヨダナに会いたい。会って話をして、少しずつ距離を縮めて、ねんごろの仲になりたい。だからこそどうにかして、ここで彼との接点を作りたかった。
「スパイスっつうと、バターチキンカレーやサグパニール、」
「ビリヤニやサルサなど、北インド系が好みとは」
 とりあえず会話を繋いだビーマに続き、ラニが料理名を挙げる。やはりドゥリーヨダナはインド料理が好みなようだ。
「市長、市長……――あ」
「どうかされましたか」
 細い糸が結び合わされるように、頭の中で出来事が結びつく。こういうストーリーならば、あるいは。
「ああ、明日なんだが。俺が直接市役所に届けに行ってもいいか?」
……なぜ?」
 ぱちぱちと瞼を瞬くラニに、思いついたばかりの理由を伝える。
「このキッチンカーはじいさん……叔父から引き継いだんだ。そのじいさんが倒れた時、救急車を呼んでくれたのが市長でな」
……ああ、そういえば」
 右上に目線をずらしたラニが、思い当たったのか小さく声を上げる。
「礼がしたいんだ。特別に、インド料理で持て成させてくれ」
 これなら不自然ではないはずだ。身体の内側で触手を震わせつつ、ラニの反応を待つ。
――そういうことでしたら。市長も喜ぶでしょう」
 すっとスマートフォンが差し出される。画面を覗きこめば、通話アプリのQRコードが表示されていた。
「着いたら連絡すればいいか?」
 ほっと胸を撫で下ろし、倣ってスマートフォンを取り出しカメラを翳して友だちに追加する。画面に表示された、初めての友だちのアイコンに頬が緩む。人間になって初めての友だちだ。浮き足立ってしまうのは許して欲しい。
「はい。こちらに職員用の駐車場がありますので、左端に停めて頂ければ。連絡はその後に」
 ラニが手早く写真を表示させ、指をついついと動かして道案内をしてくれる。市役所には何度か足を運んでいるが、流石に職員駐車場の位置は知らなかった。更に停めていいとのことで、コインパーキングが回避できて有り難い限りである。
「その画像、送ってくれ」
「分かりました」
 ぽんぽんとトーク画面に写真が送信される。それぞれの画像を保存して、礼を言ってスマホを仕舞った。あとで運転経路も確認しておかなければ。
「よぉし! さっさと片付けて買い出しに向かわねぇとな!」
「いってらっしゃいませ。では私はこれで」
「おう、また明日!」
 市役所へ帰っていくラニを見送り、キッチンカーの片付けを再開する。今日はガスボンベの補充もするつもりだったので、思ったより移動が多くて慌ただしい。それでも明日を考えれば、うきうきと小躍りしてしまいそうな自分がいた。
 明日になればドゥリーヨダナに会える。ビーマにとってこれほど嬉しいことはない。更にビーマの手料理を食べる瞬間が見られ、その場で会話を交わすこともできるのだ。ああ、楽しみで仕方がない!
 史上最速で片付けを終わらせたビーマは、次の目的地へ向かうべくキッチンカーを走らせた。

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