2026-01-14 01:45:56
4644文字
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 完璧な人間になりたい。

 仕事はもちろんのこと、日々の学びや、家族との関係、そのほかの人との関わり合い、生きる中でのこと、叶うならばその全てにおいて完璧になりたい。
 気遣いを怠らず、甘え過ぎず、頼り過ぎず、常からずっと一人でもしっかりと立てる人間でありたい。
 だれの目から見ても、そうありたい。

 だってそうでないと。
 そうでなかったらだれが。
 だれが一体この私を特別に気にかけるだろうか。

 違うか。
 例えそうだったとして。




『母さんがいないなら、帰ってきても……
 父の発したその言葉が、こころの内にある篩に引っ掛かっていた。
 私の篩は目が荒い。多少のことはそこで払い落とされて、こころには残らない。後腐れのないように。
 例えばひとからの評価、無遠慮な視線や棘のある言葉。そして己の行いについて、ああすればよかったこうすればよかったとかいう後悔、反省、その他諸々。
 日々にあらわれるそういうものをいちいち溜め込んでなどしていては身が保たない。だから篩にかけて、なるべく身軽にしてきた。
 特別なもの、深い強い感情など、良きにつけ悪しきにつけそんなものはなるべく、沢山は持たないに限る。忍びという稼業の上でそれは如何にも肝要だと経験上分かっているのだから。
 特別なこととは即ち未練であり弱味になる。
 だからこれでいいはずだ。と、私は篩を強く揺する。
 余計なものをできるだけ振り払うため。


 父上が、今更突然に変わられたりすることなどはない。
 自分自身だって簡単には変われそうにないのと同じだ。
 そのひとの行いが、考えが、してきたことが、正しかろうと正しくなかろうと等しく同じ。
 他人の心を変えるのは骨が折れる。もしも全ての骨を粉にしたとて、私が誰か他人の心を完全に変えられるほどの大層な人間ではないことも残念ながらもう知っている。
 血の繋がりなどさほど重要ではないのかもしれない。
 血なんて繋がっていなくとも、父と母は互いを大切に思い合っている。私はその間を取り持つ。細い足に文を結ばれた鳥のようにして。
 ひとの言葉としての文をただ運ぶためだけの、鳥は何かを思うだろうか。思うまい。
 だから私もそうでありたい。
  


 完璧になりたい。
 もう十八で、独り立ちもして、なのに、私の中には十かそこらの頃の私がまだ居るのだ。
 寂しい、と泣いている子どもがずっと。

「利吉くん?」
「ど! いせんせい」
「どうしたのこんなところで」
「どうって、先生こそどうされたのです」
「え? 山田先生は先に着いておられるのでは? 私も後から向かうと、仰ってなかったかい?」
「先に、って私の家にですか?」
「他に、一体どこに通じるんだいこの吊り橋が」
 そうだ。
 『実は仕事が』と久方ぶりに戻った父と家族三人で揃って鍋をつつく前に、私は両親にそう嘘をついた。そして一人で、とうに暗くなった山道を降り、深い渓谷へ架けられた吊り橋をいままさに渡るところだった。
 そのときちょうど対岸から橋をこちらへと渡ってきた土井先生と鉢合わせたのだ。
「それは、そうです、が……
……あの時に、三人で帰ろうと提案をしたのは私だというのに仕事がずれ込んで、結局この有様で申し訳ないことだ」
 先生は言いながらこちらへ近づく。橋がゆらり揺れる。
……いえ、」
 もしも私が今日家に居なければ、父は黙って母上の帰りを一人、家で大人しく待っておられたのではないだろうか。
 普段から払い落としなれているはずのそういう類の感情が膨らんで蟠ってどうしようもない。
 こんな時に、土井先生に会いたくなかった。


 完璧でありたい。
 もしも少しでもこの目の前の人に、近づけるように。
 もしも、少しも、この大切な人の障りにならぬように。
 なのに、ちっともうまくいかない。
 私の中の、子供の頃の私がしゃがみこんで俯いているような感覚が消せない。


「いや。ていうか、私たちいま伺ったらお邪魔なんじゃないのか……?」
 先生は急にハッとした顔をされて、ひらいた手のひらを口元あてた。あまりに気まずそうな表情につられて笑ってしまう。
「そんなことないですよ。きっと、先生は……そんな」
 笑えるのに、口から出るのは笑えない言葉だった。
 両親は、中でも父は、先生の訪をよろこぶことだろう。
 まったく卑屈っぽくていやになる。
……どうしたの。そんな言い方」
 ちょっとふざけた調子でいらした先生の様子が、すっと落ち着いた穏やかなものに変わった。それが分かった。
 ああ、失敗をした。
「そう、ですよね。すみません。忘れてください」
「待って。むしろ私が帰ろうなどと声がけをするのも……烏滸がましいとか、そんなような気持ちがないわけじゃなかった」
「そんな。本当にそんなことないんです。それに私はとても嬉しかったですよ?」
 ここが。
 あなたとわたしが初めて出会い、短くも濃密な日々を過ごした氷ノ山が。 
 あなたにとって、帰ろう、と思うに足る場所なのだということが。
「本当に?」
「本当です」
「じゃあ。行こう」
 先生は向き合った私の腕を取って、橋を、こちら側へと渡り切った。ぐいぐいと歩を進める先生に、半ば引きずられるようにして着いていく。
 途中で、道とも斜面ともつかないような道へと分け入ったところで、どこへ、と声をかけたら先生は足を止める。
「下に小川があっただろ。カニ、取りに行こう」
 私を振り返る表情は優しい笑み。
 あの頃と、幼い頃寝食を共にした頃と同じだった。
 そして、確かに聞き覚えのある台詞を、優しく先生は。
 私にとって、決して忘れようのない先生の、いや私のたった一人のお兄ちゃんの言葉。これはきっと偶然ではない。
 気を遣われてしまったな。
 そんな後悔と、でも抑えようのない嬉しさが綯交ぜになる。
「でもこんな、暗いのに」
「月がこんなに明るいのに?」
 そのとおり今夜は満月だ。
 仕事にはならないが、照らす月の光は秘境の夜道も明るく照らしていた。
……それは、まあ」
「今夜はお二人で水入らずにいてもらっちゃおうかなっ、て。そして我々もね」
「せ、せんせい」
「だめ?」
 首を傾げる仕草は、随分と媚が強くいっそあざといほどだ。
 だけどよりにもよってのこの人からそのように言われて、私が否の返事を返せるはずもない。
「だめなんて、ないです」
「よかった。お土産のつもりで団子と、酒と、あと干した魚をいくつか買ってきたんだ。火を焚いたら炙って食べよう」
「ありがとうございます」
……本当によかった」
 安心したように言って、一段高い場所へいる私へと向かいその腕を伸ばしてきた。
 ぎゅうと抱き寄せられると、拍子に足元で小枝がぱきんと折れる音がした。
「せんせい……
 抱き返すと、うん、と返事をした先生の腕にあらためて力が込められる。
 あたたかい体は、ここで過ごしたよりも厚みを増して私を包む。そして、また長く洗っていなさそうな着物からする先生の匂いが、あらためていとしかった。

 完璧になりたい。
 でも、完璧じゃなくても。

 違うな。

 完璧なんてない。
 ひとは完璧に完璧にはなれない。

 なにも私に限ったことではなくて、きっと誰しもが。
 お兄ちゃんと呼び親しんで、いまは土井先生と呼んでいる、この、私がこの世で誰よりも慕うひとだってたぶん完璧とは言えない。
 忍びとしての高い能力はもとより有能な軍師として動く頭脳を持ち合わせていても、でもこのひとの着物はいつも薄汚れていて生活能力については、ややずぼらな人だ。それを私はこの人を完璧たらしめない理由のように思いはすれども、欠けた部分、欠点などとも思わない。
 欠損や毀損を持たずに生きていくことなど不可能だってことを、もう知っている。

 父が、私にああいう物言いをするのも、母の求めに対しての応え方について、どうにも誠意が感じられずにいたりすることにも、そこで心がひとつも痛まないかというとそれは嘘だ。

 私にとって父上が大切で、だからこその寂しい気持ちに、もっとまっすぐに向き合ってほしいと、小さい子供のような甘ったれた欲がどうしても頭を擡げる。
 欠けているものを埋めることは容易ではない。その代替としてほかの存在を頼るのも解決の正解とは違う。
 けれど、そうやって少しずつでも自分の気持ちや心に折り合いをつけて生きていくほかない。
 そうするほかには。

「ね、利吉くん、どうしよう」
「なんですか」
「もっと、もっとくっつきたくなった君と」
……それは、私もです。から、別にどうもしなくていいですよ」
「君もそうならどうもしないわけにも、いかなくない?」
「お兄ちゃん……
「先に言っておくが、気なんて遣っていないからな。私が、ただただ、こうしたいんだよ」
「それなら、仕方ないですね」
 仕方がないことって、たくさんある。
 いくら払っても振るっても、振るい落とせないことも同じ。
 さびしさも、それから、あなたをどうしても特別に思う気持ちも、捨てられない。

「利吉くん。君に会えて嬉しい」
 会うのは、少し久しぶり。だから喜んでくれているのか。
 嬉しい。
 だけど、あなたは、いつも私の中にもいる。
 時々、しゃがみ込んで歩けなくなってしまう子どもの私が、どうにか顔を上げた時に目指す光の存在としていつも。
 立ち上がって、走って追いかけなきゃって思わせてくれる。
 会いたくなかったのも本当だけど、本当はやっぱり。

「私も、会えて嬉しいです……お兄ちゃん」
「口を吸っても?」
「え」
「だめなんて、ない。んだろ?」
 ここが外だとかそんなことは構わないけれど、このひとからこんなふうに求められることは少し意外で驚いてしまった。
「ええ、はい、もちろん」
「私もだめなんてない。なんだってゆるすよ。きみになら」
「そんなに、甘やかさないでください」
「私だけだろう。だからゆるしてよ」
「先生」
 ゆるせることもゆるせないことも、やるせないことも、ある。
 たくさんある。
 そんなのどこまでも綺麗事だけど。
 でも、それでもゆるしてゆるされながら生きていけたらいい。
 少しでも長く。
……私だって、あなたには、どうしても弱いんです」
「うん。知ってる」
 欠けた部分や柔な部分を、一方的に補ってもらうだけじゃなくて、こちらからもすこしでも補えるように。
 せめてそれくらいは。
 完璧には、なれなくても。

 うなじに先生の手がするり触れてくる。かたいてのひらや指の感触。抱き合う身体をほんの少し離して、顔を寄せ合う。
 鼻先がすり、と甘えるみたく擦り寄せられた。
「君の弱みには存分につけ込ませてもらうつもりだ」
……なにを。私の弱みそのものなのに、あなたは」
「弱みか。じゃあ私は君の中で特別ってこと、と思ってていい? だって私にとって君がそうだから」
「分かって、いらっしゃるでしょう」
「でも聞きたいもんだよ」
「あなたは、私の特別ですよ。ずっと、出会った頃からずっと」
「利吉くん……
 笑って名を呼ぶ、その唇が近づいて息が触れる。
 そうして、すぐにぴたりと重なる。