何故市電に乗っていたのか、ライドウはすっかり思い出せないのだが、銀座に買い出しに、というような、何があるわけでもない日のことだったと思う。遠いし疲れるだけだから、とゴウトは探偵社でふて寝をしてしまい、荷物持ちとご機嫌取りに駆り出されただけの、特筆すべきことのない昼下がりだ。その日の市電は少し混んでいて、吊り革に捕まり、ぐらぐらと揺られながら窓の外を見ていた。鳴海は隣で大きく欠伸をしていた。ふと窓に視線を戻すと、東京駅が見えた。赤い煉瓦が見事な駅舎だ。
「おー、いつ見てもでっかいな」
鳴海は涙のたまった目を瞬くと、「ライドウはもうこの東京駅しか知らんわけだなあ」と年寄りめいたことを言った。
「前の駅があったのですか」
「いやあ、逆だ、なかったんだよ。俺がガキの頃は、駅と言えば新橋だったってのに、ポンとこんな立派な建物ができて
……何を思ったか、俺は果たしてこんなところに誰かさんの豪華なお屋敷かなんかが建つのかと勘違いしてたぐらいでなぁ」
ライドウは思わず鳴海に顔を向けそうになったが、僅かに目を見開くだけにとどめることに成功した。彼は驚いていた。東京駅にではない。鳴海が自分の過去に触れたことにだ。
「てことはいつこんな立派になったかっていうと、確か、あー
……、ちょうどお前が生まれた頃くらいか? うわ、そんな前?」
鳴海にとっては大したことではないのだろう、会話はごく自然だ。ライドウは「そうですか」と返した。鳴海さんが子どもの頃は──と踏み込みたい自分がいるようで、それは駄目だと強く拒む自分もいるようだ。
「よく覚えていますね」
ライドウは二人の自分の間にある返答を捻り出した。
「新聞にも大きく載ってたしなあ。それに思い出ってのは、どうでもいいことほど覚えているもんだろ? 確か駅が開いたばかりの頃に、早々に様子を見に行って、見事、鳥糞にやられたんだよ
……ああ、思い出す
……あのちょうど丸いところでだ」
鳴海が指差す方向には、丸いエントランスがある。場所まで覚えているとは大したものだとライドウは素直に感心した。こうしてすぐに言えるような思い出など、彼はまるで持ち合わせていなかった。彼の過去は真っ白な日々で埋め尽くされている。
「
……そういう思い出は、ないと問題でしょうか」
「どういうことだよ?」
「特に思いつかないので。咄嗟の話題のとき、怪しまれてしまう」
思い出がないのなら、いっそ人に話すための過去を用意しておいた方が不自然ではないのか?
しかし鳴海は必死に頭を振った。
「いやいや、お前にゃ全く向いてない、そんな小手先は。すーぐ矛盾が出て、『全部嘘だったのね。あなた、一体何者?!』って言われるだけだぜ」
「誰の真似ですか
……?」
よくわからない裏声だった。
「ともかく、お前には無理だな。小賢しいことを始めるには百年早い。それより三行日記でもつけてみろよ。今の暮らしと里での暮らしを比較すれば二倍書けるぜ? それで思い出ザックリだ」
「
……布団が硬かった、とかですか?」
「そうそう、まさにそういうのだ!」
他にはないのか、と急かされ、ライドウは必死に記憶を手繰った。探偵社は窓が大きく明るいが、修行の場はいつも薄暗かった。食事は誰かと会話をするようなものではなく、黙々と摂るのが基本だった。廊下は木だから、慎重に歩かないと音がよく響いた。そこは銀楼閣と同じだ。誰かわからない人も含めて、人はたくさんいた。人でないものの気配もあった。今と同じでないが、似てはいる。
「思い出そうとすると、意外と出てくるものだよな」
誰に言っても意味がないから、とすっかり捨てていたと思っていた情景は、記憶に残っていたようだ。
用が済んだら寝るような今と違って、就寝の時間は厳密に決まっていて、冬の日も冷えた布団の中に入っていた。瞼を閉じれば意識はすぐに落ちた。それは今と同じだ。しかしごく稀に眠れない日もあった。何故眠れなかったのか。それは──。
ライドウは、ごほん、と咳払いした。
「なんだよ、そこが大事じゃないか」
鳴海は見るからに口を尖らせる。ライドウはじっと鳴海を睨んでから、渋々白状した。下手に伏せて、騒がれる方が面倒なのだ。
「
……悪魔の顔に見えて。
……木目が」
「
……天井の?」
鳴海の補足に、不服そうに頷くライドウ。鳴海は思わず噴き出す。
「ああ、わかるわかる。怖い怖いと思ってたのに、気づいたらそのまま寝てるんだ。こどもなら一度はやるやつだ。
なんだ、ちゃんとあるじゃない」
鳴海は目元の涙を拭った。隣の少年にも、ただのこどもである日があったわけだ。
ゴウトには秘密にしてください、と彼は付け加えた。
🐍蛇足あとがき🐍
元ツイを整えたやつでした↓情景描写が生えてくるのでしんどいわけですね
鳴海さんの口からたとえば「東京駅が今の形になったのは確かお前が丁度生まれたかなって頃だけど、そんときガキだった俺はありゃ誰かさんの豪華なお屋敷だと思っててなあ……」などというプチ・個人昔話が出ると、ライドウくんは聞いてはいけない秘密を聞いてしまっているようで何故か緊張するのだった
ライドウくんは思い出話が苦手だった 特に言えることがないし、言えたとしても相手を退屈させるだけ、ならばいっそ人に話す用の過去を用意しておいた方が不自然ではないのか? しかし鳴海さんはお前にゃ全く向いてないとかそういう小手先はまだ早すぎるだとかなんとか、要は必死に止めてくるので、
ライドウくんは代わりに、今の探偵社の布団よりも固い布団に寝ていて…… 今と違って食事は黙ってとっていて…… といった過去の事実をとりあえず並べてみた そうそう、そういうのという合いの手を聞きながら 今とは違うことと、今と同じことがたくさんあるのがわかった
朧げな記憶を手繰り寄せると、誰かに言っても意味がないと捨てていたことが浮き上がってくる ライドウくんは少し恥じらいながら、いつか幼い日、天井の木目が教わったばかりの悪魔の顔に見え、恐ろしさにぎゅっと目を瞑ったことを白状した で、気づいたらそのまま寝てるんだよな、と鳴海さんは笑った
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