やまだ
2026-01-13 22:52:03
2186文字
Public 原神
 

No title

最高の思い出の話

「どうせもとから五分の四いないんだ。十日かそこら欠員がほんのちょっと増えたって変わらん。有給は労働者の権利だしな」
「ご立派なことだ。ここが僕の店でなければ、心から君を賞賛してしまうところだった」
「そうか。褒めてもらって悪いな。照れるぜ」
 万年筆の尻軸を噛み、頬杖で、ガイアはいかにもうんざりと卓上に散らかる書類を眺めている。
 仕事なら騎士団でやれ、とディルックが当然の苦情を申し立てたのが、すでに二時間以上前のことだ。閉店までは三階に閉じこもって作業していたようだが、勤務を終えた従業員をディルックが見送り終えるなり分厚い封筒をいくつも抱えてよたよたと階段を降りてきた。ホールで一番大きなテーブルに中身の書類をぶちまけ、勝手に備品の万年筆とインク壺を持ち出して使い始める。
「騎士団でできるならもちろんあっちでやっているさ。だが代理団長が鍵を預けたのがリサでな。定時に問答無用で叩き出されちまうんだよ。こっちはやらなきゃいけないことが山ほどあるってのに」
 店内のランプの油をひとつひとつ確かめて回りながら、ディルックは小さく鼻を鳴らした。
……確かに、彼女は業務時間に関しての妥協なんて一切しないだろうな」
「いっそリサも璃月に行ってくれてたらな。そうしたら俺が鍵だって預かれたのに」
「姉妹水入らずの邪魔をしたくなかったんだろう」
 ガイアの卓のランプを油を補充したものと入れ替える。璃月の空は今頃、あたたかな光を灯した香灯で埋め尽くされていることだろう。
 璃月でもっとも盛大な祭に合わせて、騎士団の何人かを休ませたのはガイアだ。リサと共謀してジンを説き伏せたあと彼女にバーバラを誘わせ、さらにクレーを通してアルベドにも休暇を取らせたらしい。口から生まれた男だと知ってはいるが、あのアルベドを動かしたのは大した手腕だ。
「いや、でも璃月にはもともと行きたかったらしい。副業関係の友人が璃月にいるとかなんとか」
「ジンが規格外なせいで忘れがちだが、彼もなかなか多忙だな」
……それ、鏡見てから言えよ?」
「今の君に言われたくもないが?」
 ガイアは露骨に嫌な顔をして俯いた。未処理の山がようやくひとつ切り崩せるというところだが、あいにく山はまだあとひとつ残っている。
 とっくに洗って拭き清めてしまった食器を確かめ、もう一度カウンターを乾拭きする。果物の在庫は五回確認した。いい加減に、ディルックもやることがなくなってしまって手持ち無沙汰だ。
 ばりばりと頭を掻きむしりながら書類に立ち向かうガイアの横顔が見える。普段からあれくらい表情を引き締めておけばいいのに、と思いながらカウンターに頬杖をついた。ぎりぎりまで追い詰められたときのガイアは真面目そうに見えなくもない。
 まだディルックも騎士団にいたころの、青ざめてひいひい言いながら会計書類を作っていたおとうとの姿を思い出す。
……何もジンとアルベドを同時期に休ませなくてもよかっただろう。無茶を重ねるからこうなるんだ」
「無茶ならファルカ団長が遠征に出たときからずっとしてるさ。今更だ。たまにはあいつらだってのんびりするべきだ」
 ガイアはへらりと笑ったようだ。作成済みの書類を丸めて封筒に押しこむ手が包んだままの、店の万年筆がランプに照らされてきらっと光る。
「兄弟姉妹と外国の立派な祭を楽しむなんて、最高の思い出だろ? クレーが喜んで俺の株が上がる、バーバラにも感謝されて恩が売れる、こっちとしても悪いことばかりじゃない」
 鼻を鳴らす代わりに溜め息をついた。
 作業を再開したガイアの横顔を見る。
 カウンターの小さな置き時計を一瞥してからワイン棚を振り返る。食器棚を見る。
 カウンターを出る。
「ガイア」
「なんだよ?」
 つまらなそうに片頬だけ膨らませては戻しを繰り返しながら万年筆を動かす男の視界へ、蒲公英のボトルを差しこんでやる。ニブが紙上を滑る音がぴたりと止んだ。
 ゆっくり上がってくる隻眼に二脚のワイングラスを見せつける。
……おまえも飲むのか? いや、というか、飲んでいいのか? 俺が?」
「喉が渇いたから一杯だけもらう。……どうせ僕が一杯飲み終わるまでに君が残りを飲みきるだろう」
「それはもちろんそうだが」
 胡散臭そうに眉をひそめていたガイアも、蒲公英酒の満ちたグラスを押しやると一瞬で眉間の皺を解いた。
 ひと口飲むなり、さっきまでの仏頂面はなんだったのかと思うほどの晴れやかな笑顔で軽やかに万年筆を使いだす。
……呆れたな」
 ディルックはグラスのふちを舐めつつそれを眺めている。酒は酒なので好きな味ではないが、ワインに比べると蒲公英酒はまだ飲みやすい。
「書類によだれをこぼすなよ」
「そんなことするかよ、もったいない」
……最低だ」
 ガイアが書類へ俯いたまま、ははっ、と軽く笑った。
「俺は最高だよ。まさかおまえと酒を飲む日が来るなんて思わなかったしな。こいつはちょっと忘れられそうにないぜ」
「どうだか」
 鼻を鳴らしながらなんとなく西側の窓へ目を向ける。
ジンたちが祭を楽しめているといい。
 璃月の空を埋め尽くすあたたかな光を灯した霄灯の代わりに、モンドのエンジェルズシェアでは、ありふれた備品のランプが蒲公英酒のボトルを一本照らしている。