お兄ちゃん嫌い、と泣き叫ぶ声はやや高いところから聞こえた。エンジェルズシェアがある通りから石段を使って一本上の通りだろう。外用の丸テーブルを磨いていたガイアとディルックが同時に顔を上げると、幼い少年ふたりがまさに石段を降ろうとしていた。
顔を真っ赤にしてぎゃあっと泣く子を、それよりは少しだけ体の大きい少年が、こちらも不機嫌そうに、泣く子を引きずらんばかりにこちらへやって来る。
「危ないな。下からあんなに引っぱったら落っこっちま
うぞ」
男兄弟なんてものはろくでもない理由で喧嘩ができるものだが、そのうえなかなか加減ができないときている。世間一般ではそう言われている。まだ頭が重たそうなあの弟が、兄の腕力に負けてうっかり足を滑らせでもしたらぞっとしないことになるだろう。ガイアはすばやくディルックへ目配せすると、汚れたぼろ布を放ってにこやかに兄弟の足下へ近寄った。
「なあおまえたち、そんなに急いでどうしたんだ? まだ日も高い。この通りを歩くにはまだ15年ばかり早いだろう?」
詩歌と自由と酒をこよなく愛するモンドの城内、北地区には、モンド人が愛するそのすべてが詰まった通りがある。
昼間でもアルコールの香り漂う路地のそこかしこでハープやアコーディオンを奏でる吟遊詩人を見かけるし、店に入ればランチに強めの食前酒がついてくる。
モンド随一のワイナリーオーナー兼酒造組合の会長であるディルックの膝下で不埒を働くような愚か者はそうそういないが、それでも子どもが歩くにはいささか治安が悪い。泣き声を不快に感じる酔漢もいるかもしれない。
「あんたに関係ないだろっ」
負けん気強くガイアを睨む兄のほうも少し日が赤かった。噛みつかんばかりの勢いだったが、ガイアと視線が合うと少し気まずそうにする。
治安の悪い通りでへらへら笑って声をかける胡散臭い男の顔を、どうやら思い出してもらえたようだ。
「……ガイア兄ちゃん」
「ようクリス。ジェイミーも……こっちはまだ泣くのに忙しいようだが」
兄はますます居心地悪そうな顔になった。顔をぐちゃぐちゃに濡らしてびゃあびゃあ喚くのに忙しい弟のほうは、兄の手を全身運動で振り払うなりガイアの脛にしがみつく。
「お兄ちゃんやだ! 嫌い!」
甲高い声はしっかり兄の胸に突き刺さり、再び彼の表情が剣呑になる。うるさい、と怒鳴って弟の頭を叩こうとするので、それはガイアがさすがにやめさせた。
弟が殴り返せるのであったら止めないが、今の体格差ではただの暴力だ。
「なんだなんだ、いつもは仲良くしてるだろ? 何があってこうなったんだ?」
「お、お兄ちゃんが! お兄ちゃんがぼくのおやつ、とった! ぼくのなのに!」
「バカ、あれは売り物だってずっと言ってるだろ? 勝手に持って行ったら騎士団に捕まるんだ。クレーちゃんみたいに鍵のかかった部屋に閉じこめられるんだぞ!」
「嘘つき! ぼくのだもん! お兄ちゃんやだ、嫌い! い、いらないっ」
ガイアは自分の脚を見下ろしながらほんの少しだけ顔を顰めた。そして瞬きぶん悩む。それは弟が兄に対して言ってはいけない言葉の最たるものだった。
弟を嗜めるのが先か? それとも兄を着めてやるべきか? 幼い弟はガイアが言い聞かせたところで理解できるだろうか?
はたして兄はガイアが躊躇するうちに弟の絶叫を全身に浸透させてしまった。大きく唇をわななかせ、俺だって、と声を震わせる。
「俺だっておまえみたいな弟なんか……」
ガイアは意識的に目線を石畳まで下げた。弟が兄からもっとも聞きたくない台詞をやり過ごそうとする。
「君たち」
ちりん、と澄んだ音が響く。
たったそれだけで幼い兄弟の気を引いてみせたディルックは、オーダー用のハンドベルを手にしたまま彼らへ向かって静かに微笑んだ。
「喉が渇かないかい? ジュースを飲んでから帰るといい。僕の奢りだから」
ベルを置いた卓上に、人数分のグラスとぶどうジュースの大瓶が整然と揃っている。
ジュース、の部分だけ聞きとった弟はきゃあっと叫んであっさりガイアを置いていってしまった。ディルックに抱きあげられて大人用の椅子へ座るあいだにすっかり機嫌を直している。
残されたほうはなんとも消化不良だが、それが幼児というものだった。
きっとガイア以上にやるせない思いを抱えている兄の、小さな背を叩く。
「ほら、クリス。旦那様の奢りだ。遠慮なく飲みまくって父さんに自慢してやれ、俺は今日エンジェルズシェアでオーナーと騎兵隊長と飲んだんだぞって」
「なんだよそれ」
ちょっと噴き出した兄は、ガイアの手に寄りかかって歩きたがった。しっかりと前を向き、グラスたっぷりのぶどうジュースにストローを差してもらって大はしゃぎの弟を見つめる彼が、大人のような溜め息をつく。
「ガイア兄ちゃん。俺、ほんとはいけないってわかってるんだ。でもときどき頭にきちゃうよ。それってだめな兄ちゃんかな?」
「バカ言え。おまえほど立派な兄貴はめったにいないさ。自信を持て」
「うん……」
「さっき、言い返すの我慢したろ? 偉かったな。立派だった」
「……うん」
もう一度背中を叩いてやりながら、ガイアは小さな弟のコップにストローを差してこまやかに相手をしている男のほうを眺めている。
あの傲岸不遜を絵に描いたようなやつにしては慣れたものだ、と思い、その心当たりを記憶の中に探って少しげんなりする。彼のおとうとは非常によくできた、手のかからない美少年であったはずだ。ここまで世話を焼かせた記憶はない。
悶々としながら着席したガイアにも当然ぶどうジュースは与えられた。兄に請われて席を交換したディルックが隣に座ろうとするので、半目でそちらを睨む。
「……おい旦那様、今日の労働の対価はワインだったはずだよな?」
「そうそわそわしなくても約束は守る。子どもたちが帰ったら出してやるから今ぐらい我慢しろ」
ディルックは甲斐甲斐しく弟の世話を焼く兄を見ているようだった。子どもたちに向けていた商売用の愛想笑いをかなぐり捨てた仏頂面になんとなくほっとする。
「……彼は立派だな。あの歳で、本当に言ってはならないことをよくわきまえている」
ガイアは返事をしなかった。その前にぶどうジュースで喉を湿らせなければ、うまく声が出せそうになかったのだ。
「……おまえはただ、言わなきゃいけないことを言っただけだ。おまえのおとうとはたぶんそう思ってるぜ」
ディルックは子どもたちには聞こえないほど微かに鼻を鳴らした。
「僕は彼らの話をしていたつもりだが?」
「……ああそうかよ」
頬杖をつきながらグラスを煽る。ディルックがおそらく少年たちの自尊心のために、わざわざワイン用の華奢なグラスを用意したものだから、ガイアは余計にあの馥郁とした香気が恋しくなっていた。
ディルックも優雅にジュースを飲んでいる。グラスから離れた唇が、君は、と囁くのを、なんとなくガイアは見つめて待った。
「てっきり君はジェイミーのフォローに行くと思った」
「弟仲間として?」
同じ声量で囁き返す。ちらっとよこされた視線にガイアは皮肉っぽく片頬を引き上げた。
「おまえだってクリスのあの顔を見ただろう? かわいそうに、自分が兄貴だからしっかりしなきゃってあの歳でもう我慢を覚えちまってる。俺は弟妹の面倒をみるのもそりゃあ得意だが、兄貴のガス抜きをしてやるのだってとびきりうまいんだ、ディルック」
「初耳だな」
「おまえなぁ……」
ディルックは前を向いている。自分のハンカチで弟の口の周りを拭いてやる兄と、にこにこ嬉しそうにされるがままの弟を見守っている。
ありがとうお兄ちゃん、と笑う弟の元気な声に僅かながらも目尻を優しくしている。
そのすべてを眺めて、ガイアはふふんと笑うのだ。
「俺の数多い特技のうちでも一番の得意技なんだぜ」
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