2026-01-13 16:26:07
6432文字
Public 宵愁の手記
 

❀Misericorde - 断章の記憶 -


#1 Daisy


水面に浮かべられた花はくるくると踊り、木々に覆われた湖の奥へと飲み込まれていく。
その先に黙して眠る、美花を愛するという女神に手繰り寄せられていくように。

降り注ぐ木漏れ日は穏やかに、供物の花々が彩る女神の御座を照らし出していた。

──それは、死者への祈りを乗せた花を小川に流し、女神へ届けるという水葬の儀。

今日は母の命日だという。――曖昧なのは、覚えていないからだ。
全く記憶にないわけではないが、いたという実感がない。
気付いた時にはいなかったし、何故いないのかも、よくわからない。それくらいには、幼い頃の記憶だった。

だから今日も。
村の導師にそう言って手渡された花束を、ただ感慨もなく水面に手向ける日でしかなかった。

──顔も声もその温もりさえも不確かな存在に、何と言って言葉を紡いだものだろうか。
開きかけた口から紡がれるような想いは、何一つこの胸には残されていないのだ。

ただその代わりに、担いだリュートを膝に置き、紡ぐ音色を、唯一覚えているその人の思い出を、風に乗せた。


黒衣森の奥深く。
グリダニアからはほど遠く、ギラバニアとの境目に、まるで人の目から隠れるように自分たちの故郷は存在していた。
空を覆い隠すほど深い木々に覆われた森はいつでもどこか薄暗く、まさに”黒い森”と呼ぶに相応しい。
地図にも記されないような辺境の地にあっては、旅人すらもろくに訪れることはなく。
すれ違う人は皆知り合い、そんな辺鄙で小さな村だ。

女神の眠る湖は、そんな村を流れる小川を小一時間も辿った先にある。
生い茂る木々を抜けた先に、静謐を湛えた湖は優しい木漏れ日に照らされて、
花々は美しく咲き誇り、虫や鳥達が自由気ままに歌声を響かせる。

ここはきっと世界に忘れ去られた楽園なのだろう。
そう感じさせるほどに、いつでも穏やかで退屈で、
まるでこの場所だけ時間が止まっているかのような光景が広がっているのだ。

紡いだ歌声はやがて風に乗って過ぎ去っていく。
その流れを追うように、ヴェン・ア・ラーニャは視線を辿らせた。
視界の端の木の陰で、ひらり、白いものが揺れる。見覚えのあるその色に、思わず少し、耳を揺らした。

「そこ。でかい毛虫がいたよ」

抑揚もなく、そこへと淡々と呼びかければ、
隠れた木陰から慌てた様子で飛び出してくる、少女がひとり。

それは木の根に引っかかって、草の上に無様にころんと転がった。

苦笑交じりに「うそ」と付け加えれば、数拍の沈黙ののちに、大きな安堵の溜息がひとつ聞こえてくる。

「もー……そういう嘘、よくないよ。びっくりするでしょう?」

 鈴の鳴るような声を響かせて、困ったように眉をハの字にして笑みながら、彼女、オフィーリアは姿を表すのだった。

「フィー。何しにきたの」

「ん~? ここに居る、って聞いたから」

彼女は横を通り過ぎ、白陽色の長い髪を靡かせて、踊るような足取りで湖縁を歩きはじめる。
どこか危なっかしいその姿に、ヴェンは携えたリュートを木に立てかけて、いつでもその手を取れるように並んで歩いた。

「導師さまが言うにはね。幻術を学ぶことと自然を知ることは同義なんだって。
目を開いて耳を澄ませ、大きく息を吸い込んで。
あまねく無数の生命を感じ取ること──自然の声に真摯に耳を傾ければ、自然はいつでもわたしたちに応えてくれる、って」

そう言って彼女は大きく両腕を広げる。
降り注ぐ木漏れ日を一身に浴びるように。

その白陽色の髪を彩る、小さな勿忘草を透明な樹脂に閉じ込めた髪飾りが、光を反射して微笑むように瞬いて、思わず目を細めた。

「──で?」

「ね、ヴェン。女神さまの声って、聞いたことある?」

くるり、オフィーリアが振りかえる。唐突な問いだ。

聞いたこともなければ、考えたこともなかった。
その存在は人の生んだ概念的なものだと思っていたし、はたして声どころか意思など存在するものなのだろうか?
──そんなことを言ったら、村の導師に怒られるだろうか。

「フィーは、あんの?」

「ないよ!」

……で、それが?」

「一説によればね、わたしたちがこうしてお祈りしてる女神さまも、
精霊に近いものかもしれなくて、精霊は意志を持った自然で、えっとー……、」

何か思い出すように、オフィーリアが虚空に視線を彷徨わせた時だった。
ふわり、彼女が不自然に揺れたのだ。

「あ、」と声をあげた彼女は、その手を伸ばすでもなくただ髪飾りを庇うように覆い隠す。
見えない腕に連れ去られるかのように、湖へと吸い込まれていく彼女の服を咄嗟に掴んで引き寄せれば、
勢いのあまり、そのまま草の上にふたりで倒れ込んだ。

……ばか」

思わず漏れたため息に、オフィーリアは「ごめんね」といって、また困ったように眉をハの字にして笑うのだった。

ふと、オフィーリアがおもむろにヴェンの手を取り、指を絡める。
ピリ、とした刺激が指に走った。
視線をやれば、転んだ拍子に草で擦ったのだろう、指の先には細く赤い線が残っていた。

微かな痛みに僅かに眉を顰めると、彼女は二度、三度と手を握り直す。
「なにしてんの」、と口を開こうとしたとき、ふわり、暖かい風が傷跡を撫ぜた。

再度見れば、指先には僅かな血の痕跡だけを残して、傷口は綺麗に塞がっているのだ。

彼女が得意げに鼻を鳴らす。
覚えたての幻術を披露した彼女は、どこか、誇らしげだ。

彼女は長い髪をふわりと揺らして起き上がり、転がったままのヴェンの手を引いた。

「ブラッドカーラントのクッキーを焼いたから、はやく帰っておいでって」

そういって彼女は踊るように服の裾を翻す。
天を覆う木々の隙間から覗く太陽は、天高く真上で輝いていて。

長い尾を揺らしながら、無邪気に駆け出してゆく白陽色の髪を追いかけた。


・・・


近頃は野生動物の数が減ったように思える。
ある日、いつもよりも時間をかけて漸く仕留めた小さなアンテロープを解体している時に、ふとそんなことを口にした。

減ったというべきか、森の奥へと潜んでしまったというべきか。
狩りをするのにも森の奥の方へと足を踏み入れなくては、
兎の影ひとつ見当たらないこともざらにあるのだと、それは村の狩人たちの悩みの種となっているのだ。

ぼやけば、解体を手伝う目の前の少年、ヴォルフはナイフを手に作業の手を止めずに口を開く。

「あまり北には行くなってよ。連中、最近またうろついてるらしいし」

此処より北東に位置するアラミゴが陥落して10年も経つが、帝国による侵攻は留まることを知らないらしい。
その足は今や黒衣森にまで迫りつつあり、遠く木々の隙間からは微かに、無骨な塔が聳え立つ姿が見える。

その影響だろうか、近頃はイクサル族の活動も活発だ。
最近、護衛として行商と同行するようになったヴォルフも、先日は度々その姿を見たと語る。
そういった森の環境の変化が、動物たちの生息域に変化を与えつつあるのだろう。

「こんなご時世じゃ、傭兵稼業なんてのも稼げるかもな。──あー、今は冒険者だっけか?」

確かに昨今、都市のほうでは傭兵や退役者に向けた互助組織が設立されたという話は耳にはしていた。
冒険者として仕事を得て、各地を渡り歩きながらそうして暮らすのも悪くないだろうと、ヴォルフは屈託なく笑うのだ。

思い描いた未来を楽しげに語るその横顔に、
「村を出るのか?」と問えば、彼は振り向き、何を言っているのだとばかりに、目を丸くする。

「お前も連れてくに決まってんだろ」、と。
さも当然のように。

全く、こちらに拒否権はないそうだ。今にはじまったことではないけれど。
「勝手だな」なんて苦笑を浮かべてみせたが、内心では少し、どこかほっとしている自分が居ることに気付くのだった。

「なあ、姉さん?」

いつの間にやら戻ってきていたのか、ひょこりと姿を現したオフィーリアに、ヴォルフは先の話題を唐突に投げかける。

「なあに、ふたりしてまた悪巧みしてたの?」

「違ェよ、あのな──」

きょとんとした顔をしていたオフィーリアも、話を聞けば楽しげにぴょこぴょこと耳を揺らしはじめた。

「──ふふっ、そっか。うん、楽しいかもね。三人で困ってる人を助けながら、色んなところを旅してみるのも」

和やかな笑い声を響かせながら、ふたりで解体したアンテロープの肉をオフィーリアが丁寧に包装していく。
手馴れた作業で、いつもの見慣れた風景だった。

──冒険者だとか、旅に出るとか、そんなことを聞かされてもいまいち実感の湧かなかったヴェンだったが。
こうして三人揃ってみれば、なんてことは無い、そんな未来もきっと日常の延長線でしかないのだろうと感じるほどに、途端に腑に落ちてしまった。

有り体に言えば、幼馴染、と呼べる間柄なのだろう。
出会ったのはいつだったか、まだ齢は六つにもならない頃、
世話をしてくれていた狩人の師と共に森を散策していた日のことだ。

森で行き倒れていた彼ら姉弟を見つけ、介抱したことがきっかけだった。
親を亡くし孤独であったヴェンは、行く宛てのない彼らを、空っぽだった自分の住処へと招いたのだ。

それは家族のいない寂しさからか──
否、幼いながら、自らの弱さを悟り、本能的に群れを作ろうとしたのかもしれない。

それから十年も経つだろうか。
以来ずっと、どんなときも、三人で手を取り合って過ごしてきた。
だからこそ、漠然と思い描く未来でも、誰かが欠けた世界なんて想像もつかなかったのだ。

「酔狂でしょ、今の時世に旅なんてさ」

呆れた口振りをしながらも、
そんな苦難もこいつらとなら楽しいかもしれないな、なんて思えば笑みが溢れてしまうものだから。
自分も言えた口ではないな、とヴェンは思うのだった。

仕分けた肉は村人たちに振る舞われる。
配達先を書いたメモを確認しながら、オフィーリアは小さな荷車に包装された肉を積んでいく。
ヴォルフはといえば、以前から細工師に頼まれていた皮や角を持って届けに走っていってしまった。

「駄賃をもらったら、仕立て屋の姉ちゃんに旅装束でも見繕ってもらおうぜ」なんて冗談めかして笑っていた。


・・・


思えば、花祀りの日がもうすぐそこまで迫っていた。
それは若い娘達が女神に扮した衣装を身にまとい、村人たちの奏でる演奏の中で豊穣を願い歌い踊る祭りだ。
花をあしらった飾りが村中を華やかに彩り、道を歩く心を弾ませる。

先日いただいたクッキーの礼をしに導師の家を尋ねると、庭先で此方に手を振る少年の姿が見えた。
きこり夫婦の一人息子だ。
ふたつ年下の彼は、幼少の頃からよく遊んでやったヴェンを兄と呼んで随分と慕ってくれているようだった。

「よう。おつかい?」

「うん、薪を届けにさ。兄ちゃん、それ何?」

彼はヴェンが手に提げた籠を指して言う。
微かに漂う香ばしい香りにすんと鼻を鳴らした。

答えを言う前に、彼は「……わかった、ミートパイだ」とぽんと手を叩く。
飯屋の兄さんに教わって作ったものだった。
彼のレシピによれば、フィリングにギルバンを加えるのがポイントらしい。

「ずるい。僕にもちょうだいよ」

そう言って悪戯に伸ばされた手を避けるように籠を頭上に掲げてしまえば、背の低い彼では届かない。
庭先で騒いでいると、窓が開いて老齢の導師が顔を出す。
彼はじゃれ合う二人を視界に入れると、しわくちゃの顔で微笑んだ。

籠を手渡せば、
「上がっていきなさい。一緒に食べようじゃないか」

そういって、玄関の戸を開けて少年たちを招き入れた。

木こりの息子が踊るようにはしゃぐ姿に、ヴェンは呆れたように笑うのだった。

ふたりを招き入れた導師は、せっせと三人分の切り分けたミートパイとお茶をテーブルに並べていく。
どうにもこの導師は人の世話を焼くのが好きらしいのだ。
手伝いを申し出ても「座っていなさい」と笑うのだろう。黙って世話を焼かれていたほうが彼は喜ぶのだ。

「お前さんももう十六になるか。早いもんだ、ますますあの子によう似てきた」

あの子と呼ぶのは、ヴェンの母親のことだろう。
生前の母は導師によく可愛がられていたらしいことは、彼の口から聞かされる話がそう物語っていた。

話を知りたがる木こりの息子に、導師は語って聞かせる。

狩人だったこと。
言葉少なだが、優しい女性だったこと。
外の世界の話が、音楽が、好きだったこと。
旅人であった父に恋をしたこと。
父はヴェンを生む前に旅に出たきりで、終ぞ母の元へ帰ってくることはなかったこと。

懐かしむように語らう導師の姿を、ヴェンは他人事のように微笑ましく眺めていた。

いつだったか、父がいないことについて導師に尋ねてみたことがあった。
導師はそれに対し、こう答えた。

「旅人だからだよ」と。

もしも自分たちが冒険者として旅に出たとき、またこうして、彼らと語らう日は訪れるのだろうか。
楽し気に談笑するふたりを眺めながら、ただ漠然と、先の見えない未来を思い描こうとした。


・・・


「ね、ね、ヴェン! みて!」

帰宅するなり、オフィーリアは手に持った白い布を広げてみせた。
それは見事なもので、生花をあしらった純白のドレスだった。
村の女性たち皆で仕立てていたドレスが漸く完成したのだと、衣装を前に当ててくるくると回るオフィーリアは、楽し気だ。

ふと、気付く。彼女の持つ女神の装束には足りないものがある。

「花冠は?」

そう、ドレスと花冠、ふたつが一緒にあってはじめて女神の装束は完成する。
問えば、

「これでいいでしょ?」

そういってオフィーリアが指し示したのは、稚拙な作りの、勿忘草の髪飾り。
それは彼女がいつも身に着けているもので、豪華な生花のドレスと比べては、どうみても見劣りするものだ。

「せっかくの祭りの日なのに」

「やーだ。これがいいの」

──ああ、それはいつかの誕生日に渡したものだったな。
深空を宿したような蒼い輝きが、彼女の瞳によく似ていると思ったんだっけ。

大したものでもなかったのに、「一生大事にする」と笑って。
飽きもせずにこうして肌身離さず身に着けてくれているのだ。
太陽を反射して光る石の花の輝きなんかより、ただそうして喜ぶ彼女の笑顔のほうが余程眩しくて。

あの時と同じ顔で笑う彼女の姿を見れば、ひとつ大きなため息を吐く他にないのだった。

やがてリュートを手に取った。
オフィーリアは恭しくスカートの端をつまみ礼をすると、
ヴェンの奏でるリュートの音色に合わせて足を鳴らした。

くるりと踊り、歌い出す。

「踊れ軽やかに祝福の舞踏 歌え高らかに歓びの歌」

それは足を踏み鳴らす音が石畳に響くかのように、
村を包み込むかのように回りまわる、踊りの輪が広がるまつりの歌。

帰宅したヴォルフも、その光景を見るなり何も言わずに笛を手に輪に加わる。

今は三人だけの、小さな演奏会。
明日になれば、村中で響き渡る。

「踊れ軽やかに祝福の舞踏 歌え高らかに喜びの歌

花壇の草陰でシルフも踊り出す 美酒の泡の様な七色の夢を見る」

陽気に紡がれる音色はお辞儀をするかのような軽やかな音を最後に、やがて演奏を終えた。

誰からともなく笑い合い、
協力し合って夕食の支度をして、
昼間の話の続きをしながら食事をとり、
隣合って眠りにつく。

それは、当たり前の日常で。
明日も、そのまた明日も、きっと続いていく。
そんな夢を見ながら、今日も深い微睡みに溶けていくのだ。