*《おまけ》
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*《バトビ考察本》再録*
目次
○バトビ考察200304/原作とアニメの差異、そのベースの“原罪”と“最後の審判”、等(メモ:今日は29話を見た)
●バトビ考察200306/“オリジナル・シン” ――アニメ版要素の象徴たるシンとその二面性、それが存在しうる文脈、“動機”
○バトビ考察200308~/“いい父親”ジャークは特異か普遍か? ――海賊と“新大陸”が一期と二期とを重ねる構図、多義性の世界
●バトビ考察200325/一期19話『五番目のカイン』に関して
*まえがき
Privatter(プライベッター)にて公開していたバトビ考察をまとめました。
改行などは本向けに直している部分があります。
楽しく全力で趣味を出して考えています。解釈や見方の一例としてご覧ください。
当方の興味分野がオリエントや文化同士の力関係の推移などなので、そのあたりへの言及が多いです。また、バトビを見ていて特定の文化を背景に感じたので、その視点で構造を考察する内容が多いです。個人の見解と、あくまで見ていてこう感じた、という感覚に基づくものですので、それらの背景を否定する意図はございません。
お付き合い頂けましたら幸いです!
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バトビ考察200304/原作とアニメの差異、そのベースの“原罪”と“最後の審判”、等
(メモ:今日は29話を見た)
アババ=育ての親、マーダビィ=生みの親、シャドウという疑似家族。“家族”に対する原作とアニメの差異。地獄の置き方。アニメでの善悪の明暗の強調(原罪という背景)。アニメ制作陣にとって作品は“生んだ子”なのか?、神学的戯曲的色の特に強い二期、アニメヤマトに持たされた神秘性、等。
炎呪、ユンファ兄弟、ビアス、カインとジョシュア、ルクスの名、ジャンクビーダーについて言及します。
☆前提事項
・アニメと原作とでは炎呪の言う地獄のニュアンスが異なる。これは、彼が“堕天した”条件が異なるため。アニメでは先天的な因子(生まれながらの業)から逃れても逃れきれなかったためで、原作では、後天的(外因的)因子によるからである。
・原作での地獄≒“ビーダマンに関して罪を犯したものの行く先”と解釈できる。
・アババは育ての親であり、マーダビィは生みの親である
炎呪や、原作のビアスにとって、アババ≒シャドウ(の表の代表)は育ての親。ユンファ兄弟にもアニメにおいてはそう。シャドウは組織であるが、それは闇の疑似家族でもある。これが、特にアニメの炎呪の、シャドウを抜けるユンファ兄弟に対する感情につながる。というのも、アニメにおいて炎呪は、実の親の稼業(の片棒担ぎ)という闇の束縛から抜け出そうとし、父すらをもともに表世界に導くつもりだったためだ。
そして、実際その脱却ができたと信じたが、現実には、表の大会の場で闇の実績を持ち出され、“暴かれ”、かつての行いという罪によって、裁かれるのだった。
つまり、炎呪にとって、闇の疑似家族シャドウに属した者は、その足枷を背負って生きていかなければならないのだ。そこに一度属してしまえば、抜けられると思うことは愚か。抜ける真似事をしてもいずれ報いがくる。そういった思考が背景にある。
29話において、炎呪が、シャドウの一員として立派に育った、とアババやマーダビィから言われており、シャドウは実際にそれまでにも、悪のビーダー育成組織として描写されている。
シャドウは炎呪を“育て直した”親のようなものなのだ。
シャドウは、闇の疑似家族である。
一方で、アニメ独自のマーダビィという存在は、アニメビアスにとって生みの親である。これが同時に、マーダビィの悪の魂本人にもなることは、親=子ども、という、親の所有物としての子ども観、そしてそれが親と“子ども”とを同一の自己と錯視させるという、家族の力のある意味での闇の面を描写している。
これはアニメでは炎呪において親の業を描写したことの確認でもある。カインでもそう。一期の主題と言えるだろう。
では、マーダビィの操り人形=肉体は、自身と近しい姿形であってはいけなかったのか?
そこで原作におけるアババの教え子ビアスのかたちを利用するところに、アニメ制作陣(というか監督だと思うのだがいちおう制作陣という表現を使います)が“生んだ”マーダビィという“オリジナルの存在”をアババの上位者として確認させる意図があるのかなぁと。
ここでアニメビアスが操り人形として生を終えた、肉体が消滅した理由が、その闇の業=悪が完全に消えるためには、その同一者である所有物=子ビアスの肉体も消えなければならなかったのだと思う。悲しいことに
…
ここに、アニメ独自の、悪は悪、善は善として強調し、断罪する、姿勢を感じる。
この背景には制作陣自身が“上位者”“生みの親”であるという意識があるのではないだろうか?
というのも、アニメでは、ビーダ魔神たちを作品の鑑賞者として利用し、そこにたびたびビーダ魔神たちがアニメ制作に携わっているような描写というギャグが登場するからである。
原作においても作品の世界はビーダ魔神という上位者に見守られた存在であるが、これをナビゲーションに多少使用していることに、あまり、原作者と作品世界との距離や温度差は感じない。原作者は作品を見守っているが、それを自身の所有物とはしていないのではないか。
原作者にとって、作品で描く世界は憧れ≒ひとつの理想(こういうやさしい世界だったらいいという願い)であり、そこには、作品≠自己という、明確な皮がある。ところが、アニメは様相が異なる。
アニメ制作陣にとって、ヤマトたちの活躍は一種の戯曲で、“エンターテインメント”なのである。ビーダ魔神たち上位者がそれを見守る。その上位者たちは、アニメを制作する立場と同一視される。つまり、制作陣は作品を応援する一方で、同時に、“操り人形”ともしているのではないか。それは、アニメビアスの肉体をそうしたことに象徴される。
では、何故アニメは、そのように“制作物=生んだ子”としての作品を自己=親の所有物として随意的に操ったのか。
そこには善と悪との区別を強調する意図を感じる。そしてその方式=手段には、意図的に強調して設けられた、“生まれによる業を負った罪人たち”の存在が主に使用されるのであった。
すなわち、そこには、“原罪”という概念があるのではないか? 次項において語る。
・“原罪”を帯びたアニメ風アレンジ ――“兄弟殺しの罪人カイン”の話がキーになった理由、神学的戯曲となった二期、ルクスの名、鬼神としての炎呪
原罪。ここでは、アダムとイヴが犯した罪(知恵の木の実をたべた)、及びそれを背負った人類、という解釈で論じる。アニメではその概念を利用して、前項で語った通り“生まれながらの業”を強調したのではないか?
また、原罪に関する解釈として、全人類がアダムの罪を引き継ぐと同時にイエス(マリアの子)の義をも受け継ぐことができた、というものがあるらしい。ここらへんがアニメのキーっぽいんだよな、アニメにおいて“新たな伝説=ヤマト”は“アダムとは別の起源による神秘的な存在/真の義”と強調されている感じがします。
そして、神が生んだ最初の人間アダム。その子の一人が“カイン”。“兄弟殺し”として、“人類最初の殺人者”とされる存在の名と一緒ですね。
原作者はこのことを知らずにたまたまつけたらしいのだが、アニメは明らかに、意図的にこの名と“ジョシュア=イエス・キリスト”の絶妙な興味深さを拾っている。アニメ版アレンジの主軸のひとつにしているのである。
このカインとジョシュアの名の作中存在により、アニメでは、“罪(と義の対比)”をピックアップし、原罪というキーワードを絡めたのではないでしょうか。
そうして、“生まれ(家族)の力”と罪人性との結びつけをして、お話をふくらめたのかなぁと思います。
そして、それによりカインの辿る道がだいぶ変わってきた。最終的には救われるのですが。
ここと、二期の構成に、明らかに最後の審判の概念が使われている。また、これが炎呪の歩みにも反映されている。彼は地獄を生きることを振り分けられた。
最後の審判には大まかにふたつ解釈があるのかな。
ひとつは、世界の終末時にすべての人類が復活して、永遠の生を歩む際に、天国ないしは地獄、どちら行きか生前の行いで振り分けられるというもの。
もうひとつは、不義者の罪も浄化され、全人類が理想の世界に生まれ変わるというもの。
前者を主に取りながらも最終的に二期では後者に近いかんじで終わるよねアニメは。親玉は消えるけど。
最後の審判のとき、ゾロアスター教だと、天から彗星が降り(ここが二期っぽい)、すべての鉱物が融け(コバルトとか、鉱物の名が好んで使われるバトビの機体が想起されます)、復活した死者たちを飲み込んで(ここも二期)、生前の行いによって苦しむ者苦しまない者の差が出るとのこと。
ところで、二期は、デウス=神だったり、たぶん戯曲に関する名を幹部に採用してる?だったりラテン語を好んだり、西洋的な神学っぽいテイストを支配の鍵にしながらもその出で立ちや拠点が“非西洋”なんですよね。
これ、作品自体が“神学的”戯曲になってるんだろうな。サブタイトルがすべて映画のタイトルかららしいのですが、そこも、戯曲として仕立てているかんじを強調させて感じる。
主人公サイドという義に対応する真なる神と、神を名乗るが真に義なる存在を信奉するわけじゃない存在との対比、というのがあのテイストの理由かなぁと。
ルクスの名は光の意であり、これは堕天使の長ルシファーの由来でもありますよね。光をもたらす者、として、ルクス(光)+運ぶ、による名。ここらへんと最後の審判の概念で二期のあらすじが構成されたかんじですかね。
ルクスの民は天界的にそして審判後の理想世界的に描写されてるけど、天使は堕天するリスクもある、みたいなところがちらつく名で、実際そういう要素が展開にあるかなぁと。
そして話は戻りますが、炎呪は29話において、“鬼神”と形容されます。これをイスラム教の堕天使イフリート(鬼神と訳される、炎の魔神)を踏まえていると取ると、マジで業が深いです。
イフリートは、神(アラーは神の意です)が命じてもアダムにひざまずくことを拒否して天界を追放された堕天使。そう、アダムに、です。イフリートは、自分は神により炎からつくられた存在なのでアダムより優れている、だからひざまずかない、と言ったといわれているようです。29話で炎呪は「すべてをひざまずかせる強い力がほしい」、とも言います。怒りのビーダーって言われてるねぇ、イフリートは短気で獰猛だそうです。
炎呪とヤマトはともに炎を背負いながらそこに善(義)か悪かの割り振りをされていると感じます。
・カインとジョシュア、父、罪
アニメのカインとジョシュアについて、図にしました。(図1)

(図1:アニメのカインとジョシュアの心のズレと重なりの経緯)
説明。
アニメカインは、罪人の色が濃い。これを“父”の存在に起因させながら、ほぼ兄弟のように育ったジョシュアに助長させたというのだから、アニメ制作陣がその暴走を強制終了させたのは傾向として当然だったのでしょう。神学的なかんじがします。
それでも、彼は救われます。最後の審判後の世界によみがえった“死者”が、現在のカインが殺していた心、すなわち過去のカイン(≒ジョシュア)だったからです。それはかつてビー玉をジョシュアと交わしたころの心。ふたりの心が、ひとつに近かったころの。
約束のビー玉という鍵が、強制終了させられたカインの体に対して、昔の心というセーフティモード状態で起動できるシステムを復活させたのです。それは神秘的な存在であるヤマトの光によって。
だから、カインは救われた。
さて、それでは原作は? 原作とアニメとでどう違うのかはこれまで語ったところをまとめると、アニメが原罪的な概念によりカインの生まれに罪を起因させたのに対して、原作はふつうに、なんか、炎呪もですけどみんな起こしうる罪、みたいな、かんじがするんですよね。
みんな、いろんな理由で過ちを起こしうる。だけどそれは救われうる。そんなかんじの、救いのまなざしが強いと思うんです。だから原作は“友”ジョシュアを救いの主としたのでした。ここではヤマトも等しく、友で、仲間です。
アニメだとヤマトの神秘性が結構強調されてるかんじがしますね。超越者というか。
・ジャンクビーダーと“地獄”について軽く
原作では地獄の立場は、後半で炎呪が示したように“ビーダマンに関する悪事をしたものの行く先”というかんじですね。炎呪自身もこれであり、そしてシャドウもそうでした。
そのため、事情はあれジャンクビーダーは、“悪魔”ビアスに利用された。地獄行き寸前だからです。
けれども原作は、情状酌量の余地をじゅうぶんに重視しますよね。カインの改心時にも見られたことです。
ですがアニメの場合、原罪を重視しつつ、最後の審判の結果ほぼすべて(と言っても親玉はダメだから、天国地獄に振り分けてるという解釈ともとれます)をゆるすので、各エッセンスの要所に適宜人員を振り分けたかんじでしょうか。
一期において地獄的サイドのビアスがきびしくさばかれたのは原作における親玉としてでもあるのかな。親玉だけは許さん、ってかんじがします。そして二期は親玉以外の地獄的サイドは浄化されてるのかなぁと。ハジャは悪事をけっこうしたので罰うけてますが。
カインは
…きびしくさばかれた、けど救い(復活)を用意されている、という意味で、浄化解釈の審判ですよね、ここをビアスと分けた理由はまじでわからんです。どう分かれてるのかはわかるんだけど
…ビアスも復活してるといいなぁ。期待。
バトビ考察200306/“オリジナル・シン” ――アニメ版要素の象徴たるシンとその二面性、それが存在しうる文脈、“動機”
シンの存在、ルクスの辿った道を中心に、アニメ版の意図したメッセージは動機とそれを評価する価値観の多様性・複雑さかな?というのを考えました。
・はじめに
「オレは犬じゃねえ、狼だ!」
シンがお約束のこの言葉を発するとき、シンはその通り犬ではないのか、それともこれは、彼が狼と犬のシンボル性を併せ持つことを示すのか?
持論では、狼シンは、狼であると同時に犬でもある。また、彼はある面では狼でなく犬でもない。
彼が何を持たされたかを論じる上で、最初に、その名の複合性について軽く触れる。
・sin=罪、シン=神・真・新などの字を当てることができる
シンとは、バトビのアニメ制作陣がアニメ化にあたって意識的に強化した原罪(original sin)の要素を象徴する名であると取れる。
これは、シンのパートナーであるアキュラスが、“生まれながらに持ったルクスの血”により苦難を迎えそれと戦うこととも重なる。
そして、シン、という響きに当たる語と言えば、真のビーダー、の真、神秘性での神、あるいは新たな伝説や新世界の新などの語が浮かぶ。
ここで強調したいのが、ルクスの民と、ともに野を駆けたという野生の狼たちには、善悪、そして争いという概念がなかったのではないかということだ。
詳細は次項で記述するが、それに善悪の知識の実を食べたアダムたちの罪、原罪を重ね、シンという名の狼をルクスの民アキュラスの友として登場させたと考えることができる。
アニメのオリジナル要素、シン。それがoriginal sinの象徴ではないだろうか。
「これがオレたちの背負った十字架なのさ」。シンのこのセリフが、端的である。
・狼の二面性、そこにある“罪” ――“善悪”をしらなかったルクスの民の生活形態とは?
狼がどうこう以前に、そもそも善か悪かの判断をすることが、アダムたちの知恵の実を食べた罪に起因する、とされます。そしてそれにより人類に生じた労働活動が、狼に善悪二面性を生む。
人類がその罪により善悪の評価を分けた、それが狼。シンの名が重く響いてきます。
そしてこれが、ルクスの民の特性を推測する手がかりでもあります。
狼は善か悪か? この評価が古来より大まかに分かれたのは、それを評価する文化圏の生産活動によるようです。
大まかにいうと、農業の盛んな地域では、恐れられながらも益獣とされた。そして、牧畜の盛んな地域では、家畜を襲うため害獣とされた。更にここに、狩猟採集民族では“友”であるという、要素が加わります。
ルクスの民の場合、『野生の狼を友とし野を駆けた』なんですよね。いずれの生産活動もしていなかった、する必要のなかった“楽園”と取れます。もしくは狩猟採集をしていた原初的な世界。
ルクスの民にとって善悪を知ったのは戦うことを知らされたときだった。善悪を知るよりも前の存在だったとして、神聖さ、神秘性、が際立ちます。
ルクスにとって狼は友。これは、牧畜を西洋の主要な産業とくくったときに、非西洋的、あるいは未開の存在ととることも、産業にとらわれない上位存在ととることもできます。二期のテイスト的に両方かなぁ、という印象です。
ひとつ。上位存在であったもの(ルクス)が堕天使(ルシファー:ルクス+運ぶ)となった。
ふたつ。“未開”の存在が、“文化”を“教えられた”。強大な力が原初的な存在を食い物にしていった時代の踏襲ともとれます。
更に、犬についてですが、「人類の最良の友」と言われ、概ね友好的にとる文化圏が多いようです。犬も、狩りのパートナーになりますし。
狼シンの印象を犬とあいまいにさせているのは、ルクスの民の特性の確認、シンボルでもあるのでしょう。
・狼と労働形態についてはアベルとカインの話も重なるなぁ
アベルとカインの説話については、牧畜民が農耕民より優れていることの描写ととる解釈もあるそうですが、これをどの程度重視していいのかを置いておくと、これは、狼=悪の文化と狼=善の文化の優劣に援用することができるのではないでしょうか。
すなわち、狼=善の文化、農耕民が、劣っているとする解釈がある、という使用ができます。
ここで農耕民の代表はカインです。カインが悪とされます。
一期でアベルとカインの説話を筋書きのキーにしたのと、思考の向きとしては同じと考えられるのではないでしょうか。
ですが、ここに、シンを犬だと扱う恒例ネタ、それを否定して狼だと主張すること、を併せると、構造が複雑になってきます。
そこには扱いの通り牧畜民と農耕民の持たされた役割の逆転があるのか? それとも否定している通り、もともとのままなのか。
シンが「オレは犬じゃねぇ!」と言うとき、シンはそれでも犬=善性なのか、狼=善性なのか。善悪の枠を超えた存在なのか。シンの自認と、実際のところは?
・“ブル=(雄)牛”にシンの二面性描写を担わせたことに意図はあるか?
これはさすがにこじつけかもしれないんですが、大まかにくくればウシにとって狼って、自分たちを襲ってくる可能性がある動物でもありますよね。
一方で、狼でなく犬だと、牧牛犬のように、牛を追うのが仕事でもそれが管理者としての努めで、食べに来るわけじゃない。
よって、ブルがシンの名を間違える、というギャグを反復し、けれども最終的には正しく言う、ということには、ブルが雄牛の名を背負っていることに起因するのでは?という推測も立てられるのです。
そして、ブルの存在が、シンのこの狼と犬双方の要素を持つ面を確認させているのかなぁと。
ブルは狼シンを快く思っているけれども、そのときブルは、牧畜を担う面を持ったままなのではないか? シン=善(か悪かの区別がない)、だけれどもシンは狼のまま。
であると同時にこのときシンは、視聴者においても、シン≒犬=善という念押しになるのです。
日本人のようにもともと農耕中心だった民族だと狼は益獣ですが、畏怖の対象でもあります。それが、親しみ深い犬と重ねられることで、孤高の存在アキュラス&シンを友と受け入れやすくさせる。
シンの自認は恐らく、自分とルクスの民はそんな親しみやすいようなもんじゃない、親しんじゃいけない、というものだと思います。ですが彼はヤマトの応援を担ったとき完全に、“善としての仲間”の役割を全うしました。それでも彼とアキュラスの両者はやはり、生きる場所が違うのでした。
余談ですが、ブルとベアが対なのは、株価の動きにおいてなんですね。
・二期の流れについて、上述に関することや、狼と関係すること
まず、狼は、七つの大罪のうち憤怒を象徴する動物でもあるそうです。
これは、アキュラスに最凶最悪ショットを生ませた経緯と重なって感じる。たまたまかなぁ。
仲間と出会ったことで“空っぽだった”アキュラスに善いこと悪しきことの区別が生じる。敵はその感情を利用して、憤りや苦しみを感じさせることで、悪事を成功させようとする。
アキュラスは捕まるとき、仲間の善い力を敵にも教えようとしますが、アキュラスのその善悪の区別が、彼自身を苦しめることになってしまう。悲劇です。同時に、アニメ制作者の、人間存在への少しシニカルな愛情も感じます。
そして、ルクスの民は“かつてビーダワールドにいた”のですが、最終回においてアキュラスとシンはその“ルクスの村に還る”。青空に輝く光へと、粒子になってのぼっていきますが、けれどこれが、完全なる消滅を意味するわけじゃない。
ここには、二つ、興味深いところがあります。
ひとつ目。あの光は明星なのではないか? すなわち、ルクスの民がルシファー=明星となった、それが浄化され救われたということ。
ふたつ目。滅ぼされたはずのルクスの民≒ルシファーは地獄でなく冥界=ハデスの領域にいたのであり、二期の主軸である最後の審判の概念により、善き者たちとして“理想世界=ルクスの村”で“復活”し永遠の生を受けたのではないかということ。その村では悪が滅びあるいは浄化されている。
こうなると、次に触れたいのが、アキュラスの機体が関する名、ハデスの存在ですね。
・ハデスについて
ハデスとはギリシャ神話の冥界神ですが、新約聖書においても死者の行くところとして記されているそうです。
一説には、肉体的な死ののち、最後の審判までの間を待つ居場所とも言うそう。これ、二期の最終回のルクスの民の描写がこれだと思うんです。
冥界神としてのハデスは、恐れられていることが多かったようです。軍神アレスが戦いを起こすとハデスの領域に死者の魂が行くので力が強大になる、とか。戦いを知ったルクスの民に重なりますねぇ。
ただ、富の有無などに関係なくすべての者を受け入れるとして信仰もされたそう。空っぽ状態のアキュラスはここかな。
ハデスは、オルフェウスの竪琴に感動して涙を流したりなど感情豊かだそうです。必殺ショットを生むルクスの力はこういう面からかな
…
ところで、ハデスは、全能神ゼウスの兄であると同時に、作品によっては敵対して描かれることもあるようなのですが、ゼウスって雷をつかさどるんですよね。そして、ルシファーは雷のように堕ちたともされる。
ゼウスの雷は全宇宙を破壊できるほど強いそうですが、これ、ゼウスとハデスの対比がバトビアニメ内においては現実世界と逆転して見えるんですね。シンにおける善悪の逆転がここに重なるというのは言い過ぎでしょうか。
また、バトビでは、一期ではマーダビィがアババを電撃で罰しているシーンがありましたが、雷は罰や罪の印象である解釈でいいのならば、ルシファーの要素が興味深いです。
ルクスの民が負った罪とは、生まれ持った能力にもかかわらず戦いを知ってしまったことだと思うんです。アダムとイヴのイヴは蛇にそそのかされて、アダムはイヴに言われて、禁じられた知恵の実を食べてしまいましたが、蛇はサタンともされ、ルシファーと同一視される。
ルクスの民に罪が生じたのは直接的にはそそのかしたルシファーにより、そして、本質的には、生まれ持った能力=業=“ルクス”の民の力による。これにより彼らはルシファー(ルクス+運ぶ)となった。
ルシファーの名を出して同時に浮かぶのは、炎呪です。次項では彼について触れながら、アキュラスとの共通性をゆるっと雑談したいと思います。
・アキュラス(ルクス)と炎呪において重なるイメージ、堕天使という語、原罪と戦いながらもともに生きるみんな、動機としてのビー魂
ルクスと炎呪、ともに堕天使、あるいは地獄だったり冥界に関する語が印象的なキャラですね。
二期における炎呪が二つ名に稲妻を関していたことはルシファーとの関連性もあるのか気になっています。
コーネルの稲妻はゼウスのイメージなんじゃないかなぁと思うんですが。炎呪もゼウスなんでしょうか? そこらへんなんにも関係ないのか?
炎呪に個人的にはイスラム教の堕天使イフリートのイメージがある、というのは先日語った通りですが、イフリートとルシファーはほぼほぼ同じような理由で天界から堕ちています。
では、アキュラスと炎呪は境遇が似ているのか?
原罪という文脈、そしてそれと戦い、ともに生きる。恐らく、生をまっとうする。そこがかなり似ているなぁと思います。
炎呪は、一期において仲間の力に目覚めながら、それでも地獄に近いところの住人として生きることを選びました。自分が負わなくちゃいけないもの、それを背負いながら生きることは、彼なりに過去の贖罪だったのでしょうか?
新しい罪を重ねていく歩み。勝つためには手段をいとわない。そうして罪をさらに背負う。贖罪とは違う何かと、贖罪とが入り混じっている。彼を動かすものが、善悪のみでは形容しがたい何かだと感じます。そしてそれこそが、動機というもののアニメ版の表現なのかなぁと思います。
アキュラスにおいては、自身の命を賭す、という、これも完全には善悪に分けがたい行為により、それでも幸福に、還っていきました。
彼はそれが自分にしかできない、自分の役目であると理解し、そうしたのです。
彼にそうさせたのは、ヤマトたちのいる世界を守りたいという動機。
その動機と、ずっと一緒にいたいという感情は、相反するものに見えて実のところ、世界を守る前提なしに成り立たない。それさえ成せば、たとえ別れ別れになってもともに在る。いつかは再戦もできるかも。
ビー魂。熱いそれは作品の主題のひとつであり、基本的には善なるものが良しとされる。
けれどもそれは、突き動かす情熱とも、逃れがたい衝動ともなりうる。そのあたりの葛藤は多く描かれていますね。これは心の力や魂のありかたであると同時に、動機にもなる。
そして、それをその状態にさせる文脈は人それぞれであるだけでなく、人においてもそのときそのときで違う。これはツバメが特にそうでしたね。
誰でもそうですが、生きていれば、同じことをするにあたってもその時その時で抱くものが異なる。色々な状況に直面し、葛藤して、そうして、それでも生き抜こうと努力する力を、描くためのひとつのエッセンスが原罪的概念だったのかなぁと。
原罪には、生まれながらの罪だけでなく、生まれ持ったはずの義もともにある、という解釈をここでは重視したいです。
シンのシンボル性にも象徴されるように、バトビにおける原罪的概念はやはり善悪に明確に区分できるものではなく、それぞれのありかたの、かたちがあるのかなぁと思いました。
・今回のまとめ(二期30話を引用しながら)
「天から星が落ちるとき、真なる伝説のビーダーがよみがえる」
繰り返されたこのフレーズは、最後の審判の際の彗星の概念を主に使用したものだと思いますが、だとすればその先の理想の世界に立つ“真”性とは。
もしくは、イエス・キリストの誕生を告げるベツレヘムの星のイメージなのか?
天から堕ちた明星ルシファーのことも同時に指すのか?
「伝説の力を持つ限り悪しき連中に狙われ続ける」
生まれ持ったものによる脅威を明確に意識したセリフ。
これは、原作においてはレジェンドストーンがアイコンとして担ったものでしょう。アニメにおいては、大会参加権のストライクショット探しもそうでした。
それは作中では基本的に外的なものですが、それを存在させた力がある。
これらにまつわる内的な動き、すなわち動機は、原作でもアニメでも、ビー魂に集約されるのではないか。
「二度と同じ過ちが起こらぬよう自らの力を封印した。一族の記憶さえも消し去ってな」
悪者に狙われぬよう、世界が危機に瀕しないよう、犠牲になる覚悟。それはルクスの民において、自分たちが持つ力が“悪者”たちの悪しき動機をくすぐるという理解に基づく。
「強さだけに心奪われた悪しき連中はいつの世にも存在するものじゃ、かなしいことじゃが」
アルマーダはこう言った。
『強さだけに心奪われた』動機を悪とすることは、“勝ちたい”という動機のはらむ危険性を示唆する。同時に、本当はその動機というものは区分けのできないものであることを感じさせる。
犠牲を生んででも成したいこと。それがほんとうに、よいことなのか? そしてその功罪を判断する基準に真実はあるのか?
そのあたりがアニメ版で設けたメッセージ=投げかける疑問なのかなぁと思ったり。
バトビ考察200308~/“いい父親”ジャークは特異か普遍か? ――海賊と“新大陸”が一期と二期とを重ねる構図、多義性の世界
ジャーク船長親子、海賊というモチーフ、“発見”された“新世界”を軸に描かれる善悪や動機の多義性、ニャトラ神殿の名や、ニャトランティス島とマーダビィについて、など。
・はじめに
ジャーク船長の存在がもたらすものを考える際、現実世界における海賊の歩みは重要な要素である。海賊は、アメリカ大陸と切り離せない。そして同時にこれは、一期と二期において、“敵”の存在の重要拠点をそこにおいたことの意味を考えさせる。
すなわち、“発見された”大陸におけるすり替わりと強国化、イコール語義の多様化(曖昧化)がその背景にあるのではないか? そして、“ニャトラ”の名が、“発見”の功罪と責任のとりかたについて問題提起をしているのではないか。
一期において目指す西、その途上で偶然行き着いたニャトランティス島。ネタ元のアトランティス島はかつて、アメリカ大陸説を信じられていた。二期において目指す敵の本拠地も、中南米である。つまり、バトビでは、アメリカ大陸“発見”と、それにまつわり複雑に絡み合い変遷していった“力関係”をモチーフにしていると感じるのである。
ここでは、発見された新世界は“ビーバトル”だった。
なお、これらはバトビの背景にある文化観への考察であり、私個人の政治的宗教的思想ではない。また、今回は、バトビの構造を紐解くうえで必要な現実世界の要素の確認が多い。
まず、前提となる、海賊と“強国”について概要を記す。
・“カリブ”における海賊、そしてカリブの名について
ジャーク船長たちが交易を担い、恐らくルールをもって、ニャトランティス島に近付けるのはここまでである、としたことの、現実世界の背景には、大航海時代以降の植民地化と交易の活発化があると考えられる。
そのなかで特に重要な拠点であり、そして同時に海賊の場として知られる“カリブ”には、アメリカ大陸“発見”を象徴する重要な意味がある。
シェイクスピアの『テンペスト』という作品に登場する怪物キャリバンは、カニバル(食人種)のつづりの並べ替えだという説がある。そして、そのことと作中描写から、この“怪物”は“新大陸”の隠喩であるととらえられるのである。
このカニバルという語はカリブ族に起因し、大航海時代に“発見”された“新大陸”の人々、未知のその存在への恐怖により、彼らが人肉を食べると西洋人から信じられていたことによる、とされる。そのため、カニバル=“カリブ”は、西洋的な価値観から外れた野蛮な存在、とされたのである。
けれどカリブにおいて海賊は、主に西洋人が、他国の植民地や交易を襲うものだったようである。そしてそれは、植民地支配時代において、勢力争いの背景により時には“合法”とされた。
すなわち、海賊となった西洋人は、ある面では道を誤っており、ある面では“正当化”されたのである。
このとき重要なのは、カリブ海は舞台にすぎず、先住民は概ね支配により衰退していったということである。
バトビの二期は中南米を舞台としているが、彼らはその土地の者ではないのである。
それでも“キャリバン”が、どんな勢力図を描いていったか。深くは言及しないが、示唆的である。
アメリカ合衆国が大規模に海賊を掃討しようとした『西インド諸島海賊掃討作戦』は、米国の強国化とヨーロッパへの対抗、その流れの象徴とも言える。
“キャリバン”を喰った米国は、多くを西洋に由来する国である。その米国は、カリブにおいて、力による戦いを行なったのであった。
(あの、これ、まじで、是非を論じるものでなく、興味深いなぁ!という立場での話ですので
…)
また、海賊と米国に関しては、トリポリ戦争も興味深い。
こちらは地中海の北アフリカ沿岸が舞台だが、かつて自分がまとめたところによると、“野蛮(とされた)”なものたちを打ち負かす力を米国が示し、“ヨーロッパにできなかったことをなしとげた”という“アイデンティティー”を確立した、というのである。
(
当該記事)
つまり、“強い力”=“正義”と海賊とは、切り離せないものなのである。時にはそれは、海賊とイコールですらあった。だが、のちに、海賊は正義の敵として位置づけられていく。
一方で、ジャーク船長は、正義の海賊となる。先日論じたように、バトビ世界は特に二期において、意図して善悪の境界をあいまいにしている部分がある。それを強調しているにもかかわらず、だ。否、強調は、あいまいであるという“明瞭”をも日のもとにさらす。
その意味でジャーク船長は、一期のキャラであるが、その側面を強く持っているのではないか。
・プラトンの言う“アトランティス島”が後世でアメリカ大陸と同一視されたこと
これもキャリバンとだいたい重なるのですが、まず、本来的なアトランティス島について整理します。
アトランティス島とは、そもそもは古代ギリシャの哲学者プラトンが記した島と、その帝国。ポセイドンの末裔を王家としながら、人間と交わることで堕落していったとされるそう。(ポセイドンはゼウスの兄で力を並び評され、ハデスの子でもありますね) 物質主義に走って領土を拡大したものの、アテナイ(アテネ)を中心とした諸国に征服失敗で敗れ、海中に沈んだとされる。これが神々の罰とされる。
めっちゃマーダビィです。
また、この話は、もともとはエジプトの女神ネイトに仕える神官から伝わったとされます。それは更に賢人を経由している。バトビはこれをなぞって、さかのぼっていますね。
ネイトは戦いと狩猟の女神で、戦士の武器も作り、その遺体を守るとされたそう。このあたり、ギリシャ神話のハデスとアレスの要素を二期で取り入れていることが思い浮かびます。
また、かつてのマーダビィとしてのネイトが精神性による武器ビーエナジーをさずけ、マーダビィの魂が浄化されることもここのエッセンスがあるのでしょうか?
ネイトは、知恵の女神としてセトとホルスの争いの仲裁もしたとか。善悪というキーワードがちらつきます。善のマーダビィと悪に堕ちたマーダビィ。その戦いをも仲裁する、のかな。
ネイトは水を意味する名と見られており、古代エジプトの創世神話(原初の水から大地が現れた的なやつ)の原初の水、すなわち創世の母ともされるそう。これがアトランティスの水没&ポセイドン要素のもとなんでしょうか。
そして、ニャトランティス島においてヤマトが波のしぶきと“日没”により新必殺技という“武器”を手に入れたこともこのあたりによるのでしょう。
ヤマトは、自身の内、そこに(旅の成果で)“既に存在していた”ものを、“発見”したのです。
プラトンがこの伝説の帝国について記したのは、当時の実在の強国の傲慢さになぞらえての意図だったとされています。
一方でこれがのちに、アメリカ大陸発見に伴い、それのことだったのだ!という解釈を生みます。
これは上述のカニバル同様、西洋の価値観では理解できない人々、先住民の理解の手段のひとつとして用いられた説。当時でも信憑性には様々な立場が取られようですが、しかし、皮肉なことですね。発見した“アトランティス=アメリカ先住民”は、のちに、“強国アトランティス”にすり替わっていく
…そのなかでも力関係の変遷を経ますよね。
バトビにおいては、ニャトランティス島やニャトラ神殿への到着が明らかに“新大陸発見”の経緯をなぞっています。西に向かっていてたまたま、という。このあと“ジパング”、日のいずる国をさらなる目的地とするのは、コロンブスの本来の目的地がインドであることを踏まえているのかな。それはべつにそうでもないのかな。そして、結果的には、ニャトラ神殿の石板によってネオンシティ(極端に物質主義な社会)の“下”でビーエナジーを受け取る。
バトビでは、精神的なものによる神性への回帰がアトランティスをモチーフに展開されています。アトランティスが神性を失い、領土拡大の戦いを求めて罰せられたので、マーダビィも死後まで戦いを求めて肉体や兵隊までつくった(それは神域を侵すことでもある?)。そして、彼の善きこころと悪しきこころという対比、すなわちバトルというものの生みうる二面性を描いた。
ここではアトランティスは、マーダビィにより築かれた“ビーバトル”という新世界であると同時に、“制作陣から見たビーダワールド”でもあるのではないか。
・アトランティスについてもう少し情報を整理
もともとはアトラスの娘の意であり、アトラス王とは、娘たちが海賊(エジプトの王に依頼された)にさらわれたのをヘラクレスに救われお礼をしたそう。それによりアトラスにまつわる伝説ができたとか。
あるいは大西洋を指す語として使われていたとか。諸説。
アトランティスは、青銅器文明の国家としては突出した軍事力を持っていたと解釈され、それはポセイドンの末裔が王家であるがゆえ、だそう。プラトンの言うには当時の9000年前に沈んだそう。(補足と備考: 青銅器時代は主に石器時代と鉄器時代の間の時期とされますが、地域差があり、存在しないところ、あるいは中南米のように鉄を発見しなかったためこれらの全過程がない地域などもあります。文字の存在する前だったりしていたり、混じる時代なのですが、中南米のなかでマチュピチュのあるインカ帝国はそもそも文字を持たなかったりもします。)
アトランティス王家はだんだん人間と混じって神性を失い暮らしも荒廃し、それでゼウスが神々と相談して、アトランティスを戦に負けさせることと島の破壊を決めたとか。
神性を失ったマーダビィはここからでしょうね。
また、その強大な軍事力(兵力)と帝国性もそう。
ここに海賊とかアメリカとかの単語がちらつくことをどの程度考慮すべきか、慎重になる必要はありますが、興味深いところです。
・ジャーク船長は“誰”の“父親”か? ――その子ども、ジュニア
ここでジャーク船長の話に戻ります。父親としての彼は、どういう存在か?
言ってしまえば“みんな”の父親ではないか、というくらい、いい意味で、普通の父親像かもしれません。
子どもに自分の夢を押し付け、反発され、でも反省してその息子本来の夢を受け入れ離れても応援していた。ほんとうに、いい意味で普通なのです。
また、それに対するジュニアの存在も、いい意味で普通の子ども。
けれどこの“普通”の親子像が、アニメの作中に登場する主要キャラの一部においては持ちえないもの。(全員ではないです)
一部主要キャラの持たない普通性を、ひとつのかたちとして描いたのがジャーク親子の回だと考えます。
これは一種の暴論です。だって、ある意味では、炎呪やカインのような親子の圧力関係も、“普通”です。ふつうに、あるよねそういうの
…ってなる、現実味がエグい親子像。
ですが、それとは別に、“こういう親子像っていいよね”という普通性が、ジャーク親子においてはあるなぁと、感じる視聴者が多いのではないでしょうか。
原作におけるヤマトの、生みの親がらみの葛藤という“普通の人間”性をアニメではカットしたので、そのぶん、そのあたりも作品では肯定しているのだという主張が、この回に込められているのかなぁと感じています。
ジュニアは、親の望みという力にあらがい、自らの志を持って、そしてそれが和解によって成就される。
このときジュニアは、自身を貶める力が少なかったif存在の炎呪であり、親の存在という圧力から自由意志で独立したifのカインである。
そのときジャーク船長は、生まれ持った業の少ないifのタイジュであり、カインの独立をゆるしたifのアレックスである。
同時にジャーク船長は、グレイから、いい父親像として少し憧れられているとみることもできるのであった。
善悪の両面を持つ人間存在の、その内なるパワーバランスのわずかな加減の差をここに感じる。
バトビ世界において悪の基礎にされやすい父親存在は、ある意味、人類の祖アダムの罪に重なります。
アニメはここを強化しています。それの補完として、救いとして設けたのがジャーク船長なのではないかと思うのです。
また、先日論じた通り、バトビ二期においてはシンに象徴されるように善悪の区別の曖昧性が生じさせられているのですが、これは、ある意味、アダムたちが善悪の知識の実を食べなかったとしたら、というifにもなるのかなぁ。もしくはその罪を浄化する。
そうすると、海賊に見えて違った~!(悪いやつかと思ったらいい人だったのが、海賊にしては、ではなくガチの普通にいいひとだった)という展開、そして、その上で息子と一緒になったときに“正義の”海賊になるぞ~!というのが、海賊というアイコンを使用しての善悪観の転回になるのかなぁと。思ったり。
そしてこの価値観=語義の多様性への気づきはある意味では、“世界認識の新たな一つの発見”なのです。
これは二期のヴィジョンも垣間見られるエッセンスです。どうなんでしょうか。
・“いい父親”ジャーク船長の担う役割は、特異性か普遍性か?
上記の通り、ジャーク船長の人間性は、作品内においてはある意味で特異的です。ミエも同じ役割の存在なので完全にそうとは言えないのですが、“父”という象徴性についてはそう。
ですがそれが同時に、みんながこのくらいだったら比較的平和だねぇ、という、普遍性も持っている。そこが興味深いです。
また、過ちをゆるされるジャーク船長。復活する親子存在。カインや二期で見られる終末論が浮かびます。
作品内においては、こういう個もいるよね~という一例として、普通であり“普遍”なのではないかと、思います。
・そのほか、一期40話ジャーク回について思うことつらつら
ここでは本編の流れに沿ってもうちょっと思うことを列挙したいと思います。
まず名前。シャークと邪悪をかけたそれは、わずかながら絶対的な差と共通性をはらんでいます。そこに善悪の表面性の逆転を伏線として用意しているのかなぁ。
ジュニアの夢について。
ジュニアはシャドウの洗脳により、本人は望んでいなかった“海賊”=父がかつて望んだ姿、になりました。
これは、マーダビィという悪しき力が彼をゆがめたときに生じてしまった、“潜在的な刷り込み”によるのかなぁと。
海賊にはぜったいなりたくない。でも、父はそれを望んでいた。ジュニアには葛藤がありました。それが表象化したかたちが、あれだった。
「おまえはビーダーになるんじゃなかったのか、それがこんな、海賊まがいのまねを
…!」
ジャーク船長のセリフです。ジャークにとっては既に、海賊は息子に望む姿ではなかった。息子には、夢の通りビーダーになっていてほしかったのです。
「おれに命令できるのはただひとり、クールでグレイトなマーダビィさまだけなんだよぉ」
ジュニアはこう言います。洗脳のパワーやばいねぇ。
そしてこれは、彼に命令“できた”のが本来的には彼自身だったことを表すかなと。同時に、かつての父の望みが歪んだ命令を与えたともとれる。
父の、海賊になってほしい、という願いは、もともとは強制にも矯正にもなっていなかった。ジュニアは自由意志で自分に命令した、家出するんだ、と。
ですがマーダビィにより歪められた命令信号が、彼に“自由意志”に逆らい潜在意識を目覚めさせることをそそのかした。それこそが自由だと、だまして。
「今お前に渡せる宝はそいつだけだ」と、ジャーク船長。「あのビーダマン以上の宝がどこにあるって言うんだ!」と、グレイ。
ここで、思い出のビーダマンは父の心、絆と愛の象徴となります。カインとジョシュアのビー玉に重なり、そしてそれに関わったメインがグレイであることの意味を深めるかなぁと思います。また、その父の愛が善として扱われている。グレイは自らも家族の絆を利用された経験があるからわかる部分があるんだろうな。
それから、グレイのピンチが、ビーダマンで帆をおろすことで救われる。ビーダマンは“善いこと”のためにあるのだ、という、メッセージの確認ができます。
ここでは、ジャーク親子が、カインとジョシュアの辿れたかもしれないひとつのありかたでもあります。でもそれはそのかたちにはいかなかった。
ジュニアの使う”鋼鉄製”のビーダマン。
これね、ニャトランティスが青銅器時代の神殿だと仮定すると、鉄器はそれよりあとの、一歩先を行った道具です。
現実世界では、『海の民』と呼ばれる民族が用いて古代エジプトを苦しめたのが鉄器。進歩した、脅威です。
かつての、善きビーダーが、悪の心に堕ちる。マーダビィの(そして彼に洗脳されし者の)辿った道は、悪しき進化でした。いや、武器として悪用する場合の強度の話ですよ! 鉄が悪いってわけじゃなくて。
悪のマーダビィの“先進性”、そしてそれを上回る真の先進性=精神的な神性。そのキーが鉄かなぁと。ヤマトたちの機体が金属名だからなおさらに。
あとは、先日論じそびれたのですが、マーダビィは“勝利”への執着で死後も戦いを求めて悪に堕ちた、これがそのとき論じた“動機”の功罪の象徴なのですが、ジャーク親子においても、動機の善し悪しはひとつではない、というのが描かれているかなぁと。思います。
『思いっきり海賊に憧れているただの運送屋さん』、ジャーク船長たち。この動機=海賊っぽいテイストがいいなぁ、という気持ちを、息子に望んでしまったためにそれが罪となり、息子が離れていくという罰になります。
ですが、「ジュニアも戻ったことだし」、と、“正義の海賊”になることを決める。海賊っぽいテイスト、というあいまいさから、はっきり善である明瞭さを持った、海賊になる。
海賊という語の持つ悪っぽいニュアンスが転覆されますね。
世界も物事も一意的ではないんだ、という姿勢がここで確認できます。
・併せて、ニャトラ神殿の名について思うこと
ニャトラ神殿、って、キトラ古墳のイメージ使ってますかね? 亀虎古墳、とも書くそうですし、壁画の玄武発見により注目されたのが、マーダビィの拠点の玄武っぽいかんじの理由かなぁと。
ニャトランティスの語頭をとったらちょうどそうなっておもしろいね~!ってなったのかなぁと。
そして、まさしくバトビ一期放映のころに、その壁画の保存のための切り出しが行なわれている。
これは、壁画“発見”により湿気が入ったことでカビが生じたため。発見が崩壊への序曲となり、けれどもそこに、対抗策がとられたのでした。
“発見”された“新世界”と重なりませんか?
ニャトラ神殿からは石板を持ち出していますし。これは放映時期が微妙なところなのでたまたまかもしれませんが。
また、古墳の壁画の四神の下には十二支の獣頭人身像が描かれていると想定されるそうで、エジプトテイストの獣頭人身像“猫神様”はある意味では、十二支から外れた存在としての“新しい世界の神様”かなぁと。
バトビは猫に親しみある世界なので、親しみやすい神様としても扱われていますが。
・まとめ
アメリカ大陸“発見”と大航海時代いうワードをキーにして、それにまつわる要素をいくつか挙げ、そして、その時代を経て変遷した“アメリカ”という語、その力の多様性を表現する。
そこではアメリカ大陸はあくまでモチーフであり、アイコンである一方で明瞭な輪郭を失い、普遍的となる。
もともとウェスタンな世界観がアメリカ的だったゆえに、そこをアイコンにしやすかったのではないか。
世界の、即ちことばや価値観の多義性が、そこに、象徴されている。
バトビ考察200325/一期19話『五番目のカイン』に関して
いろいろ、名前やモチーフの元とそのエッセンス、『フランケンシュタイン』と絡めたり。カインと“名無し”のジョシュア=バトラーについてなど。
1.サブタイトルについて
以前ツイートしたように『五番目のサリー』(多重人格の物語)からと思っている。ここに、カインの二面性(あるいは多面性)をジョシュアで掘り下げブルと絡めながら描写しただけでなく、バトビアニメがモチーフにしたものの背景が潜んでいるようだ。
2.ワレナガラの滝にあるミリオネア発電所、ワット卿、及びネオンシティについて
2-1.モチーフとその背景について軽く
現実世界の五大湖の間にある河川がナイアガラ川。その途中に有名なナイアガラの滝がある。この五大湖にスーパー五大フィールドの数字を重ねてモチーフにした部分もあるのだろうか。
ナイアガラは、アメリカのニューヨーク州とカナダとの境でもある。ニューヨークのニューからネオとも掛けてのネオンシティだろうか。(街の外観の印象もあると思うものの、そっちは後付けかもしれないと思ったり。)
ニューヨーク市は世界で最もビリオネア、すなわち億万長者が多い街でもあるそう。人種のるつぼと言われた通り、移民も多く、人種の多様性と所得格差、人口密度が特徴の街。ニューヨーク州は先住民も多いのかな? 移民の多さが、バトビ作中において荒野のオアシスと言われたゆえんだろう。
ネオンシティはニューヨークに相当し、ニューヨークの歴史をモチーフにしている。ナイアガラ川のあたり、ニューヨークは、独立戦争や植民地がらみの戦争などの戦場ともなっており、砦もある。これがバトビ一期の軸になったのだろう。
余談だがワット卿はコーヒーらしきものを飲んでいた(カップの形と色的に)。アメリカ的である。また、邸宅でのご馳走にピーカンナッツのケーキかなぁ、というものがあったのだが(違うかもしれない)、アメリカで主に生産されるナッツで、これもアメリカ的だなと思ったり。カップケーキもそうかな。中華もありますね。
2-2.ナイアガラの名の由来、諸説のうち
語源ははっきりしておらず、諸説あるようだが、現地ガイドでは、学術的根拠はないものの“雷鳴の轟く水”という説も語られるそう。
ナイアガラ川は水力発電にも使われているので、基本的に純粋にこちらからの引用かな?と思いつつ、ワット卿がブルに電気椅子を使ったことが『フランケンシュタイン』からのインスピレーションならば、この雷というキーワードを拾った可能性もありうる。
2-3.ワット卿と『フランケンシュタイン』及び雷について
収益の還元というチャリティー精神はアメリカとか西洋の富豪的ですね。
ブルに電気椅子を使ったのは前述のとおり『フランケンシュタイン』からかなぁと。というのも、その作品の解釈には、作中で造られた“怪物”をアメリカ合衆国とみるものもあるからです。そして、同作品の他解釈に、“怪物”を母親のいない子供の隠喩と見るものもある。また、“怪物”には同一人物の二面性という解釈もあるそう。神域を侵す話でもありますよね。このあたりをとっかかりに逆算してつくられたのがアニメの舞台の重要拠点ネオンシティなのでしょうね。カインが関わってくることと五番目のカインというサブタイトルはそこから編み出された流れなのかな。バトビアニメが原罪的エッセンスを好んで取り入れていることにも関係します。
そのほか、“フランケンシュタインの怪物”の示唆するものとして、「巨財と弱い貧困の分裂」のようなかんじ、「制御不可能なテクノロジーの悲劇的な末路」とかもあるそうで、そのまんまカインですね。ここでは富豪としてのカインが表舞台に出る富豪ワット卿に隠されています。
さて、フランケンシュタイン博士の怪物創造には雷が関わってきます。博士は、ベンジャミン・フランクリンをイメージにしているとされ、彼はアメリカ合衆国建国の父と言われます。凧を使った実験で雷が電気であることを証明し、そして、その電気がプラスとマイナスの二極性を持つことも確認しました。その雷というモチーフがフランケンシュタイン博士にインスピレーションを与えて神域を侵させる(生命の創造)わけです。建国の父が博士ならばつくられた合衆国が“怪物”、という見方ができるのだそう。
富豪ワット・ミリオネアのディティールは、こうしたエッセンスから掘り下げていったものでしょう。
あとは、もしかしたらニューディール政策のテネシー川流域の開発(失業率対策の公共事業)とかもエッセンスに関係しているのかな。これはちがうかな。ただ、この政策が対話を重視した、というのが気になる。フランケンシュタイン博士が“怪物”との対話に応じなかったことと絡めたのかなぁと。
2-4.“伴侶”をつくりたいワット卿
これは、『フランケンシュタインの花嫁』がモチーフかな? 単に神域を侵そうとするフランケンシュタイン博士の行為を作中でなぞっただけかな。もしくはもう一歩踏み込んで、それを超える禁忌を表現したか。
『フランケンシュタイン』では、博士は、自身が造った“怪物”をその醜悪さから嫌悪して、実は善性に満ちた存在なのにそれに見向きもしないで気づかず、対話に応じず、偏見でわるいやつと決めつけ、そして実際にその“怪物”を恐ろしい怪物にしてしまった。博士は、悲嘆に暮れる“怪物”がせめて語らい合う伴侶が欲しい、と言っても、これ以上恐ろしい怪物を増やしてたまるか!と思って聞く耳を持たない。よって彼はもう創造の真似事はしないと決めた。
ワット卿は、ブルの他人格をこれがあるべき姿と決めつけ、それに“矯正”しようとしますよね。方向性こそ博士の場合とは逆ですが、行動は全く一緒です。そして、その目的が娘の伴侶であるところがフランケンシュタイン博士より一歩踏み込んでしまった禁忌かなぁと思います。
また、ビーダマン(作品世界では一種の“神”の創造物ビーバトル)について、上流階級の自身に理解できない下層のあそびではあるが広める手伝いをしてやろう、という姿勢が、なんか、自身を天上界のものと錯誤してるみたいなかんじ出してますよね。
2-5.ナイアガラの水力発電とアダムの因縁が興味深い(たまたまかもしれない)
そんなワット卿の水力発電ですが、ナイアガラの滝の水力発電開発において、最初に総括的な管理と開発を導入したのが、エドワード・ディーン・アダムズという人だそうで。アダムズというファミリーネームは“アダムの息子”に由来しますね。そう、アダムです。ここで、カイン(=アダムの息子)との因縁が生じるわけです。これは作為的か偶然かちょっとわからないけども。
そういうわけで、次に当該回におけるカインの描写についてのメモを少しまとめます。その前にもうひとつ“怪物”について。
2-6.“フランケンシュタインの怪物”としてのカイン、生まれ持った善性の名残としてのジョシュアと約束のビー玉
“怪物”は作中では名前がなく、創造者博士に対して「あなたの労働者アダム(=あなたの被造物)」と自らを形容します。『フランケンシュタイン』の初舞台作品では怪物の名が空白でクレジットされていて、原作者が感動したのだとか。これが、ジョシュアがアニメにおいては名を棄てたバトラーとして描かれクレジットされた理由だと思います。
“怪物”は、善性を持って生まれたにも関わらず、その“父”フランケンシュタイン博士の扱いによって実際に恐ろしい怪物、悪者となってしまいました。この過程で彼は、言語を習得したり、善悪を学んでいくわけです。そんな中で、彼の善性を描くエピソードと、それが人間という拒絶者によりむげにされるシーンがとても印象的。そんな体験を経て、彼は絶望し、自分は人間たちに求められるとおりの怪物になってやる、と、悪事に手を染めるのでした。
すなわち、カインとジョシュアは特にアニメにおいてこれを踏襲しています。善性を持って生まれたにもかかわらず、それを否定し、自分のその本来の善さを封じたカイン。同時に自らの名を封じたバトラーことジョシュアは、自分が想定する“カインの求める役割”に身を置きます。彼らの約束のビー玉は、育っていく過程で封じてしまった善さ、いえ、良さの表記でもいいくらいきっとささやかなことたちでした。それでもそれが何よりも大事で。
“怪物”は、名を持つ以前に言語も持たないピュアでプレーンな存在でした。純粋にビーバトルを楽しんでいたころのカインとジョシュア。それをゆがめたのが“嘘”という要素であることも象徴的です。さて、次に移ります。
3.当該回におけるカイン描写関連のメモ
ここでは、アダムの息子としての“説話のカイン性”や、そのほかメモをまとめます。
3-1.カインに鍛冶屋の祖としての“説話のカイン性”はあるか?
ソードは原作からの単語なのでたまたまなのかな、けど、鍛冶屋の祖と言われているカインがソードマスターなのは興味深いですね。
3-2.嘘をついた“説話のカイン”に絡む複数の要素
説話では、“カイン”はアベルを殺害した容疑を問われたときに自分は知らないと嘘をつきます。曰く、自分はアベルの監視者なのか、と。それでもつみびとと判明して追放されますが。殺人に加えて嘘、というのが、“カイン”の罪です。その親アダムも、禁じられた実を食べた上に嘘をつく罪を犯しています。(人類最初の嘘をどちらにするかは解釈が分かれるみたいです。)そして、追放された。ここで“カイン”が嘘をついた相手は親ではなく神。
ここで興味深いのが、アニメではここにブルの多重人格を絡めてきて、そしてキャラットに本当の自分はこうだ、と正直に明かして勝利を獲得することです。すなわち、多面性(バトビアニメにおいては主に善悪)における善性を描くわけです。ここが対比だろうなぁと。カインの本格登場回であるこの回でブルがキャラットにごめんねを言うシーンを入れ、その前に彼の対戦相手が“無の心(という殻をかぶった)”バトラーであったことに意味があるでしょう。
二人において、“無の心”は一種のつくりものです(ブルの場合俺会議の結果であるため)。ですが、それを“矯正”するニュアンスが、違うようで紙一重のそっくりなような。複雑さがあります。
さて、この回においてというかこの時点でカインは、ヤマトたちに嘘をついています。それは四天王たちにも課せられた罪でした。このときヤマトたちは文脈としては嘘をつかれた神であり得り、では、彼らが好評価をしたゲートマスターたちは神が好評価をしたアベル、それの偽りでしょうか? 彼らは、カインたちは、否、カインは。彼は、“本当の自分(=善性)”を“封じる(歪める)=偽る”という悪事で善性のふりをしなければ、自分を評価できなかったのかもしれない。
のちにカインは悪意により自分を信じさせたのだと“明かし”ますが、そこには本当は、よい評価をされたいという欲求、されなければならないと思わせた環境があり、それが偽りの自分を“造らせた”。彼を怪物にした文脈です。その描写の背景は、アニメにおいては、“説話のカイン”が神に兄弟アベルの捧げものだけが評価されて妬んだエピソード(殺害動機)によるのではないでしょうか。この動機の正否はともかく、カインの悪事と悪意には絶対者に認められなかった(せっかんをされていたのを、現状を認められなかったとすると)環境がある。そしてジョシュアが認めたカインすらも、ジョシュアの善意による偽りだった。偽りのカインだけが、認められた。このときカインはアベルとしての自分を殺して、“説話のカイン”になった。カイン性、アベル性、神の置き方。シーンごとに割り振りの変わる、複雑な入り組み方をします。
また、ジョシュアを鏡のようと形容したり、カインを「ビーダーの鑑、いや三面鏡」、と言ったりする一方で、キャラットが鏡台(三面鏡)の前にいるシーンが印象的です。鏡は、自己認識と関わるアイテムですよね。同時に、映すものが実像ではない道具でもある。自己形成と自己との対話を描く作品において、重要なアイテムとして取り入れられたのかなぁと。
3-3.カインは最初は左の片手撃ち
これは左利きが一般に器用とされることを片手撃ちでさらに強調しているのと、あと、左利きが右利きに“矯正”されやすい背景があるのかなぁと思います。生まれ持った利き手を矯正されやすい左利き。もしくは逆に、右利きを左利きに“矯正”しようとする事例もあるそうで。
利き手の“矯正”はかなり脳にストレスになり悪影響や後遺症が残ることもあるとか。“矯正”は、時に体罰を持ってすらされたとか。こういったことを考慮すると、アニメにおいてカインはむしろ、本来右利きだったのを左利きに“矯正”された可能性もあるのかなぁと思ったり。わかりませんが。
3-4.若干本性出てるけど偽りを続けるカイン
お仲間の応援が、のくだり、本性出かかってますよね。これは単純に本性が別にあるという伏線であると同時に、彼の偽りの“未熟さ”をも同時に、ちらつかせているのかなと思ったり。完全には理想になれなかったカイン。そんなかんじかなぁと。あとはひずみの表現。
4.今回のまとめ
バトビアニメにおいて強調された善悪と多面性、それを象徴する回のひとつが『五番目のカイン』。その背景にあるエッセンスのひとつ、フランケンシュタイン的な要素。それらをいっぺんにぎゅっと詰めて見せた回だったなぁと思いました。
*本にするにあたっての加筆
ジョシュアの立ち位置は、カインと交わした心のビー玉=アベル性を、共に封じた共犯者“殺人者カイン”であり、共に封じられたアベルであり、そして同時に、封じずにおれなくさせた“神ヤハウェ”のひとりでもあります。
ジョシュアの名はイエス・キリストと同じで、“主は救い”とか、訳によっては“救いの主”といったものも見かけます。ここのところがすごく、アニメがカインにとっての彼に二面的な立場を持たせた理由だろうなぁ。彼はカインに随伴するように見えてその実カインをそうさせた一因も担い、相互作用で操り合って、こんがらがってああいった道を歩んだ。それがほどけたとき、そこに直ちにはプレーンな過去が戻ってこなかったことが罪への厳しさをわずか見せます。だけどジョシュアはそれでもなんでも、カインならばよかったわけで
…シンプルかつシンプルじゃない、人心というものの奥深さを底知れなく感じさせ、その実その底はとても簡単に見えるようで。ううーん、面白すぎますねぇ。
*あとがき
…さて。趣味丸出しでしたが、いかがでしたでしょうか。お付き合い頂けましたら幸いです。
楽しいっスよマジで。バトビ見てから説話のカインや創世、原罪的なモチーフがいっそう好きになって、一次創作のおえかきでもそのあたりを題材にすることが多いです。ラブ。
最後のものだけ形式が急に章立て風になってるのは、そうしたかったからです! それ以前のものはそれ以前の形式で整理してあったので、今回まとめるにあたり、あえて統一するということはしませんでした。最後のものが言葉足らずかな?と思い文末に加筆はしましたが。
つらつら述べたことを総括するならば、色んな楽しみかたができる作品だなぁバトビ、という感覚的な結論、ただの感想になってしまいます。もうちょっと硬くまとめるなら
…
主に少年世代を対象にした作品なので、ちょっと憧れるようなエッセンスをふんだんに使い、そうして思春期や自我形成、自己との向き合い、自己とは何か、他との関わり、その功罪、友との向き合い、等々
…それらをふんだんに盛り込み、散りばめて、ちょっとひねくれながらも真っ向からとことん少年世代向けに振り切っている作品だなぁという印象です。そうして広がる視野、きっとそれはあるひとにおいては世界に向き、あるいは徹底的に自己に向き、友に、親に、身近な誰かに、もしかしたら敵に、向くことでしょう。それは何か? 自分にとってどうなのか? 考える、ということを、提示する作品だと思いました。
前々からまとめたかったので、今回思い切ってまとめてみてうれしいです。またなにかご縁がありましたらその機会に。以上、いしえと申しました。
奥付
発行日:2020.10.09
発行者:grantieYa(ぐらんてぃーや)/いしえ
*
《以下、本のデータを画像出力したもの》*
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