みゃ
2026-01-12 17:41:02
Public 創作小説
 

波のあわい


 仕事の合間、外回りの休憩にふらりと公園に立ち寄った。奥には海水浴場もある親水公園だ。
 暖かくなったばかりの春風が、ベンチに沈み込んだ体を静かに撫でていく。風には潮の匂いが少しだけ混じっていた。
 無意識のうちに大きく息をついた。
 先ほどコンビニで買ったコーヒーは冷めただろうか。試しに口をつけてみたが猫舌にはまだ熱かった。熱と共に苦みが口に広がり、少しだけ顔をしかめた。いつもはブラックだが、今日は砂糖とミルクをもらえば良かったかもしれない。
 もう一度、大きく息を吐き出した。そして空を仰ぎ見る。春霞の薄青の空には筋雲が刷毛で塗ったように広がっていた。
 幼い頃、海は空の鏡映しなのだと思っていた。
 空の色で海の色は変わる。筋雲は波模様。飛行機雲と航路の軌跡はそっくり。
 海辺の道を歩きながら、そんなことを両親に話したことがあったような気がする。
 ――故郷を出て、もう何年経ったろう。
 大学進学を機に独り立ちした。勉学に励んでみたり、それよりもバイトに邁進してみたりしていたはずなのに、いつの間にか社会人になっていた。気がつけば後輩もできて、自分が覚えたことを少しずつ伝えるような役目になっている。
 大学時代の友人と会うことはあるけれど、故郷の友人とは時候の挨拶をメッセージアプリでやりとりをするくらいだ。顔だってうろ覚えだ。
 いつの間にか遠くなった、あの穏やかな海を思い出す。
 この街にも海はある。けれど、故郷の海とは違う。海の色も、波の形も、どこも同じだと思っていたが、よく見ると違うのだ。
 この街の海は開かれている。大きな船が行き交う湾内は賑やかだ。それこそ、この街のスクランブル交差点のように。
 対して、故郷の海は内海だった。外から入ってくる船もあるのだが、行き交うのは漁船か小さな連絡船が主だ。地元の小さな商店街のような、顔見知りが手を振ってすれ違う雰囲気がある。
 賑やかなこの街に憧れた。そこに住んでいるのがとても嬉しく、誇らしかった。今だって嫌ではない。
 けれど目を閉じて思い出すのは、あの穏やかな海なのだ。
 ざぶんと、耳のすぐそばで波の音を聞いた気がした。まぶたの裏に青色が一瞬混じる。

 小学生の夏の朝。普段なら通学の時間だ。しかし今は夏休み。ゆっくり眠っていてもいいのだが、目が覚めてしまう日だってある。
 そんな日は父の通勤に付き合って駅まで歩いた。子が着いてくるとき、父はいつもより早めに家を出る。そして道中のコンビニでブラックコーヒーとジュースを購入し、子にジュースを渡してくれた。
 それらを手に、親子は海辺の道をのんびりと歩く。ウォーキングやジョギングをする老若男女、部活の朝練でランニングをしている学生。誰も急くことない朝の風景だ。
 海水浴場の木陰にあるベンチに並んで座ると、潮風と相まって驚くほど涼しかった。
 親子は海を眺めた。
 白い砂浜に波が打ち寄せては帰っていく。きらめく波頭が対岸の街まで続いている。
 砂浜には、小さな犬に引っ張られて「待って待って」と転げるように走る幼い子どもと、笑って追いかける両親の姿があった。
 それを見て父と子は小さな笑い声を漏らし、そのタイミングが揃っていたため、顔を合わせてまた笑った。
「ねえ、コーヒーってさ、どんな味? 苦いの?」
 父が持つ黒い缶は、いつも大人びて見えた。子どもにとっては憧れの色だ。
「苦いのもあるし、酸っぱいのもあるし……飲んでみる?」
 子が頷くと、「無理して全部飲まなくてもいいからね」と父は前置きをしたうえで渡してくれた。子は神妙な面持ちで缶を受け取る。
「いただきます」
「どうぞ」
 キャップを開ければ苦みのある香りが広がり、飲めば香りそのままの味がした。
「にがい」
 すぐさまジュースを飲む。コーヒーの缶を押しつけるように返せば、父は笑いを堪えるような顔をしていた。子ども扱いされたようでさらに顔をしかめたが、今思えばブラックコーヒーが大人びて見えていることこそが子どもの眼差しだったのだろう。
 ――今は普通に飲めるしな。
 今度の長期休暇は久しぶりに里帰りしようか。
 そしてあのベンチで、自分が買ったコーヒーを父と飲もう。

 いつの間にか閉じていた目を開く。知らぬ間に寝てしまっていたのかと焦ったが、紙コップの温度は変わらない。寝ていたにせよ、そう長い時間ではなかったようだ。
 軽く頭を振って、目覚ましのつもりでコーヒーに口をつける。その熱と苦さは先ほどまでと何ら変わらない。
 そのはずなのに、なぜかほっとした。
 小さく笑って空を見上げる。
 遠く、波の音を聞いたような気がした。