ak1r6
2026-01-12 13:01:24
12073文字
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アサヒが女の子といい感じになってコヨイが無免許運転する話

アサコヨ?
何でも許せる人向け・捏造あり・履修が不十分


 あ。と思った瞬間にはもう、絹ごし豆腐は破滅への一途を辿っていた。引き上げた「ロ」型のステンレスの枠から、震えながら空中に放り出される乳白色の 凝膠体 ぎょうこうたい 。空中ではかろうじて直方体の形を保っていたそれは、直下に待ち受けていた皿に着地してすぐ、自重に耐えかねてでろんと崩壊していった。
「あー……
 山になった白いボソボソの塊の隙間から、薄黄色の汁が流れて皿に広がる。にがりが足りなかったか、冷やす時間が足りなかったか。凝固不良の原因は分からないけれど、こんな半液状のものを入れたら折角の味噌汁が台無しになるのは確定的だった。俺は豆腐のなりそこないを前に、プランBを考える。
 今日の三時の味噌汁は、自家製豆腐とワカメの予定だった。予備校へ行く前の楽しみにしていたけど、しょうがない。豆腐の代わりの具はどうしよう。冷蔵庫には何も無いからまた買い出しに行かないと……。そこまで考えて、急に全てが億劫になった。プランBを放棄した俺の頭に、天から燦然と輝くプランCが降ってくる。
 そうだ、プリパラの果てに行こう。






「何だって?」
「シンヤ、運転してよ。俺免許ないから」
 俺が投げ渡した鍵をキャッチして、シンヤは苦虫を噛み潰したような顔で目線を落とした。小型のオープンカーだ。シルバーで塗装されたボディはおもちゃのように丸みを帯びたフォルムをしていて、二列の小さなシートを抱え込んでいる。普通なら、一月の寒風の中でオープンカーに乗るだなんてとても耐えられないけれど、プリパラの温暖な気候にはちょうど良いだろう。
 男プリの本館裏口の駐車場で、俺とシンヤはオープンカーを挟んで向かい合って立っていた。
 プリパラの果て——プリパラの最端を目指すなら、当然男プリから見える広大な岩山や森を越える必要がある。そこから更に遠くへ行くのだから、徒歩では難しいだろう。移動手段をどうしようか考えたとき、めが兄ぃがプリパラの保守のためにこの車を使っていることを思い出した。それから、鍵をライブ受付カウンターの「STG」と書かれた小物入れに入れているということや、この時間は定期メンテナンスのために出払っていて、カウンターを無人にするということも。ちょっとセキュリティに不安があるよね。有難いけど。
 残る課題は、先月十八歳になったばかりの俺がまだ運転免許を持っていないということだった。大学受験の大詰めで、今は教習所に通う余裕がない。進学してから就活が始まるまでの間に取ればいいと考えていたし、同じく冬生まれのアサヒは卒業したらすぐ教習所に通う予定で、「行きたいところがあればマジ乗せていくぜ!」と言ってくれていて、さしあたっては免許取得の必要性を感じていなかった。だから、秋生まれのシンヤに運転してもらうべく、放課後こうして来て貰ったというわけだ。
 シンヤがポケットに突っ込んでいない方の腕を振る。ピンク色のメッシュの毛束が腕の動きに応じて揺れる。オープンカーの上で、光が放物線の軌道を描いた。
「俺も免許持ってねーよ」
「えっ」
 投げ返された鍵をキャッチして驚く俺に向かって、「今年は金貯めて来年取る」とか、「ふつう、呼び出す前に訊くだろ?」とか、呆れたふうの表情で何事かをごちゃごちゃ言っているシンヤを前にして、俺は釈然としない気持ちで鍵を包んだ手のひらを握ったり開いたりした。
……十八歳即免許取得顔なのに」
「は?」
「うん、まぁいいや。乗って」
「乗って……ってコヨイ、お前運転できんのかよ」
 運転席に座って、車内を確かめる。ハンドル、アクセル、ブレーキ、サイドレバー。親に連れられて行ったゴルフ場のカートと同じだ。これなら運転できる。私有地であるゴルフ場内は免許がなくても運転できるから、たまにカートを運転させて貰っている。ゴルフ場と同じで、きっとプリパラにも道路交通法は及ばない。
「できるよ。こんなのゴーカートと同じだろ」
 遊園地のゴーカートに乗ったことはないけれど、折り合いの悪い親にゴルフに連れて行かれていると言うのは恥ずかしかったから、ゴーカートと言ってみた。
「でもこの車ってめが兄ぃの」
 グズグズ言ってるシンヤの後方で、少年の声がした。
「あなたたち、何をしてるんですかぁ!」
 まずい。めがボーイだ。めがボーイの大群がわらわら出てきて、こちらへ走り寄ってくる。掌中のキーを素早く鍵穴に差し込んで捻る。
「シンヤ、早く!」
 シンヤが慌てて助手席に飛び込む。ドアを閉めたかの確認もそこそこに右側のフットペダルを踏みつけると、シルバーの車はぐんと滑り出した。
 バックミラーには、めがボーイ達が「待ってくださーい!」「困りますぅ!」と叫びながら追いかけてくる姿が写っていて、それは見る見るうちに小さくなり、やがて米粒ほどの大きさになって消えていった。



「お前これ、窃盗!」
 闇プリの喧嘩番長は非行に乗り気かと思いきや、ことのほか根が真面目なシンヤは助手席で慌てていた。
「案外上手くいったね」
 オレンジ色のインターロッキングで舗装された道は快適だった。とても一月とは思えない、柔らかく涼しい風が髪を撫でる。車の「レンタル」が上手くいったことも、本物(仮想空間だけど)の車の運転ができたことも、シンヤが慌ててる様子も面白くて、気分が上がる。高揚した気持ちに任せて古いヒットソングを口ずさむと、ピンク色の瞳がひくりと引き攣った。  
 まぁ、もう十五歳じゃないし、夜じゃないし、これはバイクでもないけれど。盗んで走り出してるだけだけど。
「洒落になんねぇよ」
 シンヤはぶちぶち文句を言って、そのうち腕を組んで黙った。
 しばらく走ると街並みは消え、森に出た。突き固められただけではあるが、明らかに人為的に整備された道が木立を割って真っ直ぐ続いている。雨風に掘られた路面の凹凸が時おり車体を小さく揺らす。しばらくの沈黙の後、木々を眺めていたシンヤがおもむろに口を開いた。
「で、なに? どうしたんだよ。急にドライブしようとか……
 ハンドルを握ったまま、横目で助手席を見る。「受験勉強のしすぎでおかしくなったか? なんか目の下クマあるし……」と言うシンヤの顔には不審感と、ほんの少しだけの俺を気遣う様子があった。
 少し考えてから口を開く。
「豆腐。作るのに失敗した」
「は?」
「味噌汁に入れるのに、一から作ってみようかと思って。でもうまく固まらなくて、崩れちゃったんだ」
「おまえ料理失敗する度にひとの車盗んでドライブすんの?」
 そう言われると、確かに変かもしれない。考える時間を稼ぐために鼻歌を再開すると、シンヤは「まぁいいけど」と言って諦めた。曲がりなしにも俺を気にかけてくれた言葉を蔑ろにしたようで居心地が悪く、追及しないシンヤの優しさに甘えているような状況も釈で、もう少しちゃんとした回答をしなければ、と思う。なけなしの誠意を絞って絞って何とか絞り出したのは、我ながら冴えない言葉だった。
「別に、何もないってば。そういう気分ってあるだろ」
 ……思春期の娘かな。
 つい自分でツッコむ。ダメだ、どうしてもまともな対話にならない。
 だって、何も無いなんて嘘だから。けれど、俺はまだそれを上手く説明できない。
「またアサヒか? それともシュガーボーイかよ?」
………
 アサヒ。
 名前を聞いた瞬間、頭がぎゅっと押さえつけられたように締め付けられた。思考が上滑りして鈍くなる。処理速度の落ちた脳は、それでも昼休みの学園での風景を俺に思い出させた。
 何も無くなんてない。
 アサヒが、手を繋いでいた。女の子と。中庭のベンチで。俺は校舎の3階から遠目にそれを見かけて、植栽が邪魔で詳細は見えなかったけれど、ベンチに座っている小柄な女の子の背と、向かいに立つアサヒが見えた。白く細い手が、差し出されたアサヒの手を握っていた。アサヒの優しい目が、その子を見つめていた。俺は次の授業が体育で、準備があったから急いで立ち去ってしまったけれど、もしかしたら、あの後、手を繋ぐ以上のこととかが、起こっていたのかもしれない。
 いや、別に構わない。アサヒだって年頃なのだし、そういう事もあるだろう。ただ、俺に何の相談もなかったから、少しだけ驚いたのだ。良い感じの子が……それも学園の中で白昼堂々デートするような仲の子がいるだなんて、聞いていなかったから。
 だからと言って、俺はアサヒを責めている訳じゃない。アサヒが俺に話さなかったのは仕方ないことだ。推薦で早々に進路を決めたアサヒと、一般受験に向けて放課後予備校に通う俺とでは、以前にも増して生活時間が合わず、すれ違いの毎日が続いていた。予備校から帰ったらアサヒはとっくに寝ていて、寮では一言も話せなかった……なんて日も多い。そうすると、どうしても込み入った話はできなくなる。
 これまでのアサヒは、困った事や悩み事があれば「コーちゃぁん」と俺を呼んで、一番に助けを求めてきた。少し甘い語尾の伸ばし方が小さな頃から変わらなくて、アサヒに一番に頼られている証みたいで、その声を聞くと、俺はいつもくすぐったく、誇らしい気持ちになる。俺はアサヒの話を一番最初に聞く、一番親しい友達であるはずだった。
 俺の受験が終われば。あと少しだけ頑張れば、またWITHとして三人の時間が作れるものだと思ってた。でも、アサヒに恋人ができたら、これまでのようには時間が取れなくなるのかもしれない。それは仕方ない。別に構わない。責めるつもりなんかない。だけど、腹の中で異物がうごめくような違和感がある。
 違和感を抱えたまま下校し、三時の味噌汁を作ろうとして、仕込んでいた自家製豆腐を型から出したら失敗した。その不格好な白いボソボソの塊が羊みたいで、受験勉強でしばらくログインしていなかったプリパラに行こうと思いたった。それだけだ。
……なぁコヨイ、揉めてんなら、いい加減WITHを抜けてダークナイトメアに」
「シンヤはさ、プリパラの果てに何があるか、気にならない?」
「果てぇ?」
 言葉を遮られたのを怒るでもなく、シンヤは切れ長の目を丸くした。
「俺は見てみたい」
 プリパラの果て。この森の先に一体何があるのか、以前アサヒと話したことがある。俺は「行き止まりなんじゃないかな」と言った。ユーザーの使わない領域までプログラムされているとは思えないから。でもアサヒは「チョーすっげー、マジでっけーステージがあるんじゃね!? 男子も女子も皆がライブできる、プリフェスみたいなのがいっぱい!」と言っていて、アサヒのキラキラした瞳を眺めていたら、俺も、そうならいいなと思った。
 男プリを出て、荒野と森をずっと進むと女子プリがある。その先にあるもの。
 女子プリ……アサヒの好きな女の子も、女子プリにいるのかな。彼女もそこでキラキラを放っているんだろうか。アサヒが好きになるくらいだから、きっと綺麗な……溢れるほどのキラキラが……
「はぁ……
 シンヤがひとつため息をついて、シートにもたれこんだ。
「コヨイ、いっかい停めろ」
「嫌だね」
「おっまえ……
 一瞬尖った声が、ややあって忍び笑いに変わった。
……そんな顔すんな。逃げねーよ」
 どんな顔だよ。失礼だな。
「後部座席で寝かせろ。昨日バイト遅番で……あんま寝れてねーから……
 シンヤが「くあっ」と大きく欠伸をする。本当に眠いのだろう。右足をアクセルからブレーキペダルに移すと、車はゆるやかにスピードを落とした。完全に停止したあと、シンヤは「サンキュ」と言って後部座席に乗り移り、寝る体制を整えヒラヒラと手を振った。
「“果て”とやらに着いたら起こして」
 風が吹いて、樹木のざわめきが大きくなった。頭上から軽やかな鳥のさえずりが聞こえる。見上げると、穏やかな陽射しのなかをシジュウカラが旋回していた。木漏れ日がきらめく。後部座席からは、微かな寝息が聞こえてくる。絵に描いたような穏やかな午後だ。
…………
 いけない。ここでぼうっとしていたら、プリパラの閉園時間に間に合わない。時計は持っていないけど、きっとあと一時間もないだろう。俺はアクセルに足を乗せ、再び発進させた。赤褐色の道は変わらず真っ直ぐ続いている。街の付近と比べると突き固め方が乱雑で、ところどころ草も生えている。転がっている石の量も多くて、時折タイヤが大きな石に乗り上げて車体が跳ねた。
 ハンドルを横に取られないよう、強く握りしめる。道を逸れて樹木の腹に衝突するのはごめんだった。
 その瞬間、眼前に大きな影が飛び出してきた。
「わっ!」
 ブレーキに足を押し付ける。車体が急激に静止する。慣性に従って身体が前に放り出されようとして、シートベルトがシートに押し戻す。あ。駄目だ。ブレーキを離したら。力いっぱいブレーキを踏みしめる。ベルトが胸骨を圧迫して息が止まる。ポリエステルの縁が肩に食い込む。「がっ」後方に重低音。
「う……
 シートベルトが緩まって、そろそろと息を吐いた。急激に動悸が激しくなったせいか、ベルトに絞められたせいか、胸が刺すように痛む。きつく閉じていたまぶたをこじ開ける。俯いていた頭を持ち上げて前を見ると、フロントバンパーの数センチ先に、佇むものがあった。
 鹿だ。茶色に白い斑点を散らした毛皮の鹿が二頭立っている。
 座席の間から、ぬっと銀灰色の頭が出てくる。そういえばさっき、後ろからすごい音がしたけど……
「ご、ごめん。……大丈夫?」
「おー……
 シンヤは目線を俺や周囲のあちこちに向けた後、無傷の鹿を確認してふっと身体の力を緩めた。硬い毛皮に覆われた獣は、感情を窺わせない黒い四つの目で、こちらをじっと見ていた。「飛び出すなよ、危ないな」とか、抗議しているのかな。ごめんね。でもお互い様だと思うよ、と思いながら見つめ返す。ふたりで鹿を眺めていると、一頭の鹿がふっと顔を背け、森の中に消えていった。すぐに残りのもう一頭が後を追う。
 シンヤが頭を引っ込めて、のそのそと後部座席に寝転ぶ。また寝息を立て始めたのを見届けて、俺はアクセルに足を乗せた。
 車の速度に反して、早鐘を打っていた鼓動の速度がゆっくり戻っていく。
 ああ、びっくりした……。無事で良かった。プリパラにも野生動物がいるんだ。あの鹿は夫婦か、兄弟だろうか。
 空が赤みを帯びて、ずいぶん薄暗くなってきた。ヘッドライトの付け方が分からなくてパネルに並んだボタンを眺めていると、パッと前が明るくなった。自動点灯したらしい。
 周囲の木立は次第にまばらになり、木々の隙間から、少し離れた場所に立つ樹木の影が見えた。樹木の間は地面が落ち込んでいるのだろう。遠くでかすかに水音が聞こえる。薄暗がりの中で、タイヤが砂利を跳ねてぱちぱちと音を鳴らす。
 兄弟……。俺たちも、本当の兄弟だったら良かった。
 頭に浮かんだのは、兄弟同然に育った幼馴染の顔だった。
 俺たちは対のはずだった。
 髪の色は赤と青、感情のハッキリした顔立ちと……よく言えば穏やか、悪く言えばぼんやりした顔。何と言っても名前が「アサヒ」と「コヨイ」。朝と夜。太陽と月。
 正反対だけど、符牒を合わせたように揃っているから、姓を名乗らない場では二卵性双生児と勘違いされることもあった。
 明るくて、素直で、情熱的なアサヒ。
 クールで、賢くて、優しいコヨイ。
「ふふっ……
 今やっていることの全て——車を強奪して友人を誘拐同然に連れ回し無計画な道を走行——が、「クールで、賢くて、優しい」からあまりにも程遠くて、自嘲の笑みが漏れる。
 違うかもね。
 本当は、あたかも対であるかのように、そう見えるように振る舞っていただけなのかもね。全部嘘なのかもしれないね。
 あの頃だって今だって、俺は優しさとは無縁の行動ばかりしている。アサヒがいないところでは、途端に俺は自分の輪郭が分からなくなる。
 時速40キロで流れる冷たい空気が眼球を乾かして、鼻の奥が熱くなる。痛む鼻から無理やり息を吸いこんで涙が滲む。
 隣に君がいないと俺は、太陽の引力を失った惑星が宇宙空間に放り出されるみたいに、できそこないの豆腐みたいに、簡単にぐちゃぐちゃになっちゃうんだよ、アッちゃん。
 心の中で幼い頃の愛称をそっと唱えて、懐かしさで胸が詰まった。呼び名を変えたとき、アサヒは「マジおとな! カッコいー!」と言ってくれたけど、少しだけ寂しそうにしていたことに、本当は気づいていた。「アッちゃん」と「コーちゃん」は、ほかの友達は使わない、俺たちだけの特別な呼び名だった。呼び方を変えなければ良かったのかもしれない。そうしたら、子供の頃からずっと同じように過ごせたのかな。
 それでも、俺は「アサヒ」と呼ぶのが好きだ。アサヒを表現するのにぴったりの、美しい名前だと思うから。
 いつだったか、アサヒの背中から日の出を見たことがある。アサヒの誕生日に初日の出を見ようということになって、アサヒが俺を背負って海へ連れていってくれたのだ。暗闇を切り裂いて、神々しく力強く伸びる光。全てを赦し肯定する光が、ゆらめく海面をきらめかせ、街に色彩を与え秩序で照らす。美しかった。そして、深く安心した。美しいものを美しいと思うとき、ショウゴを可愛いと思うとき、俺はいつも安堵している。
 そう感じる自分は、間違いなく本当だから。
 アサヒが好きだと思う。ショウゴを愛おしいと思う。それが俺なんだ。二人と一緒にいると楽しい。もっと一緒いたい。心に形があるのなら、俺という存在はそうやって象られている。
 森を抜けて、車は開けた渓谷へと出た。谷の底では、岩山を縫うようにして穏やかな川が流れている。道はほとんど獣道に近く、アウトドア用でもないこの車で走れているのが不思議なくらいだった。
 涼やかな黄昏時の空気が、濡れた頬を冷やす。空はすっかり暗くなり、メレンゲのような厚い雲を境に、青紫と朱色に塗り分けられていた。僅かに残った太陽が雲の縁を金色に染め、暗がりの中で輝いていた。
 谷の対岸、生い茂った森の向こうに、小さくプリパラタウンの建物が見える。太陽を呑み込んだ街は、建物の黒いシルエットの縁を真っ赤に染めて、激しく燃えてるようだった。
 小学生の頃、アサヒと行ったテーマパークのアトラクションにあった、海賊に蹂躙され無惨に焼かれた街を思い出す。幼いアサヒは怯えていたけれど、俺は朱色に染まった世界を綺麗だと思っていた。燃えている街を美しいなんて言ったら性格を疑われるかも。でも、アサヒならヤベーなって笑ってくれるんだろうな。
 赤く輝く美しい世界が滲む。
「アサヒと見たかったな……
 垂れ流した涙が口に入って塩辛い。手の甲で頬を拭っていると、背中にどんと衝撃があって、座席が小さく跳ねた。
「お前ふざけんなよほんと」
 いつの間にか起きたシンヤが、後部座席から運転席を蹴っていた。
……
「あ、おい! やめろ!」
 みっともない独り言を聞かれて屈辱だったのと、背後を蹴られて腹が立ったので、急ハンドルを切って車体を揺らす。遠心力に振り回されるシンヤの情けない悲鳴に胸がすく。はは、面白い。
 楽しくなって小刻みに蛇行して車体を揺さぶっていたとき、シートがこれまでになく大きく跳ねた。タイヤが大きな岩か石に乗り上げてしまったのだろう。
 あ。と思った瞬間には、銀色の車は渓谷の底へ転落していった。






『プリパラパンポーン
アイドルの皆様、まもなく時刻は18時、
プリパラは閉園のお時間になります』

 夕暮れの空に、めが兄ぃのアナウンスがこだまする。
 目を覚ますと、俺は岩山でも川でもなく、どこか平坦な場所に転がっていた。
 慌てて身を起こし、周囲を確認する。見慣れた景色。男プリのゲート前広場だ。目の前にオープンカーが停まっていて、そのすぐ近くにシンヤがうつ伏せに倒れていた。
「起きろシンヤ!」
「いでっ」
 シンヤを仰向けにひっくり返す。勢い余って後頭部を地面に打ちつけた衝撃で目を覚ましたシンヤは、「お前もうちょっと優しくさぁ!」等と文句を言いながら上半身を起こした。その身体には目立った外傷は見えない。
「シンヤ、怪我はない?」
「ねぇけどさぁ!」
「よかった……
 俺が安堵で脱力すると、シンヤが今日で一番大きなため息をついて、また地面に寝そべった。
 今回は、流石に死ぬかと思った。俺だけならともかく、シンヤを道連れにしてしまったら、ウシミツに申し訳が立たない。
 自分の身体を検分しても、どこにも怪我はない。土埃に多少汚れている程度だ。それはオープンカーも同じで、銀色のボディは傷一つついていなかった。
 車ごと渓谷に転落するだなんて、どう考えても大事故なのに。プリパラは海外製のカートゥーンアニメみたいに、笑ってしまうほど安全だった。
『自動車を使った方は、元の場所にお戻しください』
 スピーカーから流れるめが兄ぃの声に釘を刺されて苦笑する。
 大人しく駐車場に車を戻した後、広場のベンチで休憩していると、シンヤが「そろそろ帰るわ」と言って立ち上がった。
「ウシミツとメシの約束してるんだけど。……お前も来る?」
 顔を横に振る。くたくただった。今日は帰って眠ってしまいたい。「ありがとう」とだけ言うと、シンヤは気味の悪いものを見るような目でこちらを見た後、無言で俺の頭をぐしゃぐしゃかき混ぜた。
「じゃーな」
 黒いブーツが地面を蹴って浮かび上がり、大ぶりのファーを纏った細身のシルエットは夜空へ消えていった。






 プリパラを出た途端に、暗い教室の冷気が全身を包む。
 直接寮に帰った方が楽だけれど、寮の入館記録と整合が取れないと面倒なので、プリパラから帰る時は、この空き教室へ戻ることにしている。普通教室から離れた人気のない位置にあるこの部屋は、使われていない机や椅子が雑然と詰め込まれている。部活動などに使われることもなく、人が寄りつかない上に、鍵が壊れていて好きに出入りできる。そのことに気づいているのは、今のところ俺とアサヒだけだ。校内にこういう場所があるのは便利だけど、空調が効かないのは難点だった。
 空中からフローリングに降り立って、目を見はる。誰もいないと思っていた教室には、一つの人影があった。廊下側に寄せられた机に腰掛けた、制服の上からダウンコートを着込んだ人物。窓の外を眺めていた目線が、こちらに向けられる。校庭の照明を反射して緑色の目がきらりと輝き、すぐにキュッと細まる。
「コーちゃん。やっぱりプリパラにいた」
 アサヒがぴょんと机から飛び降りた。
「アサヒ……どうしたの」
 短時間とはいえ、寮に帰れば会えるのに。どうしてわざわざ……
 戸惑う俺を前にして、アサヒは悪戯に成功した子供のような顔で八重歯を見せる。
「コーちゃんに、スッゲー聞いて欲しいことがあって! マジ相談! でも寮にいないから、チョー探して、迎えにきたぜ!」
 あぁ、そういうことか。……『相談』ね。
 ひとりで勝手に落胆する俺に気付かずに、アサヒは「そしたら学校着いた途端に雨がヤバくて、マジ豪雨! もうれつ低気圧!」と捲し立てた。
 窓の外は確かに土砂降りだった。天気予報では降水確率は低かったし、昼に一度寮へ帰った時は、確かに晴れていたのに。
「それで、コーちゃんも傘ないんじゃないかなーと思って、売店で傘買ってきた! これ最後の二本! マジセーフ! ヒュー!」
 褒められ待ちの大型犬みたいに両手で傘を掲げて見せるアサヒに、つい口許が弛む。
「ありがとう、アサヒ」
「いいぜ!」
 褒められ待ちの犬が、今度はご褒美をねだるみたいにおずおずと俺を見る。
……今日さー、予備校行く? 久しぶりに、部屋で夕飯食わね? 俺マジ作るから」
 『相談』の内容のせいか、はにかむように、珍しく控えめに笑うアサヒが可愛い。……これが、全部俺のためだったらよかったのにな。
 アサヒが近くまで歩み寄ってきて、俺の頭や顔をしげしげと覗き込んだ。
「ていうか髪型すごいぜコーちゃん。爆発でもした?」
 シンヤにかき混ぜられた髪は、プリパラを出ても乱れたままらしかった。アサヒの指が俺の髪を梳く。大人しくされるがままになりながら、ぼんやりアサヒの鼻と口のあたりを眺める。
 部屋で、2人で夕食か。食堂はあるけど、どうしても食べたい(たいていはジャンクなものや、インターネットで流行の)メニューがあるときや、秘密の話をしたいときなんかに、部屋の小さなキッチンで作って食べる時があった。
——面倒だな、と思う。アサヒとの夕飯が億劫だなんて感じるのは、すごく久しぶりのことだった。
 断った方がいい。これから予備校の自習室に行けば、帰るころにはアサヒは眠っているはずだ。知らない女の子の話なんか、俺たちWITHより女の子との時間を選んでいく話なんか、聞かないで済む。知らなくて済む。でも、俺は、アサヒのことを一番知ってなきゃ。一番頼れる幼馴染じゃないと。そう思って貰えるような、アサヒの期待に応えるようなアドバイスが、果たして今の俺にできるだろうか。自信がない。今日は断ってしまいたい。
 頭の中はぐちゃぐちゃなのに、唇が勝手に微笑みの形を作って「じゃあ、鍋でもしようか。豆腐作ったから、豆乳鍋にしよう」と言っていた。それどころか、「久しぶりだね、嬉しいな」まで付け加えて。
 ぱっとアサヒの表情が明るくなる。その勢いに怯んで「あ、でも豆腐は失敗したから、美味しくないかもしれないけど」と続けると、アサヒは「豆腐って手作りできんだ!? ヤベェ! チョー楽しみ!」とはしゃいだ声をあげた。
「コーちゃんが失敗したって言う料理って、いっつも美味いんだよなー」
 俺の髪を触りながら、アサヒが目を細める。
「コーちゃんはー、珍しいレシピ沢山知ってるし」アサヒの指に前髪を触られて、咄嗟に目を瞑る。「新しいこととか楽しいことも教えてくれて」「かっこいい」「やさしい」「マジサイコー」「俺のチョー自慢の幼馴染!」大きくて長い指が、見た目に反して繊細な仕草で髪のひと束ずつ整えるたび、言葉が降り注がれてくる。
 髪を整え終えたアサヒは、すこしの躊躇いのあとに、親指の腹で俺の下瞼を撫でた。目を開く。赤く短い眉はへの字に下がって、唇だけが取り繕うように微笑んでいた。アサヒのコントロールの最小出力だろう小さな声が、内緒話でもするように「なんかあった?」と囁く。
 プリパラで乱れた髪は戻らなかった。雑に拭っただけの涙の跡も、プリパラから現実世界に持ち出されてしまったのかもしれない。格好悪いところを見られた羞恥と、アサヒの優しさが胸に沁みる。ストレートに「泣いてた?」と訊かないのは、きっとアサヒの気づかいだ。
——マジ泣いたぜ。
 声に出さず、心の中だけで答える。マジやっべー大号泣だったぜ。年甲斐もなく。
 でも、大した事ないんだ。ずっと一緒にいたのに、いつでも一緒にいられる高校生活はあと少ししかないのに、アサヒに恋人ができそうで、それが寂しくて、散々勝手をしていた俺がそんなことを言えるわけもなくて、ひとりで駄々を捏ねて泣いて走り回ってただけだよ。……嘘。シンヤもいたんだった。後部座席で寝てただけだけどね。
 言葉にしてみれば、子供じみてありふれた、陳腐な話だった。
 落ち着いたいつもの笑顔を作る。
「ううん、なんにもないよ。傘、本当にありがとう。助かったよ」
 アサヒが「そっか」と呟いて、俺の肩をがしっと抱いた。服の上からでも伝わるアサヒの高い体温が、俺の肩を温める。そのまま廊下へ歩き出て、連れ立って昇降口の方向へ向かう。
「まっ、俺が来たからにはマジもう、チョー! チョー大丈夫だぜ!」
 俺がどうして泣いてたかなんてちっとも分からないくせに、「コーちゃんが困ったときは、俺がぜってーどうにかするから!」なんて自信満々に言うアサヒを見ていると、本当に全てが上手くいくような気がした。
「うん、頼りにしてるよ」
「でも傘マジちっさいから、けっこう濡れるかもしんねー!」
 昇降口に辿り着いて、開いてみたら本当に傘は小さかった。辛うじて肩幅分はカバーしているものの、ガラスの引き違い戸の外は豪雨と言って差し支えなく、平均より背の高い俺たちが使ったら、足元はびしゃびしゃに濡れてしまうだろうことは想像に難くない。
「本当だ。コンビニとか、こういうところの傘って小さいよね」
「だよなー!? しょうがねー、走るぞコーちゃん!」
「えっ、ちょっと、待ってよアサヒ!」
 肩に回されていたアサヒの腕がするりとほどけて、俺の手を掴む。そのまま冗談みたいな土砂降りの中に飛び出した。すごく走りづらい。手を繋いでいるせいで、フォームが安定しないのだ。それなのにアサヒの走るスピードが速くて、自然と指に力がこもる。応えるように強く、痛いくらいに、ぎゅっと握り返される。冬の雨に冷やされていく身体のなかで、手のひらの内側だけが温かい。傘の位置が定まらず、全身に雨粒が叩きつけられる。その冷たさに肌が痺れる。おかしくなって笑いながら「これもう傘の意味ないよ!」と叫ぶと、「マジやっべー!」とアサヒも叫んだ。
 ふたりで校門を駆け抜ける。門扉の根本に据えられた側溝の上を走れば、学生靴の踵がカンカンカン! と音を立てて、鈍色のグレーチングを揺らした。



(了)