1.
小さな身体から嗚咽と涙がぽろぽろと溢れてくるのをみて、ラキオさんも人間なんだな、と当たり前のことを思った。指先で頬をなぞる。うっすらと赤らんだ肌は柔らかくて温かい。ラキオさんは目を何度かしばたかせ、こちらを睨んだ。
「何ニヤついてるの、レムナン」
「えっ、いえ、ニヤついてなんて!……ただラキオさんでもそれには勝てないんだな、って」
ラキオさんの手元を見ると丸々とした玉ねぎが転がっていた。ツンとした匂いが鼻につく。ラキオさんの瞳にまた一粒涙が浮かんだ。
「どうしてそんな勝ち誇った顔をしてるのか知らないけどね?これは硫化アリルによるいたって生理的な反応だよ。
そもそも、元を正せば君が手伝ってくれと言うから手を貸してやったんじゃないか。……ハハ、そうだ。この涙は君のせいと言っても過言じゃない。変な顔してないで、とっとと謝罪の言葉でも述べたら?」
「ご、ごめんなさい!でもラキオさんを貶めようとか、そんなんじゃなくて……嬉しかったんです。その、こんなラキオさん、滅多に見せてくれないでしょう?」
慌てて弁明したが、ラキオさんは「見せようなんて思ってない」とそっぽを向いてしまった。反対側に回って顔を覗き込むと眉間の皺がさらに深くなる。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
「顔、洗ってきてください。少しマシになるはずですから」
ラキオさんが小さく頷く。僕はラキオさんの手から包丁を受け取って、玉ねぎに向き合った。切れ目を入れると、みずみずしい青臭さとともに独特の刺々した匂いが辺りに満ちる。
僕は玉ねぎを切る時間が好きだった。悔しくて、怖くて、だけど涙が出ないときは、思い切りこの匂いを吸って、馬鹿みたいに泣くと気が晴れた。
洗面所から水の流れる音が聞こえる。心の温かい人はその瞳から流れる涙すら温かいのだろうか。思えばもう長い付き合いになるけれど、あの人が泣くのを見たのは初めてだった。
気高くて、美しくて、僕なんかを選んでしまう、ちょっとだけ不器用な人。
「僕のためなら、泣いてくれますか」
ぽつりと呟くと、洗面所から顔を出したラキオさんが不思議そうに首を傾げた。
完成したオニオンスープはとろみがついていて、ほんのりとした塩味と素材の生きた味がする。ラキオさんはスープを一口含むと「しょっぱい。塩を入れすぎたね」と笑った。
「僕には薄すぎるくらいですけど」
僕はスプーンをくるくるとかき混ぜ、一口啜った。グリーゼでは大多数の人が食事をサプリで済ませる。ラキオさんもその一人だ。僕みたいにわざわざ料理を作って三食食べる人間は『イートフェチ』なんて揶揄される。
「フーン、変なものを食べすぎて舌が馬鹿になってるンじゃないの」
「ラキオさん。何度も言ってますけど、コンニャクは変なものじゃありませんし、白子も変なものではありません」
食い気味に言えばラキオさんは肩をすくめてみせる。空になったスープ皿を脇に寄せ、サプリを口に含んだ。
「ごちそうさま。ま、悪くはなかったンじゃない?」
君にしてはねと満面の笑みを浮かべる。黙っていればかわいいのに、なんて言葉を飲み込んで僕はチキンにかぶり付いた。
こうも食事への興味は薄いのに、一週間に一度、ラキオさんは僕と食事を取ってくれる。大抵はスープやスムージー、あとは離乳食に近い流動食で、味付けは普段食べてるものに比べると驚くほどに薄い。実のところ僕はこの一品を作るのが好きだった。僕は極限まで味を薄くして、ラキオさんは極限まで濃くする。お互いに許せる妥協点を探りあうのが思いのほか楽しかった。
「そういえば、ジナから連絡があってね」
「ジナさんから?」
かつてD.Q.Oで同じ時間をともにした、懐かしい名前に僕は思わず身を乗り出した。
「君、地球に興味があっただろう」
「ああ……!そんなこともありましたね」
昔、ジナさんに地球の話を聞きにいったことがある。D.Q.Oから降りた後は深宇宙へ向かう準備が整うまで、どこかの星で身を潜める必要があった。彼女がよく口にしていた『和食』に興味を引かれたのと、オウダン軍基地から遠い場所にあるのが気に入って候補のひとつに挙げていた。
「懐かしいなあ。……あの後ラキオさんがグリーゼに誘ってくれたんですよね」
D.Q.Oで彼女たちと過ごした時間は短かったけれど、僕にとっては人生の分岐点のひとつだった。ラキオさんは頷いて、僕の目をじっと見つめた。瞳のなかで照明の明かりがゆらゆらと揺れる。
「ジナがね。落ち着いたら地球に来てみないかって」
「地球に……」
「返事は今じゃなくていい。君の判断の遅さは理解してるつもりだ。ジナにも伝えてあるからゆっくり考えなよ。率先して時間を無駄にする精神は理解できないけど、思考停止して短慮に走る愚か者よりはマシだろうからね」
ラキオさんはそう言うと席を立とうとした。空っぽのスープ皿に光が反射して、目の前がチカチカと瞬く。ジナさんの話してくれた風景が、広い海のさざ波のなかで立っている自分の姿が、その目線の先で濡れた前髪に触れるラキオさんの指先が、胸裏に浮かんだ。あの、と呼び止めるとラキオさんは怪訝な顔で振り向いた。
「行ってみたいです」
ラキオさんの目が大きく開かれる。何度か口をぱくぱくと動かした後、唇から小さな息遣いがして、「そう」とだけ呟いた。僕は胸がいっぱいになって、ラキオさんの腕を掴む。
「いつ行きますか?ラキオさんと行ってみたい場所がたくさんあるんです」
そう言うとラキオさんは驚いたように僕を見て、なぜか分からないけど寂しそうに笑った。
2.
僕たちが地球についたのは地球の時計が午前10時30分を指した頃だった。隣りで熟睡しているレムナンを起こしてやると眠そうに目を擦りながら「もう……ついたんですか」と呑気に欠伸をした。
「涎、付いてるよ」
唇の右端をトンと叩くと、レムナンはあわてて口を拭って恥ずかしそうに微笑んだ。ジナとの約束までまだ余裕がある。僕はぐっと伸びをしてタクシー乗場に向かった。
移動する間レムナンは子どもみたいに目を輝かせて窓の外を眺めては、たびたび僕の名前を呼んで名所の解説をはじめた。陸地が3割しかないからか地球は人間が密集して暮らしているようだ。雑踏に圧倒されるなかレムナンの柔らかい声色は、耳に馴染んで僕を安堵させた。どうやら彼はこの星をいたく気に入ったらしい。予想通りだ、と僕は薄く笑った。
「ラキオから、話はきいてる」
久々に会ったジナは昔と変わらず物静かに佇み、訥々と喋った。海辺の傍の料亭はみそ汁とか言う塩味の強いスープの匂いが充満している。ジナはこの後仕事があるようで、案内できないことをひどく残念がった。彼女は紙切れをレムナンに渡して、
「ここ、私の好きな場所。……レムナンもきっと気に入ると思う」
と微笑んだ。
「ありがとうございます……あの、ジナさんはSQさんと暮らしてるんですよね」
「うん。今は探偵業で隣町に出張中。解決するまで戻れないって、ちょっと泣いてた」
「ふふ……。元気そうで何よりです」
ふたりはしばらく近況話に花を咲かせ、料理が届くと真剣な顔で食べはじめた。僕は湯飲みに入ったお茶を口に含んで、渋みに顔をしかめる。ふと窓の外を見ると白い鳥がテトラポッドの上で羽を震わせていた。
「あれは水鳥?グリーゼでは見ない鳥だ」
ジナは窓越しに視線を移すと穏やかに微笑んだ。
「たぶんカモメかな。冬はこの海辺に、春になったら住みかを変えて、別の海に行くの」
「へぇ……」
カモメは辺りをキョロキョロ見渡したかと思うと、羽を大きく広げて羽ばたいた。その白さは青い空にくっきりと浮かび上がって、美しい曲線を描き、遠くに行ってもよく目立った。空は自由かい、と僕は小さく笑った。
「レムナンみたいだ」
ぽつりと零れた呟きを目敏く聞き付けたようで、レムナンが焼き魚を頬張りながら怪訝な顔で首を傾げる。ジナは僕たちを交互に見つめ、逡巡した後、戸惑うように口を開いた。
「違ってたらごめんなさい。ふたりは、付き合ってるんだよね」
「……ッ!?」
隣りでレムナンが盛大に咳き込む。僕は唾を避けるように、湯呑みを脇に寄せた。
「ご、ごッ誤解です!僕は、ともかく、だって……」
そう言うとレムナンは僕のほうをチラ見して、口をつぐみ、親指をくるくると回した。興奮しているのだろうか。額から耳たぶまで真っ赤にして、顔から湯気まで出そうなくらい体温を上昇させる。水の入ったコップを渡すと、一息に飲み干し、気管に入ったのかまた咳き込んだ。
──埒が明かないな。
僕は溜め息を吐いて、指先で机を軽く叩いた。
「ジナ、どうやら僕は君の評価を改める必要があるようだ。汎性を選択した僕が、よりにもよってレムナンと、交配本能に囚われた関係を築くなンて。……まったく馬鹿げている。侮辱すら感じるよ。
だいたい、レムナンにだって、生殖機能のない人間を交際相手に選ぶ道理がないじゃないか」
同意を求めてレムナンを見る。はっきりしない彼の代わりに言ってやったのに、この男は卑屈に縮こまって「……そうですね、ラキオさんはいつも正しい」と項垂れた。ジナはただ静かに、僕へと視線を定めていた。
「どうたんだい。文句があるなら言いなよ。」
「ううん。ラキオは頭がいいのに、ときどき馬鹿になるね」
「……は?」
信じられない言葉を残して、ジナは会計レジに向かった。
ジナと別れた後、僕たちはいくつか観光地を巡ってホテルに戻った。ベッドに腰かけて足を伸ばす。レムナンを見ると視線に気付いたのか頬がだらしなく弛んだ。胸の奥で、心臓がかすかに震える。この男の笑顔は、鈴の音に似た振動を僕にもたらす。この未知な現象に、僕は『不快感』というラベルを押し付けた。レムナンは穏やかに言葉を紡ぐ。
「ここは夜でも明るいですね」
「……月があるからね」
グリーゼは街灯が消えれば星の瞬きしかない。カーテンを捲ると乳白色の月明かりが街一面をやさしく照らしていた。
「きれいですね。……一週間しかいられないのが、勿体ないくらい」
僕は喉の奥で嘲るように笑った。まったくレムナンの頭の固さには驚かされる。たしかに地球での滞在期間は一週間と申請した。だけど君が望むなら、一年でも一生でもここにいられるんだよ。
グリーゼに来たこの異邦人は、内輪揉めとも言える闘争に首を突っ込んで随分頑張ってくれた。深宇宙でも、地球でも、他の星系でもいい。君へのご褒美に、次の住みかを探す手伝いくらいはしてあげる。僕はレムナンの肩に頭を寄せて、その温度を確かめた。
3.
僕は焦っていた。
地球にきて5日目の夜。ジナさんから1件のメッセージが届いた。僕はコップに冷えた麦茶を注いで、氷って何個入れるのが正解なんだろうなんて、ぼんやりグラスについた水滴を眺めていた。ラキオさんはもう寝室で寝息を立てている。
端末をポケットから取り出して投影した。ブルーライトの光が部屋を照らす。メッセージは短くて、だけど僕の脳はなかなか内容を理解してくれなかった。しだいに頭が冷え喉の奥でくぐもった音が鳴った。
『レムナンは、本当にグリーゼを出たいの?』
ジナさんのメッセージには移住手続きのリーフレットが添えられていた。
「どうしてですか」
僕は寝室に向かい、ベッドに腰かけた。ラキオさんの髪をそっと撫でる。部屋は真っ暗なはずなのに、そのあどけない寝顔は淡い光を帯びているように思えた。
思えばラキオさんはずっとおかしかった。今日なんて、研究機関や資料館には目もくれず、行きたい場所に住宅街を選んで、日がら物件を渡り歩いたのだ。それなのにこの星はモデルハウスを観光地にしてるんだな、なんて呑気に考えていた自分が恥ずかしい。
ラキオさんの隣に寝転んで、その寝顔をじっと見つめる。小さな唇に、細い指先。握れば潰れちゃいそうな華奢な肢体。すぐに寝ちゃうラキオさんは知らないだろうけど、向かい合ってあなたの寝顔を眺める時間が僕は好きなんです。
「嫌になっちゃいましたか、僕といるの」
目を瞑ると、ラキオさんの呼吸の音だけが、重たく跳ねる鼓動のなかで規則正しく聞こえた。
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