仄暗い街灯の元、初めに狙われたのは、喉だった。圧迫され潰れた呼吸器が不快な音を鳴らす。そのまま彼女を脅かしていた殺人鬼の体が大きく傾いでコンクリートの地面に叩きつけられた。彼女からすれば恐怖の塊であったその姿はしかし、矮小な物体に成り果てていく。
目の前で濁った悲鳴と骨が砕ける音が響いていても、ただ汚いものを片づけるように淡々とその暴力を行使している姿を見ても彼女にとってそれは美しい神さまだった。
だって、残忍な方法で両親を殺して、裁かれたはずなのにたった数年で出てきて、残りを殺し損ねたからなんて理由でやってきたこの男に罰を与えてくれている。恐怖で冷えていた指先が熱を帯び、心拍が上がる。いつも思っていた。あの、男が殺せたらどんなに良いだろうと。傍にあるのが当然だと信じていた愛情といつまでも続くはずの暖かな日々と、たとえ憎んだ男の息の根を止めたって奪われて失われたものが返ってくるわけでもなく、けれど無意味でもなんでもいい。その男の先がなくなってしまえば。楽しみも苦しみも幸福も不幸も全部全部感じなくなってしまえばいい。そう願っていた。どれほど憎悪を燃やしてもその手を汚すことだけはどうしてもできなかったから願うしかなかった。
だから彼女にとってその姿はどうしようもなく眩しく、望みを叶えてくれて救ってくれた神さまだった。
微動もしなくなった肉体は黒い袋に詰められて、神さまは軽々とそれを担いだ。
神さまは彼女に一瞥もくれない。ありがとうと言いたいのに彼女の惚けた唇から声にならない吐息だけが落ちていく。
「……ありがとう、かみさま」
黒い背中が段々と小さくなって、ついに暗闇に溶けて消えてしまった。
それから頭の中に棲みついたあの美しい神さまを彼女は探した。黒い神父服だったから宗教関係者であるはずだと広大なネットワークの中を調べ脚で歩き回り、ようやくその教会を見つけた。存外、住んでいるところから近くにあって、仕事の帰りに、休日に、時間の許す限り通った。そこには彼女と同じような救われた人間がいくらでもいて、神さまはどの人間にも平坦で変わらない視線を声を向けていた。信者たち全てに、人間に神さまは平等だった。神さまが望むのは善いことをする、嘘をつかない、悪事を許すな、それだけだ。何かを与えてくれるわけでも何かを欲しがっているわけでもない。でも救ってくれた神さまが間違っているはずがない。すべて正しいに決まっている。だから言われた通りの振る舞いを彼女は心がけたし、ただただその美しい姿を目にするだけで十分満足して幸福だった。そうだ、幸福だ。両親がいなくなってただ生きているだけの日々だったのに生きなければいけない毎日だったのに、神さまの存在だけで彼女の世界はとても善くなって、心地よく希望に満ち溢れていた。
日々祈りのために通っていれば、他の親切な信者たちはここでの振る舞いを教えてくれた。神さまの言うとおりに生きること。神さまに干渉しないこと。神さまを勝手に想像しないこと。いくつか他にもあったが、当然と思えることばかりであったので彼女はすぐにそこに馴染むことができた。神さまはただそこに在るだけいい。
神さまは何か地域のイベントの手伝いやボランティアなどの用事がない限り信者を侍らせたりしないので、教会にくる日は、祈りを捧げ掃除をするくらいだ。入ってはいけない場所も教えられているが、私室や仕事部屋と、当たり前に足を踏み入れるのを躊躇うところでありそんな烏滸がましいことができるはずもなかった。
今日も祈りを捧げてから、他の信者と軽く雑談をして掃除に向かう。
季節の変わり目か、落ち葉が地面の一部を隠していた。
門の辺りを掃いていると目に突き刺さるような色合いの男がインターホンを鳴らすこともなく入ってくる。フードを被り、瞳は一方が派手な髪に隠れているせいでもうひとつの赤い色が異様に目立っていた。
ここにくる人間が善人でも悪人でも神さまは拒むことはないのでちらりと横目で伺って、箒に視線を戻す。しばらく単調に腕を動かしていたが、教会にあまりにも似つかわしくない存在が強く印象に残って、気になってしまったから掃除を切り上げて、他に掃く場所を探しにいくふりをしながら後を追いかける。
礼拝堂には神さまがいた。その隣にはさっきの男がいる。会話は途切れ途切れに響きはっきりとは聞こえなかった。ただ神さまの赤い唇からレイメイ、といつも信者たちに語りかける朗々とした口調とは違う声色で名前が幾度もこぼれ落ちていて、なんだかその響きが柔く、やけに心を騒がせる。時折、神さまを黒塗りの車で迎えに来る男性とまた違い、その距離は、何処か特別だった。
ゴミを塵取りに集めながらすこしずつ近づきながら様子を伺って、どきりとした。
神さまが笑んでいた。一つしかない瞳に目前の男だけを囲んで細めていた。色のついた唇が緩く持ち上がる。
信者たちに向かって飾っている瑕のない微笑ではなかった。
初めて見るその表情に胸が軋んだ。綺麗だった。それはきっと神さまの眼前の男にだけ向けられているからこんなにも目を惹くのだと思った。
ずっとずっと見ていられたらいいのに。このまま脳内を回る陶然とした甘い痺れに浸っていたかったのにがたりと立てられた物音に慌てて、喪失から立ち直る。変わらず会話は続けられていたが存在を知られたことは間違いない。焦燥感に追い立てられ、ぱたぱたと足音を連らせるようにそこから逃げ出す。
走っただけではない心臓の痛みに神さま、と彼女は小さく祈りを囁いた。
彼女はレイメイが来るのを心待ちにするようになってしまった。神さまの、あの美しい顔に彼女が見たいその笑みが乗るのはあの人と話している時だけなのだ。
幸いにも彼女は庭から門の辺りの掃除が担当になることが多くて、レイメイが来ればこっそり後を追いかけることが出来た。レイメイが来ると神さまは礼拝堂ですこし話すだけの時もあれば、私室にいったり、外へ一緒に出かけに行ったり様々であった。出来れば礼拝堂で話してくれればいいのに、と思っていたが、一番残念なのは来訪がないことだ。
今日は、まだその姿を見ていない上、人数の関係で掃除場所が変更され、レイメイの訪れを彼女は察することが出来ずにいた。あまり神さまも通らない場所を掃除した後、礼拝堂から居住区までの廊下に向かった。
箒で塵を集めながら歩いていれば遠目に見慣れたあの毒々しい色合いが視界に飛び込んでくる。偶発的な嬉しさに心臓が跳ねる。きっと神さまも傍にいるはずだ。走り出したくなるのを抑えながら密かに近づき物陰に身を寄せる。
そこは神さまの私室の前だった。しかしいつもの楽しげな雰囲気ではなく、その声に険が乗っていて、明らかにレイメイの機嫌が悪い。
普段の、明々とした態度は曇り、遠目であっても彼女は肝の冷えるような感覚に晒されているのに神さまは平然としていて微笑すら浮かべている。
「ユミピコさ、なんで他のヤツにすんの」
「祝福を与えなければならない仕事だ」
「仕事だからってしなくてもよくね?」
「額にしただけだろう」
「だからなに? ムカつくんだけど」
「黎明、おまえも祝福が欲しいのか?」
踵を上げすこしだけ伸びる体はきっと、額に口づけようとしたのだろう。しかし、そこに至る前に神さまの唇が同じもので塞がった。重なっていたのはそれほど長い時間でもなかったのに永遠に思えて、彼女は息をするのすら忘れていた。
「……おまえ、わかってて言ってるだろ」
神さまの、かすかに色の落ちた唇が歪む。いつもと違う笑い方だった。穏やかな微笑みではなく、挑発するかのような、艶やかなその笑みに、レイメイは舌打ちして、再び口づける。
何か、見てはいけないようなものを目にしてしまった気がして、けれど視線を外すことが出来ずにいる。あんな不遜なこと神さまにすべきでは無くて、けれど、その神さまは楽しげで、強請るようにその首筋に腕を回している。神さまが望んでいることなら、きっと正しい。
長い口づけの合間に熱っぽい吐息が零れては、舌の絡む水音が混じる。
背がぞわりとしてこのまま見ているのが不安になった。早く離れなければ。焦燥に押されて、その場から慌てて踵を返す。惚けたまま無意識で教会での行いを終えて家に戻っても、仕事に向かっても脳裏にあの、美しい神さまの少し色の落ちた赤い唇がいつまでも残って離れない。
それは数日経っても変わらず、彼女は今日もレイメイを待ち侘びている。
罪深いような行いを目にしたのはけれどあの時の一度だけだった。見ているのがいけない事である気がしているのにもう一度、見てみたくて、今まで礼拝堂までしか追いかけなかったのに、出入りが禁止されている所以外であれば後をつけてしまっている。
落ち葉を集めて、ゴミ袋に入れる。掃除をしている間にレイメイは来なかった。勝手にため息が口端をなぞる。
落胆を乗せた顔を上げるのと門がきぃと音を立てて開くのは同時だった。背の高い影が彼女を覆う。
内側に笑みを飾った赤い瞳が在った。その中に小さく肩を縮める自分がいる。
「ぁ…………」
肌が粟立つ。耳の中から心音が迫り上がってくるような錯覚に、吐き気がした。
来るのを期待しているのに相対することがこんなにも恐ろしさを感じるとは思っていなかった。
きっと気づいているだろうけど今まで彼女を見たことは一度もなかったはずなのに。
視線が逸れる。
「おまえ、よく見てるな」
それだけ言ってレイメイは教会の中に消えていく。
冷えた指先で落ちたゴミ袋を拾うつもりだったが、屈んでそのまま立てなくなった。地面が揺れているのではなく、自分の両足が震えていることに気づいたのはしばらく経った後だった。
その日は公園での炊き出しの途中で、ぽつりと雨粒が落ちてきた。予報では曇りであったが片付けをしている間に雨足はどんどんひどくなり、帰宅が困難なものは教会内での宿泊が許されることになった。電車の運行が止まっていることを確認して彼女も泊まる準備をする。教会の敷地は広大で居住スペースにはいくつも部屋があるので各自、一部屋ずつ使っても余るくらいだ。
信者たちは寝入る前に大部屋に集まって、今後の予定を考えたり、ささやかな雑談をしていた。
彼女も参加していて、ふとレイメイのことが頭によぎる。
「あの……たまに神さまの傍にいる、あの人、は」
ああ、とそれだけで伝わって、やはりあの容姿は印象に残るのだろうと思った。
来るようになったのは最近らしいがそれなりに出入りしているようで、周りの信者は皆知っているらしい。ああけれど、他の人もあの神さまの笑みを、行いを見たことがあるのだろうか。
しかし、それを問う事は何か大事な秘密を話してしまうようで躊躇われて口を噤む。これで話は終わったつもりだったが、その話題は彼女を中心に広がって、口々にレイメイの事が語られる。
ぼんやりと耳を傾けていると最初に問うた女性が言う。
あなたは大丈夫だと思うけど。
「あれをあまり見てはいけないよ。見られてしまうから」
頷く。彼女は見ていない。見ているのは神さまだけだ。
「いや、あれは神さましか見ていない」
「我々のことは道端の石ころ程度だ」
「しかし連れ去られた」
「あれはあの男が悪いだろう」
「敬虔な信者のふりをして畏れ多くも神さまに」
「だが神さまは赦されたのではなかったのか」
「なんと寛大な」
「いつのまにかいなくなっていた」
「あなたは危ないかもしれない。身を慎みなさい」
「かみさまはわかってくれる」
口々に囁く声が耳を塞ぐ。そのさざめきを聞いているとふと不安になった。あの、赤い目を思い出す。レイメイは彼女を見ていなかったけれど一瞬でもその中に取り込まれるのは恐怖だった。体の心の奥底まで覗かれているような、それなのに相手のことは何もわからない。
もう見に行かない方がいいのだろうか。でも、あの人と一緒にいる神さまがいちばん綺麗だ。
そのうち、静寂に包まれた部屋で、ひとりまたひとり部屋に戻っていく。
部屋に戻った彼女も布団に入って、瞼を閉じる。眠りはすぐにやってきた。生ぬるい夢を見ていて、不意に金属の軋んだ響きで覚醒する。開いて閉じる。その動作を想像させる音に門を誰かが通ったように思えた。以前、強盗が入ったらしいと信者の間でも囁かれていたし泥棒の可能性が頭をよぎる。
しかし、どうも自信が持てなかった。
風で揺れて音がしただけかもしれないし、夢の延長で聞こえた幻聴かもしれない。
そう思い込んで、もう一度、眠りを誘うため固く目を瞑る。けれど一抹の不安に眠れずに寝返りを何度か打つ。しばらくしてから意を決して立ち上がる。すこし様子を伺いにいくだけのことに人を起こすのも悪く思って、そっと寝床を抜け出した。
外の天気は先ほどより落ち着いていて、風は収まり小雨になっていた。
遠目から見ても門はしっかりと閉まっていて、ほっとする。念のため礼拝堂をもう一度見渡して確認した。誰もいない。息をついて、しかし、頼りない光の下で乾きかけた足跡が目についた。
どっ、と心臓が跳ねた。誰かいる。
そろそろと脚を動かして、居住区へ向かう。あの神さまに警告など不必要なようにも思えたが一応知らせなければならないと徐々に足早になる。
私室の扉を軽く叩いたが返事がない。取っ手を掴むと動くのでどうやら鍵は開いているらしい。一瞬、逡巡して中に入った。
部屋には誰もいなかった。
さらに奥の、半開きの扉に近づく。音がする。木が軋んだような、布ずれのような。
開いている扉の隙間から向こう側を見た。声を上げそうになったのを必死に吞み込む。
扉の傍、の寝台の上、二つの体が重なっている。神さまの白い肢体に覆いかぶさっているのは彼女も良く知っている男だった。紫の髪がその上で動くたびに乱れる。
ぐちゃぐちゃとした水音と荒れた息遣いが混じり合って、室内を満たしていた。
心臓の音が加速する。きっと神さまのあんな姿を見てはいけない。見てはいけない行為のはずなのに、足は動かない。動く気がない。神さまが快楽に身を捩る淫靡な姿を目にどうしてかぞわぞわとした歓喜が身を焦がす。
背に回った腕に力が込められたのがわかった。
「……ッ、爪立てんな」
「お前の体は悦んでいるが」
「うるさい。力、強いんだよ」
「おまえも噛むだろう」
「ユミピコだって好きじゃん、あれ」
レイメイが首筋に埋めた瞬間、神さまの体がびくりと跳ねる。その上気した顔には、熱に陶然とした表情が浮かんでいた。
神さまが擦れた声でいつもの名前を呼ぶ。数度躍動した体がしだれ掛かって、深く息を吐いた。
「あっつ……」
「……神の躰で暖をとっておいて不平をこぼすとは」
「だっていきなり降ってくるんだもんなー、ユミピコん家が近くてよかった」
離れようとした体躯を神さまは引き留めて、口づける。離れた唇から艶やかな笑い声が零れた。
「これで済ませる気か?」
嘆息したレイメイは汗で湿った前髪をかき上げて、再び身を寄せる。
「はいはい、満足させてやるよ」
「殊勝な心がけだ、黎明」
神さまはいい子だと笑う。
伸びてきた腕を掴んだレイメイはその手首に唇を寄せてから、敷布へと押し付けた。
彼女はずっとその享楽的な交わりから目が離せなくて、夜が明けるまで夢の中にいるようにぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
白く整えられた爪先に色を重ねていく。三本目。赤に染まった形は欠け一つない。
マニキュアに集中していた天堂があまりに黎明を見てくれないのでべたべたと纏わりつき、ついに癇癪を起こしたら、ならテメーがやれと投げつけられた。自身の行いを棚に上げて、沸点を超えた天堂の暴力から逃れたかった黎明は言う通り爪を塗り始めたが、存外悪くないことに気づく。
だってその間、天堂の視界には黎明しかいない。
「ユミピコ、最近俺のこと炎上させようとしてたりしないよな?」
「神を猜疑の目で見るとは何か訓戒を受ける心当たりがあるのか、黎明」
「あー……」
次の爪を塗りながら幾つか思い当たる節を探る。何人か違う相手と寝た、とか、あとは勝手に天堂に断り無く信者を攫ったとか。
前者は性病をうつしたら殺すとは言われたが神さまは嫉妬しないらしいので当てはまらないだろう。全く面白くない。天堂が黎明以外に一瞥をくれてやるだけで苛立つのに。まあその嫉妬じみた感情さえ、天堂以外であっても黎明が深く観ている人間が他者に視線を奪われたら同じように苛立つだろうから不健全な執着なのだろうけど。
逸れた思考を戻しながら赤い爪にトップコートを重ね塗りする。
「信者の間で噂になっている」
黎明の考えを先回りした言葉はしかし別段、怒りは感じられない。もっと上手くやれ、ということだろう。
「あれ、よく赦したな、まだ喚いてるぞ」
「神の姿に気が惑うこともあるだろう、そのようなもの大勢いる。寛大な心で赦してやるのも美しい神のつとめだ」
色のない唇を曲げて神さまは慈愛に満ちた笑みを模る。なんて似つかわしくない表情だろうと呆れた。笑いながらあれだけ殴りつけてたくせに。
天堂の信者の白い羊の中にたまに黒い羊が混ざっている。羊のくせに一匹天堂に牙を向いたので出荷される寸前だったが、満身創痍の身になって赦された。それを横取りした。本人に散々暴力を振るわれたにも関わらず天堂への執心が残り続けているのが面白くて天堂と引き離した黎明への憎しみをずっとずっとぶつけてくるのがいい。
今現在テラリウムの中でもまだ魅せてくれる。
全て塗り終えた爪先はいつもと遜色なく、綺麗に揃っていた。天堂の反応を見る必要もなくその出来栄えに自信があった。
スマホを取り出して、ずらずらと黎明に対しての誹謗中傷やら、悪意を持って切り抜いた動画やらが並んだ画面を再び見た。
「ユミピコみたいなことしてくるから一応訊いたけどどう考えても違うよな、手口が杜撰だし。やっぱ一緒のヤツだな」
「おまえがたまに観ている者か?」
「そうそう、おまえとオレをよく観てるヤツだよ」
さっきからずっと向けられていた視線が鏡に向いて、黎明は眉を寄せる。赤く色づいていく唇。気を引きたくて名前を呼ぶ寸前、胸ぐらを掴まれその唇に声が飲み込まれた。強く押し付けてすぐに離れる。鏡に戻った目が満足そうに緩んだ。
「……オレで色合わすなよ」
「似合っているぞ、黎明」
指先が黎明の唇を撫でていく。
上気した頬。熱を帯びた眼差し。あの、掠れた声。
いけないと思うのに勝手に頭の中がいっぱいになる。神さま、美しい神さま。自分だけが知っている優越感。もっと見たい。おそばにいけたらいいのに。
赤い目にもう一度写る恐怖よりも神さまを彼女は見ていたかった。だからいつもみたいにレイメイの来訪を気にしていて、けれどあの日以降彼女がいる時間と合わないのか姿を見かけることがない。
その日は庭の大量の落ち葉を纏めるのに時間がかかって、夕暮れ時まで彼女は掃除に追われていた。そのおかげで長い時間、門を眺めていられたがレイメイの姿は現れない。
今日は来ないかもしれない。もう後はゴミを指定の場所に持っていくくらいしかなくなって、諦めかけた時だった。その長身が門の向かい側に立つ。来た。
横を通り過ぎていくだけでも心臓はひどく痛んだが、その恐怖を抑え込んで教会内へ入っていくのを追いかける。
微かに火が灯る薄暗い礼拝堂でレイメイと神さまはいつもみたいに話している。
その赤い指先がレイメイの髪に差し込まれて、二つになったひとみを見て神さまは愉快そうに笑う。平坦さを失い始める自身の鼓動が耳の奥から響く。
今日も神さまは楽しそうで、あの笑みが見られた。彼女の口元は緩んで。
不意に肩に鋭い痛みが走った。肉を強く掴んだ指先が骨をも軋ませる。
「………かみさま」
彼女の背後から女が飛び出す。引き止めるより前にその姿がレイメイの前に躍り出た。
手に持ったナイフが夕暮れのオレンジ色を反射して鈍い光を帯びている。
追いかけてもそれを振りかぶる早さの方がきっと先で無意味だとわかっていて、走りながら声を張り上げる。
「だめよ、やめなさい!」
どうして、どうして、どうして。あれほど言い聞かせていたのに。神さまは正しいのだから、神さまが選んでいることは間違っていないのだから、そんなことは言ってはいけない。思ってはいけない。どんなに諌めても妹はずっと彼女の後ろからいつもいつもレイメイに怨嗟を吐き続けていた。
なんなのアイツ。かみさまを穢して。私の方が。ずっと。かみさま。かみさま助けてあげる。
妹とはずっと一緒だったのに。同じように神さまに救われたのに、神さまを愛しているのに、どうして、こんなふうになってしまったのだろう。
追いついた瞬間、妹の体は床に叩きつけられた。
レイメイは蹴り飛ばした脚で手を踏みつける。指から離れたナイフを拾った男の瞳は、興味深そうに妹を見下ろす。
えずく音。上げた顔は醜く歪だった。
「あんたなんかかみさまに相応しくない。近づかないで! 消えてよ! 死んでよ! なんで、どうして、かみさま、かみさまはどうしてわたしをみてくれないの。私ずっとずっとずっと見てるじゃない! 愛してるのに!!」
呼吸器の悲鳴を振り切って妹は金切り声で咆哮する。立ちあがろうとしたのだろう。しかし力を込めた手にはナイフが突き刺さって床に結い止めらる。絶叫が響いた。
「よく観てたならわかるよな? おまえの愛してる神さまは、オレにだけ笑って、オレにだけ口づけて、体だってオレにだけ好きにさせてくれる」
なあ、ユミピコ。
同意を求めた唇が神さまに触れる。
妹の目に憎悪が灯った。それを受けて、レイメイは残酷なほど無邪気な笑みを飾る。
「ユミピコ、オレ、これ欲しい。ちょーだい」
神さまは何も言わなかった。
連れて行かれてしまう。
「……お姉ちゃん」
昔よく見た純粋で泣きそうな縋るような双眸を向けられて怯んだ。
ああそうだ、助けを請わなければならない。望みが叶わなくても。だって最後の、大切な家族だ。両親を失っても今までそのために生きていた。いつも後ろについてくる臆病で可愛い妹。
でも妹がしたことは悪いことだった。人を陥れようとして、人に刃物をむけて殺そうとするなんて神さまの嫌いな咎人だった。そんなこと神さまが赦すはずがない。正しいこと正しいのは。
唇を噛んで目を逸らした先に救われた時から変わらない美しい神さまがいる。無表情な顔にかすかな憐憫がよぎった気がした。
誰を憐んでいるのだろうか。妹、それとも。
踵を返した。慟哭が背に突き刺さる。
唇が弧を描く。頬が冷たい。何も知らない。何も見ていない。神さま、神さまだけ見ている。
だから、ねえ、これで間違っていないですよね、神さま。
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