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鳥のささみと申します
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序と破の間にこんな夜があったらええのに…て
ヤシマ後アスカ来る前あたりくらいの……
ワンライお題で「親近感」をひいたので。
「
……
シンちゃん、いつもありがとねぇ」
ダイニングを照らすペンダントライトの、少し心許ない光の下。ミサトは5本目となるビール缶の縁を、愛おしむようにちびちびと舐めながら、不意にそう漏らした。
食卓に残った空の食器をまとめていたシンジは、その妙に湿り気を帯びた声に手を止め、怪訝そうにミサトを見た。
「どうしたんですか? 急に」
「いやさぁ、なんかさぁ
……
ダメな大人だわ、アタシはぁ
……
」
あ、やばい。シンジの脳内に警戒アラートが鳴り響く。これは時折見せる、ミサトのストレス値が振り切れた時の絡み方だ。ここで言葉選びを誤れば、一気に深い地雷原へと引きずり込まれる。
シンジは顔に張り付いたような薄い笑いを浮かべ、あえて幼児をなだめるような、明るく平坦なトーンで言った。
「そんなことないですよ。ミサトさんはいつも、頑張ってます」
「うぅ
……
どうしてそんな優しいのぉ
……
?」
どうやら直撃は回避できたらしい。シンジはそっと胸を撫で下ろし、重ねた皿の重みを指先に感じながら、逃げるように流しへと向かった。その背中に、「感謝しかないいぃ
……
」という、ぐだぐだに溶け切ったミサトの声が追いかけてきた。
「だからさ
……
ねぇ。もう一本。もう一本だけ、いい?」
「なんで? ダメですよ。さっきので最後だって、約束したじゃないですか」
珍しく殊勝だ、なんて思った側からこれだ。
流しに食器を置く音をわざと立て、シンジは振り返りもせずに無慈悲に却下した。
「えー! けち! 葛城一尉の命令ですよーだ!」
ミサトは子供のように唇を尖らせると、そのままテーブルに突っ伏した。頬を冷たい天板に押し付け、微かに上気した顔でシンジを見上げる。その姿には、NERVの指令室で見せる凛々しさなど微塵もない。ただの「だらしない姉貴」そのものだった。
シンジは呆れたように短く笑うと、冷蔵庫の扉に手をかけた。
かつてはビール缶と数種類のつまみ、そして申し訳程度の氷しか入っていなかった「独身貴族」の冷蔵庫。それが、シンジが来てからは一変していた。
野菜室には彩り豊かな旬の食材が並び、棚にはタッパーに入った作り置きのおかずが幾つも積み重なっている。殺風景だった庫内はなんだかカラフルになり、その隅には、いつの間にか水出しの麦茶が常備されるようになっていた。
シンジはその重たいピッチャーを取り出し、コップに注いでミサトの前に置いた。
「はい、酔い覚まし。同じ麦ですから、命令違反にはならないですよね」
にっこりと、悪戯な笑みを浮かべて言い放つ。
「むぅ
……
シンちゃんのいけず
……
」
ブツクサと文句を言いながらも、ミサトはコップをひったくるように手に取り、喉を鳴らして冷えた麦茶を一気に飲み干した。
「
……
ぷはぁ。あー、美味しい」
空になったコップを音を立てて置くと、ミサトはまた力なくテーブルに突っ伏した。
そして、さっきまで抱えていた空のビール缶を、まるで失くしたくない宝物のように再び手繰り寄せる。
シンジはそれ以上深入りするのを避けるように、再び流しへと体を向けた。
蛇口を思い切りひねり、ジャーッという勢いのある水の音で、ダイニングに満ち始めた妙に濃密な沈黙を塗り潰す。スポンジに洗剤を含ませ、慣れた手つきで皿を洗い始めた。
背後から、パチ、パチ、と小さな音が聞こえてくる。
激しい水の音に混じって、断続的に届くその金属音。
それはどこか、言葉にならない何かを急かしているような、あるいは溢れ出しそうな感情を無理やり堪えているような、ひどく不安定な響きを持っていた。
「ねえ
……
シンジくん」
「なんですか?」
「そんなに、無理しなくていいのよ?」
激しい水の音を突き抜けて、ミサトの声が背中に届く。
シンジの手が一瞬だけ止まった。スポンジに吸い込まれた洗剤の泡が、指の間で静かに弾ける。けれど、彼はすぐに何事もなかったかのように皿を擦る動作を再開した。
「無理って
……
何がですか」
振り返らずに聞き返す。ミサトの声は、さっきまでの泥酔した甘え声とは明らかにトーンが違っていた。湿り気を帯びながらも、どこか冷徹なまでに核心を突こうとする響き。
「いろんなこと、全部」
パチッ、と一段と高くプルタブが鳴った。
シンジは少しの間、蛇口から流れる水の音を聞きながら、吸い込まれるように排水口へ視線を落とした。考え込むように、あるいは逃げ場を探すように。
「してないですよ」
「うそだぁ。学校だって訓練だってあんのにさ、毎日こうしてご飯作ったり、掃除したり洗濯したり
……
」
「それは
……
ミサトさんがやらないからでしょ?」
呆れたようなシンジの指摘に、ミサトは「うっ」と声を詰まらせた。バツが悪そうに、すでに空っぽな缶の底を確かめるように、未練がましく啜りながら誤魔化す。
「そりゃ、まあ、そうなんだけどさーあ。
……
お手伝いさんとか、頼んだっていーのよ? 本部経由でさ」
「もったいないですよ、僕が出来ないわけじゃないんだし」
シンジは洗い終えた皿を水切りカゴに並べると、布巾で丁寧に手を拭き、ゆっくりとミサトの向かいに腰を下ろした。そのあまりに淡々とした動作に、ミサトはなおも食い下がる。
「しんどくないの?」
「まあ、たまに大変だなぁって思うことはありますけど。
……
先生のところでも時々やってたから。もう、慣れました」
「それってぇ、本当はしんどいってことじゃない?」
ミサトの言葉は、酔っ払いの戯言にしては鋭すぎた。まるで剥き出しの刃を突きつけられたような感覚に、シンジは困ったように眉を下げて、薄く笑う。
「それはミサトさんが穿ちすぎです。言葉通りに受け取ってくださいよ。嫌いじゃないんです、こういうこと。
……
無心でいられるし」
「そーゆーもんかあ
……
。ね、前にいたところはさ、楽しかった?」
不意に投げかけられた問いに、シンジの視線がダイニングの隅にある影を追いかけるように泳ぐ。
「
……
よくしてもらいましたよ。先生は、優しい人だったし。何も不自由はなかったです」
「楽しくは、なかったんだ」
見透かしたようなミサトの追求。シンジは抗うのをやめ、小さく肩をすくめた。
「そりゃ、他人ですから。気は使いますよ」
いつもなら曖昧に笑ってやり過ごすはずなのに、自分でも意外なほど、言葉がするりと素直に出た。
あの家で、波風の立たない毎日を過ごして、誰の邪魔にもならない無難な道を歩んでいく。そう思っていた自分が、今、この閉塞したシェルターの中で巨大な化け物と戦い、目の前のだらしない年上の女性と食卓を囲んでいる。
かつての生活の中で、自分はいてもいなくても、世界は何一つ変わらないのだとずっと思ってきた。まるでこの世の余白のような存在だと。そんな過去を反芻していると、ミサトがじっと動かない瞳でシンジを射抜いた。
「じゃあ、今は?」
シンジはふいに視線を落とした。
返答を探すよりも早く、胸の奥がざわつく。
ミサトの言葉は、不意打ちのように弱い部分を突いてきた。
なにかを言おうとしても、上手く言葉が出てこない。
──楽しいわけがない。
死の恐怖と隣り合わせで、無理難題を押し付けられ、慣れない共同生活に神経を削って。
そのすべてが、自分にはまだ重たすぎる。
それでも、「楽しくない」と断言できない自分がいる。
そう言い切ってしまえば、なにか大事なものまで否定してしまう気がした。
「
……
よく、わからないんです」
シンジは、伏せたままの視線でそう絞り出した。
「ただ、誰かの役に立ててるなら
……
それでいいのかなって。最近は、そう思うようにしてます」
シンジの言葉は、ミサトに向けたものというより、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「誰の役にも立っていない、いてもいなくても一緒だって思い続けるよりは
……
その方が、ずっとマシじゃないですか」
シンジが自嘲気味にそう付け加えると、ミサトは「そっか
……
」と小さく呟いた。
「やっぱり、アタシとおんなじだあ」
ミサトはふにゃっと締まりのない笑みを浮かべ、突っ伏していた体をゆっくりと起こす。酒の匂いがふわりと揺れる。
ぐいと伸びをしてから、半分閉じた目でぼんやりとシンジを見つめた。まるで、昔の誰かを重ねるような、遠い目つきだった。
「
……
ミサトさん?」
その視線のまま、彼女はぽつりと呟いた。
「私もね、自分はここにいていいのかなーって、ずーっと悩んでた時期があったのよ。ちょうど、今のあなたくらいの時かな」
視線を斜め上、何もない空間へと向けたその瞳に、遠い記憶の断片が映り込む。
十五年前。夫を亡くし、光を失ったように毎日泣き暮らす母。その傍らで、父の命と引き換えに生き残ってしまった自分。かける言葉も見つからず、ただ冷えていく空気の中に立っていた光景。
「あんなに勝手で、家庭より研究っていう人だったけど。
……
お母さんにとっては、たった一人、愛した人だったんだなって。大人になってから、そう思うようになったの」
苦味を噛みしめるようにミサトは続けた。
「夫婦と親子ってさ、家族としては地続きに見えるけど、実は愛情の種類が違うのよね。お父さんっていう大きな穴は、娘の私じゃ埋められないんだって。十四歳のミサトちゃんは、それはもう真剣に考えたわけ。私が生き残るより、お父さんが生きてた方が、お母さんは幸せだったんじゃないかなって」
空になった缶の表面を結露した雫が流れて、テーブルに落ちる。
「自分がいない方が、誰かが幸せになれたかもしれない
……
。そんなことばっかり考えてたわ」
ミサトの語る「過去の少女」の影に、今の自分を重ねてしまったのだろうか。シンジは胸の奥を刺されたような痛みをこらえ、辛そうな顔で静かに目を伏せた。
お互いの抱えるものが、あまりにも似通っていることを知ってしまった。
その重苦しい沈黙を、シンジは力なく微笑むことで、かろうじてやり過ごそうとした。
「ミサトさん、今日はお喋りですね」
どこか突き放すようでいて、それ以上彼女が傷つくのを止めるような、不器用な苦笑い。
いつもなら「あはは、酔っちゃったかな」と笑い飛ばすはずのミサトは、けれど、もうビール缶に口をつけることはしなかった。
ミサトは空になったコップの横に肘をつき、ゆっくりと頬杖をついた。
そして、かつての自分自身の残影を見るような、ひどく穏やかで優しい眼差しをシンジに向ける。その瞳には、さっきまでの鋭さはなく、ただ寄る辺ない子供を包み込むような、慈愛に似た色が滲んでいた。
見つめられたシンジは、その熱量に耐えきれず、わずかに視線を泳がせる。
その静かな眼差しは、言葉よりも饒舌にシンジの心を暴き、そして同時に「それでいいのよ」と肯定しているようでもあった。
「
……
僕も、ずっとそう思ってました」
シンジは伏せた目のまま、小さな声で言葉を繋いだ。
「父にとって、僕は
……
いらない存在なんだって。だから、あんな風に捨てられたんだ
……
って」
シンジの言葉は、熱を帯びた告白というより、凍てついた結論を淡々と述べているようだった。
「誰かの役に立たなきゃいけないって思うのは
……
そうでもしないと、僕がここにいていい理由が、どこにも見つからないからなんです」
ミサトは何も言わず、ただシンジの吐き出す毒を、そのまま自分の胸で受け止めていた。
誰かのためにと自らを削ることで、かろうじて居場所の端っこを確保しようとする少年の危うさが、十四歳の頃に負った、癒えない自分の傷と重なる。
ミサトは、まだ酒の匂いが残る息をひとつ吐き、身を乗り出すと、俯くシンジの頭をくしゃくしゃと乱暴にかき回した。
「
……
バカね、そんなことないわよ」
その声は、低く、祈るような響きを帯びていた。
シンジはほんの少しだけ身じろぎし、ミサトの手に視線を向ける。
ミサトは、かき回した手をそのまま愛おしむように一度だけぽんと頭に置き、ゆっくりと自分の側へ引いていく。
「
……
理由なんて、ほんとはいらないの」
ミサトもまた、自分自身に言い聞かせるようにそう言いながら、真っ直ぐにシンジを見つめた。
「私にとってはね
……
。シンちゃんが、ただここにいて、一緒にご飯食べて、たまに私のズボラに呆れて
……
。そうやって笑っててくれるだけで、この家が、ただの箱じゃない『居場所』になるの」
シンジは驚いたように、わずかに目を見開いた。
「役に立つとか立たないとか、そんなの抜きで
……
シンジくん。あなたが必要なのよ。私が、ね」
ミサトは頬杖をついたまま、もう一度真っ直ぐにシンジを見つめた。
言葉を返せなかった。けれど、ずっと胸の奥を塞いでいた冷たい塊が、彼女の言葉と、ビールの匂いの混じった温かな空気の中で、ほんの少しだけ形を崩したような気がした。
シンジは、ミサトの視線から逃げることもできず、ただじっとその言葉を噛み締めていた。ミサトの瞳には、上官としての厳しさも、年上の女性としての余裕もない。ただ、自分と同じ痛みを知る一人の人間として、必死に言葉を紡いでくれているのが分かった。
「
……
ミサトさんは、ずるいです」
頭の上に残った微かな重みと熱の余韻。それが消えていかないうちに、シンジは小さな声で漏らした。
「そんな風に言われたら
……
。なんて返せばいいか、分からなくなるじゃないですか」
少しだけ、本当に少しだけ、シンジの唇に自嘲ではない柔らかな笑みが浮かぶ。それは、長い間閉ざしていた心の扉が、ミサトという「同類」によって、わずかに押し開けられた瞬間だった。
「いつもはだらしないのに
……
。こういう時だけお姉さんみたいなこと言って。本当に
……
ずるいですよ」
「あはは、たまにはらしいことも言わないとね。一応、人生の先輩なんだし」
シンジの言葉に、ミサトは照れ隠しに笑い、今度はテーブルの下で自分の足をぶらぶらさせたりして、 いつもの調子を取り戻そうとする。
「さ、湿っぽいのはおしまい! 片付け、私も手伝うわよん」
「いいですよ。もうほとんど終わってますから。ミサトさんは、早くお風呂入って寝てください。明日当直でしょ?」
ほんの少し解れた声でシンジが返す。
「そうだったー!
……
めんどくさぁ」
ダイニングに流れる空気は、さっきまでよりもずっと穏やかで、少しだけ暖かくなっていた。
五本目のビールのプルタブは、もうカチカチと鳴らされることはなかった。
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