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篠
2026-01-09 20:27:49
3269文字
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かわいいあの子
藪をつついて竜を出すタイプのファイさん
「っ
……
」
予期せぬ熱を手首に感じた瞬間、反射的に身が跳ねた。ガタン、と心臓に悪い音がしたものの、幸いにもコンロの上の鍋は中身を少し揺らす程度で済んでいる。ファイは自分しか居ないキッチンで、ほっと息を吐いた。
先日渡ったばかりのこの国は、どうやら住人たちの身長が今まで訪れた国の平均よりも高いらしい。住宅や家具もそれに見合った造りとなっており、ファイと黒鋼はその恩恵にあずかる形で、比較的快適な生活を送っていた。かといって、小狼が不便するほどでもないのがまた絶妙な加減だな、と素人ながらに思う。この家に備え付けられているキッチンも同様で、立ったままでも作業がしやすい高さの設備はファイをひそかに喜ばせた。
ただ慣れというのは恐ろしい。調理に熱中するあまり、無意識に身を屈めて奥の棚へ置かれた調味料に手を伸ばしていたらしい。そして目測を誤り、うっかり鍋の縁に触れてしまったというわけだ。
ひとまず目的の瓶を手にとり、鍋に適量入れる。味を見てからほんの少しだけ追加し、いつもより慎重に元の場所へ調味料を戻した。
改めて振り返ると、なんとも不思議な気持ちになる。
仕組まれた旅の同行者たちと、全てを知られた今も一緒に居ること。ファイが生きていること。すっかり一行の食事を用意するのが自分の仕事になったこと。それが全く苦ではないこと。料理を作り上げるまでの工程が、いつの間にか自身に馴染んでいること。あの子たちと当たり前のように食事を共にしていること。決して長い滞在ではなかったのに、この国に来るまで暮らしたキッチンでの立ち回りにすっかり慣れていたこと。そしてこのキッチンの配置にもすぐに慣れるだろうという確信があること
……
。
鍋と接触した箇所が、じんじんと熱を持ち始める。とはいえわざわざ冷やしたり処置をしたりするほどではない。今は腕をまくっているが、元に戻してしまえば長袖で隠せる位置だ。問題ないだろう。もたもたしていると、二人と一匹が帰ってきてしまう。ファイは気を取り直して次の作業に手を付けた。
「あ、黒様もモコナもおかえりー」
少し前に帰宅した小狼は、夕食の準備を引き受けてくれている。それに甘えて他の雑事を済ませていると、ほどなくして黒鋼とモコナも帰ってきた。
「たっだいまー!」
黒鋼の肩からぽんと飛び跳ねたモコナが、ファイの胸に飛び込んでくる。受け止めた手のひらの上で器用に一回転してから、モコナは上機嫌に言った。
「すっごく良い匂いがするよぅ」
「ありがとー。もう少ししたら支度終わるから、ちょっとだけ待っててくれる?」
「うんうんっ、小狼は?」
「小狼君は先にご飯の準備してくれてるよー」
「モコナも手伝う!」
白くて小さな身体が弾むようにリビングへと消えていく。「手伝うじゃなくて邪魔するの間違いだろ」という黒鋼の呟きは、おそらくあの可愛らしい耳には届いていないだろう。
「まぁまぁ、黒ぽんもお疲れさま。荷物持ってくよー」
ほどなくして明かりのついた廊下の先から、子どもたちの楽しそうな声が聞こえてきた。わざとらしくため息をつく黒鋼に向かって手を伸ばし、ファイは笑いかける。
しかし返ってきたのは予想していた会話でも視線でもなかった。穏やかな夕暮れ時にそぐわない、厳しい顔つきがこちらをじっと見つめている。
「
……
おい、それどうした」
「え?」
ファイは思わず首を傾げた。純粋な疑問だったのだが、どうやら相手はそう受け取らなかったらしい。黒鋼の眉間の皺が深まる。鋭い目線の先は袖口へと向けられていた。ぐい、といつもより肘に近い位置で手首を引かれ、やっと彼の言わんとすることに気付く。少し動かすと、肌が引き攣れたようにぴりりと痛んだ。
「あ、これ? 全然大したことないよー」
誤魔化したり隠したりするつもりは微塵もなかった。彼が不在にしていた間の日常に起きた、とりたてて報告するまでもない事柄。少しばかり自分の不手際を恥じる気持ちはあったかもしれないが、ただそれだけだ。
だというのに、ファイの反応に対して黒鋼はより苛立たし気な顔をした。事情を知らぬ人が目にしたら、今にも逃げ出してしまいそうな凶悪さだ。
ごく稀に、こういうことがあった。何気ないやりとりのさなか、一つの単語から思い浮かべるものをがそれぞれ違うように、少しだけ会話が噛み合わなくなる。過去の自分なら、上っ面の笑顔を浮かべ気にしないふりをして受け流しただろう齟齬。
それでもファイはこの小さな不和が苦手ではなかった。黒鋼という人間が、自分とは別の思考回路で動いている他人なんだと今更ながらに実感できる。全く異なる存在がお互いに心を傾け、相手を理解しようとしているからこそ起こる衝突なのだと、今はきちんと知っているからだ。
黒鋼はファイの手首を掴んだまま、むすりと口をへの字に結んでいた。お世辞にも親しみやすい雰囲気とは言えない。それなのに妙に可愛らしく見えてしまう。
だって拗ねているのだ。上背のあるファイよりも更に大柄で、一般的に精悍と評されるような顔つきで、喜怒哀楽が読み取りやすいように見えてその実職業柄かあまり表情を読ませることのない黒鋼が、目の前でわかりやすく少年のように拗ねて怒っている。しかもその理由が、勘違いでなければ自分のごくごく小さなケガなのだから、愛おしく思わない方が難しかった。
「黒様、かわい
……
」
「あ゛あ?」
避ける間もなくもう片方の大きな手のひらが頭上に伸びる。指先にぎりぎりと力を入れられる前に、ファイは身をよじって袖をまくりあげた。
「わーやめてやめて! 料理してた時ちょっと鍋に掠っちゃっただけだってば!」
聞こえよがしに舌打ちをして、黒鋼がファイの手首を引き寄せる。なんとか痛めつけられる前に解放された頭を振って、なるべく柔らかに言葉を続けた。
「まだここのキッチンに慣れてなくてつい
……
、ね? 大したケガじゃないでしょ?」
自身の不注意の結果を紅い瞳にまじまじ見られるのは、正直なところ割と恥ずかしい。だが仕方あるまい。未だにむすりとした顔を隠さない黒鋼は、こうでもしないと納得しないだろう。
「
……
気をつけろ」
「はぁい」
「そもそも隠すな」
「隠してないし、ていうかわざわざ言うほどのことじゃないし
……
」
「それを決めるのは俺だ」
「おーぼーだぁ
……
」
ついこぼれた文句に言い返され、更にそれに反論しながらリビングまで進んでいると、モコナを肩に乗せた小狼がキッチンからひょこりと顔を覗かせた。
「おかえり。そろそろ呼びに行こうかと思っていたところだ」
「ごめん、結局小狼君に全部準備してもらっちゃったね」
「いや、おれは貴方が作ってくれたものを配膳しただけだから」
「モコナもお手伝いしたの!」
「二人ともありがとー。じゃあ食べよっか、黒たんも手洗ってきなよ」
「黒鋼なかなか戻ってこないからモコナ心配しちゃった、ファイとケンカしてない?」
からかうようなモコナの問いかけに、荷物を置いた黒鋼が一度立ち止まった。
「
……
こいつが悪い」
こちらを一瞥し、ぶっきらぼうに言い捨てる。洗面所へ向かうその姿に不機嫌の名残のようなものを感じて、ファイは内心首を傾げた。その違和感を放置したままにしたことを、後悔することになるとも知らずに。
隣に座って黙々と食事を口に運ぶ男の情が、大変に深いこと。
不用意にケガをしたうえに(濡れ衣ではあるが)それを隠すような真似をしたファイに対して、想像以上に機嫌を損ねていたこと。
おまけに不意に漏らした「かわいい」という一言が、盛大に火に油を注いでいたこと。
一度拗ねた男は大層意地が悪く愛情深くそして執拗だということを、これから数時間後この国特有の普段よりゆとりのあるベッドの上で、ファイは思う存分、身をもって知る羽目になるのだった。
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(どちらにとっても)かわいいあの子
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