mlkmirm
2026-01-09 15:16:56
11079文字
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キスしたら妊娠する世界線のオトスバ


 その瞬間は、何の前触れもなく訪れた。

「オットー」

 その声色に違和感を覚え、思わず書類から目線を上げると、そこにはいつもの笑みを消したナツキさんが立っていた。それは無表情というよりも、決意を決めたような顔で――
 
「お前の事が、好きだ」
 
 どくん、と心臓が大袈裟に跳ねる。
 ここは執務室で、まだ日は高く……いやそんな事、今は関係ない。あんたの想い人はエミリア様じゃないのか。あれほど彼女に一途だった男が、どうして今そんな言葉を口にする?

……頭でも打ちましたか」

 そんな言葉が戸惑い混じりの笑いと共に、ぽろりと口から出た。
 すると、彼は凛々しかった眉を下げて、僅かな陰りを見せた。それに対し、ちり、と胸の奥が疼く。
 ああ、決してそんな顔をさせたかったわけでは、だなんて言い訳が脳内で過ぎったってもう遅い。
 僕が何か取り繕おうとする前に、ナツキさんはぎこちない笑みを浮かべて口を開いた。

「っなんてな! ジョークだよ、ジョーク! ははっ、もうちょい面白い反応くれよ! あー、喉乾いた。オットーもお茶飲むだろ? 俺、ティーセットの準備してく」
「待ってください」

 彼が踵を返そうとした瞬間、焦ってそれだけ口にした。そう、僕は焦っていた。この好機を掌から零してしまいそうで。

「何? コーフの方が良かった? 別に良いけど」
「あんた、エミリア様の事は?」
「っ今は関係ないだろ」
「関係ありますよ。失恋の勢いで僕に言い寄るってんなら、グーで殴ります。ですが、彼女に区切りをつけて僕へ想いを向けてくれたのであれば……

 黒い瞳が、湿りを含んで揺れた。

「あれば、何?」
「お聞かせ願いたいのは僕の方です。どっちなんですか? ナツキさん」

 彼は一度視線を落とし、直ぐに前を向いた。そして震える声で、それでも懸命に言葉を探しながら話し始めた。

……俺は、お前が好きだよ。エミリアを好きな癖に自分までって思うかもしれねぇ。だけど、聖域であそこまで助けてくれて、殴って叱って隣にいてくれて……本当に嬉しかったんだ。そりゃ、エミリアの事は今だって好きだよ。当たり前だろ。だけどそれはもう恋愛感情っていうより家族みたいなもんで、そう、陣営の皆はもう俺にとっては家族なんだよ! それくらい、大事で、手放したくないんだ。……そんで、強欲過ぎて、全部抱えようとして……一番大事な人に気付いて貰えねぇ」
…………
「オットー。今、俺がキスしたいって思えるのは、お前だけだ。…………なーんて、男に言われても、困っちまうよな? ごめん、忘れてくれ」

 キス? 今、キスと言ったか?
 それって……

「ぼ、僕も、貴方が好きですっ」

 そこまで熱烈に思われていたとは知らず、素直に胸が温んだ。
 そして、生涯誰にも伝える事なく胸に仕舞う予定だった想いを、口から溢す。切迫の色が声に滲み、つい語尾が上擦ってしまったが。

「んだよ……。慰めで適当言ってるっつーなら」
「違います。ずっと前から、あんただけを想っていました。それと同時にあんたが好きなのはエミリア様である事も理解していました。……ですが、ナツキさんが僕という存在を見てくれるのなら、僕はそれに応えたい」

 きぃ、と椅子を引き、立ち上がる。そのまま歩いてナツキさんの方へ向かい、立ち尽くす彼をそっと抱いた。
 初めての抱擁をする際は一声掛けるのが作法だろうが、今にも泣き出しそうな彼を少しでも早く安心させたかった。
 そしてこの選択は間違いではなかったようで、彼は僕の背中にそおっと手を回した。

「ああ、夢みたいだ」

 布越しに伝わる温かな命の温度。それに、小さく彼の息遣いが聞こえる。夢では感じ取れなかった情報が次々に押し寄せ、思考よりも先に肩の力が抜けた。……今は唯、この温もりが心地良い。
 ほう、と息を吐く。

「俺ら、両思いって事で良いの?」
「ええ、これから宜しくお願いします。ナツキさん」
 
 彼は「まじかぁ」と呟き、腕の力を強めた。愛しさに負けて彼の後頭部を撫でる。見た目よりも柔らかい髪に指先を遊ばせて楽しんだ。
 暫くそうして抱き合っていると、彼は緩く僕の胸を押して顔を上げた。

「オットー、ちゅ、ちゅーしたい、かも……
「え? あんた、もう子供が欲しいんですか?」
「は?」
「え?」

 何故彼は驚いているんだ? 愛する同性同士の恋人が口付けをすると子供を授かる――この世界の常識だろう。
 そんな分かり切った事、いくら出身地の不明なナツキさんでも知っていると思っていた。……だが。

「えっ、お前、もしかして性知識はガキンチョレベル? あのさ、流石にキスしたくらいで赤ん坊が出来るわけ」
「出来ますよ」
…………はぁ?」
「ですから、出来ますって」

「は? え? まじ?」そんなふうに魂消る彼の顔を眺める。驚いたのはこちらの方だ。まさか、この世界の摂理そのものを理解していなかったとは、考えてもいなかった。

「あのですね、ナツキさん。落ち着いて聞いてください」

 一体どういうわけか、つい数分前に愛の告白をし合った相手に、性教育の指導する羽目になってしまった。今までの甘い雰囲気はどこへ行ったのか、というのは考えないでおこうか。
 
「男性と女性が情を交わすと、子を授かりますよね?」
……うん」

 良かった! それは理解しているようだ。

「でもそれだと、同性同士の場合……出来ないじゃないですか」
「当たり前だよな」
「そう。ですからその場合は、ええと、世界からの祝福を待つと言いますか、つまりその……唇と唇を合わせた瞬間、片方が、妊娠するんですよ。……こほん、お分かり頂けましたか?」
「何で?! 急にファンタジー過ぎない??」
 
 ファンタジー。彼の故郷の言葉で、幻想や空想を揶揄する表現だ。何がそんなに信じられないのだと言うのか。
 彼の眉間にまたもや皺が寄っているのが見えて、指で擦って伸ばしてやった。

「ファンタジーじゃありませんよ、もう。これがこの世界の常識です。……はっ! じゃあ、さっきの告白の言葉も」

 キスしたいと思っているのはお前だけ、そんな熱烈な告白に胸を打たれたというのに。あれも彼は他意なく言ったというのか。……それは少しだけ、寂しい。

「いや、適当に言ったわけじゃねぇぞ? キスって、俺の住んでた所では好きな人とする挨拶とかコミュニケーションの一つなんだよ。勿論、いちいち妊娠なんかしない。てゆーか、キスの度に子供出来てたら奥さんの方、大変過ぎねぇ?」

 好きな人という言葉を聞くだけで嬉しくなってしまう自分が居て、落ち着けよと宥める。
 ふむ、キスの度に……それは尤もな指摘だ。だが。

「祝福は一度切りなので問題ありませんよ」
「はぁん、なるほどな。大体理解したぜ。とりあえず俺らは恋人らしい事は何も出来ないってわけだ。くそっ……どんな世界だよ、まじで」

 男女の仲よりも同性のそれの方がよっぽど難儀なのだ。触れたい気持ちに理由なんて要らないのに、それでも無責任に子供を作るわけにはいかない。だから、彼が苛立つのも分かる。

「暫くというか王選が終わるまでとは言いませんが、まあ、魔女教徒を殲滅するまではお預けですね」
「だよなぁ……。いや、そもそも付き合って直ぐに妊娠ってヤンキーのカップルみたいだし? これで良いんだよ、多分。子供がどうとかは考えた事もなかったけど、やっぱもっとちゃんとするべきだろうし」

 口付けへの熱意はこれで落ち着いたかと思われたのだが、彼は続けてこう言った。

「つーか、ほっぺは? おでことかにキスしても妊娠するのか?」
「いえ、それはしませんが」

 そう返すと、ナツキさんは背伸びをして僕の頬に口付けた。

「へへっ、それを早く言えっての! それならまだ我慢出来っかも!」

 頬への柔らかい感触を反芻して幸福に酔いしれる。不運だと思っていた人生だが、今日この瞬間報われた気がした。否、しっかりと報われた。
 そうして、僕とナツキさんは友人兼恋人という素敵な関係になったのであった。


 風呂を終え、寝る支度をしていると、自室の扉を二度叩かれた。陽日の零時過ぎ、こんな時間に誰かが訪ねてくるなんて初めてだ。

「どなたですか?」
「俺だけど、入って良い?」

 ナツキさん?! 嬉しいけれど、急にどうしたんだ。

「どうぞ」
「お邪魔しまーす。なんて、はは、一緒に寝たいなって思って。急に迷惑だったか?」

 がちゃり、とドアノブを捻って入室してきた積極的な姿に、つい口元が緩む。控えめな物言いだが、その表情に加え枕まで抱えて、断られる気はさらさらないのだろう。ああ、勿論、そんな事はしない。

「まさか。大歓迎ですよ。明かりを落としますから、寝台へ上がっていてください」
「やりぃ! ……よっと」

 寝巻き姿なんて、晩酌を付き合って貰った時に何度も見た事がある。だが、二人の距離が変わった今では、前とは違ったふうに見えてしまった。
 いけない……付き合いたてで性欲を見せつけてしまっては、男としての信用を失くす。無心になれ、僕。

「オットー?」

 部屋が暗くなったのに布団に入ってこない僕へ不安を覚えたのだろう、小さく名前を呼ばれてしまった。直ぐに「今行きます」と返し、彼の横に寝そべる。月明かりが窓から差し込んで、僕らを照らした。
 一人用の寝台だが、男二人で使おうと特段狭くはないな。しかし、身体の右端は彼と密着しており、胸がそわそわと落ち着かない。

「な、今日はさ、お前が俺の事好きって言ってくれて、すげぇ嬉しかった。今でも夢かもって思ってる」

 鈍いナツキさんは、僕がどんなに彼自身を特別扱いしていたかを知らない。元より告げる予定のなかった想いだ。知られていなくて当然なのだが、一度分からせてやろう。
 手探りで彼の左手を取って、きゅうと握る。

「僕ってそんなに素っ気ない男に見えてましたか? これでも、かなり貴方中心に動いてきたつもりなんですけどねえ」
……いや、お前が一人の人間を選ぶところが想像出来なかっただけかも。もしかすると猫や地竜の方が好きかもしれなかったし」
「僕だって、ナツキさんと出会うまでこんな気持ちは忘れてましたよ。貴方が初めてだとは言ってあげられませんが、この先は未来永劫貴方にだけ向ける気持ちです。ふふ……これから沢山伝えてあげますよ。僕、意外と重いんですからね?」

 彼は僕の手を、柔らかく握り返した。

「おう! かかってこいよ。俺も命賭けてお前を愛するから」
「僕を好きになるのって命懸けなんですか?! ……っくく、それは楽しみです」

 さて、そろそろ寝よう、と口を閉じると、二人の間に静けさが落ちた。
 寝る挨拶だけ送ろうか。

「お休みなさい、ナツキさん」
「ん、寝る前にお休みのキスしてくれよ。どこでも良いから」
「ええ、勿論」
 
 上半身を起こすと二人分の体重を支える寝台がぎしっと軋んだ。彼の顔の横に手を付き、そのまま綺麗な額に口付ける。これで良いだろうか。

……終わりか?」

 では、次は目尻に。

「ふふ、くすぐったい」
「もう少し続けても?」
「ああ、良いぜ」

 鼻に、頬に、口の横に。順々に唇を落とす。
 彼は愛おしげな表情で吐息を漏らした。

「なぁ、俺もちゅーしたい」

 そう言ったナツキさんはぐっと起き上がった。僕と向かい合う形になり、視線が交わる。無音だった空間に、互いの呼吸音だけが重なった。
 僕の肩に手を添えて、ちゅ、ちゅと頬を吸われる。幸せ過ぎて頭がおかしくなりそうだった。
 ……その調子で頬に押し当てられた唇が徐々に下へ降りてきて、まさか、と咄嗟に手で口元を覆う。

「こら、唇は駄目ですって」
「危ね、つい」

 つい、で妊娠してしまったら大事件だ。
 少し頭が冷静になってきた。……さて。

「もう遅いですし、寝ましょうか」

 彼を寝台に寝かせつけ、自分もくっついて横になった。
 これ以上のやり取りは一線を越えかねない。それは最大の禁忌だと僕らは理解しているのに、越えたくなってしまうのだ。本当に、良くない。

「お休みなさい、ナツキさん」
「ああ、お休み、オットー」
 
 緊張して眠れないかと思ったが、それよりも安心感に押し流されるように眠りに沈んだ。
 ……こんなに幸せで、良いのだろうか。



――ットー! 起きろー!」

 ぐい、と身体を揺さぶられる。その拍子に、甘い夢が音もなく崩れた。いや、どうやら現実の方がよっぽど甘いらしい。

「オットーって! 朝だぞ!」
……ん、おはよう御座います、ナツキさん」
「おう、おはよう」

 朝起きて初めて目に入るのが好きな人の顔というのは、嬉しいものだな。全人類の中で自分が一番幸福なのではないか、そんな錯覚すら覚える。うーん、最高の朝だ。

「ほら、顔洗いに行こうぜ?」
「その前に……

 隣にいるナツキさんをぎゅうと抱える。夢じゃない。僕達は恋人同士になったんだ!
 ふわふわと顔に当たる彼の髪がくすぐったく、くふりと笑みが溢れる。

「もう……。急がねぇと朝飯食い損ねるぞ」
「それはいけません」

 名残惜しくも離れた僕達は、足並み揃えて水場へと向かうのであった。
 

 陽日から冥日へ変わり、いつも通り書類仕事に追われていた頃、ナツキさんは針仕事をそっちのけで頭を抱えていた。

「一体どうしたんです? そんな辛気臭い顔して。あっ、お菓子でも食べますか?」

 引き出しを開けて、買い置きの飴玉に手を伸ばす。

「今はいい……。いや、エミリアに何て言おうかと思って。聖域ではキスまでしたのに、俺は……
「それでも僕を選んでくれて、有難う御座います。大丈夫ですよ。あの方に打ち明ける時は僕も隣に立ちますから」

 あの頃はというか昨日までは、確かに彼とエミリア様の関係を応援していた。それは間違いではない。だが、自分の気持ちに蓋をしていたのもまた、間違いではなかった。
 この数ヶ月で彼の気持ちがいかにして変化したかは不明だが、葛藤の末に自分を選んでくれたのだと思うと、彼女への申し訳なさよりも背徳的な安堵が僅かに勝った。

「サンキュー、オットー。……思い立ったが吉日、だよな。っし、夕飯の後時間空けといてって伝えてくるわ」
「ええ。行ってらっしゃい」

 背中を押し合える仲というのは良いものだ。お互いの動力源になれるという事だから、それ程までに親密なのだと言えるだろう。今回の場合は男女の仲を割く為に利用し合うものであるが。……いや、それは我ながら卑屈過ぎるだろうか。
 いつの間にか皺が寄っていた完成間近の書類を、書き直そうか少し迷った。息を肺から出して、また入れる。
 冷静になれ、オットー・スーウェン。


 かくして、ナツキさんはエミリア様との約束を取り付け、執務室へ戻ってきた。

「大事な話があるっつったら、庭のベンチで話す事になったわ。やばい、めちゃくちゃ緊張する……
「今からガチガチになってどうするんですか」
「いや、だって今まで好き好き言われてきた相手から、急に他に好きな奴が出来たって聞かされたら、傷付かねえ?」
「気付いてないかもしれませんが、あんた意外と誰にでも好き好き言ってますよ。まあ、それと傷付く傷付かないは別でしょうか。……では、僕が誑かした事にしても、良いですよ」

 そう言って、かちゃんと音を立てて所定の位置にペンを立てかけた。今日の分の仕事は終わった。これからは彼との時間に当てる。

「ええ、構いません。僕が言い寄って、泣きついて、貴方の善意を揺さぶったという話にしても。それならエミリア様も僕へ」
「ばっかじゃねぇの」
「ええっ?」
「何で俺が好きになった女に、恋人のお前を恨ませなきゃいけねぇんだよ。雑に終わらせるんじゃなくて納得出来る方法を考えたいんだって。他でもない、お前と。……いつかの逆だな。お前、全然冷静じゃない。冷静なフリをしてるだけだ。『惚れた奴の前では格好を付けて良い』んだっけか? だけどさ、俺らは恋人の前に『友達』なんじゃねーの?」

 それまで唸っていた癖に、ナツキさんは立ち上がって僕の目の前に歩いてきた。
 真っ直ぐな瞳だ。その目で僕を見下ろした。

「エミリアに嘘は吐かねえ」
「でもっ」
「本当はさ、誰も傷付けない事なんて出来ないって分かってるよ、俺だって。今の時点で俺らがダメージ食らってるんだぜ? そりゃ怖ぇよ、何て言われるか。また嫌われちまうんじゃないかって、ガタガタ震えそうになってるのを我慢してる。本当は全部ほっぽってお前と一緒に逃げられたらって考えなかったわけじゃない。今でもそうしたいさ。だけど、それは正解じゃないんだ。だから、ここは変に気取らずに告白しにいこうぜ。それで俺らの事を嫌いになるような女じゃないって、知ってるからさ!」

 ……聖域での彼とは別人のように頼もしく見えた。対して、変に構えていた自分が情けない。手を差し伸べたつもりが、これでは逆だ。
 くしゃっと髪を混ぜ、背筋を正した。

「すみません、変な事を言ってしまって。少し冷静さを欠いていました」
「良いよ。それだけお前も考えてくれたんだもんな」
「ええ。お二人の幸せを僕はずっと祈っていましたから。今のこの状況もようやく実感出来たところで、正直、雲の上を歩いているような、覚束ない心地です」

 ナツキさんは、「ちっちっちっ」と人差し指を振った。

「一人じゃないんだからさ、二人で支え合って歩いていけば良いじゃん? って思うわけよ。俺だってお前に支えられるばっかりじゃないんだからさ。んじゃ、飯食いに行くかー! ……な?」

 彼は屈託のない笑顔でこちらに手を差し伸べた。
 この人を好きになれて良かった、と心の底からそう思った。


 冥日九時前、庭のベンチの所で僕らは待っていた。すると、約束の時間丁度になりエミリア様が現れた。ナツキさんと目配せして、座るように促すと「急にどうしたの?」と笑顔で話し掛けられる。まるで楽しいお喋りが始まるかのような空気だが、実際は違った。
 僕達は二人して頭を下げる。そして一言、「ごめんなさい」と告げた。
 しぃんと静まり返る空気の中、「え? 何の事?」と聞かれて初めて、僕は彼と交際し始めた事を伝えた。

「そんな、嘘……
 
 エミリア様は啜り泣いて、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

「ごめん、エミリア。でも、君は今でも俺の特別な女の子で……
「うるさい……っ! どうして? ……私だって、好きになろうって、思ってたのに」

 しゃくりをあげながら彼女はそう溢した。
 僕は何も言えなかった。彼女の涙が正しいのは分かっていたから。それに、キリキリと痛む胃を落ち着かせながら呼吸するのに精一杯で、声なんて出せなかった。
 彼より年上である事が、今は何の支えにもならない。

「オットー君が好きなら、もう私の事なんてどうでも良いんでしょ」 
「それは違う。二人が大好きだからこの場に来たんだ。だから、ちゃんと話をさせてくれって」

 同じような言葉が、同じような調子で、何度も繰り返された。これでは三人の話し合いというよりは、二人の痴話喧嘩のようで、僕は唯彼の横に立っているだけだった。

「馬鹿、あんぽんたん! スバルなんか嫌い!」
「俺はお前が好きだ。……ずっと、好きなまんまだ」
…………っ!」

 ナツキさんの台詞に彼女は目を見開いた。そして、下を向いてぐっと黙り、立ち上がる。

……オットー君は、スバルの事、好き?」

 その問いは愚問だ、少なくとも僕にとっては。

「ええ、世界一好きです」
「スバルは?」
「勿論好きだ……世界一」

 エミリア様は何の予備動作もなく僕達の頬を張った。

「私の事、酷いと思う?」
「いえ、寧ろ僕らの方こそ謝らせてください。……すみませんでした」
「ごめん、本当に」
……これで、納得した事にしてあげる」

 涙目で、それでも笑顔を作って彼女はナツキさんの方を向いた。

「ねえスバル、これからも私の騎士様でいてくれる?」

 ナツキさんはそれまでしょげたり慌てたりしていた顔を今一度整えて、にかっと笑った。

「勿論だぜ、エミリアたん」

 これで、この一件は終わりを迎えた。


 その後、僕達は部屋に戻り、ようやく言葉を交わした。

「すみません。隣に居るからだとか偉そうに言っておいて、何も話せませんでした」
「良いんだよ。お前が居てくれるだけで俺も安心出来たし」

 その一言が有難かった。

「それにしても冷えたな、少しあったまってから寝るか?」
 
 いつもの軽口か。それもまた有難いなと思いながら、彼の頬にキスをした。



 がちゃり、と扉が開かれる。
 最近は許可すら取らずに入ってくるこの男の名は、ナツキ・スバル。僕の恋人だ。

「何、酒飲んでんの? 好きだなー、お前も。ふあぁ……もう寝ねぇ?」
「今やっと酔いが回ってきたところなんですよ。後少しだけ……
「やだ。お前、酔うと話さなくなるじゃん。寝る前はだらだらお喋りしたい」

 素直な言葉で胸を射止められ、つい口角が上がる。
 聞いてやるか、何と言ったって恋人の我儘だ。

「分かりましたよ。だから拗ねないで一緒に寝てくれますか?」
「分かれば良いんだよ。ほら、早く」

 グラスと酒瓶を机の上に置き、寝台に上がると彼は僕の上に座った。そのまま向かい合わせに抱き合って体温を移し合う。
 彼の肩口に顔を埋めて息を吸うと、甘い香りが肺いっぱいに入り、酔っ払ってしまいそうになった。使っている石鹸は同じ筈なのに、何故ここまで良い匂いなのか。

「あー、落ち着く……

 どうやら同じ気持ちだったようだ。
 ここで、前々から抱いていた疑問を口に出した。

「そういえば、ナツキさんって性行為自体は求めてきませんよねえ。やっぱり男同士だと抵抗がありますか?」

 そうだと首を縦に振られたら立ち直れないかもしれない。

「いや、キスする前にセックスはしないだろ。順番逆じゃん」
「確かにそうですが、では、他にしたい事なんかは? 例えば、膝枕とか」
「それはお前がしたい事だろ?」

 うっ、バレたか。
 そのツッコミには苦笑いで返した。

「やりたい事か……。あるっちゃあるけど」
「ほら、あるんじゃないですか。何です? やりましょうよ」
…………引かねぇ?」
「引きませんよ。言ってみてください」

 じっと黒い瞳を見つめると、一瞬の沈黙が流れた。

……お前の唾、飲みたいかも」
……えっと」
「っやっぱナシ! 聞かなかった事にしてくれ!」
「ですが」
「あー、もう、俺がナシって言ったらナ……

 言葉を遮って、とさりとナツキさんを押し倒す。

「な、に……
「良かった。ナツキさんもそういう事をしたいって思ってくれていたんですね。僕の、唾液でしたっけ? ふふ、どうして飲みたいんですか?」

 顔を隠そうとする手は己の両手で押さえ込んで離さない。目の前の好機はいつだって逃さないのが商人というものだ。かああっと赤らんでいく肌色を眺めると、背筋がぞくぞくとした。

「キス、出来ないから」
「なるほど。その代わりに、というわけですか。確かに唾液を飲む行為はキスとは言えませんもんね。流石ナツキさんです。僕には考えもつきませんでした。では、早速やってみましょう」
…………まじ?」

 潤んだ瞳が嬉しげに細められた。……可愛い。
 指先で彼の唇をすーっとなぞる。

「あーん?」
…………あー」

 舌先を覗かせて待つ赤みが差した顔が、堪らない。それを見ただけで勝手に唾液が分泌される。
 互いの息が感じられる程の距離からたらーっと唾液を垂らすと、彼は瞼を伏せ、静かに喉を鳴らした。決して触れる事はないこの距離がもどかしい。

「ふうっ、ふうぅ……、っは、美味し……

 興奮気味にはふはふ呼吸する様も可愛い。
 唾液に美味いも不味いもないだろ、と思ったが、恋人のものなら違うのかもしれないな。

「次はこっちで気持ち良くしてあげますね」

 そう言って彼の腕の拘束を解き、左手の人差し指を彼の口内に突っ込んだ。ぬるついた舌に擦り付け、軽く押し込むと柔らかく歯で食まれた。甘い痛みが指先に走る。

「んふ、おかえひ♡」
……ふふふ」

 掌を天に向け、今度は上顎を爪で引っ掻いてやるとびくんっと彼の身体が跳ねた。……ここまで反応してくれるなんて、気分が良いな。
 彼の口の端から涎が垂れるのを手で拭ってやり、そのまま口元へ運んだ。少しだけ舐めてみると、何だか甘い気がした。理性にヒビが入ったのを感じる。いや! 駄目だ、しっかりしろ!
 と、ここで。

「人の涎舐めて勃たせてんじゃねぇよ」
「貴方の方こそ。ああ、もう、どうするんですか。そういう事はシないんでしょう?」
「あー…………寝るか。起きたら おさまってるだろ」

 だよなぁ。……正直言って前がきつい。トイレでもどこでも行って抜けば良いのだが、彼が我慢するなら僕もまたそうするしかない。
 明かりを落として布団に入り、抱き締め合う。

……当たってるんですが」
「しょうがねぇだろ。俺だって男の子なんだから。興奮したらこうなるんだよ」
 
 それはそうなんだけどと考えながらも彼のおでこに口付けを落とした。お休みのキスはもう完全に習慣となっている。

「もう寝ましょうか。……お休みなさい」
「ん、お休み」

 いつか何も気にせず彼に口付けられる日を夢見て、僕は目を閉じた。

 もう彼は眠ったかな、という頃合いを見て、「好きです」と呟く。いつもの如く返答はない。ふふ、それで良いのだ、と一人で笑いながら、彼に身を寄せた。



 ――そんな日々も、確かにあったのだ。
 ぼろぼろになりながらも、急に遥か昔の平和な記憶が降りてきた。ああ、懐かしい。
 ナツキさんは、全人類の悲願を果たし嫉妬の魔女……いや、サテラという一人の女性を救った。
 何の犠牲もなかったとは言わない。それでも、これで終わったのだと、ようやく平和になるのだと、僕は疑いもしなかった。
 今、彼は銀髪を揺らす彼女の隣で楽しげに話をしている。僕や他の皆はそれを遠目で見守っていた。
 あ、ナツキさんが立ち上がった、と思っていたら、何だか凄い速さでこちらへ駆けてきた。

「どうしたんですか、ナツキさ――

 唇に温かい感触が伝わって、離れる。
 潤んだ黒眼と目が合った。

「ごめん、オットー」

 そう言い終えた瞬間、確かにそこに居た僕の恋人は消えた。涙一粒を残して。

…………え?」

 返事はない。

 あの、悲しげな笑顔の理由が、分からない。お願いだ、僕を一人にしないでくれ……

 乾き切った口で、僕は彼の名前を――