シノハラ
2026-01-09 00:28:51
3732文字
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How many miles to you

ンズイルで昇進して忙しくなっただろうからもう来なさそうと思っているンズと無理やり時間を作って物資を届けに来ている坊ちゃまの話

 偶然出くわしたピラミダ本部所属の同僚から、イルーガが分隊長になったと知らされた。
 他にも何人か人事異動があったと聞いたが、フリンズの生活に影響を与えるような人物はいなかったはずだ。

 喜ばしい事だと笑みを作り祝辞を伝えるよう依頼しながらも、フリンズは手放しで喜べない気持ちでいた。
 彼は今はもちろん、将来のライトキーパーとナド・クライに必要な人間である。
 特別ではないとされる人々からちかちかと瞬く明かりを掬い上げ、束ねて大きな明かりに仕立て上げる能力は彼の特筆すべき特性だった。

 マスターライトキーパーの養子であるというネームバリューを除いても、彼が分隊長に抜擢されるのは別段不思議な話でもなんでもない。
 それ故に同僚も慶事としてフリンズに情報を寄こしてきたわけなのだし。

 当人はいないけれどと祝い酒と称して同僚と少々飲んで別れてから今の今まで、フリンズの胸中には良くない心が生じていた。
 今までもなかなかに厳しいところがあっただろうが、分隊長になってしまってはいよいよ夜明かしの墓まで彼がやって来る理由はなくなってしまうだろう。

 そもそも、ピラミダからナシャタウンまでどれだけかかると思っているのだ。
 そこから更に集落もない地域を北上するのだから、随分と難儀なことである。
 更に言えばある種の好奇心を薪にして彼はフリンズの下に通っていたようだが、そろそろイルーガの欲しがるものも与え切った気がしてきている。

 正直なところ、物資なんてあってもなくても良いものだらけで、処分に困る物の方がずっと多い。
 最近であれば常人では必要だろうカロリーの高そうな甘い菓子は時たま顔を見せるようになった旅人の連れに渡せばいいのだが、彼らはいつまでナド・クライにいてくれるのだろう。

 そういう苦労をフリンズがしているなんて、当然ながらピラミダの人間は少しも知らない。
 だからイルーガの時間が無くなっても、他の誰かがご丁寧にフリンズの下に物資を届けてくれるはずである。
 次の人員がその苦労に見合う相手であれば良いのだけれど。

 イルーガが次に来ると言っていた日は低温になりがちなナド・クライでも殊更冷え込んで、石造りの床はしんしんと冷気を伝えてきていた。
 フリンズにとっては冷たい以上の感想はないものの、人間にとってはそれだけでは済まないので今日はストーブを焚いて来客を待つことに決める。
 上の部分に大振りのケトルでも置いてしゅんしゅんと言わせておけば、更にそれらしいだろう。

 時折ケトルの世話をしながら室内で過ごし、結局来客があったのは日が暮れ始めた頃の事だった。
 戸が叩かれて、その音におや、と思う。
 随分と耳馴染みのあるリズムだったのだ。

 それからごめんください、と丁寧な呼びかけがある。
 裏を返せばお前がそこにいる事を知っているぞ、とその人は表明しているらしい。
 時折自分が居留守を働く事を来訪者は知っているようである。

「はい、今行きます」

 少々声を張って外にいる人物に声をかけて、フリンズは玄関の扉を開けに行く。
 果たしてそこには思い描いた通りの人物が立っていた。

「こんにちは、フリンズさん」
「ええ。遠路はるばるどうも、坊ちゃま」

 イルーガは頬を真っ赤にして、口元から白く染まる蒸気を滲ませていた。
 服の様子を見る限り、どうやら辛うじで雪に降られずに済んだらしい。

「分隊長になったと伺いました」
「あ、はい。ようやく一仕事終わったところのひよっこですけど」

 ぱちりと凍えそうな睫毛が震えてから、かの同僚の垂れこみが正しい事をイルーガは認める。
 伝言は受け取りましたと彼が続けるので改めて簡単に祝えば、少し照れくさそうに彼は返礼を述べた。

「すみません、入れてもらっていいですか? 寒くて」
「ああ、失礼しました」

 家主の背後から伝わってくる温められた部屋の空気が恋しいのか、彼はちらりと部屋の中に視線をやってからフリンズを急かす。
 鼻先まで凍えていそうな彼を急に哀れに思ってフリンズが一歩引くと、重たそうな荷物を背負ったままだったイルーガが家に入った途端慌てて扉を閉める。

「お水……いや、今日はお湯を用意しますね」
「なら、この茶葉を使ってください。フリンズさんも飲みますよね?」
「おや、ご丁寧にどうも」

 ならばと一応拵えられている台所の棚から長らく使っていなかったポットを引っ張り出して、埃を落とすためにざっと洗って部屋に戻る。
 イルーガが座っているだろうテーブルの近くにある椅子には姿が見えず部屋を見渡すと、ストーブの前にしゃがんで手を炎に翳している丸い背中が見えた。

「外はそんなに冷えているんですね」
――……びっくりした。フリンズさんは温かいですね」
「今日は一日中引き籠もっていましたから」

 後ろから指先を握ると、突然目の前に現れたフリンズの手にイルーガが肩を跳ねさせた。
 それから何が起こったのか把握したらしい彼がフリンズを見上げながら手の温度を確かめるように握ってくる。
 本当は外にいようが内にいようが体温の調整はしていなのだけれど、そう言う事にしておくのが良いだろう。

 フリンズが指の力を抜くと、彼もフリンズの指を捕らえていた手を離してくれる。
 お互い自由になった後はテーブルに置いてあった茶葉をポットに入れてから、長々と煮ているケトルの湯を注ぐ。
 大き目なポットと並べると小さく見えるコップに茶を注ぐ頃には、イルーガもテーブルの席に戻ってきていた。

「昇進したせいで随分と忙しくなったのでは?」
「ええまあ」
「それなのにわざわざここまで来るとは思いませんでした」

 彼の前にコップを差し出してから、少しばかり非難が混じるような問いを投げかけてやる。
 そうすれば、イルーガは茶の水面を見るためだとばかりにフリンズから視線を外した。

……別に誰でも良いのなら僕だって構わないでしょう? 道中で得られる情報も実務の役に立つことだって」

 熱い茶で火傷しないよう気をつけながらもイルーガはしっかりと三口飲んでから、フリンズに反論のような、言い訳のような旨を口早に紡いだ。
 それをふんふんと聞き流しながらコップがことんと置かれた瞬間を狙ってポットに残っていた茶を注ぐと、イルーガは口角を少しばかり強張らせてしまう。
 これが一種のからかいであると、彼はもう知っているのだ。

 情報を得るのであればこんなところまで足を伸ばす必要なんてどこにもない。
 生の声を聞きたがったとしても、ナシャタウンにいれば巡回をしていた者達が自然と集まってくるのだから。
 夜明かしの墓なんて隅っこを根城にしているフリンズを除いて。

「分隊長になると決まった時、これから今まで以上に自分の時間を大事にして、しっかりと確保するようにと義父さんが」

 ゆらゆらと揺れていたコップの内側が落ち着いてからイルーガは小さく溜め息を吐くと、観念したように口を開く。
 彼の義父からのアドバイスは正当なものに思えたので、相槌を打つだけに止めて先を促すことにした。

……ここではただの坊ちゃまでいられますから」

 どうやら、いつの間にか彼がフリンズを尋ねる理由は変化していたらしい。
 大きく息を吸い込んだ割には小さな小さな声だった。

 コップの水面を覗き込みながらの告白に、イルーガの肩にかかる期待を否応なしに意識してしまう。
 無論彼ならその全てを抱き込んだ上で、十分以上の結果を出してくれるはずだ。
 一方でそれを彼が重荷と感じたとしても、おかしな話ではないだろう。

 く、と再び熱いお茶を喉に滑らせて、イルーガはもう一つ息を吐いた。
 余裕ができたコップに今度は茶は足さないでおくことにする。

「もちろん、フリンズさんが嫌なら、その」
「まさか」

 色よい返事をしながらも、嫌かどうかは微妙なところだった。
 ここはフリンズの本拠地であり、自分の意向以外で誰かに正体を明かす羽目になるのならきっとここでの出来事だろうと予感している。
 彼に自分の本質を伝えずにいるのなら、きっとここで距離を置くのが適切なのだ。

「今から戻るのは危険ですから、今日はゆっくりして行ってください」

 それでも口から出るのは彼を甘やかす言葉だけだった。
 いいんですか、と少しばかり身を乗り出したイルーガにもちろん、とフリンズは返す。

 この子が望むのであれば何泊かしていってくれても構わないと思ってしまっている自分がいる。
 フリンズと過ごす時間が彼の更なる飛躍に繋がるのであれば、恐悦至極である――なんて、真っ当そうに思える理由まで見繕ってしまう始末だ。

 ありがとうございます、と表情を緩めたイルーガからは戦場で見せる鋭さはどこにも見当たらない。
 この表情を見せるのは義父とフリンズと、他に誰がいるのだろう。
 その数は多ければ多いほど良いに決まっているのに、そう思えない自分もいる事もフリンズは認めるしかなかった。