ask
2026-01-08 23:20:48
21007文字
Public 學パロ箕乱
 

學スト箕乱シナリオ風

學ストの乱歩さんが先生になってたらっていうしんどいっちさんの妄想から派生した年逆パロ箕乱の下書き。あまり推敲しないで書いたら上げていきます。ちょっとずつ増える予定。

一、江戸川先生、箕浦くんに謝られる

真っ青な空に高く澄んだ音が響く。
理科室の面するグラウンドからは運動に励む生徒たちの掛け声が絶え間なく聴こえてくる。

その声が、ひときわ大きくなった気がした。
次の瞬間、何かがぶつかる音がしてびりりと窓が揺れた。教室の隅で実験の準備をしていた僕は、やれやれとため息を吐いて立ち上がり、窓へ歩み寄った。
開いてあった窓からすぐ前の花壇を見下ろす。

「これはまた、見事に折れたねぇ」

學園長の福沢さんが手ずから育てている牡丹のひとつが中ほどから腰を曲げるようにして折れている。まだ蕾の花は、残念ながら咲くことはないだろう。

すぐに走ってきた背の高い男子生徒が、青ざめて助けを求めるような視線を向けた。僕は寛容さを示そうとにこりと笑いかける。

「僕から學園長に言っておいてあげるよ。君はあの殺気に耐えられないだろうから」
「あ、ありがとうございます!」

あからさまに胸を撫で下ろした生徒に、少し意地悪をしたくなった。僕はどうもこういうところに堪え性がない。福沢さんにもう何度も諭されているけど、これが僕なのだからまぁ仕方がないというものだ。

「とはいえ、何もお咎めなしというわけにもいくまいね。君には今日からしばらく理科準備室の作業助手として放課後は手伝いをしてもらおう」
「そりゃ、ないですよ。放課後はバイトがあって」

彼は言いかけた口を大袈裟に手で覆う。

「いや、あの、その」
「へぇ、校則では禁止されているはずのアルバイトが、どうしたって?」

窓から身体を乗り出し、耳に手を当てる仕草をして見せる。男子生徒は大袈裟に慌てて下を向く。叱られた犬みたいだ、と何となく思う。

……わかりました」
「素直でよろしい。では箕浦くん、早速明日から来てくれるかな」
「明日ですか!?てか、なんで名前知って」
「全校生徒の名前くらい知っていて当然だろう?勿論君が勤労学生で少なからぬ金を家計に入れていることも、運動部の助っ人に行っては小銭を稼いでいることも知ってる。生徒の家庭状況を知るのも教師の仕事だからな」

そこで僕は窓に腰を掛け箕浦くんを呼び寄せた。近くまで寄った青年ににこりと笑いかける。

「ちょうどいい。僕は人手が欲しいし、君はお金が欲しい。僕の手伝いをしたら君にいくらか支払うことにしよう。嗚呼、これは校則違反ではないから安心して。福沢さんはそういうところは寛容なんだ。生徒に働く機会を与えるのも学びの一つだと言っていた」

アルバイトにはいかがわしいものもあるから、推奨してないんだ。そう付け加えると、窓から飛び降りる。箕浦くんが慌てて手を差し伸べたので、軽やかにその手を取って着地する。

「さて、どうする?」
……やりますよ」
「ようし、では決まりだ!君の勤め先には僕から電話を入れておくから安心してくれ」
「いや、それくらいは自分でやります」
「遠慮することないのに。まぁいいや、じゃあお願い。明日からだからね、忘れないでよ!」

それじゃ僕は學園長のとこに顔出してくるから、これでね。そう言ってその場を去った。背中に送られてくる視線を感じながら、學園長である福沢さんに牡丹のことをどう話そうか、考える。あの人のことだ、どうせお咎めなしだろう。花壇の世話をしろ、くらいは言うかもしれない。思いのほか落ち込むかな。とはいえ、話す機会をくれた箕浦くんには感謝しておかなくちゃ。そう思いついて後ろを振り返ったら、彼の姿はもうなかった。意外と切り替えが早いのらしい。切り替えが早いのは良いことだ。行動に無駄がなくなる。
渡り廊下から中に入ろうとしたら、生ぬるい風が背中を押した。新しい季節が始まるのだ。今年は何だか良いことがありそうな気がする。不意にそう考えて、僕らしくないと思って笑ってしまった。まぁ、僕がいれば何があってもこの学校は安泰だけどね。





二、箕浦くん、花壇の係に任命される

特大ホームランを打った結果、學園長の大事にしている花壇を荒らしてしまい、江戸川先生に手伝いを命じられた翌日の放課後、早速おれは花壇の前に立たされていた。
昨日野球ボールによって無惨に折られた苗は取り去られ、花壇は元の通りに整えられている。幾本も並ぶ緑色の小さな林にはわずかに一本分、寂しげな隙間ができていた。
江戸川先生はのんびりと頭の後ろで手を組んで現れた。

「理科の授業準備を手伝うはずでは?」
「昨日福沢さんと話したら、君のことは咎めないが、花壇の世話をして生命の尊さを知って欲しいとのことでねぇ。そんなに大変ではないから、毎日ここへ来て、世話をしてから準備室へ来てくれないか」

糸目の先生の顔から表情は読めないが、罰がないだけでも有り難い。言う通りにした方が良さそうだと感じて頷いた。

「わかりました。でも、何をしたら?」
「水やり、草取り、虫取り。気温が下がりそうな日は覆いをつけて、気温が高くなりそうならやっぱり覆いをつけて」

なかなか手間のかかるもののようだ。

「もし、おれがまたこいつを駄目にしちまったら」
「その時は花壇を弁償してもらうから。そうだねぇ、君のささやかだろう月収が軽く飛ぶ程度かなぁ」
「おい、嘘だろ……
「事実さ。まぁあの人はそんなことしないだろうけどねぇ」

さて、見たところ今日は水やりもしなくて良さそうだから、僕の方を手伝って貰おうか。江戸川先生はそう言って教室へ戻っていく。後を追いかけながらおれはこの先に微かな不安を抱いていた。
そもそもこの先生とは理科の授業以外の接点がない。いつもにこにこと機嫌が良さそうで、すこし、いやだいぶ、生徒を小馬鹿にしたところがなければおおよそ無害な人だと思っていた。

「おーい、どうしたの」
「あ、いえ」
「僕のことが気になる?」
「はぁ、まぁ」
「君の考えてる通りだよ。僕はおおよそ無害だ。あと、福沢さんと話すきっかけを増やしてくれたことには感謝してる。最近すれ違ってばかりだったからね」

そうだ、思い出した。この先生の別のあだ名、「名探偵」。まるで見聞きしたかのように相手のことをずばりと当てるから気味悪く思う生徒も多いとか。學園の卒業生でもあって、歴代の生徒会長でもあったとか。
ともあれ、今のおれにとっては仕事の上司でもあるわけだ。あまり詮索はしないで、うまくやることにしよう。そう考えて細い背中の後を追いかけた。




三、花壇にて、花の名前を知る

「えー?君この花の名前知らないの?」

僕は自分でも素っ頓狂だなと思う声をあげて驚きを表明した。まさか、こんなに有名な花の名前を知らない人間がいるなんて。

「おれ、そういうのに縁がなくて」
「古典や諺にも出てくるし、例えば母君に贈っても喜ばれるものだよ」
「母さんは死んじまってるんで」
「嗚呼、そうだったね。ごめん」

僕としたことが、こんな基本的なことを忘れていたなんて。箕浦くんの顔を見るとすこし複雑な表情を浮かべている。

「この花は牡丹。花の王様とも呼ばれていて、ええと、気品のある佇まいがまさにおうじゃのふうかくだとかなんとかあの人は言っていたけど、まぁ、とにかく大きくて綺麗な花が咲くんだ」
「嗚呼、牡丹なら聞いたことがある。こんな葉っぱをしてるんですね」
「福沢さんがやけに気に入っててね。花なんかどこがいいんだか。すぐに枯れてしまうのにさ」
「でもほら」

箕浦くんはそう言って牡丹の蕾を僕のそばに寄せた。

「なんだか先生みたいですよ。おとなしそうなのに、大きな蕾をつけてるとことか」
「なにそれ、僕の態度がでかいってこと」
「いやいや、話が乗ってる時の先生は、華やかなんですよ。気づいてませんか」
「自分じゃわかんないなぁ」
「まぁ、なんとなくです」

箕浦くんは曖昧に笑って、さっさと水あげちまいましょう、とホースを手に取った。僕は花の王様に喩えられたことがなんだかこそばゆくなって、用事があるからと先に準備室へ戻った。背の高い後ろ姿がすこし、福沢さんみたいだった。




四、箕浦くん、江戸川先生の泣き顔を見る

江戸川先生の手伝いを始めて2ヶ月くらい経った頃だ。
牡丹は無事に花を咲かせ、おれは學園長の期待に応えられて心からほっとしたし、先生の顔も潰さずに済んだ。學園長は花壇の世話はもういいと言ってくれたが、始めたものを途中で投げ出すのも気が引ける。どうせ一年後には卒業なのだからと、このまま世話を続けると申し出た。學園長も江戸川先生もえらく驚いてたが、最終的には聞き入れてくれた。

その日は、部活の助っ人で遅くなるからと準備室の手伝いは休みにしてもらっていた。
教室に課題のテキストを置きっぱなしにしていたことに気づいて取りに戻り、暗くなった校舎を急ぎ足で出ようとしていた時だ。學園長室から灯りが漏れているのに気づいた。珍しく職員室の灯りは消えていて、それで妙に目についたんだろう。

何となく前を通りすぎたら、中から話し声が聞こえてきた。話し声というより、怒鳴り声に近い。少し高い声が非難しているようだ。それを静かな声が諭すように続く。
よくないと思いつつ、廊下を横切ってドアのそばに立ってみると、予想外によく聞こえてきた。
声の主は學園長と江戸川先生らしい。

「僕はもう子どもじゃない!」だとか、「なぜだめなの?」とか、先生の方はどうも穏やかじゃない。何か要望を捩じ込もうとしてるように聞こえる。
學園長はがんとしてそれを聞き入れず、「俺には応えてやれない」とか「お前の勘違いだ」とか同じようなことをずっと言っている。

とうとう我慢の限界に達したのか、先生が扉の方へ近付く気配がした。
おれは咄嗟にその場を離れると廊下の隅に身を隠した。

それで、ここからが重要なのだが、廊下に飛び出してきた先生はぴしゃりとドアを閉めると、片手で目元を拭ったのだ。
つまり、おそらく、先生は泣いていた。
心臓がどくりと波打ち、腋にどっと汗をかいた。
見てはいけないものを見てしまった気がしたからだ。

先生は涙を拭い終わると、おれのいる方に向かって歩き出した。きっと、おれがいることに気づいていたはずだ。でも先生は何も言わずにおれの前を早足で通り過ぎた。まるで何かを振り切るように、廊下をかつかつと音を立てて歩き去った。

おれはしばらく、歩き去る先生の震える背中を忘れることができなかった。





五、与謝野先生と江戸川先生、箕浦くんのよさを語る

運動部の活動が盛んになるこの時期は、保健室も忙しい。一つ下の与謝野さんは保健室の先生なんだけど、毎日擦り傷や打撲、捻挫の生徒の手当てに走り回っている。

僕はそんな生徒たちが授業中なのをいいことに、ここのベッドに潜り込むのが習慣になっている。そりゃもう、生徒だった頃からだから、伝統と言ってしまっても良いのではないか。

「なぁに莫迦言ってんだい。妾の仕事を増やさないでおくれでないか」

足首を捻挫した生徒の手当てをしながら与謝野さんが仕切りの向こうから声を上げる。

「僕は静かに寝てるだけ。与謝野さんに迷惑はかけてないでしょ」
「乱歩さんの存在が問題だって言うんだよ。まったく、學園長に言いつけてやろうか」
「そう言って、絶対庇ってくれるの知ってるんだ僕は」

扉が開く音がして「ありがとうございました」と生徒が出ていく。と同時に与謝野さんが「おや、またあんたかい」と別の生徒を迎え入れた声がした。

「すんません、助っ人で出たら一塁手とぶつかっちまって」
「精が出るねぇ。しかし怪我には気ぃつけな。最近多いよ。疲れてんじゃないのかい」
「そんなことは、ないと思うんですがね。最近楽させてもらってるし」
「へぇ、もっと大変な仕事をさせてほしいって?」

僕はたまらなくなって仕切りから顔を出して見せる。

「江戸川先生!なんでここに」
「ここは僕の定宿なんだよ。君こそなんだ。僕の仕事だけじゃ不足だってのか」
「そんなことはないです。ただ

箕浦くんは口籠ると俯いて頭を掻く。

「どうも、頼まれると断りきれなくて」

僕は思わず与謝野さんと顔を見合わせた。

「あんた、お人好しもいい加減にしときなよ。体壊したら元も子もないだろう」
「はぁ、まぁそうなんですがね」
「そんなに忙しいなら、僕の方は少しお休みにしてもいいけど」

僕の申し出に、今度は慌てて手を振る。

「そんな、やめてください。おれ、先生の仕事好きなんです」
「おや、意外だねぇ。あんたのことだから体動かしてる方が良いって言うかと思った」
「俺にも、運動以外にできることがあるんだって気がして、楽しいんです。それに、勉強にもなる」

僕は良い気分になって大きく頷く。

「その通り。君、いいこと言うねぇ」

与謝野さんはなぜか呆れたような顔をしている。

「まぁ、ともあれ怪我にはくれぐれも気をつけるんだよ。骨折でもしてみな。夏いっぱいパァだ」

与謝野さんは怖い顔で箕浦くんを脅すと、さ、分かったらさっさと行きな、と保健室から追い出した。

箕浦くんが出て行った後で、与謝野さんは僕の方へ歩いてくる。

「ちょいと乱歩さん、ちゃんと同意はとってんだろうね」
「人聞きが悪い。ちゃんと利害は一致してる」
「分かってるだろうけど、あの子は家庭環境があんまりよくないんだ。無理させないでやっておくれよ」
「なぁに、与謝野さん箕浦くんのこと気に入ってるの?」
「そういうんじゃァないよ。ただ、あの手のお人好しは都合よく利用されかねないってことさ。乱歩さんみたいな人遣いの荒い人に雇われたんじゃ、無理もしそうなもんだしさ」
「ちゃんと休みは取ってもらってるし、この時期は助っ人があるからって、そういうときはこなくていいことにしてるよ」

僕が自慢げに言うと、珍しそうな顔をする。

「なんだい、乱歩さんこそ随分気にかけてるじゃないか」
「そう?」
「そうだよ。これまでずっと、助手を雇ってはすぐクビにしてきたじゃないか」
「そうだっけ?あんまり覚えてないな」
「まぁ、なんにしろ気のつくいい子だよ。乱歩さんの手伝いに飽きたら保健委員として来てもらうってのもいいねぇ」

満更でもないような顔でそんなことを言い出すので、僕は慌てて「それは駄目!」と言った。

「僕が最初に目をつけたの。横取りしないで」
「おや、そうなのかい。妾は一年坊主のときから怪我のお世話してるからねぇ。対面で話した回数は妾の方が多いだろうさ」
「箕浦くん、僕のところで手伝い始めてから明らかに成績があがってるんだ。進学はしないと言っていたけど、この調子なら推薦も取れると思うし、大学部を勧めてみるつもりなの」
「おや、そうだったのかい。そういうことなら妾のとこで働くってのは無しだねぇ」

そう言って与謝野さんは出しっぱなしだった包帯やら消毒液やらを片付け始めた。

「ここはそろそろ店じまいだよ。乱歩さんも持ち場があるだろう?早いとこ戻って準備を片付けっちまっまらどうだい」
「箕浦くん、今日は手伝いおやすみでねぇ。どうもやる気が起きない」
「あの子のことだ、どうせ部活が終わったら顔出しに来るよ。さ、行った行った」

事実上追い出されて僕は理科準備室に戻ることにした。与謝野さんがあそこまで箕浦くんを買っていたのは驚いたが、まぁ、実際よく働く。最近頼りっぱなしになってしまっていたのも事実だ。仕方ないから、たまにはやる気を出してみることにする。まぁ箕浦くんがきたら、残りはやってもらうことにしよう。





六、箕浦くん、心臓の痛みを知る

強面の學園長が猫と戯れていた。
というか、どちらかといえば威嚇しあっている。

構内でよく見る三毛猫が、姿勢を低くしてうずくまり、學園長は2メートルほど離れた場所で猫用の煮干しらしきものを握りしめたままやはりしゃがみ込んでいる。
おれは自分が対峙しているわけでもないのに思わず息をひそめた。牡丹の世話をしようと来たら學園長に先を越され、そのうえ入っていきづらい雰囲気になっていて、仕方なく手前の桜の木の辺りで見守っているところだ。

「まぁたやってる、いい加減諦めたらいいのに」

肩越しに江戸川先生の声が聞こえてきてぎょっとして振り向くと、おれと同じように身を屈めている。

「いつもなんですか」
「あの人、いつもポケットに煮干しを入れててね。それも學園内の猫にあげるためなんだ。あの三毛猫は気位が高くて全然懐かない。まぁ僕には寄ってきてくれるけど」
「出ていかなくていいんですか」
「うーん、今日はいいかな。先に準備の方を片づけよう。君もおいで」

學園長とは仲が良いはずの先生が、そんな風に言うのは珍しい。それで、あの夜のことが不意に頭をよぎった。

「あの、先生」
「うん、なぁに」

泣いてましたよね、と聞くのも変だ。もごもごと言葉を濁していたら、先生が急に立ち止まったのでその背中に体当たりする格好になってしまった。

「で、ってすいません!」
「忘れてほしい、あの夜のことは」

いつもみたいなはきはきとした声ではなく、風に流されそうなくらい弱々しい声でそう言った。それなのに、異議は許さないというような圧力を感じ、おれは思わず黙った。

「君とはいい関係でいたいんだ。頼むよ」
……はい」

仕事の用事以外で、そんなふうに弱気になる先生は初めてだった。おれは頷くしかなく、それでもこの人が學園長との間になにか複雑なものを抱えているんだろうことだけはわかった。

「あの」
「なぁに」
「俺に、できることありますか、なにか、先生の助けになるような」
「ふふ、じゅうぶん助けて貰ってるよ」

ようやく少し緊張を解いて笑ってくれた。おれはそれに少し安心する。

準備室に着くといつものように部屋の片付けを始めた。先生はやはりいつもよりぼうっとして、窓からまだ花壇のそばで猫を構っている學園長を見ていた。
その顔がわずかにこわばり、その後で、見たこともないような柔らかい笑顔になる。

「はは、また逃げられちゃったね」

外から微かに學園長の優しい声がした。二人の関係がいつもと変わらないことに安心して、その後で、少しだけ心臓の裏が痛くなる。
自分でもなぜそうなったのかよくわからない。ただ二人のことを見ているのが辛くなり、手元の書類に視線を落とした。先生の声が風に乗って届く。季節は夏を迎えていた。







七、江戸川先生、奇妙な噂を聞く

「ヰ界ってなんですか?」

箕浦くんは不思議そうな顔で僕を見つめた。先刻僕を訪ねてきた生徒会の面子が、ヰ界だの、ヰ能だのと話していたのが気になったらしい。

學園にはいつからかヰ界が存在する。

僕が生徒だった頃にはもう定着していたみたいだから、その前からなんだろう。

「人の噂という情報を餌に実体化した世界とでも言おうか。神隠しとかと同じものだ。僕が生徒だった時からあるものでね」
「へぇ、不思議な話だ。おれは霊感とかそういうの全然ないんですよ。たぶんあっても気づかないな」
「はは、君は噂話とか興味がなさそうだもんね」
「その変なものが、生徒会と関係あるんですか」
「生徒会の面子に、ヰ能を持つ者が多くてね。いつからか生徒会がヰ界調査の担当になったんだ」
「その、ヰ能ってのも、ヰ界に関係あるんですか」
「うん。僕にもあるよ。ヰ界の中でしか使えないけど」
「おれにも、ありますか?」
「ヰ界に入れれば可能性はあるけど、君はそういうのに縁がないんだろ」
「全然、ないですね。でもヰ能があれば、少しは先生の役に立てるかなと」
「もう充分役に立ってる」

最近箕浦くんは、僕の役に立ちたいと言うことが増えた。有難い話ではあるが、そういう全方位からの助力、というのはどうも性に合わない。有り余る才能を世の無知蒙昧な人のために役立てたいとは思うし、助手の仕事は僕の才能を活かすために必要なことだが、箕浦くんが言っているのはどうも、すこし性質が違う。言うなれば、無償の献身のような。
僕は箕浦くんに笑顔を見せる。

「今日はもういいよ」
「あの、生徒会の依頼は」
「あれは僕がやっとく。君には無理だと思うし」
「はぁ」

生徒会に相談されたのは牡丹にまつわる噂話についてだった。
夜中の二時に校舎の庭に季節外れの牡丹が咲く。その花を手に入れれば想い人に想いが届く。その代わり、今度は自分が牡丹になってしまう。想いは届くが、一緒になることはできない、とかなんとか。

「確かにあの牡丹はすごく綺麗に咲きますけど、どこからそんな噂になっちまったんだか」
「人の想いってのはなかなか面倒だからね。ひとつの話ではないかもしれないねぇ」
「花壇はおれが世話してるし、おれの責任かもしれないじゃないですか」
「大丈夫。君は関係ない。僕が保証する」

僕の見立てでは福沢さん絡みだから、箕浦くんには関わってもらわない方がいい。

「君は助っ人で忙しい時期だろう。気にしないで」

ヰ界で何が起こるかわからない限り、生徒を関わらせるべきじゃない。そんなふうに考えてから、僕も随分先生らしくなったもんだと思う。
帰り支度をする箕浦くんに、もう一言声を掛ける。

「しばらくはヰ界のほうにかかりきりになるから、夏休みの間は来なくていい。休み明けに声を掛けて」

彼は納得できない顔のまま頷いて、準備室を出て行った。

「君を、巻き込むわけにはいかないんだよ」

何故だか、最近箕浦くんのことを考えると胸のあたりが温かくなる。彼が安全な場所にいてくれることが、僕にとっては一番安心できる。
だから、やっぱりこの件は僕がやるしかない。
なんと言っても、この「名探偵」はなんでもお見通しだからね。






八、箕浦くん、どきまぎする

休みの間は野球部とサッカー部の助っ人に明け暮れ、野球部の方は万年最下位から少しだけ順位を上げることができた。
残った時間は無理矢理短期のバイトを入れて余計に稼いだ。暇があると江戸川先生のことを考えてしまうし、そうなるとなぜおれに手伝わせてくれないのかとか、ヰ界に何があるんだろうとか、なんだか胸がもやもやとして気分が悪かったからだ。
そんなわけで配送やら海水浴場の監視員やらあちこち行っていたおかげで休みが終わる頃にはこんがり焼けたし自分でもガタイが良くなった自覚はあった。

「お、箕浦またでかくなった?」

隣席の伊東が巫山戯てそう言ってきたから、冗談のつもりでシャツを捲って力瘤を見せてやったら、引くほど笑っていた。

「おま、マジか、やめろ、見せつけてくんなって」
「おれの肉体美を見たいと言ったのはそっちだろ、しっかり目に焼きつけろ」

ついでにそいつの首を絞めつつ黒板の方を見ると「進路提出今日まで」の文字が目についた。伊東がするすると腕から抜け出して首を回す。

「俺はもう出したぞ。お前どうすんの」
「あー、まぁ、どうすっかな」

実際にはもう書類は書き終わっていたし、進路は進学に変えていた。おれは鞄からぺらりとした紙を取り出す。
机の上には進学に丸のついた希望届が一枚。

「なに、箕浦進学すんの?」

伊東がすかさず訊ねる。

「ああ、江戸川先生が推薦してくれるらしい」
「へ?お前、そんな勉強できたか?」
「いや、全然だな」

伊東はまったく理解できない、という顔で頬杖をついている。

「スポーツ推薦てやつ?」
「うちの大学部なら推薦で奨学金もつくから、受けるだけ受けてみろと」
「へぇ」
「なんだよ」

声音になんとなくよくない雲行きを感じて伊東を見ると、唇がとんがっている。

「まぁ、江戸川先生ってああ見えて実はすごい人らしいから?その人に気に入られてんならよかったんじゃねぇの」

ああ見えて、がどう見えてなのかおよそ察しはついたが、それより後半に引っかかっておれは思わず伊東の顔を見つめてしまう。

……は?気にいられてる?」
「だってそうだろ、助手やらしてもらって、推薦もしてくれてさぁ。正直羨ましいぞ」

俺にもなんか才能があったらなぁ。伊東はそんなふうに言って椅子を後ろに傾けた。

江戸川先生は確かに気さくな人だとは思う。
だがどの生徒にも同じように接するし、おれに特別時間を割いてるとも思えない。手伝いの時だって、作業中はほとんど会話しない。それがまさか、第三者からはそう見えているのか。

おれは急に、猛烈に恥ずかしくなって机に突っ伏した。

「先生は別に、特に気に入ってるとかはない……と思う」
「そうか?今まで何人も助手をクビにしてるって聞いたぞ」
「そうなのか」
「だからお前が続いてんのは珍しいとさ。こないだ保健の与謝野先生が言ってた」

与謝野先生と江戸川先生は學園の生徒だった時から仲が良かったと聞いている。その与謝野先生が言うんだから、そうなのかもしれない。

「今日も手伝いあんの?」
「あー、そういや休み明けに声掛けてって言われてたんだった。後で行ってくるわ」
「せっかくいい感じなんだからうまいことやれよ」
「言い方が下世話なんだよお前の場合」
「いいだろ、実際お前らができてるかどうかで賭けてる奴もいるんだぜ」

あの辺、と親指で指す。おれはそれにげんなりしながら、どこか嬉しい気持ちになる。
だが先生をそういう噂話の対象にするのは許せない。

「生徒に手ェ出す奴なんかクズだろうが。どうでもいいことで遊ぶ暇があったらお前も推薦もらってみろって」

もう一度伊東の首を絞めながら、だが、やはりどこか腹の奥がふわふわと浮かれた感じになるのは止められなかった。


6限終了のチャイムと共に教室を飛び出すと、理科準備室に向かう。
一ヶ月あまり顔を見ていないせいか、妙に心臓が鳴る。どんな顔をして迎えてくれるのか。迷惑そうに、眠そうに、あるいは糸目をもっと細めて、おれの名前を呼んでくれたり……

頭の中にいっぱいになった妄想を振り払うように準備室の扉を開ける。
すると、そこに先生はいなかった。理科室の方にいるのかと、覗いてみるが、そちらにもいない。校庭に面する窓がいつものように開いていて、なんということはなくそこから花壇を覗き込んだ。

「やぁ、箕浦くん。早いじゃないか」

花壇の横に仰向けになり、気持ちよさそうに空を見上げる江戸川先生と目が合った。

「先生……そこでなにを」
「寝てた。天気が良いから気分が良くてね」

おれは大きく息を吐く。変な噂に心臓を高鳴らせていた自分がかえって恥ずかしい。

「今日は、何をしたら良いでしょう」
「んー、明日の実験の準備が終わんなくてねぇ。あと2年生の観察の資料作りとか、色々あるんだけどどれが良い?」

相変わらずののんびりした口調でそんなふうに言ってくる。すっかり気が抜けて、なんでもやりますよ。と答えた。

「じゃあ実験準備かな。豆乳を使って豆腐を作るんだ!楽しそうでしょ」
「はは、じゃまず買い出しですかね」
「うん、ご近所のお豆腐屋さんに話は通してあるから、豆乳取りに行ってきてくれない?5リットルあるから、僕じゃちょっと持てなくてねぇ。君なら余裕だろ」

そう言って先生は起き上がると、窓越しに覗き込んだおれに腕を伸ばした。
反射的におれも腕を伸ばして先生を抱き上げると、教室の方へ引き入れた。

「ありがとう。じゃ、よろしく」

なんということもなくそんな風に言って、さっさと背を向けた。先生に触れてしまったことにどぎまぎして頸の辺りが妙に熱く、それを紛らわせたくて、本当のところは自分でもわからないが、離れていく先生の手を思わず掴んでしまった。
先生は声を上げることもなく静かに振り返ると、おれを見上げて不思議そうに首を傾げた。

「なぁに、わからないことでもあった?」
「あの、そうだ、い、ヰ界の件ってどうなりましたか」
「嗚呼、実はまだ決着してなくてね。ただ噂自体は休みで終息したから自然消滅を待っていても良いかもしれない」

先生は俺の手に細い手を置くと、わずかに瞳を見開いた。

「まだ暑いね。ついでに氷菓も買ってきてよ。一緒に食べよう」

そう言ってさりげなく手を振り解くと準備室に消えた。先生の手が触れた場所が頸よりも熱かった。






九、江戸川先生の秘密

僕が夏休みの間にやったことと言えば、二学期の授業準備と花壇のお世話、そしてヰ界の調査だ。
牡丹の花が噂の出所なら、花壇まわりでおかしなことがないかチェックすれば良い。僕は生徒会に頼んで目安箱を見せてもらい、生徒の噂になっている事柄がないか調べてみたが、めぼしいものはなかった。
中には僕と箕浦くんの関係を詮索するものもあったが、こういうのは騒ぐだけ広がるからさっさと揉み消した。

そもそも、生徒に手を出すなんて腐った教師のやることだ。この學園において、それだけはあり得ない。何故なら學園長の福沢さんがそういうことをひどく嫌っている。それは僕が身をもって知っている。

こうなると、思い当たることはひとつだけだ。
僕は気が乗らないまま、學園長室の扉を叩く。

「どうぞ」

低い声が聞こえる。扉を開くと福沢さんは机の上に書類を広げなにやら読んでいるところらしかった。

「乱歩か、どうした」

僕が生徒の頃から、僕の呼び名は変わらない。それ以前に、僕の両親と福沢さんは親交があったから、僕はいわば福沢さんにとっては息子に近い存在なのだろう。

「學園長、その呼び方はどうかと思うよ。せめて江戸川とでも呼んでみたら?」
「用件は」
「ちぇ、牡丹のこと。ヰ界の件は聞いてるだろ」
「お前に任せると言ってある」
「だから来たんだよ。噂の出所は貴方だ、福沢さん」

福沢さんは静かに書類を置くと小さく息を吐く。

「というと?」
「簡単なことだ。その鉢植えの牡丹の花を、誰かが見たんだよ。開花時期がずれた牡丹をね」

僕はそう言って、福沢さんの席のそばにあった鉢植えを指差した。

「毎年、開花させるときは鉢を下に下ろすでしょ。他の牡丹はもう咲き終わっている時期だから、すごく目立つんだ」

外に植えてある牡丹たちと違って、この花は特別大切にされている感じがする。花が枯れた花壇の横で、鉢植えの牡丹を見た誰かがその異質さを感じ取るのは難しくないだろう。

「なるほどな。それを見かけた誰かが季節外れの牡丹になぞらえて噂話を拵えたわけか」
「そういうこと。わかってしまえば簡単極まりないよね」

ずっと変わらず綺麗に咲く牡丹が僕は、少し羨ましい。

「ヰ界に呑まれた生徒もいないし、これで解決でしょ。生徒会には學園長から伝えておいてくれる?」
「そうしよう」

今はもう花のない鉢植えを横目に、僕は福沢さんに背を向けた。

「乱歩」

福沢さんの声が僕の名を呼んだ。何度も呼ばれてきた声だ。

「なぁに、僕けっこう忙しいんだけど」
「大丈夫か」

福沢さんは時々本当にどうしてその話を今するんだ、ってことを平気で言う。

「だぁいじょうぶ、心配ないよ。僕はいたっていつも通り。頭脳も絶好調だ」
「そうか。それならいい」

貴方には、迷惑をかけないから。
僕は胸の中へ言葉を飲み込む。そばに居られるだけでよかった。
もう多くは望まない。
僕はできるだけ軽やかな足取りで學園長室を後にする。

いまはないはずの牡丹の香りが身体中にまとわりついて離れない。部屋を出た途端、地面に引き摺り込まれそうな重力を感じて、僕は足を引きずるようにして準備室に向かった。




十、箕浦くん、先生を追いかける

先生に掴まれた手首はずっと熱かった。
豆乳を受け取って氷菓を買い、帰り道を急ぐ。

伊東の言葉を否定はしたが、先生の態度を反芻すると、たしかに時々ぎょっとするほど距離が近いと思う。本当に「気に入られている」のかもしれない。現金なことに、先生の姿を見た後だとなんだかその響きは悪くないと思ってしまう。

先生にとっておれが特別な存在だったら。
胸の奥が熱くなる。
もし、そうだったら。
でも、もしそうだったら、おれはどうしたいんだろう?


準備室に戻ると、また先生はいなかった。
溶けるといけないから実験器具なんかを冷やしている冷凍庫に氷菓を入れ(先生がいつもそこから取り出しているのを見ていた)、また理科室を覗く。

沈みかけた太陽が真っ赤な西陽を投げかけ、教室中が燃え立つように色づいていた。
最後の光を窓枠がきらりと反射して、真逆と思って花壇に面した窓に駆け寄る。

そこには予想通り先生がいたが、予想していたかたちとは随分違っていた。

江戸川先生の身体が、牡丹の小さな林の中に吸い込まれようとしていたからだ。
しかもそれっぽい比喩ではなく、文字通り、歪んだ円形の光の中に先生の身体がするすると吸い込まれていく。

「先生!」

おれの声に先生が驚いたように振り返った。

「箕浦くん、なんで」
「氷菓、一緒に食うって」
「駄目だ!こっちに来るな!」
「先生ひとり、行かせられるかってぇの!」

腕力にはちょいと自信があった。先生の手を掴めば引き戻せる。確信があった。
窓から飛び降りたおれはもうほとんど全身を飲み込まれた先生の手をしっかり掴んだ。だが、びくともしない。石でも引いてるのかと思うほどだ。

「先生、先生!」

両手で掴んで引いてもだめだ。もう先生の声は聞こえない。代わりに、掴んだ手もするすると飲み込まれていく。
もうこの際、引いても駄目なら、

「押してみろってんだ!」

おれは先生の手を掴んだまま歪んだ円に自ら飛び込んだ。後のことは何も考えていなかった。ただ、先生をひとりで行かせたくない。それだけだった。





十一、江戸川先生、大ピンチ

全身に巨大な物体がぶつかってきて、僕はその物体ごと地面に転げた。

「いっっっ、たい!」
「すんません、勢いつけすぎました

巨大な物体こと箕浦くんは、申し訳なさそうに背を丸めると、先に立ち上がって手を差し出した。
僕は痛いのと、ヰ界に引き摺り込んでしまった後悔とで唇が震えてしまう。

「だいたい、来るなって言ったのに……
「よくわかんねぇけど、ヰ界って危ないところなんですよね?そんなとこに、先生ひとりほっぽりだすわけには
「言っとくけどねぇ!僕はヰ能が使えるって言っただろ。君よりよっぽどここでは役にたつ。心配なんか無用なんだ」
「はぁ」

まったく反省の様子がない。
今回は、特に来てほしくないのに。どうしてこういう時に限って。

「しかし、ヰ界って言っても特に何も変わんないですね。花壇もいつもの通りだし」

そう言ってから、箕浦くんがあ、と声をあげた。

「先生、……あれ」

花壇の横、窓の下に鉢植えの牡丹が一輪、花を咲かせている。

「あんなの、なかったですよね」
「學園長の牡丹なんだ。いまは學園長室に戻してある」
「ああ、春先にあったやつか。一輪だけ、咲くのが遅かった」
「そう」

先日、解決したはずのヰ界だ。僕はごくりと生唾を飲み込む。
とても、厭な感じ。
この先起こることは、箕浦くんにだけは、見られたくなかった。

「君は、僕のことを知りたいと思う?」

僕の奇妙な質問に、箕浦くんは立ち止まった。

「もちろん、知りたいです。でも、何故?」
「これから起こることを、君に見てほしくないと思う程度には、僕は君のことを気に入ってるんだ」
「それは、有難い話ですが」

箕浦くんが素早く背後を振り返った。

牡丹の元へ、福沢さんが歩いてくる。
箕浦くんのことは無視して通り過ぎ、鉢植えの花に顔を寄せ、香りを嗅ぐ。
僕が、窓から顔を出し、福沢さんに話しかける。声は聞こえない。ただ、普段ならあり得ないことが起こった。
福沢さんが、僕に口付けたのだ。

箕浦くんは咄嗟に目を逸らし、僕と、窓のところで接吻している二人をそっと見比べた。

「先生、あれって……
「あれは、僕が生み出した怪ヰだ」

この世界は、僕の想いが生み出したヰ界なんだ。




十二、箕浦くん、奮闘する

牡丹の花の横で、江戸川先生と學園長がキスした。
いや、先生はおれの後ろにいて、その二人は前にいるから、実際には現実ではないことはわかったが、とにかく、健全な男子高校生には刺激が強い。

「怪ヰ……ですか?」
「あけすけに言えば、妄想だな。僕の望み、僕の夢」
「え、て、ことは」
「そう、僕、學園長のことが好きなんだよね。性的な意味で」

先生がそう言った途端、景色が一変した。
理科準備室だ。
學園長が先生を壁際に追い詰めている。

「いつごろからかもう、忘れてしまったよ。最初は幼い憧れだったと思う。子供心に、大人の福沢さんが格好良く見えた。その憧れはずっと消えなくて、気がついた時には、恋心になってた」

また、口付けが交わされた。深く、お互いを求めるような。

「あの人は、それを許さなかった。僕の両親に顔向けできないと思ったんだろうね。それ以上に、あの人は、僕をそういう対象として見られなかったんだ」

二つの身体が絡み合う。交わり、喘ぐ。
音はなく、ただ静かに狂乱が演じられる。

「あの人と、結ばれたかった。あの人はそれを望まなかったけど、僕にとっては、もう、運命みたいなものなんだ。大人になったら、受け入れてくれるって思っていたのに、あの人は、駄目だって」

先生の身体が強く揺さぶられて、激しく動いていた學園長の動きがゆっくりになり、やがて止まった。先生の細く長い腕がたくましい首に縋りつく。

「抱いてくれって、みっともなく懇願したんだ。なりふりなんか構ってられなかった。僕にはあの人しかいないから。僕には、あの人以外考えられないんだ」

あの夜だ。おれは直感的に悟った。あの夜、先生は學園長に想いを告げた。そして、叶わなかった。
叶わなかった思いは言葉になったことで膨れ上がって、消えなくなってしまった。

「どうしてだろう、断られるはずがないなんて、どうして思ってしまったんだろう。福沢さんが、僕のことを愛してるって、同じ想いだって、僕の頭脳のぜんぶで、絶対に間違いのない答えだったはずなのに、どこで間違えちゃったんだろう」

その情景は終わることがなかった。準備室から、學園長室、見たことのない部屋の中。
エロティックなのにもの悲しく滑稽で、興奮より胸が締めつけられるような痛みを伴った。

「君には見られたくなかった。こんなもの見せられたら、さすがに君だって僕のことを軽蔑するだろ」

先生は二人から目を離すことなくずっと、その行為を見ていた。先生から生まれて、先生を縛る想いの結実を。

おれは見ていられなかった。
その行為が繰り返されることで満足なんか訪れない。結ばれなかった現実が絶え間なく襲ってきて、永遠に傷つくだけだ。

「先生、もう、見ないで」

おれは先生の前に立って、先生の頭を抱いた。
先生は身体をこわばらせ、おれの身体から離れようと強く押す。でも、おれは離すつもりはない。

「もう、見ちゃ駄目です」
「なんでだ、君には、関係ない」
「先生のことを、大切に思ってるんだ學園長は。先生だって、わかってるんでしょう」

抵抗が止んで、学ランを引っ張られる感触があった。
おれを見上げた先生は、両目に涙をいっぱいに溜めていた。それが上向いた拍子にぽろぽろと頬を転がり落ちていく。

「でも、じゃあ消えてくれない僕の想いはどうしたらいいの?もう、永遠に叶わないのに」
「時間が、たぶん。解決してくれます。だから、教えてください。ここから帰る方法を教えてください」
「帰れないよ。あの二人を殺さない限りは」
「こ、え?」

その瞬間、先生は涙をこぼしながら妖艶に笑った。
まるで、先生自身が怪ヰになってしまったように。

「ヰ界には必ず鍵となる怪ヰがいる。それを倒さない限りは出られない。このヰ界の鍵はあの二人の姿だ」

すんなり出入りできるとは思っていなかったが、消し去らないと出られないのか。

「おれは、どうしたらいいかわからない。殴ることくらいしかできないけど、先生はできるんですか、あの二人を、その」
「殺せるよ。勿論」
「だったら」
「応えてくれない現実ならいらない」

先生は笑ったまま首を振った。そしてまた、おれを見上げた。

「応えてくれる未来が来ないなら、そんな現実はいらないんだよ」

だから、ずっとここに居ようよ。
先生の唇が弧を描く。
おれは、細い手首を掴んで身体をかがめた。

「俺が」

吸い込まれそうな翡翠の瞳に夕陽が反射する。また、花壇に戻ってきたのだ。おれは後ろはみない。ただ、先生の目があの二人を映さないように、必死に覗き込む。

「俺が、あの人のことを忘れさせてみせます。俺に惚れちまって、學園長のことなんか、必要なくしてあげます。だから」

だから。
翡翠がゆっくり大きく見開かれていく。
甘い甘い、花の香りがした。

「一緒に帰りましょう」

きっと背後には溢れんばかりの牡丹が咲き乱れている。その中で、先生は想い人に抱かれている。
それが先生の心なんだとしても、おれなど、先生の心のどこにもいないんだとしても。

「時間は、おれの方がある。學園長なんかに、負けません」

鼻息を荒くして言い切ったおれに、先生は思わず吹き出した。それは少し前に見せた妖艶な顔ではなく、おれが見慣れた、おれの、知っている、先生の顔だった。
温かい掌がおれの頬を包む。

「君は、本当にお人好しだね。でも」

掌が首筋を撫で、眇められた翡翠がゆっくりと近づき、柔らかな頬がおれの頬に触れる。耳元で、空気が震えた。

「僕なんかには、勿体ないくらい、いい男だ」

そうして柔らかな掌がおれの瞳を隠し、離れていった次の瞬間には、おれたちは暗くなったいつもの花壇のそばに立ち尽くしていた。
どこかで、鈴虫がりぃんと鳴いた。






十三、江戸川先生、もう一つの秘密

箕浦くんに諭されるようにして、いやあれは歴とした告白だったと僕は思うが、ともあれ僕らは幻影を破壊して現世に戻ってきた。

花壇のヰ界はそれ以降消えた。
結果的に、だけど、箕浦くんが花壇のそばにいてくれたことで、ヰ界が実体化するタイミングが遅れた。遅れたことで、僕はどうにか踏ん切りをつける決意ができた。

窓の下では相変わらず、逞しい背中が花壇を手入れしている。そろそろ冬囲いがいりますね、とどこで調べてきたのだか、周囲に柵を巡らせている。
それを、學園長が隣で見守っている。
そう、福沢さんは自分が原因でヰ界ができたことを柄にもなく反省したみたいで、鉢植えの牡丹を今年は花壇に植え替えると言い出したのだ。

「鉢植えのままにしておけばいいのに」

僕はそう言ったが。

「ひとり、隔離されているのも不憫に思えてな」

結局なんであの一株だけが特別扱いだったのかは聞きそびれてしまった。
まぁ、聞かなくても分かってはいるんだけど。

「こんなもんですかね」
「そうだな、上出来だろう」

二人の会話が聞こえる。
そろそろ風が冷たい。冬が来る。箕浦くんは推薦を受けて大学部への進学が決まった。準備期間が少なくてヰ界騒動の後はてんやわんやだったが、無事合格をもぎ取ってきた。
あの時も思ったが、箕浦くんは度胸と根性がある。古臭い、泥の匂いのする青年だと思う。大学部のキャンパスは少し離れているから、卒業したらきっともう、会うこともなくなる。

……先生、江戸川先生!」

はっとして声の方を見ると、福沢さんと箕浦くんがこちらを不思議そうに見ている。

「珍しいな。物思いに耽るのは」
「僕だって考え事くらいするよ!酷いなぁ」
「作業は終わりましたよ。ところで今年の年末も先生のところでパーティですか?」
「毎年、江戸川家と宴会をするという話をしていた」
「何の話してるの?母上がこないだそんな話をしてたから、多分そうなんじゃない?でも、まだ年末にはだいぶ早いじゃないか」
「随分世話になったのだから、箕浦くんのご家族も招待してはどうかとな」
「おれは遠慮したんですが」
「嗚呼、いいじゃないか!福沢さんにしては粋な計いだ」
……でも、父さんや妹まで、悪いですよ」
「気にすることないよ。どうせ費用は福沢さん持ちだし」
「だから気にしてるんじゃないですか」
「いいからいいから。人は多い方が賑やかでいい!ようし、決まりだ」

僕はそう言い切ると、窓から二人の方へ飛び降りた。二人とも慌てて腕を伸ばすから、二人の間に倒れ込むようにして両腕で抱きしめる。
箕浦くんが背中に手を回して支えてくれた。

大好きな人がいて、僕はまだ彼のことが好きだ。
もう一人、僕には大好きな人間ができた。
でも、このことはまだ内緒だ。もしかしたら、ずっと内緒かもしれない。

いまになって、僕は福沢さんの気持ちがわかる。大切にしたいから、無責任なことはしたくない。
きっと、そうだったんでしょう?





十四、箕浦くん、卒業する

年末は江戸川先生と學園長、そして先生のご両親とうちの家族で賑やかに過ごした。

そうして厳しい冬は過ぎてあっという間に卒業式がやってくる。
おれは大学に進学できる喜びを噛み締める一方で、先生の顔がしばらく見られないことに、寂しさを感じていた。

式を終えて生徒があらかた下校した後で、どうにも堪えきれず理科室に足を運んだ。
誰もいない教室の窓はやはり空いていて、甘い香りのする春の風が吹き込んでいる。

いまも、あの時のことは夢だったのではないかと思うことがある。
本当はヰ界なんか存在しなくて、おれは先生の秘密の想いを知ることもなかった。それが現実なんじゃないか。

否。
胸がちくちくと痛む。
あの時感じた胸の痛みは、消えることなく残っている。

先生は學園長が好きだ。
それは恐らくいまも変わらないだろう。

また、胸が痛い。
おれのことは、生徒としてしか見てない。もし気に入ってくれてるんだとして、それでもその範囲を出ないだろう。

先生の目を塞いで、強気で言い切ったときは、もしかしたらと思った。でもヰ界から戻ってからというもの、先生はおれに少し距離を取るようになった。
特別扱いをやめたし、おれから触れようとするとさりげなく身体を離した。もちろん親身に受験の世話をしてくれたが、それも教師という役目に忠実なものでしかない。

窓の向こうから、帰っていく生徒や保護者の声が聞こえてくる。

おれは、微かな望みを抱いて窓際へ歩いていく。
柔らかな陽射しが窓枠を温めたのか、手を置くとわずかに温かい。

先生は、そこにはいなかった。
囲いを外された牡丹は固く蕾をつけ、開花の時を待っている。

「先生、おれ、きっと先生のこと好きでした」

思わず言葉が漏れた。

あの日、ホームランを打たなかったら。
ここにはおそらく、何の愛着もなかった。

胸が痛い。
おれは、振られたんだ。
確信した。

静かな教室に甘い香りが吹き込んでくる。
陽射しはぬるく、頬を撫でる。

教師に惚れるなんて、一時の気の迷いだと大人は言うんだろう。
だが、おれにとって先生は、なにか特別だった。
世界を変えてくれる人だった。
可能性を増やして、応援してくれた。
感謝している。心から。

それだけで、済まして仕舞えば良かったんだ。踏みとどまっていれば、惨めな気持ちになることもなかった。

でも、おれにはできなかった。
大好きな人のことを大切にしたいと思い、その気持ちを相手からも返してほしいと思った、先生の気持ちがわかったから。

おれも、同じだ。

「きっと、この先何度も先生のことを思い出しては、胸が痛くなるんだろう」

背後から声が聞こえた。
聞き慣れた、はりのある声。間延びした言葉尻。

「感傷に浸ってるとこ悪いねぇ」
「な、あの、なんで、えっ」
「僕ってなんでもお見通しなんだ。あれ、図星だった」

答えることができずにいると、先生がずいと近寄ってきた。

「君に、卒業のお祝いを渡していなかったなぁと思ってさ。はいこれ。福沢さんと僕から」

先生が細長い箱を差し出した。
おれは思わず手を出して受け取ってしまった。

「ねぇ、早く開けてみて」

言われるまま包みを解く。
現れたのは老舗の文具店のロゴが入った箱だ。蓋を開けると、細身の艶々とした万年筆が収まっていた。
おれは、言葉を失ってしばらく放心していたのだと思う。先生の「どう?気に入った?」という言葉に、ようやく頷いた。

「こんな、高いもの」
「いいんだよ、どうせあの人のお金なんだから。万年筆なんて古臭いからボールペンにしたらって言ったんだけどねぇ」
「とても、嬉しいです。本当に、なんてお礼を言っていいか」
「厭だなぁ、そういうのなしなし」

君は、勉学を頑張ってくれればいいんだ。僕たち教師にとって、それが何より嬉しいんだから。
先生はそう言って背伸びをすると、おれのあたまを無理矢理撫でた。

「君がいてくれて、本当に助かったよ。ありがとう」

おれが浮かない顔をしているのがわかったのか、先生は大袈裟にため息を吐いた。

「なぁに、不満があるみたいだね」
「違います!違います、ただ……

先生にとって、おれはやはり生徒なんだ。

笑顔を作ろうとして失敗した。

「先生、おれ」
「うん」
「好き、……でした」
「知ってるよ」
「先生は、おれのこと、どう思ってますか」

顔が歪むのがわかった。
精神力はある方だと思ってきたのに、全然役に立ちやしない。

「先生にとっておれは、ずっと、生徒なんですか」

幼い恋だとしても、おれは真剣だった。いまも、真剣だ。
先生は少し視線を逸らして、うーんと唸ったあと、またおれを見た。

「何言ってるんだ。もう、卒業したじゃないか」
……へ?」

普段は隠れがちな瞳が薄らと覗く。

「君は今日を持って卒業し、僕の生徒でもなんでもなくなったよ」

そいつはその記念品じゃないか。
俺の手にした箱を指して先生が唇を尖らせた。

「真逆とは思うが、そんなことで僕を諦めるつもりだったの?仕方がない奴だなぁ。もう僕は君の先生じゃないし、君は生徒でもない。いち個人同士だ。さて」

どうする?

先生の唇が弧を描く。
悪戯っぽい笑顔におれは、思わず手を伸ばして、頬を撫でた。

「あの、じゃキスしていいですか」
「駄目〜」
「なんでですか!」

いまどうするって言ったの先生だろ!
先生は思わず力の入ったおれの手に、手を重ね、頬を擦り寄せた。

「君が、大人になったら考えてあげる」

時々、考えることがある。あの時、最後に先生が見たのはどんな光景だったのか。燃え立つような茜色の中で、二人はどんなふうに触れ合っていたのだろうと。
でも、おれの想像はそこで途切れる。先生がヰ界を終わらせた。だったら、それ以上は無粋というものだ。

「あ、いまやらしいこと考えたでしょ」
「へっ、や、考えてません!」

やらしい箕浦くんとはやっぱりキスできないな。先生はそう言って笑った。おれは、何年後なら良いんですかと問いただしたい気持ちを無理矢理抑え込んで、曖昧に笑い返した。
窓の外で淡い色の花弁が舞った。春がまた訪れていた。