史加
2026-01-08 15:11:39
7083文字
Public 原神(鍾タル)
 

詩篇よ、どうか私だけの星に

鍾タル/忘却を恐れる人間と消却を恐れる神の話


※ワードパレット9「夢を見て」「賑やか」「かつては」お借りしました
※邪眼と魔王武装の代償を捏造しています





 ――己が見聞きしたものをなにひとつ忘れずに覚えていられるというのは幸福なことなのだろうか? それとも不幸なことなのだろうか。
 その答えは、どちらとも言える、だ。鍾離はそう結論づけている。
 長い歳月を生きる中で、忘れたくないくらい大切だったひとの顔を、声を、においを、温度を思い出せなくなり嘆く声を幾度となく聞いた。忘れてしまいたいくらいの凄惨な記憶がずっとまぶたの裏にこびりついて離れず苦しむ声も同じくらい聞いた。忘却は時と場合によって毒にも薬にもなる。忘却に限らず、この世に存在するものの大半はそうだろう。
 ゆえに鍾離は忘れることを知らぬ己の特性を、良いか悪いかの二択で決めつけることはしていない。覚えていたいものをずっと損なうことなく覚えていられるのは喜ばしいことであり、忘れてしまいたい過去を忘れられないのは苦しいこと。だからこそ己の歩む道には彩りが生まれ、過去より連綿と続く無数の色彩との対比が鍾離の目に映る世界を鮮やかに、美しく見えるようにしてくれている。そのように捉えて、今は凡人としての生活を楽しんでいる。
「そういう考え方をしている時点で全然凡人じゃないんだけど」
 まあそれも鍾離先生らしいか、と笑うタルタリヤは、このところの鍾離の記憶の中でもいっとうまぶしく輝く存在だ。盃を傾け、中に満ちる透き通った酒を舐めるように飲む彼の頬はうっすらと色付いており、酒精がほどよく回っているようだった。
 一体タルタリヤが何の意図を持って、鍾離が忘却を知らぬ生きものであることについて尋ねてきたのか、そこまでは今のところ鍾離にもわからない。純粋な興味本位なのかもしれないし、しっかりと裏があるのかもしれない。ただ何か企んでいたところで、それが悪いことに繋がるのなら被害が及ぶ前に手を打つのは簡単なことだ。だから鍾離は嘘偽りなく答えてやった。己の正体を知りながら、神として敬うでもなく普段と変わらぬ態度で接してくる彼の前では、ほんの少しだけ舌が滑りやすいのも事実だった。
「俺はただの人間だから、長く故郷を離れているとどうしても家族の顔を思い出すのに時間がかかってしまうことがある。年齢なんて関係なく、離れている時間が長ければ長いほど記憶っていうのは遠ざかっていってしまうんだ」
「ああ。そうしなければ人間の脳は情報量に耐えられず壊れてしまうからな」
「急につまらないことを言うじゃないか。でもまったくその通りだ。兵器として己を磨くためにも、俺が忘れてはならないことはたくさんある。身体が覚えてくれるまで頭に留め置いておかないといけないこともね。……だから、たまに先生のことを羨ましいと思うよ」
 青藍のひとみを静かに伏せたタルタリヤの口から、珍しい言葉がこぼれ落ちた。羨望を彼があらわにした記憶など鍾離の中には存在しない。
 夜が訪れても賑やかな璃月港の、窓越しに届く人々の明るい声が、急に遠のいた気がした。琉璃亭の個室にタルタリヤとふたりでいて、その空気に寂寥が滲んだことなど今までには一度もなかったから、鍾離は少しだけ身構えてしまう。
 人々には想像も出来ないほどの記憶が常に己のそばにあるというのは、こういうときに厄介だ。半ば無意識のうちにそれらを杖の代わりとして己を支えるのに使っているから、危機に瀕したときの対応に不慣れになりがちで、数多の経験則の中から最適解を探し出すのに時間を要してしまう。その行為自体が最悪を招く場合もあるのだと知っているから余計に。
 鍾離が口を閉ざしている時間が長ければそれだけ空気は質量を増し、その重みがタルタリヤの瞼を飾る長いまつ毛にまでのしかかる。机の上に落とされたままの視線が持ち上がる気配はない。
「先生みたいにすべてを覚えていられたら、もっと早く、強くなれるんだろうな」
 強さを追い求める戦士の声に滲むのははたして焦燥だけだろうか。若さゆえの焦りがこの星のようにまぶしい青年を曇らせようとしているのだろうか。
 そうだと断言するには引っかかりがあった。だがその答えを己の無数の記憶の中から探し出そうとしていては埒が明かない。深く考え込みそうになるのを自ら制して、鍾離は酒を煽り、乾きかけていた唇を湿らせる。
「そうとは限らない。すべてを覚えているということは、その分の重みを抱えていることを示している。その重みに押し潰されそうになって上手く前に進めないことや、大事な選択を迫られたときにどちらに進むべきか迷ってしまい、そのうちに片方の道が失われて最悪を招くこともあるんだ」
 それは、忘却が美徳であると言われる理由のひとつだろう。忘れずに覚えているということは石橋を叩く杖になるのと同時に、足枷にもなる。だが人間の短い一生の中で常に石橋を叩いて渡るような真似をしていては目的地にたどり着けぬまま終わってしまうし、足枷をはめたままでは望む場所に至ることも出来ない。
 残酷な話ではあるが、タルタリヤのような戦士が強さを求めるのなら、恐怖以外にも切り捨てなければならないものはたくさんある。なるべく身軽でいなければ、彼のような星は世界の果てまで流れゆく前に燃え尽きて星海の塵のひとつとなってしまうからだ。
 何かを憂い迷う様子の青年の本心を探ろうと、鍾離は伏せられたままの青いひとみに視線を向ける。緩やかに持ち上がった目が、どこか寂しそうに鍾離を映した。
「それは、先生の経験談かい?」
「さあな。ただ、もし今のお前が何を抱えたまま先に進むべきなのか悩んでいるのなら、手助けはしてやれるかもしれない。ここにいるのはただの凡人の鍾離と、スネージナヤ生まれの青年だ。お前がどのような記号を持っていようと、今はな」
 話すことで活路が開けそうであるのなら話せばいいし、そうしたくないのならここで話を終わりにしてかまわない。そういった態度を示して、鍾離はタルタリヤの出方を伺うことにした。
 彼は決して嘘をつくのが得意な人間ではないし、酒にめっぽう弱い訳でもない。むしろ冬国の生まれ育ちらしく炎水を煽っても正体をなくすことはないくらい強いほうだ。そんな彼が見せている隙を無理につくのは得策ではないだろう。
 うろ、と視線を彷徨わせて、タルタリヤはしばしの間閉口していた。そのひとみの奥には明らかな懊悩がある。
 他人には易々と言えない事情。ふとこぼされた家族の話。彼の追い求める強さ。そしてその身に背負う執行官の名。……忘却。
 鍾離の中ではそれらが嫌な音を立てて組み上がっていく。かつては神として、武神として戦場に立った生きものとしての経験と勘が、きっとこれから何らかの決断を迫られることになるのだと耳元で囁いている。
……先生は」
 タルタリヤが重く唇を開いた。
「忘れられるのをおそろしいと思ったことは、あるかい」
 頭の中でかちりとパズルのピースのはまる音がする。
「ないと言えば嘘になる。だがそれはかつての話だ」
 鍾離はなるべく迷わずに答えを選び、紡いだ。
「忘れることを知らない俺にとっては、忘れられることよりも忘れてしまうことのほうがおそろしい。誰かに忘れられるのは当たり前のことだが、俺が何かを忘れるのはそうではないからな」
 言い切ると、タルタリヤは唇を引き結んで俯く。先ほどまで淡く色付いていたそれが血の気を失い白く染まるのが痛ましい。もういいだろうと、鍾離は踏み入ることにする。
「公子殿。俺からもひとつ聞いていいだろうか」
 許可を求めると、やわらかな赤朽葉色の髪が黙ったまま上下に揺れた。
「お前の記憶は侵蝕の影響を受け始めている。そうだな?」
 問いかけに、タルタリヤは首肯する。ようやく鍾離を見つめたその目には諦めと安堵に似た色が滲むばかりで、恐怖が存在しないのがおそろしかった。
「神の目を持っていても邪眼と魔王武装による身体への負担は避けられなくてね。少しずつだけど、同年代のやつらよりも記憶力が衰え始めたんだ。だけど俺はこれからも強さを求めるために手段を選ぶつもりはないし、せっかく手に入れたこの力を封じる気もない。ただ……
「ただ?」
……家族のことだけは忘れたくない。そうなると、戦い方と家族のこと、それ以外は忘れてしまう覚悟で挑まないといけない。そう思ったときに、先生の顔が過ぎった」
 タルタリヤは眉を下げて困ったように笑う。やはりその目は寂しそうで、見ていられるものではなかった。
 しかしここで目を逸らすことだけは許してはならないのだと己を律し、鍾離はタルタリヤを見つめ直す。黄金のまなざしを受けた彼ももう隠す気はないようで、素直に言葉を続けた。
「先生と一緒に食べたご飯や酒の味も、先生の語る蘊蓄も、先生が纏わせている香膏のにおいも、今はまだ思い出せる。だけどこのまま進み続けていけばいつか思い出せなくなるんだと思ったとき、俺はそれを怖いとは思わなかった。人間にとって忘れるのは当たり前のことだし、俺は義理も人情もわからないから。それを恐れてすらやれないことを、申し訳ないなとは思うけどね」
「なぜだ?」
「なぜって……普通、好きなひとに忘れられて嬉しいと思うやつはいないだろう。先生だってさっき、忘れられることをおそろしく思ったことはあるって言ったじゃないか。なのに俺は先生を忘れることを怖いと思ってやれないんだ。そんなの、ひどい話だろ」
 自嘲するでもなく、それが事実であると受け入れているようにタルタリヤは語り、鍾離を見つめる。その目は相変わらず光を通さぬ海の底を切り取って閉じ込めたような色をしているが、どこまでも真っ直ぐだ。純粋で、健気なものだと感心させられた回数など両手両足の指では足りない。
 タルタリヤの言う通り、普通、人間は好いている相手に忘れられることをおそれるものだろう。鍾離も今よりずっと若かった頃は、他者に己を忘れられることをおそろしいと感じた。しかしそれは単純な情の問題ではない。「神」という生きものの強さは信仰心に依るところがあり、ひとに忘れ去られた神の行く末が無慈悲なまでの消滅であるからだ。
 かつては璃月という国を護り、強い国として育て上げるために、自らも強く在らなければならなかった。そのために多くの人間の記憶に強靭な神として焼き付き、信仰という名の力を得続ける必要があった。だから忘れられることをひどくおそれた。それは明らかに普通の人間が抱くものとは異なる恐怖だろう。
 ゆえに、今はもう神ではなく凡人として生きる鍾離に、忘れられることへの恐怖はほとんどないと言っていい。たとえ神としての己を忘れ去られ、力が衰えたとしても、愛する国はほかでもない愛する人間たちの手により存続し、歴史は紡がれ続けてゆく。その歴史の中に鍾離という凡人の一篇の詩をそっと残すことが出来ればそれで十分で、その詩の存在を大勢に知ってもらいたいとも、忘れないでいてほしいとも思っていない。むしろ忘れ去られていくのが世の理であるのだから、風化してしまってもかまわないとすら思っている。
 それに、今の鍾離ならかつてのモラクスでは為し得なかったことが出来ると思えば、忘れられるのは些末なことだった。
 忘れることを知らず、けれど最早万物を平等に愛する神でもない今の己だけが楽しめること。それは。
「お前が俺のことを忘れたとしても、俺は覚え続けていられる。お前と俺がともに過ごした時間を、正真正銘俺だけのものに出来る。そう考えれば、なにもおそろしいことではない」
 本来世界より失われるはずの物語を、自らのみが未来永劫、土に還るそのときまで所有出来ることだろう。 
 ぎらりと黄金が光る。橙色の照明の光が霞むほどにまばゆく、傲慢さに満ちた光を前にタルタリヤはぎょっとした。まるで捕食者を前にした小動物のようだ。ひくりと口の端を引き攣らせ、明らかにドン引きした人間の顔をするものだから、うっそりと笑ってしまいそうになる。しかし目の前の青年に関してはそれくらいの表情でいてくれるほうがずっといい。寂しそうな顔もそそるものはあるが、鍾離の愛する彼はもっと溌剌としていて、生命力に満ちあふれていて、手を伸ばしても届かない星のように輝かしくあるのが最上なのだから。
……先生って」
「うん?」
「やっぱり凡人を名乗るのは百年くらい早いんじゃないか?」
 胡乱な目をして言うタルタリヤに、鍾離はあえてすました顔をつくる。
「そうだろうか」
「人間の俺が言うんだから間違いないよ」
「だがお前も凡人の括りに入る人間ではないだろう?」
「お前「も」、って言ってる時点で認めているようなものじゃないか! はあ……ッ、あはっ、なんだか笑えてきた。真剣に悩んでいたのが馬鹿みたいだ……アハハハハッ!」
 取り繕う気のない鍾離を前にタルタリヤは脱力したのか、声を上げて笑い出した。その唇が色を取り戻し、ひとみに薄く涙の膜が張って光っているのが見えて、鍾離はようやくほっと胸を撫で下ろす。同時に、ずいぶんと泣くのが下手くそなものだと、目の前の青年をあわれにも思った。
 人間は本質的に忘却をおそれる生きものだ。だから、彼が彼自身を「人間」であると認めている以上、大切なものが自分の記憶から消えていくことを怖いと思わない訳がないだろうに。
 健気で、いじらしくて、したたかなものだと思う。強くなりたいのも、手にした力を禁じ手とすることが出来ないのも、けれどその胸の奥のやわらかなところでは、忘れたくないものを忘れていくことに抵抗やおそれを秘めているのも、どちらも本当だろう。人間の心とは複雑なつくりをしているから、渇望も恐怖も本心として同時に存在しうる。それを綺麗に整理出来るようになってしまったら、こちら側への仲間入りだ。
 おそらくいつかタルタリヤはそうなるのだろう。だからこそ鍾離は覚えていたい。まだ人間としての自覚を持ち、人間らしく生きる彼とともに過ごした一夜のまばゆい記憶を。たとえ彼がいつかこの日のことを忘れてしまったとしても。あるいは忘れてくれたほうがいいのかもしれない――そうすれば少なくともこの日のタルタリヤは、鍾離だけのものとなるのだから。
 ひとしきり笑ったタルタリヤが目に浮かぶ涙を拭う。自分の手で拭ってやれないことだけは惜しいが、きっと生涯この男は鍾離に涙を拭わせるような真似などしないのだろうとも思った。
 澄んだ海色のひとみが鍾離をひたと見つめる。
「あんたに独占されるのもなんだか悔しいから、なるべく忘れないようにするよ」
「ハハッ、そうだな。それがいい。だが安心しろ。例えお前がお前の大切にしているものをすべて忘れてしまったとしても、俺がずっと覚えている。お前の家族の名も、お前がどれほど家族を大切に想っているのかも、お前の家族がお前に与えた名も、どうしてもお前が思い出せなくなってしまったときは教えてやろう」
「なんだか腹立つなあ、それ。神様気取りで俺を守ろうとしているみたいだ」
 むすっと頬を膨らませるタルタリヤに、鍾離はくつりと笑い返す。ようやく彼は鍾離の真の傲慢さに気付いたらしい。
「気に食わないなら忘れなければいいだけの話だ。アビスの侵蝕ごときに屈していては世界など征服出来るはずもない。そうだろう?」
 弱気になっていた戦士の背を叩くと、はっとした彼はまた眉を下げる。
「はは、それもそうだ。……そんなこともあんたに言われなきゃ思い出せないなんて、俺はどうかしていたみたいだ」
……なら、次は見失うな、公子殿。人間は忘却から逃れることは出来ないが、覚え直すことは出来る。忘れたとしても覚え直せ。ここに丁度良い生き字引もあるんだ。迷う必要などない」
 結局のところ、タルタリヤは璃月の民たちのように鍾離に守らせてくれる男ではない。冬の国に生まれ、氷の神に忠誠を誓う戦士であり、彼女に仕える兵器である彼は、岩の国の神の寵愛を受け入れないし、必要としたがらない。守りたいと思うのなら彼の見せた隙を広げて、そこに慎重に付け入るしかないのだ。
 狡猾なやり方ではあるが、守りたいのも本心である。だってタルタリヤはかつてモラクスが夢を見ていたように、神ではなくひとりの生きものとして、全よりも優遇し愛したいと思う星なのだから。
 遠のいていた外のざわめきが戻ってくる。ふたりきりになるように切り取られていた世界が元の姿に戻ったようだった。
……嫌だ。俺はあんたをそんなふうに利用したくない。だから何も見失わないように、もっと強くなってみせる」
 芯の通った声で、誓いを立てるように言った青年のひとみにもう揺らぎも、寂しさも見当たらない。その在り方がまぶしくて、鍾離は目を細める。
 足枷にするでも、石橋を叩くための杖にするでもなく、彼は自らを留め置く重石にたった今、鍾離を加えてみせた。
 そのひたむきさが愛おしい。だからこそ彼がこの世の理に抗えずいつか忘れてしまったとしても、鍾離は忘れられることをおそろしいだなどとは思わずにいられるのだ。
 向けられた言葉、感情、そのすべては確かに今鍾離だけのものとして存在し、鍾離が忘れることなく生きている限りこの世界から消え去ってしまうこともないのだから。