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よる(ひねもす)
2026-01-05 17:06:14
10301文字
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石に花咲く
遠征選抜試験を経て距離が近づく犬影(未満)の話です
本当は二人が付き合うところまで書きたかったのですが、どうしても続きが思いつかず眠っていました
犬影オンリーまであと1ヶ月弱記念にかこつけて公開します
髪と体についた水滴をタオルでおざなりに拭いて、影浦は大きく息を吐いた。遠征艇を模した狭い部屋に閉じ込められて四日目の夜だった。慣れない場所で慣れない作業を続けた疲れが、背中に重くのしかかって剥がれない。狭いブースでシャワーを浴びたくらいで癒されるような疲労感じゃない。
影浦は頭脳労働が嫌いだった。数字と文字の羅列を見つめていると、体中がむずむずと痒くなるのだ。この四日間、解いても解いても終わらない課題と格闘し続けるのは、苦行でしかなかった。けれど、柿崎には恩義がある。戦闘能力だけを買われたのだとしても、自分にできる限りで報いたい。だから、すべてを投げ出したいのをこらえて、机に向かい続けた。
せめて、広い浴槽に熱い湯をたっぷり貯めてのぼせるまで浸かりたかった。自室のベッドと布団と枕が恋しい。それから、油分だらけのフライドポテトを頬張りたい。咽せて苦しくなるくらい、一息でコーラを飲み干したい。
水も食料も衣類もトリオンで管理されている部屋では叶わない望みをいくつも思い浮かべながら、再構成された服を身につけ、洗面所の扉を開ける。
一歩踏み出した廊下に誰の話し声もなかった。別役が起きていれば声が響くだろうから、もう寝てしまったのだろうか。仕事部屋のほうから、ほのかな灯りとかすかな物音が漏れている。そちらへ視線を向けると、いつもの定位置で端末を操作する犬飼の姿があった。
裸足のまま踵を潰して履いた靴の底が、ぺたぺた鳴る。すぐ目の前まで近づいても、男は端末を見つめたまま動かない。
「何してんだてめー」
「
……
今日の復習と明日の予習」
答えが返ってくるまで、いつもより数拍遅かった。犬飼の視線も感情も影浦には向かってこない。真剣な眼差しは、鈍く光る液晶を睨んでいる。
ほとんど無意識で、影浦は犬飼の隣の席に座った。試験中の定位置だ。机の上に右腕を投げ出し、その上に頭を預ける。きちんと乾かしていない髪の毛ですぐに腕が冷たくなるが、どうでもよかった。どうせ作りものの服なのだ。
キーボードを叩く音、マウスをクリックする音が、不規則な雨のようにばらばらと鼓膜を揺らす。すぐ近くに他人がいるのに、影浦の肌は凪いでいる。この感覚が、ひどく懐かしかった。期待も不安も喜びも悲しみも、今、ここにはない。二人でいるのに、一人でいられる。
さっきまで駆け巡っていた行き場のない雑念がにじみ、
靄
もや
がぼんやり満ちる。思考が霧散していく。曖昧な安心が正体のない不安を隅に追いやる。隣にいるのは、あの、犬飼なのに。
「カゲ、ここで寝ないでよ」
「
……
寝るわけねーだろ」
「そう?」
突然降ってきた声に、影浦は無意識に下ろしていたまぶたを持ち上げた。さっきよりも重くなった体をゆっくり起こす。頬杖をついた犬飼が、いつの間にかこちらを見つめていた。
「
柿崎
ザキ
さんたちは?」
「疲れたからさっさと寝るって、二人とも寝室に行ったよ。だから静かにね」
横に引き伸ばした唇の前で、人差し指を立てる仕草。芝居がかった仕草がサマになるのが嫌味な男だった。
仕事部屋の隅のカプセルベッドで眠るのは別役のはずだ。二日目あたりから、輝きを失った瞳で虚空を見ていることが増えた後輩。夕食のときにはいくらか元気を取り戻したようだったが、ちゃんと眠れているだろうか。
手のかかる後輩であることは間違いないけれど、影浦は別役を責める気にはならなかった。むしろ、彼の抱える無力感に共感したくらいだ。チームの役に立てない。足を引っ張っている。自分が自分でなかったら、もっとうまくいったかもしれないのに。一度そう思ってしまったら、飛び散った絵の具みたいにそれが頭から離れなくなった。
……
嫌なことを思い出してしまった。
曖昧な靄に隠されていた雑念がまた顔を出して、影浦は眉を顰めた。追い払うように頭を振っても、焦燥感は背中を這い上ってくる。
「カゲのせいじゃないよ」
行き止まりにぶつかりそうになった影浦へ、突然割り込むように犬飼の静かな声が響く。
「もちろん太一くんのせいでもない。このチームの点数が低いのはチームの問題で、個人の責任じゃない」
「
……
ンなの、気休めだろ」
「うまくフォローできないおれにも責任はあるし。そんなに点数が低いのが気になるなら、明日からは何でも聞いてよ」
ただそこにある事実を語るみたいに、淡々とした口調だった。消灯時間を過ぎているせいか声のボリュームが絞られ、すこし掠れている。
「どんな質問でも、バカにしないでちゃんと答えるから」
目の前に座る犬飼の顔には、澄ました微笑みも、観察するような眼差しもない。穏やかな無表情で、ぶれることなく影浦を見ている。それと呼応するように、影浦の肌も穏やかだった。ふわりと柔らかいものが当たって、撫でるようにわずかにとどまって、消えていく。その感触が思いやりと呼ばれるもので、言動と噛み合っていることに影浦はふいに気づいた。
「おめー、前からそんなヤツだったか」
「え?」
気遣いへの礼よりも先に、降って湧いた疑問を口にしていた。
「前は、もっと
……
」
見た目と感情が一致しなくて、気味が悪い。
言いかけてから、かつてまったく同じことを目の前の男に言ったことを思い出した。台詞の続きを飲み込んだ影浦を見て、呆れたように犬飼が肩をすくめた。
「気持ち悪かった?」
「
……
」
沈黙で肯定する。
「まあ、そうだよね。カゲもいつかは気づくか」
犬飼は一人で勝手に納得したように頷く。置き去りにされたようで腹が立つが、目の前の男にまあまあひどいことを言った負い目があるから、影浦は睨むだけで何も言わなかった。
「ちゃんと説明してもいいんだけど、ここじゃ話しづらいな」
視線がさりげなく部屋の隅の監視カメラへ向けられた。消灯時間は採点対象外だと聞いているが、いつまで、どこまで、誰が見ているのかは分からない。防音性能は身をもって確かめているが、別役の眠るカプセルベッドが近くにあるのもやりづらいのだろう。
「おれはキリがいいとこまでもうちょっと残業していくから、髪乾かして、先に寝室行っててよ」
「
……
あ?」
「今日、おれたち同室でしょ」
……
忘れていた。柿崎から言い渡された部屋割りがあまりにも嫌で、なるべく考えないようにしていたらそのまま脳裏から滑り落ちていたのだ。言葉をなくしてしまった影浦を尻目に、犬飼の青い瞳はパソコンの液晶へと戻っていった。
いまさら、部屋割りに抗議はできない。あの犬飼と同じ部屋で眠るのはごめんだが、一晩だけと考えて我慢するしかなかった。洗面所で髪を乾かした影浦は、ベッドの上で首を大きく倒して上を向いた。これまでの生活から打って変わって一日中ほとんど使われなかった筋肉が、錆びついて軋んでいる。それを伸ばして血を巡らせていく。
何も考えたくないときは、体を動かして頭を空っぽにすればいい。高校生活で学んだ数少ない知恵の一つだ。それを影浦に教えた穂刈はきっとダンベルを持ち込んで、この試験中もトレーニングに勤しんでいるんだろう。体育の授業中に半ばむりやり教えられたストレッチの手順を、おぼろげな記憶でなぞっていく。
「お待たせ」
首、肩、腰、太もも、ふくらはぎ。覚えているストレッチをちょうどすべて試し終えたとき、部屋の扉が開いた。
「てめーを待ってたわけじゃねー」
条件反射のような影浦の悪態に、犬飼は肩を持ち上げただけだった。壁にある電灯のスイッチを押し、部屋の灯りは枕元のベッドライトだけになる。暗い暖色の光がぼんやりと二人を照らした。ベッドに腰かけて犬飼と顔を向き合わせているのは、なんだか変な気分だった。ソワソワして、落ち着かない。たいして仲良くない相手と修学旅行で同室になったみたいに。
「カゲとこうやってるのって変な感じ」
「
……
柿崎
ザキ
さんの頼みじゃなきゃ、おめーと同室になんてならねーよ」
「そう? おれは、カゲと仲良くなりたかったけどな」
ストレートな好意の表現に面食らって、影浦は口を閉じた。そっと肌に触れる感触に痛みはない。目の前の男に悪意がないことを、頼んでもいないのに教えてくれる。
「やっぱり、思ったまんま話すのがカゲにはいいみたい」
目を伏せて、静かに犬飼がそう言った。まつげが薄く頬に
翳
かげ
を落とす。
「どういうことだ、それ」
「カゲに気味が悪いって言われたとき、おれ、めちゃくちゃムカついたんだよね」
突然投げつけられた悪態に、影浦はすぐには反応できなかった。
「せっかく善意でオブラートに包んで話してやってんのに、なんでそんなこと言われなきゃならないんだよって。何回挑戦しても会話が成立しないし、あの頃はカゲのこと嫌いだったかも」
言葉が重ねられるごとに、どんどん訳が分からなくなる。
「だからもう思ったまんま話そうって。おれの思う、優しさとか気遣いとか捨てようって。
……
ちょうどあの頃は自暴自棄になってたし。そしたらカゲが初めて、答えてくれたんだ」
混乱して目を大きく開いた影浦の顔を見て、犬飼が目を細めて笑う。
「おれの冷たくてむき出しの言葉を拾って、投げかえしてくれた。こんなんでいいのかってすごくびっくりしたけど、肩の力が抜けて、色々どうでもよくなっちゃった」
一息に言いたいことを言ってしまったのか、犬飼が背中からベッドに倒れ込んだ。ぼす、と空気の抜ける音が響く。影浦は壁に映った自分の翳をぼうっと見つめ、犬飼の言葉を何度か反芻する。
影浦の印象に残るかつての犬飼は、考えたことをそのまま話すような奴ではなかった。状況にふさわしい言葉をいくつも用意して、一番耳触りのよいものを選んで唇に乗せる。曇りのない本音でも、真っ赤な嘘でもない。胸の中がどんなにぐちゃぐちゃに乱れていても、柔らかな笑顔と口調は崩れない。影浦の肌に刺さるものと目に映るものの乖離が居心地悪くて、気味が悪いとなじったのだ。
「
……
おめー、俺のことが嫌いなのか?」
「そうじゃないよ。カゲの前では、気遣いも遠慮もいらないんだって分かっただけ」
ベッドの上でごろりと寝返りを打って、端正な顔がこちらを向いた。肘をついた腕で頭を支えている。コイツがこんなだらしない恰好してるところ、初めて見たな。同級生しかいないラウンジでも、数回だけ訪れたことのある隊室でも、いつでも背筋はまっすぐだった。隊服の黒いジャケットを脱いでも、芯が通ったみたいな背中だった。
「今みたいに話せるようになって嬉しいよ」
二人きりの部屋にいても、影浦の皮膚は穏やかなままだった。やわらかな感情が何度かぶつかって、馴染むように空気へ溶けていく。それが善意だとか好意だとか呼ばれるものだと、これまでの経験から、影浦も知っている。だから彼の言葉に嘘がないと分かる。
「お前、ヘンなヤツだな」
整ったかたちの唇が、にんまりと横に大きく歪んだ。
「たまに言われる」
いたずらが成功した子どものような、幼い笑顔だった。
今まで知らなかった、知ろうともしなかった犬飼の表情と仕草が目の前にいくつも現れる。なんだか拍子抜けしたような気分だった。
「ケッ、いつものは猫被りかよ」
「人聞き悪いなあ。ただの処世術だって」
「しょせい
……
?」
「
……
ほんとに明日から課題手伝うから、なんでも聞いて」
「てめー、なんだそのツラと感情は」
ケラケラと犬飼が笑って、足元に畳まれた布団を引っ張りあげた。影浦の文句には答えずに、肩まですっぽりと布団に包まる。この部屋はいつも空調が効いて適温だが、空気をふくんだ布団に包まれるのは、気持ちがいい。うっとりとまぶたが落ちたのを見たら、影浦にも眠気がこみ上げてきた。
くあ、と大きくあくびをこぼし、自分の布団に潜り込む。その動きを見守ってから、犬飼の左手がベッドサイドの灯りを消した。
「明日もがんばろうね」
「てめーに言われるまでもねー」
「うん。
……
おやすみ」
「
……
おやすみ」
まだ冷たいシーツと布団のはざまで、落ち着く姿勢を探して何度も寝返りをうって、結局、いつもと同じ膝を抱えた恰好で落ち着いた。背中を丸めて、目を閉じる。自分の鼓動と呼吸の音が聞こえる。頭の中で、さっきの犬飼の言葉がリフレインしていた。
幼いころから、副作用でその内面を嗅ぎとってしまった人びとに、気味が悪いと言われてきた。人の心を勝手に暴くな。普通じゃない。もう関わるな。そう罵られて、影浦は内面と外見に乖離がある人間を避けるようになった。それがたぶんお互いにとって良いことなのだと、何度も傷を負って学んだのだ。
犬飼に気味が悪いと言ったのは裏返しだ。ひどい言葉で遠ざけて、彼との関係性なんてそれきりになるはずだった。
話せるようになって、嬉しい。
鼓膜の中に、さっきの言葉の温度が残っているような気がする。それがじんわりあたたかくて、霧みたいな不安はやってこなかった。
試験会場には窓がないから、日差しで目覚めることもない。けたたましく鳴り響くアラーム音に、影浦は重いまぶたをゆっくりと持ち上げた。這うようにしてサイドテーブルに手を伸ばし、端末を掴む。悪くない夢を見た、ような気がする。使い慣れない端末をしばらくいじってから、体を起こした。
隣のベッドには、誰もいない。
「お、カゲ、おはよう」
「
……
はよっす」
「おはようございまーす!」
朝から元気の良い先輩たちと後輩の挨拶。仕事部屋を覗くと、同級生は澄ました顔で机に座っている。
「おはよう、カゲ」
こちらの視線に気づくと、視線だけを投げて寄越した。犬飼の青い瞳も、影浦の乾いた肌も、凪いでいる。穏やかな朝だった。
「
……
はよ」
ちいさく掠れた声だったけれど、影浦はあいさつを返した。ちょっと驚いたように見開かれた瞳が、すぐに細められる。嬉しい。楽しい。炭酸みたいに弾ける感触。
「朝飯できてるから顔洗ったら食ってくれ」
「あざます」
くすっぐたさに背を向けて、影浦は洗面所に向かった。冷たい水を顔にぶつけて、一瞬止まった息を深く吐き出す。鏡に映る自分の顔はいつもと変わらない。ヒゲの処理がすこし甘いかもしれない。
けれど、悪くない目覚めだった。
◇
まるで一生続くようだった遠征選抜試験も、やっと終わりを迎えた。一週間缶詰めだった閉鎖環境試験も辛かったが、その後すぐに始まった長時間戦闘試験も想像以上にキツかった。ランク戦とも防衛任務とも異なる条件下で、普段組まない仲間との連携。反省も後悔も収穫も、噛み砕いて飲みくだすには時間がかかりそうだ。
「おれ、帰りこっちっす!」
「あたしもこっちだ」
「家まで送ってくよ。カゲと犬飼は反対か?」
「ウス」
「お疲れさまでした」
「お疲れ。色々とありがとな。落ち着いたら打ち上げでも行こう」
基地本部を出てすぐの交差点で、大きく手を振る別役たちと別れ、犬飼と影浦は並んで歩き出した。もうすっかり時刻は夜だ。ほとんどの建物が明かりを消して、暗い夜空に沈んでいる。
「カゲ、歩いて来たんだ?」
「ちっとは動かねえと体が鈍って気持ちわりぃ」
「分かる。おれも」
やっと自分の部屋でゆっくり眠れる。深く息を吸って、吐く。排気ガスと、埃と、食べものが混ざった、雑多な匂い。アイビスの発砲音が重く響いた。今日の当番は誰だろう。どこでゲートが開いたんだろうか。
やっと取り戻した日常と自由の気配が体に満ちていくのを感じながら歩いていると、ふと、コンビニの青い光が目についた。
「コンビニ寄ってく」
「良いね」
ふらふらと誘われるように二人は店内へ足を踏み入れた。聞きなれたはずなのに、久しぶりに聞く電子音が頭上で鳴った。
「うわ、目がチカチカする
……
」
眩しい日差しを遮るように、隣に立つ犬飼が目を覆った。
「コンビニってこんなに情報量多かったっけ?」
「俺らがおかしくなってんだろ」
影浦も目を細め、しばし入り口近くの陳列棚の前で立ち尽くす。棚を埋め尽くす無数の商品、値札に書かれた細かい文字、吊り下がるポップの派手な色づかい。トリオン製じゃない、現実が持つ圧倒的な存在感に押し流されそうだ。目を慣らしてから、ゆっくりと、二人は店内を物色し始めた。
「あ、おれ、ファンタめっちゃ飲みたい!」
「好きにしろよ」
冷蔵庫から、偽物めいた紫色のペットポトルを掴んで、犬飼は楽しそうに笑った。それを見たら影浦も無性に炭酸の刺激が恋しくなって、赤いラベルのコーラを取り出した。
お菓子、カップ麺、おにぎり、惣菜パン。狭い店内を隅々まで見て回ってから、レジ前のホットスナックに影浦の視線が釘づけになった。
それは暴力的な誘惑だった。抗うことなど誰にもできない。
「カゲ」
オレンジ色の照明で照らされたショーケースは、時間帯のせいか、ほとんど空っぽだ。一番下の段の真ん中に、一つだけ、商品が残されている。
「からあげくん、半分こしよ」
犬飼の瞳が見たことないくらい爛々と輝いている。ここで俺に譲れと言えるほど、影浦は横暴ではなかった。
レジでまとめて会計を済ませ、店員のやる気のないあいさつを背に自動ドアをくぐる。このコンビニは閉鎖区域に近いせいかいつも客が少なく、店員もいつも覇気がない。影浦はその気だるい雰囲気が気に入っていた。
店の前の駐車場で、二人は並んでペットポトルの蓋を開けた。同時に空気が勢いよく抜ける音。上を向いて一息にコーラを含んで、口の中の刺激に思わず咽せそうになって、すんでのところで堪える。
過剰な甘味と炭酸に、舌がピリピリする。頬の内側がパチパチ弾ける。ゆっくり飲み込むと、よく冷えた液体が滑り落ちていくのが分かる。嚥下した糖分が、脳を揺らすような錯覚。ものすごく、美味かった。
「ファンタってこんなにうまかったっけ
……
?」
右隣では犬飼が首を捻りながらペットボトルを傾けていた。おおよそ、影浦と同じような状態なんだろう。
「からあげくん、出せ」
「あっ、うん」
それぞれが爪楊枝を持って、一口サイズの唐揚げを頬張った。
「うっま
……
」
「うめえ
……
」
今度はうめき声が我慢できなかった。続けてすぐに次の一個を口へ放り込む。ほのかに温かい。肉はすこし固いが歯切れが良い。衣の油分と塩分が舌を痺れさせた。左手に持ったままの冷えたコーラで流し込む。美味い。美味すぎる。
「ちょっと、ちゃんと半分こだからね!」
「うるせーおめーもとっとと食え」
競うように食べ続け、小さな紙のカップはあっという間に空になってしまった。何もない容器を二人そろって上から見下ろし、ふと、犬飼が声をあげて笑い出した。
「あはは、なんだこの状況、おっかしい!」
「
……
なんだよ」
「だって二人でこんな必死にからあげくん食べてさ
……
。四月になったら大学生なのに、子どもみたい!」
腹を抱えて笑い続ける犬飼を見ていたら、影浦も、なんとなく愉快な気分になってきた。夜の闇に紛れるように、そっと唇の端を持ち上げる。
「ファンタとコーラってのもガキくせえな」
「背伸びした小学生みたい」
駐車場のガードレールにもたれ、笑い声の余韻みたいに犬飼が長く息を吐いた。吐き出された息は白く濁らずに消えていく。日が落ちて気温が下がってきたが、身を切るような寒さはもうない。春が近づいているのだ。影浦はマフラーを巻いてこなかったことを後悔した。むき出しの首筋に、綿のようにやわらかい感情がいくつもぶつかって、むず痒い。
「とっとと帰んぞ。中途半端に食ったら余計腹減った」
「うん。
……
あ、その前に」
「あ?」
「連絡先、交換しようよ」
差し出されたスマートフォンの画面には、QRコードが表示さえていた。それをまじまじと見つめてから、影浦は視線を持ち上げた。犬飼は感情の読めない平坦な顔でこちらを見つめている。だから自らの皮膚の感触を探った。痛みはない。軽蔑も落胆も嫌悪も、ここにはないようだった。さっき当たった感情の残り香がまだ肌に残って、それは悪くない感触だった。
「
……
くだらねーこと連絡してくんなよ」
「うん、わかってる」
コードを読み込んで、自分の端末に表示された画面を見つめる。犬飼澄晴。目の前の男の後ろ姿が丸く切り取られた写真。背景には青空を切り開くような白い飛行機雲の写真。いけ好かねえ野郎だな、と思う。
「うわ、カゲのアイコンうまそう」
「帰ったら食う」
「いいなー、お好み焼き屋の息子」
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……
なんだろうか、俺たちは。違うような気がする。ほとんど他人のような知り合いだ。たまたま同じ組織に所属して、たまたま同い年で、ほんの短期間、同じチームに配属されただけ。
クソ、やっぱりマフラーを巻いてくればよかった。
前を向かなくても、目の前の男が嬉しそうに笑ったのが、首筋の感触で分かった。
◇
あれから、犬飼からの連絡はなかった。安堵したような気分と、肩すかしをくらったような気分が半々といったところだ。明るい髪色と青い瞳にまた出会ったのは、三門市立大学の入学式だった。
「なんか変わり映えしねえなあ」
「そりゃしょうがないよ」
荒船のぼやきを、北添が笑って宥める。入学式といえば新生活の幕開けを連想するが、校門近くでたむろするのはこれまで散々顔を合わせていた面々だ。
「同級生でここにいないのって神田と当真くらいか?」
「当真は決まってるからな、覚悟が」
「カゲもよう入学できたなあ」
「兄貴が大学行けってうるせーから」
桜はもうほとんど散ってしまった。鮮やかな色の若葉が穏やかな風に揺れている。
「でも一番変わり映えしないのはスミくんだね」
「同感」
「おれ? なんで?」
「普段からいつもスーツだろ」
「あー、なるほどね。それでいったらカゲは今日新鮮だね」
円を描くように並んで立つ面々の、対角線から視線が刺さる。
「
……
こんなもん今すぐ脱ぎてえ」
「ダメダメ! 式が終わるまでは我慢してよ」
首もとに締まるネクタイに指をかけると、焦ったように隣に立つ北添に制止された。「分かってる」と舌打ちとともに頷き、ほどくことはしないでおく。肌が隠れるのは良いが、動きにくくて仕方ない。いくらか設定でごまかしているんだろうが、こんなものを着て戦う奴らの気が知れない。
「
……
カゲ、犬飼と喋れるようになったんだな」
「あ?」
北添を挟んだ一つ隣から、生ぬるい視線と感情を投げてきたのは村上だ。
「ついに雪解けか
……
」
「長かったな、これまで」
「臨時部隊のおかげかな?
柿崎
ザキ
さんはやっぱりすごいね」
「カゲに友達が増えてゾエさん嬉しいよ」
生暖かい感情が伝播して、あちこちからぶつかってくる。北添に至っては大袈裟に泣き真似をして、村上に慰められている。半分はふざけてからかっているだけだと分かっているが、むず痒さにゾゾゾと鳥肌が立つ。
コイツと、友達になるわけねえ。
そう怒鳴ろうとして、けれど影浦は口をつぐんだ。友達
……
なんだろうか。一週間前、コンビニの駐車場でもたげた疑問が、また首を持ち上げる。
「まあまあ、シャイなカゲをからかないであげようよ」
「オイてめー、殴られてえなら素直にそう言え!」
「はいはい、式が始まるからもう行こう」
北添にぐいぐいと背中を押され、渋々、影浦は歩き出した。腐れ縁の級友たちはどんどん先に進んでいく。もう影浦と犬飼の関係に興味はないらしい。北添の大きく分厚いてのひらもすぐに背中から離れた。周囲に集っていた他の大学生たちも各々が歩き出して、大きな波のように、講堂へ続く並木道を前進していく。
「さっきはああ言ったけどさ」
ふと気づくと、同じ目線の高さに犬飼の顔があった。ギロリと睨みつけるが、気にした風もなく、前を歩くスーツの背中を眺めている。
「スーツも似合ってるよ、カゲ」
やっぱりコイツ、めちゃくちゃムカつくな。
嫌味や皮肉が含まれていないことはサイドエフェクトで分かる。腹が立つのは、躊躇いも照れもなく、同い年の男をさらりと褒めてみせる余裕綽々な態度だ。自分に自信があるから、愛想を他人へ振り撒くことに抵抗がないのだ。横目でチラリと眺めた犬飼は、違和感なく黒いジャケットを着こなしている。
無視するか罵ってやるか悩んで、どれも犬飼の手の上で踊らされているようで気に食わない。
「んなこと、鏡見て分かってる」
だから影浦はわざと挑発するように、舌を出して笑ってやった。
燃えるような鮮烈な感情が、一瞬、頬をかすめる。同じペースで進んでいた犬飼の足が止まった。
つむじ風のような突風が吹く。影浦は反射的に目をつむった。悲鳴とも歓声ともつかない甲高い声が周囲から聞こえた。風はすぐにおさまって、また講堂を目指して歩き出す。どこかの枝に残っていたらしい花びらがいくつか、目の前で舞い踊った。その行方を追いかけていたから、真っ赤な顔の犬飼が、道の真ん中で立ち尽くしていることには気づかなかった。
「
……
マジで?」
みっともなく震えた犬飼のひとりごとは、風にかき消されて、誰の耳にも届かなかったのだ。
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