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史加
2026-01-05 00:16:21
16974文字
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原神(ルカキリ)
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その身に遺る唯一の熱傷痕に
ルカキリ/子どもを庇って負傷したファルカを看病するフリンズの話
※受けが攻めをお姫様抱っこするので苦手な方は今すぐ全力で逃げてください
誰かを守りながら戦う、というのは難しいことだ。歴戦の戦士であってもその背後にいるのが戦うすべを持たぬ者であれば、振るう剣の描く軌跡がその者の身体に触れぬよう普段より幾分も力を抑えなくてはならない。自らの行動が守るべき者の身に危険の降りかかる結果に繋がらぬよう、先の先まで予測して動くことが求められる。そういったいくつもの制限が刃を鈍らせ、悪戦を強いられることは珍しくない話である。
深淵の障気が立ち込める今回の戦場も、まさしくそれに当てはまるものだ。次から次へと現れるワイルドハントの数は多く、この深い霧の中に閉じ込められた旅団を守りながら、旅人、フリンズ、ファルカの三人で戦っている。当初はヤフォダも同行していたが、彼女にはライトキーパーへの応援の要請を頼んだため今はここにいない。彼女が戻ってくるまでの間、三人でこの窮地を凌ぎ、なるべく敵の数を減らさなければならない状況だった。
馬車の中に子どもを優先的に乗せ、乗り切れなかった大人たちにはなるべく近くでひとまとまりになるよう集まってもらい、複数元素を操ることの出来る旅人が全体を俯瞰してサポートを、ファルカが馬車の前方、フリンズが後方で魔物を引き受ける役を担う。一般人の目に触れる状況というのが、ひとならざるものであるフリンズにとっては正直やりづらい。苦い思いを抱きながらも槍を振るい、ワンダラーの胸部をひと息に貫いて、劣勢に追い込まれることだけは避けなければと冷静に状況を分析する。
流石西風騎士団の大団長というだけあってか、他者を守りながらの戦いにも慣れているようで、ファルカは大剣を軽々と扱い魔物を蹴散らしていた。だがそれでも普段と比べればその太刀筋はいくぶんか鈍く、力を抑えているのがわかる。敵はというと、小物がうぞうぞと蛆虫のように地面から這い出てくるばかりで、普段ワイルドハントに遭遇したときに見かける大物の姿がなかった。
小賢しいアビスの智者が裏で糸でも引いているのか。消耗戦を強いられているのは明らかで、このまま戦い続けるのは分が悪い。このあたりで一気に敵の数を減らし本命を探し当てるべきだろう。だがこの人数で活路を開くとなると、味方を傷付けず、しかし敵を一掃するだけの並み外れた力を行使する必要がある。そんな力を持つ者など普通はそう都合良くいることのないものだが、幸か不幸か、こうして槍を振るいながらも状況を観察して頭を回すだけの余力は備えているフリンズ本人がそんな「都合の良い者」だ。
この世に人命に替えられるものなど何ひとつ存在しない。このままでは多くの犠牲が出る可能性があるというのなら、そうなる前に使えるものは何だって使うべきだろう。
ランプを握る手におのずと力が入る。金糸雀色のひとみに青白い光が宿った。
――
骨と血を燃料に、死よりも壮大な生を生きよう。
ライトキーパーはたとえ己の身を犠牲にしてでも、民を、灯りを守る者だ。キリル・チュードミロヴィッチ・フリンズの人間を真似た生活だって、人命の前ではただの燃料に代わる。
それに、今ここで戦場をともにしているフリンズの知人たちは幸いにも正体を知っている。無事にすべてが解決したときには、証拠隠滅を手伝うくらいしてくれるだろう。ならば躊躇っている暇も惜しい。
四方から襲いかかってくるワンダラーを一閃で振り払い、ごう、とランプの中の炎を燃やした、そのとき。
「お母さん、どこぉ! 怖いよう!」
「ダメっ!!」
幼い子どもと、その母親と思しき女の声がした。
はっとしてフリンズは振り返る。ずっと馬車の中に親がいない状態で押し込められていて怖かったのだろう、耐え切れず飛び出した少年がそのまま魔物のいる前方へ走っていってしまうのが見えた。
母親が後を追って駆け出していこうとするのを旅人が制する。泣き叫び周りの見えていない子どもの前に、よりにもよってこのタイミングで大型の魔物
――
マッドウォーリアーが赤紫の霧の中からのっそりと姿を現す。
まずい。
凶刃を手にした魔物が無防備でか弱い命へと肉薄した。
間に合うか。
周囲の魔物ごと焼き払わんとフリンズがその身を炎に変えようとして、しかし。
「させるかよッ!」
北風が子どもと魔物の間に割って入り、振り下ろされた斧を大剣で受け止め、振り抜く。
その一瞬。がら空きになった騎士の胴を
――
「ファルカさん!」
「ッ!」
障気に染まる赤紫の大地より突き出た細長い円錐状の凶器が、貫いた。
マッドウォーリアーの後ろに控えていたワンダラーの仕業だ。術を扱うものは珍しい。特殊個体であるということは、あれがアビスの智者に繋がっていて、この集団を統率している可能性がある。
おそらくファルカもそれを見抜いたのだろう。脇腹を貫かれながらも地面を踏み締めて大剣を豪快に振るい、マッドウォーリアーを両断する。術者の盾でもあるそれを屠ってさえしまえば、本丸を叩くのは容易い。
『死者は永久の凍土に、生者は夢の揺籃に眠る』
旧き言葉を紡ぎながらフリンズは地を蹴った。その突然の行動にも驚かず、馬車の周りに集まる人々をパイモンに任せた旅人が子どもの元へと走り出し、その小さな身体を抱え上げて馬車へと戻る。母親に子を預けるなり力強く大地を踏み鳴らし、人々の目を隠すように馬車のある一帯を岩壁で覆った彼女の判断は正しく、頼もしい。
『墓守は灯りを絶やさずその安寧を守ろう』
蒼炎を燻ぶらせながら、膝をついたファルカの元へと疾走する。迫り来るワイルドハントを燃やし、雷炎を槍に纏わせ、一点を見据えて突貫する。フリンズの接近に気付いた術者がファルカに向けたものと同じ術で食い止めようとするも、もう遅い。
『この魂は渡しませんよ』
望月のひとみに蒼炎を灯した妖精の、雷光にも似た速さで繰り出された槍の鉾先が術者を刺し貫く。同時にごう、とうなりを上げて立ちのぼる炎が辺り一帯に蔓延る魔物を呑み込んだ。
この場においてフリンズにしか理解出来ないワイルドハントの叫び声があちこちから上がる。怨嗟にも、悲鳴にも似たそれに心を乱されることはない。赤紫の霧が蒼く照らされ、雷を纏う炎の揺らめく中、自らを人間の器の中に押し込んだフリンズはファルカの前で跪いた。
「はは
……
、ずいぶん派手なことしたな」
「喋らないでください。傷に障ります」
言いながら肩を貸し、燃え上がる一帯から少し離れた場所にある岩場までファルカを連れて行く。岩に背を預けた彼の意識はまだ保たれているようだが、その顔は土気色に変わり、脂汗を浮かべていて芳しくない状態だ。
防具を容易く突破してファルカの脇腹を貫通している鋭利な凶器はアビスの力に染まっており、今も傷口から全身へと侵蝕を広げている。一刻も早く引き抜き、旅人に頼んで浄化してもらわなければならないが、いかんせん身体に穴の空いている状態だ。栓の役割をして穴を塞いでいるそれをひとたび引き抜けば、一気に血を失うことになる。たとえアビスの侵蝕を浄化出来たとしても、失血がひどければ人間は死を免れない。
ヤフォダが援軍と一緒に医療従事者を連れてくるのを待つだけの猶予はないだろう。馬車に戻り医学の心得のある者を探す時間も惜しい。手荒な手段にはなるが、最も命を繋ぎ止められる可能性の高い方法があるのなら、それを選ぶべきだ。
「ファルカさん」
つとめて冷静に状況を観察し判断を下したフリンズは手套を外し、懐から取り出した布をランプの持ち手に巻き付ける。それをファルカの口に咥えさせ、ランプ本体は自らの力で浮かせた状態にして、彼の脇腹に刺さる凶器をじっと見た。
「傷口を焼いて塞ぎます。舌を噛み切ったり、途中で意識を飛ばしたりしないようそれを噛んでいてください」
こくり、とファルカは迷いなく頷く。さすが歴戦の猛者と言うべきか、自らの命に関わる局面だというのにちっとも動じていない。麻酔もなしに傷口を焼くという行為がどれほどの苦痛をもたらすのか想像出来ない訳でもないだろうに、フリンズに易々と命を預ける気でいる。
その信頼はずいぶんと重たいもののように思えるが、今は一刻も惜しい。魔物はみなフリンズの炎に焼かれて塵となり、辺りに広がっていた炎も、立ち込めていた霧も消えて、空に浮かぶ月がふたりを照らし出そうとしている。指向性を持たせて炎を操り緻密な作業をおこなうのは決して簡単なことではなく、まして強い力を行使したばかりだから、完璧な人間の姿を保ったまますべてを為し遂げるのは難しい。
だから、わずかに燻る炎と煙がまだ世界の目を隠しているうちに。残酷なこの世界が美しいものを奪い去ろうとする前に。
フリンズはファルカの脇腹を貫く凶刃を引き抜くと同時に、指先に炎を纏わせて患部に触れる。
「
――――
ッ!!」
じゅうっと耳障りな音がして、たんぱく質の焼けるにおいが立ち込めた。苦痛に顔を歪めたファルカの、かたちを成さない呻き声がランプを噛み締める歯の隙間から零れ落ちる。
彼の意思とは無関係に悶絶として暴れようとする両腕両足に、自らの力を束ねてつくった鎖を絡めて押さえつけ、フリンズは神経を指先に集中させる。あくまで止血を目的とし、内臓や筋組織を必要以上に焼いて壊死させない程度に調整して自らの生命力を込めた炎を注いで、アビスにもたらされた傷を焼く。
時間としてはほんの数分にも満たないことだ。しかしそれはとてつもなく長い時間のように思えた。聞いたことのないファルカの苦悶の声と人間の肉の焼けるにおい、己のこめかみを伝い落ちる汗の感触、そのすべてが鋭敏になったフリンズの五感を焼き焦がし、火傷の痕のように残る。
長い、長い集中の後、傷口は塞がった。ファルカの脇腹に空いた穴はお世辞にも綺麗とは言えないがしっかりと焼けて、必要以上の痕を残さず止血されている。あとは旅人に残るアビスの侵蝕を浄化してもらえば、少なくとも命を落とすことはないだろう。
患部の状態を目で確かめられるよう焼き溶かした防具の隙間から覗くファルカの身体は傷痕だらけだ。戦士の武勲といえるそれらに、今日の傷痕は追加されるのだろうか。
……
否、それよりも緊急事態だったとはいえ、本人に無断で焼き溶かしてしまった防具は後日弁償が必要だろうか。
あえてどうでもいいことを考え直すことで曇りそうになる思考をどうにかクリアな状態に保ち、フリンズはファルカに咥えさせていたランプを回収して旅人のほうを振り返る。
「旅人さん、来ていただけますか」
岩の壁を維持したまま辺りを警戒していた旅人は、フリンズの呼び声に応じてすぐにパイモンとともに駆け付けた。
「アビスの侵蝕がまだ残っているので浄化をお願いします。周囲の様子は僕が見ておきますので」
「わかった」
頷いた彼女が早速浄化に取りかかるのを横目に見ながら、フリンズは辺りを見回す。
禍々しい赤霧はすっかり晴れて、ナド・クライの寒々しい夜空が広がっていた。蒼炎に焼かれたワイルドハントたちはみな塵に還ったのだろう。残党の気配はない。
冴え冴えとした月光がフリンズを照らし、力を行使した余韻で火照る身体を徐々に冷ましていく。
ひとまず窮地は脱したが、やることは山積みだ。ヤフォダが援軍を連れてきたら旅団の護衛を引き継がなければならないし、傷口は塞いだとはいえ療養が必要なファルカを騎士団の駐屯地まで送り届けなければならない。此度のワイルドハントの出現について報告書の作成も必要だ。面倒な作業ではあるが、犠牲者を増やさぬためにも特殊個体の発生はマスター・ライトキーパーに共有すべきだろう。
「フリンズ、終わったぞ!」
今後の動きを整理しているうちに無事浄化が終わったらしい。パイモンに声をかけられてフリンズは振り返る。
ふわふわと宙を漂う少女はどこか困ったような顔をしていた。
「アビスは旅人がしっかり浄化したからもう大丈夫だ! けど、ファルカがフリンズに頼みたいことがあるって言って聞かなくて
……
」
「頼みたいこと、ですか?」
小首を傾げると、パイモンから一歩遅れてフリンズの元へやって来た旅人が頷く。
「うん
……
それはちょっと、って思ったんだけど、何を言っても上手く躱されちゃって。ヤフォダが戻ってきたら私たちはナシャタウンまで旅団を護送するから、フリンズはファルカさんの頼みを聞いてくれる?」
じっとフリンズを見上げてくる旅人のひとみにはどこか縋るような色が滲んでいた。
普段なら厄介だと感じることも今はそうは思わない。フリンズの知る限りでのファルカという人物の立場と人となりを思えば、察するものもある。各国を巡り人々を救ってきた英雄たる彼女でも、それを慮るのは難しいことだろう。
「わかりました。旅団のみなさんやヤフォダさんたちのことを頼みます」
頷いてやると、旅人はどこかほっとしたような顔をしたあと、踵を返して馬車のほうへと向かった。フリンズもファルカのいるほうへと歩みを進める。
岩に背を預けてぐったりとしている男の顔色は依然として悪く、一命を取り留めたとはいえなるべく早く戦場を脱して身体を休めるべき状態だった。フリンズが近付いてくるのに気付いたのだろう、ゆるりと顔を上げた彼が弱々しく笑うのを見て、胸にずきりと痛みが走る。けれどフリンズは一切表情を変えることなく、目線を合わせるために屈んだ。
「
……
ありがとな。お前のおかげで助かった」
「礼には及びません。むしろ手荒な手段しか選べず、あなたには苦しい思いをさせてしまいました。ところで旅人さんから頼みがあると聞きましたが
……
」
「
……
」
じ、とフリンズを見つめてくる蒼眼は明らかに陰り、疲労の色が濃く滲んでいる。だが沈黙に含まれた彼の意図を汲み取るのは難しいことではなく、フリンズの口からは深いため息がこぼれ落ちた。
「
……
あまり褒められることではありませんが、あなたの立場もそれなりに理解しているつもりなので、いいでしょう。勝手にあなたの防具を溶かしてしまったお詫びもしなければなりませんからね」
口実を用意してやると、ファルカはうすく笑う。普段は快活に笑う男の弱った顔というのはどうにも見慣れないせいか、フリンズの胸をざわつかせてしかたない。
自らに生じている揺らぎが表出してしまわぬよう、辺りを窺うふりをしてフリンズは少しだけファルカから目を逸らした。遠くから複数の足音とヤフォダの声が聞こえる。旅団のことはすべて任せて大丈夫だろう。むしろファルカの頼みに応えるのなら、彼らと合流する前に行動を開始しなければならない。
一瞬、こちらを振り返った旅人が頷く。フリンズも頷き、それから自力で立ち上がろうとするファルカを制した。
「ファルカさん、無理はなさらないでください」
「だが
……
」
「意識を保っているのもやっとでしょう。あとは僕にお任せください。ああ、もちろん人には見られないようにしますので」
「
……
お前、何するつもりだ?」
常人ならとっくに意識を落としていておかしくはない状態で、けれどファルカはフリンズから何やら良からぬ気配でも感じたのか胡乱な目を向けてくる。しかしフリンズはにっこりと、有無を言わせぬ微笑みを浮かべた。
「人聞きが悪いですね。僕はただあなたの身体になるべく負担をかけないよう配慮すると言っているだけですよ」
「
……
本当だろうな?」
「本当です。『さあ坊や、眠りなさい』」
旧き言葉に少しばかり妖精の力を込めてささやくと、どうにか押し上げられていたファルカのまぶたが落ちて蒼眼が閉ざされる。ようやく大人しくなった男にため息をついたあと、フリンズはその巨体の背と膝裏に腕を回し、軽々とまでは言わないが抱え上げた。
鍛え抜かれた騎士の身体はずっしりと重くて熱い。本当は俵担ぎにしたほうがまだ運びやすいのだが、それだと脇腹の傷に障ってしまう。腕から足のつま先にまでかかる重力に負けぬようランプの中の炎を燃やして、闇夜に溶けるようにフリンズは歩き出した。
「本当に困った人ですね」
蒼炎の灯るランプをふわりと浮かせて最低限前方だけを照らした道は、なぜだか途方もなく長いように思える。
この道のりの途中で何者にも奪わせず、傷付けさせぬように
――
蒼炎はその火の粉を蝶の鱗粉のように散らし、翅を揺らめかせながら、深い夜の中を進んでいった。
亡霊のささやきすら届かぬ部屋の中に、荒い呼吸の音が響いている。それがどうにも背筋をざわつかせて落ち着かない。
ベッドの上に横たわるファルカの額や首筋に滲む汗を拭い、濡らして固く絞った清潔な布を額に乗せて、フリンズはその容態の変化を見落とさぬようつぶさに観察しながらも居住まいの悪さに辟易としていた。
夜明かしの墓にあるフリンズの家は、ライトキーパーの仕事をする上で必要となる物資があるだけで、けっして療養に向いている環境とは言えない。幸いにもイルーガが届けてくれる物資の中に止血剤や鎮痛剤、包帯、ガーゼといった応急処置用の薬類が含まれているため、怪我人の手当に困ることはないが、本来は医療従事者が二十四時間いつでも対応出来る環境で療養すべき負傷度合いの人間である。とんだ無茶を頼まれたものだとあきれずにはいられない。
だが、フリンズには理解出来ることでもあった。時と場合により、肩書きとはただの重荷にしかならない。モンドからナド・クライへと遠征し、その地にいる人々に手を貸しながらも目的のために日々動く騎士たちの士気を維持するにあたり、長たる者が安易に弱った姿を見せてはいけないと考えるのは当然である。月の狩人の一件のときも、万全ではない状態でありながらナド・クライの各勢力の有力者たちを束ねてみせた男だ。此度の負傷を部下に知られることを避け、身を隠して休むことを選ぶのは想像に難くなかった。
ただ、その身を隠す先としてフリンズが選ばれたことは意外であり、あの沈黙の中で押し付けられた信頼にずっと首を絞められている。
「
……
あまり芳しくありませんね」
自宅に匿ってから丸一日は経っただろうか。依然として熱いままのファルカの額に触れ、胸の奥から響いた軋むような音を誤魔化すべく呟き、フリンズは目を細める。
人体に空いた穴を焼いて塞いだのだから、高熱が出るのは当然の反応で、むしろ現状その程度で済んでいるのは奇跡だと言える。アビスは浄化したとはいえ、雑菌による感染症の併発や後遺症の可能性など、気にかけなければならないことは多い。もっとも傷口を焼く際に少しばかりの「ずる」をしているので、普通に手当をするのに比べれば安全は担保されているほうなのだが、油断を許していい理由にはならないだろう。
熱が高く、ファルカの呼吸は苦しげで、ときおりその唇からは呻き声がこぼれ落ちる。固く閉ざされたまぶたが持ち上がる気配はない。フリンズに出来ることといえば熱を下げるために用意した濡れ布巾や脇にあてがっている氷嚢をこまめに替え、汗を拭ってやり、脱水を起こさぬよう水分を与えることくらいだ。水を飲ませるときだけ都合よくファルカが目を覚ますこともないので、重く熱い身体を起こしてやむを得ず口移しで与えるのもすっかり慣れてしまった。だがこのままの状況がもう半日続くなら、次の手を打たなければならないかもしれない。
フリンズの持つ力の中に癒しに長けたものがないことを少しだけ悔しく思う。人知れず残されたランプを見つけたとき、ワイルドハント討伐の最中で同僚が致命傷を負ったとき、胸を過ぎる憂いの重さに息の詰まる感覚をはたして何度経験しただろうか。それを今目の前の男に対して抱くのも予想出来なかったことではない。この危険に満ちたナド・クライで戦場をともにすれば、いつ起こり得たっておかしくないことなのだから。
どれほど優れた武人であっても、その背後に無力でか弱い命があり、それをなんとしても守らなければならない局面に立たされれば、出来ることなど自ずと限られてしまう。あの特殊個体の一撃も、おそらくファルカだけなら躱すことは簡単だった。けれどファルカが避ければあの凶刃は無力な子どもの身体を貫き、呆気なくその命を奪い去っていただろう。だから彼は動かないことを選択した。もしあの局面を変えられるものがいたとしたら
――
そこまで考えて、フリンズは長く息を吐き出す。
たらればの話に意味はない。後悔は噛み砕いて飲み込み、胃の腑に落ちるそれの重さを糧とし、次の勝利へと繋げなければならない。優先順位を見誤ってしまってもいけない。今何よりも大切なことは、ファルカというひとりの人間の命が暗闇に落ちぬよう、力を尽くすことだけだ。
『この炎は眠るべき魂を闇へと導くことに長けている。けれど今だけは、未来への道を照らすために灯しましょう』
燃えるように熱い手を握り、自らの根源である蒼き炎を揺らめかせて、フリンズは魘されるファルカの唇に己のつめたい唇を押し当てる。
癒しのための力など持ち合わせていない。唯一出来るのは、自らの炎そのものを人間に寄り添う形に織り直して分け与えることだけだ。
背に光の翅が揺らめき、蒼い鱗粉を散らす。目の前で光が明滅して頭が痛み、意識が少しだけ揺らぎそうになるが、構うことはない。
そっと唇を離したフリンズは、熱いファルカの頬に触れて目を伏せる。
「こんなことをしなくともあなたはきっと生き長らえるのでしょう。ですが
……
先に無茶を言ったのはあなたなのですから、僕の我儘も少しくらいは受け入れてくださいね」
夜露の滴り落ちるような呟きは、祈りに似ていた。
旅人が医者を連れてきたのは、フリンズがファルカを自宅に匿ってから夜が二度過ぎたころだった。
ファルカの意を汲んだ彼女はファデュイ執行官のひとりである「召使」に相談し、西風騎士団とは無関係でありながら口の固く、信頼出来る医者を紹介してもらったという。そのせいで遅くなってしまったと詫びる彼女をフリンズは労い、診察が終わるのをふたりで待った。その間に旅人の証言も含めた報告書を完成させて、医者をナシャタウンまで連れ帰るときにライトキーパーの屯所へ届けてくれるという彼女に託した。
診察の結果は、問題ない、の一言だった。熱はもう少し続くが、薬を飲ませて休ませていればじきに目を覚まし、回復に向かうだろうとのことだ。傷の深さやアビスの侵蝕があったことを考えるとこの程度で済んでいるのは奇跡だと医者は述べたあと、フリンズをじっと見つめた。
髪が白く染まり、深いしわだらけの顔をした老医者の見透かすような目に、フリンズは唇を引き結ぶ。
「
……
無茶をしたのう」
スネージナヤ人特有の白い肌を持つ医者に見覚えはないが、ありとあらゆる可能性を見抜かれたことだけはよく理解出来る言葉だった。
「
……
ええ、本当に。困ったひとですよ」
止まない頭痛がもたらすささやかな苦しみなどおくびにも出さずにフリンズは肩を竦めてみせる。医者は何も言わず、もし万が一容態が変わることがあればすぐに呼ぶようにと言って、追加の薬をいくつか処方すると旅人とともに家を出て行った。
ひとまず懸念事項はすべて解消した。あとはファルカが目を覚まし、順調に回復へと向かうのを見届けるだけだ。
フリンズは深く息を吐き出して、昏々と眠り続けるファルカの様子を見る。未だに熱は高いが呼吸は落ち着き、顔色にも生気が戻っている。分け与えた力はきちんとファルカに馴染んだようだった。
身体が重たいように感じるのは、精神的重圧によるものだけではないとフリンズは正しく理解している。自らに委ねられた命の重さと、預けられた信頼の大きさ。喪失をおそれ憂う心の消耗がもっとも激しいのはもちろんのことだが、あの日から一睡もせずファルカに付きっきりでいるので、いくらひとならざる身といえどもさすがに休息が欲しくなる頃合いだ。ましてあの日フリンズは妖精としての力を行使したのだから余計に。
ファルカの眠るベッドの近くに椅子を引き寄せて、フリンズは腰を下ろす。正直疲れた。だがまだランプに入って休息を取るには早いし、なにより今は、今だけは、ランプの中の暗闇に安寧を見いだせる気がしない。
ほぼ無意識のうちに伸びた手が、ファルカの無防備な手を捕らえる。フリンズのものより一回りは大きな手は皮膚が厚く、あちこちに武器を握る者特有の胼胝が出来ていてたくましい。今は高い体温を持つそれがフリンズの手を握り返しはしないのをいいことに自ら握り、その感触を確かめる。
互いに手套を外した状態で素肌を触れ合わせるのはこれが初めてのことで、出来れば最後であってほしいと思った。別離は避けようもなく訪れるとわかっている。ただ今回は、今がそのときであってはいけないと思ったから動いただけで、本当はフリンズの一連の行動に必要性など存在しない。すべてが身勝手な行為であり、長い目で見れば無駄なことだ。いずれにせよいつかは吞み込むことになる苦渋の味を、今はまだ知りたくないのだと目を逸らし、ほんの少し遠ざけただけに過ぎない。
頭の痛みにフリンズは顔を歪めた。重たい身体に、手のひらから伝わるファルカの温度だけが優しく染み込んでいく。
……
失うのがおそろしい。この体温が冷たくなってしまうのがこわい。恐怖に駆られて身勝手な真似をするのがなんと馬鹿げていて愚かしいことであるのか、フリンズはよく理解している。
この世に永遠など存在しない。ほんの一瞬繋ぎ留められたとしても、いつかファルカはフリンズを置いていく。置いていかれるのだとわかっているし、置いていかないでくれと泣き喚いて引き留める気もない。だが、おそれている。このひとを残酷な世界に理不尽に奪われてしまうことだけを、どうしようもないくらいに。
『
……
あなたのいない世界が訪れるというのなら、そこにはあなたの未練も苦しみも残っていてほしくない。ただあなたが一生を謳歌し、いくつもの武勲を残して、満ち足りた幸福な最期を迎えた
……
そのように締めくくられる物語だけが残る世界であってほしい。これは僕の我儘だとわかっています。それでも望まずにはいられません
……
そのくらい、あなたをお慕いしているのですから』
譫言のように旧き言葉で呟き、フリンズは両の手でファルカの手をしかと包み込んで握り締める。
そうして彼の体温と息遣いだけを意識に留め置き、三度目の長い夜へと身を投じた。
――
この世のものとは思えぬほどに美しい蒼炎が禍々しい夜を青白く照らし、生きとし生けるものを侵蝕しようとする魂を燃やすさまを、ぼんやりと見ていた。
筆舌しがたいほどの激痛に苛まれる中、光で出来た翅がなにかをおそれるように震えているのが見えた。
爆ぜる蒼炎はまるで妖精の翅のふるえに合わせて舞い散る鱗粉のようであり、その月のひとみから零れ落ちた涙のようにも見えた。
朦朧とする意識の中で、熱いような、温かいような、なにかが身体のすみずみに行き渡り、痛みを鎮めていくのを感じた。
そうして、穏やかな静けさの中で声を聞いた。
何を言っているのかはわからない。
ただその声は涙に濡れているようで、一刻も早く抱き締めてやらなければと思った。
どれほど長く感じる夜も、必ず明けるときが訪れる。
もっとも昼夜を問わず薄闇に覆われている夜明かしの墓に朝日が射すことはない。人間の生活リズムを忘れぬようにと机の上に置いているアンティークの時計が示す時間を見て、朝がやってきたのだとフリンズは判断している。
重く痛む頭を上げて、穏やかに眠るファルカを見た。一晩中握っていた手は温かく、人並みの温度を宿している。長く続いた熱はようやく下がったようだ。となれば、彼が目を覚ますときはきっと近い。
三日ほど眠り続けていたわけだから、目を覚ましたら何か胃に優しいものを食べさせる必要があるだろう。水分も自力で摂らせなければならない。そのときに備えて支度をしなければと、名残惜しさを覚えながらもフリンズは手を離そうとした。
瞬間、手のひらにかすかな振動が伝わり、思わず肩を跳ねさせる。
「ファルカ、さん?」
ぴくりと動いたのだ。確かに彼の指が。
まさか、と名を呼んで、フリンズはファルカの顔を覗き込んだ。固く閉ざされていたまぶたがゆっくりと持ち上がり、その奥から澄んだ春の水天の色があらわれるのを静かに見守る。緩慢な瞬きが数度繰り返されたあと、意志の宿る双眸が確かにフリンズを捉えた。
「
……
フリンズ」
掠れた低い声がフリンズを呼ぶ。ただのそれだけで胸の奥がぎゅうと締め付けられるように痛み、そのあまりの苦しさに息が詰まってしまいそうになった。
唇が震えそうになるのをどうにか堪えて、フリンズは常と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべる。
「目を覚ましましたか」
言いながらそっと手を離し、念のため彼の額に触れる。数日前までは異常なまでに熱かったそこもすっかり平熱になり、普段の彼のやわらかな体温をフリンズに伝えてきた。
「熱も下がりましたね。もう大丈夫でしょう」
「
……
俺はどのくらい眠ってたんだ?」
「三日です。西風騎士団の方には知らせていません。あなたがここにいることを知っているのは僕と旅人さん、それから旅人さんが連れてきてくださった騎士団とは縁のない医者だけです」
「そうか
……
迷惑かけたな。助かった」
状況をすぐに飲み込んだファルカが素直に詫び、礼を伝えてくるのにフリンズは返す言葉を見失ってしまう。
まったくだとあきれて、回復したら酒を奢れと軽口を叩けばいいのだろうか。それとも心配したのだと伝えればいいのだろうか。否、どの言葉もしっくりこないし、普段ならもっとうまく喋れそうなものだというのにどうにも言葉が出てこない。
「
……
フリンズ?」
押し黙ったフリンズをファルカがどこか心配そうな目で見つめてくる。これではいけないと笑みを作り直して、色のない唇を開いた。
「失礼しました。西風騎士団の大団長であるあなたに貸しがひとつ出来たと思いまして」
「確かに、お前には大きな借りを作っちまったな」
「ええ。ですので、どう返してもらうのかはまた改めてお伝えします。それよりも今はあなたの身体が優先です。水と、何か食べるものを持ってきます。言わなくてもわかると思いますが、大人しくしていてくださいね。傷は塞がっていますが、まだまだ安静が必要なのですから」
どうにか回るようになった口で当たり障りのない言葉を並べ立てて、こちらを見つめたままのファルカの視線から逃げるようにフリンズは立ち上がる。ぐらりと視界が揺れるも動揺は一切表に出さず、踵を返して部屋を出た。
後ろ手に扉を閉めて、数歩歩き、部屋の前から離れる。そうして暗がりの中、壁に背を預けて
――
そのまま重力に負けたようにずるずると座り込んだ。
手足に力が入らない。ずっと胸のあたりにつっかえていた重苦しいものがなくなり、全身に纏わりついた緊張がほどけて、意識から切り離していた疲労感が一気に押し寄せてくる。ぐらぐらと目の前が揺れているのが脱力のせいなのか、それとも身を削ったときからずっと続いている頭の痛みのせいなのかがわからない。
ただ、どうしようもなくほっとしていた。ファルカが目を覚ましたこと、その目に自分を映してくれたこと、記憶の齟齬も身体の異常もなく普段と変わらぬ様子で言葉を紡いでくれたこと、それらすべてが安堵となってフリンズの胸をひたひたと満たしている。
ここでずっと座り込んでいてはファルカに怪しまれてしまう。だから立ち上がり、動かなければと思うのだが、フリンズはなかなか動き出せなかった。
まるで心と身体が別々の生きものに分かれてしまったかのようだ。自分はまだ平気であるはずなのに唇が勝手にふるえている。ファルカのためにしてやりたいことがあるのに手足が動かない。ひく、と喉元が引き攣れて、得体の知れないなにかがこぼれ落ちていきそうになる。
これは一体何なのだろうか。思考がはらはらと散ってまとまりを失っていく中で明確に生まれたのは困惑だった。ひとつだけわかるのは、このままではいけないということだけだった。
立ち上がらなければ。動かなければ。もう危機は脱して、世界が理不尽にファルカを連れ去ってしまうおそれはなくなったけれど、放っておくと無理をしかねないあの男がせめてあと少しだけは大人しくしていてくれるように。フリンズが押し通した「我儘」に気付かないように、取り繕わなければならないというのに。
「
……
ッ
……
、」
衝動的に込み上げてこようとする何かを抑え込もうと唇を引き結ぶのが精一杯で、ままならない。
動けないフリンズの、雑然としてまとまらない意識の外で、がちゃりと扉の開く音がした。ゆったりとした足音が数歩分響いたあと、ぴたりとフリンズの前で止まり、ややあって温かいものに包み込まれる。
「フリンズ」
耳元で名を囁かれて、フリンズは望月のひとみを丸く見開く。
「
……
大人しくしていてくださいって、言ったでしょう」
「悪い。でもこのくらい大丈夫だ。それに今安静にして休むべきなのはお前のほうじゃないか」
「
……
」
「お前ほど長く生きちゃいないが、死にかけたことなら何度もある。だからな、わかるんだ。俺が今回負った怪我はたったの三日で治るようなものじゃないって。
……
お前がなにかしてくれたんだろう?」
言いながら静かに抱き締めてくるファルカの体温に、散り散りに砕けてフリンズの思考を掻き乱すばかりだった虚勢が溶けていく。
「
……
僕の、我儘です。こんなことをしなくても、きっとあなたは無事に持ち直して目を覚ました。そうわかっていた。だけど
……
魘されているあなたを前に、僕が、堪えられなかった」
「
……
そうか。心配かけちまったな。でももう大丈夫だ。お前のおかげでこの通り、俺は生きてる。ちゃんと心臓が動いてる音だって聞こえるだろ? お前が守ってくれた音だ」
大きな手のひらがフリンズの頭をゆっくりと撫でる。とくとくと彼の胸の奥から聞こえてくる力強い鼓動の音がフリンズの鼓膜を揺らし、その波が身体のすみずみまで伝わっていって、それまでまったく動かせずにいた指先にようやく力が入るようになる。
ひく、と喉がふるえた。言の葉を紡ごうとした唇がわなないて、上手くかたちを作れない。目の奥が痛いくらいの熱を帯び、頭の中が白く塗り潰され、胸の奥から込み上げ続けていたものが堰を切って、あふれ出してしまう。
なんの意味も形ももたない音が熱い液体とともにこぼれた。制御不能な感情の奔流をぶつける先を求めてファルカの胸に縋りつき、額を押し当てる。息が苦しい。勝手に目からぼろぼろと熱いものがあふれてやまない。熱を持たないはずの身体が熱くなり、言葉で表すことの出来ない何かで胸がいっぱいになっていて、ただただ衝動に身を任せることしか出来ずにいる。
まったく知らないいきものになってしまったみたいだった。自分を抱き締めてくれているファルカがいるからかろうじて形を保てているのではないかと思うくらいに、頭の中はめちゃくちゃで、身体は誤作動を起こしたかのようだった。
それでも、荒波は時が経てば静まっていく。少しずつ凪いでいく心の中で、自らの頬を伝うものが涙であるのだと理解した。この世に生まれてから一度も泣いたことのないフリンズにとって、制御が出来ないのも納得だった。そのくらいファルカを失うのがおそろしかったのだとも思い知らされた。
溺れていた感情たちがようやく地に足を着ける。初めて泣いたせいか、頭が痛くてまぶたが重たい。
「
……
頑張ってくれてありがとな。もう大丈夫だから、ちょっと休め」
とん、とん、とあやすように背を撫でるファルカの声に頷き、フリンズは目を閉じる。
訪れた暗闇は温かくて、ちっとも怖くなかった。
くったりと力を抜き、ランプに戻る余裕すらなく己に身を預けて眠りに落ちたフリンズを見て、ファルカはため息をついた。
己の行動と選択に後悔はなくとも、愛するひとにおそろしい思いをさせてしまったという自責の念が付きまとうのはまた別の問題だ。しかもこんなに泣かせてしまうとは思いもしなかった。あの戦場で常に正しい選択を取り続け、躊躇いなく己の傷口を焼いて塞ぐような芸当までしてみせた彼が、この程度のことで取り乱したりはしないだろうと高を括っていたから。
実に愚かしい思い込みだと思う。想いを寄せる相手が傷付き、目の前で苦しんでいたら、誰であれ胸の痛みを覚えるのが当然だというのに。人間であれ妖精であれ心を持つ生きものである以上、それは変わらないというのに、フリンズなら大丈夫だろうと甘えてしまった。「信頼」と言えば聞こえは良いが、彼の心のやわい部分に身勝手を押し付けたも同然だ。
この歳にもなって情けないことだと深く恥じ入りながら、フリンズの目元にかかる前髪を払う。泣き腫らしたまぶたは赤く染まり、涙の跡の残る頬は痛々しい。推測に過ぎないが、戦場での力の行使に加えて、おそらく後遺症などが残らぬようファルカの身体を癒すために、その身を削るようななにかをしたのだろう。それを咎める権利はファルカにはない。すべては己の浅慮さが招いた結果であり、出来ることがあるとすればこれ以上彼に怖い思いをさせないよう傍にいてやることだけである。
眠るフリンズの身体を横抱きにして部屋へ戻り、先ほどまで自分が横たわっていたベッドに寝かせてやる。目が覚めたばかりのファルカとしては少し身体慣らしをしたいところだが、今は何よりもフリンズが優先だ。大の男がふたりで眠るには少し狭いベッドにファルカも身を横たえて、フリンズを腕の中に抱え直す。
彼がどれほどファルカを大切に想い、この三日間力を尽くしてくれていたのかなんて尋ねるまでもなかった。寝たきりだったはずの肉体に皮膚の爛れや荒れはなく、発熱していたことの窺える素振りを見せられたのに汗をかいた後の不快感は残っていない。代わりにフリンズの目の下には色の濃い隈が出来、血色の悪い唇は荒れ、全体的にやつれたように見える。これはもうあの時場に居合わせた旅人に口裏を合わせてもらえるよう頼み、フリンズもファルカも負傷したというていで互いに静養につとめる時間を作らなければ大変なことになるだろう。
しかし、はたして大丈夫なのだろうか。
眠るフリンズを抱き締めたまま、ファルカは先を想う。
生きていられる時間の長さが異なる自分たちに必ず訪れるのは別離のときだ。ファルカはほぼ確実にフリンズを置いていく。フリンズはファルカに置いていかれたあと、ファルカのいない世界を生き続けていく。それを互いに理解し合った上で、それでもともにいられる「今」を大切にし、それがいつか何物にも代えられぬ「過去」となることを願って想いを通わせた。出来る限りたくさんの「過去」をフリンズに残してやろうと思って、ファルカはファルカなりに彼を愛し、大切にしてきた。
けれど今回ファルカを失うことをおそれたフリンズのこの有様を見ると、どうしようもなく心配になる。いつかそのときが訪れたら、フリンズはどうなってしまうのだろうか。きっと彼はファルカの前でもう泣いたりなどしてくれない。ファルカのいなくなった世界でひとり、誰にも知られることなく泣いて過ごすのかもしれない。そう思うと、なんだか取り返しのつかないことをしてしまったような、そんな気分にまでなってくる。
ファルカがひとりで悶々と考えたところで、答えなど見つからないだろう。きっとその時が訪れるまで本当の答えは誰にもわからない。だから避けようもなくやってくるその日にいたるまでの道のりで、ファルカのいない世界に何を残してやればフリンズが涙に溺れずに済むのかを考え続けなければならない。
この美しい炎に、ファルカを想い流した涙に溺れて消えてくれなどとは思ってもいないのだから。
「お前の我儘なんてかわいいもんだ。俺の我儘のほうがずっと重くて、面倒だからな」
ぽつりと呟き、ファルカはフリンズの頬を撫でる。胸の奥のやわいところに圧し掛かる罪悪感は重いが、フリンズを手離すという選択をファルカに取らせるには足りない。
「きっとこれからも俺はお前を傷付ける。だからいくらでも我儘くらい言ってくれ。そのすべてを受け止めると誓おう」
夜色の髪をひと房すくい、恭しく口付けて願う。
おそれてもいい。理性的に振る舞えず、感情のままに行動を起こしたって責めたりはしない。もしそれが罰せられるべきことであるのなら、そもそもの罪はファルカにある。凛々とした美しい蒼炎にひとを愛することのなんたるかを思い知らせ、その在り方をある意味人間に近くなるように変えてしまったのは、ほかでもないファルカというひとりの男なのだから。
世界は明るい昼の時を迎えようとしている。けれど今だけはそんな世界から身を隠すように、常に薄闇に包まれている小さな島で、ファルカは愛する妖精のあたたかな身体を抱き締めて目を閉じた。
ああ、そうだ。たとえ罪だとしてもかまわない。
この想いを伝えぬまま未練ばかりを残して世を去るほうがよっぽど不誠実で、この美しい存在を傷付けてしまうと思ったから。
彼がいつか愛しく思えるような「過去」を残してやれるように「今」をともに生き、愛することを選んでいる。
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