shirajira
2026-01-04 10:44:20
9339文字
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愛を抱えて

2026.2.8 BMYDお疲れさまでした!

 激しい落ち込みやストレスなど、何らかメンタルが一定の限界値を超えると犬猫になるというイカれた霊基異常がカルデアに召喚された英霊たちを襲ったのは、カルデア上の暦ではまだ冬の頃のことだった。
 元に戻すには精神のケア、特に親しいものからの慰めや甘やかしが効くという。というわけで今マスターの部屋を訪れると、たくさんの犬猫たちが順番待ちをしているのが見れる。食堂に行く暇もないマスターのためにカレーをデリバリーしてやって、ビーマは大変だなあと他人事のような感想を抱いた。
 中には自分もあのような姿――もふもふで愛くるしい、ちんちくりんの生き物――になってしまうのではと恐れ、却ってそれがストレスになって犬猫になってしまう者もいたのだが、ビーマはてんでそんな懸念は持っていなかった。
 神の血を引いてはいるとはいえ、自分も人間である。落ち込みやストレスとは無縁ではいられない。だがビーマは兄弟の中でもそういった耐性が強い方だったし、今の環境にストレスがあるわけでもない。自分が犬猫になるかもとは、あまり考えられなかった。
 それよりも、恋人の方が気にかかる。見栄っ張りで小心者のあの男は、ビーマなんかよりよほど犬猫になりそうだった。それこそ、犬猫にならないかと恐れるあまりに犬猫になってもおかしくない。
 もし恋人が犬猫になったら、自分がたくさん世話をして甘やかして元に戻してやろうと、ビーマはそう決めている。だってマスターは忙しそうだし。自分は恋人だし。それが一番いいに決まっている。
 マスターの部屋からの帰り、ビーマは恋人の部屋を訪れた。部屋の中から他の人間の気配がしないことを確認してから入室すると、部屋の主は何やら寝台の上に寝そべりながらカタログを広げているところだった。
 姿はいつも通りだった。そのことにがっかりしたような、ほっとしたような気持ちになりながら、ビーマは恋人に声を掛けた。
「何見てんだ? また家具でも増やすのか?」
 ビーマが寝台に腰かけると、恋人が体を起こして軽い口付けを送ってきた。ビーマも送り返す。ついでにセットを崩さない程度に相手の後ろ髪を撫で、その感触を楽しんだ。
 ドゥリーヨダナ。ビーマの宿敵にして従兄弟、今は恋人である男は、自然な、ある意味で手慣れた様子でビーマから身を離すと、カタログを見せてきた。
「いや何、最近カルデアで流行りだとシバの女王がカタログを寄越してきてな、見ていたのだ」
 覗き込めば、そこにはたくさんの首輪やハーネス、リード、それからフリスビーやら爪研ぎやら、所謂ペット用品がたくさん並んでいた。
 犬猫になって元に戻ろうにも、それなりに時間がかかる。マスターを頼らず身内間で何とかしようとする者も多くいた。おまけに犬猫になると若干知性が下がるらしく、脱走するものや暴れるものもいる。
 というわけで、今のカルデアではこうしたペット用品の需要が高まっているらしい。バーサーカーが引っ張っても千切れないリードとやらを指で差しながら、ドゥリーヨダナが「お前は何色のリードがいい? わし様は優しいからな、周回がない間はお前の散歩をやってやろう」とニヤリと笑った。
「何で俺が犬になる前提なんだよ。そういうお前はどの首輪が好みだ? このくらいの値段なら買ってやるよ」
「わし様に首輪をつけたいのか? 変態め」
 軽口を叩き合いながら、カタログを眺める。ビーマはドゥリーヨダナをちらりと見た。戦士の体はリラックスしていても確かな存在感を放っている。
 こいつがなるなら犬よりは猫かな。気まぐれなやつだから。でも群れのボスって意味では犬っぽいか。
 犬でも猫でも、きっと見映えを気にするだろう。たくさんブラッシングしてやろう。他の犬猫になったやつに負けないような、高い首輪を買ってやってもいい。QPはそれなりに貯めている。こいつを甘やかすなんて普段じゃ考えられないが、犬猫になっちまったら話は別だ。
 たくさん可愛がってやって、ケアしてやって、普段はしてやらないことだってしてやるのは、なかなか悪くねえだろうな。
 ならねえかな、こいつ。犬猫に。
「お前が犬猫になったら、俺が世話してやるから、俺のところにちゃんと来いよ。マスターやカルナのところじゃなくて」
「わし様はそこらの二流サーヴァントどもと違って至高の一流サーヴァントなので、犬猫になんてならんわ」
 数多のサーヴァントを敵に回すようなことを言って、ドゥリーヨダナがカタログを閉じた。かと思えばビーマを見て、「で?」と小首を傾げる。
「まさかそんな話をするために、わし様の部屋を訪れたわけではあるまい?」
 行儀の悪い足が、つんつんとビーマの太ももをつつく。ビーマはその足をぐいと引っ張った。ドゥリーヨダナが笑う。
 その顔にはどこか、幼く親しい者の戯れを許す年長者のような趣があった。虚勢ではなく、ドゥリーヨダナの素。生前一度も向けられず知ることもなかった、ドゥリーヨダナの寛容さ。
 意地や敵意をひっぺがした先にあったものを見る度に、何かに負けたような気持ちになる。
 ビーマはドゥリーヨダナに口づけて、悔しい気持ちごと、その呼気を吸った。


 朝起きた瞬間、ビーマは異常を感知した。
 起き上がる。手足の動きがいつもよりバラバラと落ち着かない。とっさについた手を見る。
 浅黒い毛に覆われた小さな手は、明らかに人の形をしていなかった。思わず口から小さく驚愕の声が漏れる。
 キャンッ!
 甲高く、細い声が自分の喉から出たとは、到底信じがたかった。
 どういうことだ。一体何があった? まさか、まさか――
「ううん……むにゃ…………何だ朝からごそごそと……
 寝起きの掠れた声に、ハッとビーマは動きを止めた。
 ここはドゥリーヨダナの部屋だ。もっと言ってしまえば寝台の上。昨日は寄り添って二人で眠った。
 ビーマの隣で寝ていた恋人が、目を覚ます。眉を寄せ、むずがるような顔をして、渋々と言わんばかりに目を開けた。
…………んあ?」
 ドゥリーヨダナがぱちぱちと瞬きを繰り返し、身を起こす。とっさにビーマは寝台から飛び下りようとしたが、それよりもドゥリーヨダナの手が伸びてくる方が早かった。がしりと掴まれる。
………………
 しばらく無言で撫で回された。抵抗したいのにできない。むしろもっともっとと甘えるような気持ちが湧いてくる。何だか尻の辺りが痛い。息が上がる。
「お前……まさかとは思うが、ビーマか……?」
 クゥン、と鼻から甘えがかった声が漏れ出た。ビーマはまじまじとこちらを見下ろす恋人を見上げた。
 次の瞬間、ドゥリーヨダナの笑い声が部屋中に広がった。


「それで、ずっとビーマは拗ねてるの?」
「そうらしい。んふっ、ふふっ、見ろマスター、このちんちくりんぶり! 尻尾なんてこんなふわふわ! これがあのビーマだぞ! わーっはっは! あ痛っ! こら噛むな! まったく、誰がここまで運んできてやったと思っておるのだ! 見たかマスターこの知性のなさ! すっかり犬っコロというわけだ!」
 腹が立ったので軽く噛んでやっただけで、ドゥリーヨダナは火がついたように騒いだ。ビーマはふんと鼻を鳴らす。
 ひとしきり大笑いした後、ドゥリーヨダナは鏡でビーマが今どんな姿になっているか、見せてくれた。
 それはどこからどう見ても犬だった。ふわふわの小さな犬。子犬だろうかと思えば、成犬の小型犬だと聖杯が教えてくれた。ついでにポメラニアンだそうだ。
「知ってるかマスター。こいつは大食いなもんだから、かつてはヴリコーダラなんて呼ばれてたんだ。狼腹という意味だな。それがっ……それが大型犬どころか小型犬だぞ!」
 バンバンと食堂のテーブルを叩いて笑うドゥリーヨダナのまなじりには涙すら浮かんでいる。マスターの膝の上で撫でられている黒猫――気配からハサンたちの誰かだというのはわかるが、一体どのハサンなのかビーマには判別がつかない――が迷惑そうな顔をした。
 ビーマが犬になったのを発見してからずっと、ドゥリーヨダナはこの調子で笑い続けている。指を差してビーマを笑うのにも飽きたのか、ビーマを抱いて部屋を出たかと思ったら、食堂にいるマスターを捕まえてまた笑っている。
 久しぶりに食堂で朝食を取れたらしいマスターは、片手で猫を撫でながら、もう片方の手で牛乳を飲みビーマの方を見た。
「ビーマが犬になっちゃったなら、エミヤたちに話しておかないとね」
「おう、そうだ。元々そのつもりでここに来たんだった。わし様うっかり」
 単にビーマを一人で笑うのに飽きたからだと思っていたが、一応目的があってビーマを部屋から連れ出したらしい。
 なら早くそう言え。思いながらビーマはさっき噛んだばかりのドゥリーヨダナの手を舐めてやった。ドゥリーヨダナが「何だこいつ、腹が減っておるのか? おい、わし様の手は食べ物じゃないぞ」と顔をしかめる。
「マスター、お前のところには今たくさんの犬猫がおるのだろう? こいつの分の餌をわけてほしいんだが」
「霊基異常で本物の犬猫じゃないから、普段と同じ食べ物でいいみたいだよ」
「何だ、そうなのか。じゃあ後でこいつがしばらく使い物にならんことを料理人たちに伝えるついでに、何か作らせるか……
 大きな手が何度かビーマの頭を撫でた。温かくて、優しい。ビーマが思わずうっとりしていると、マスターが「ずっと抱っこしてるね」と微笑んだ。
……逃げ出すかもしれんからな。わし様が仕方な~く捕まえてやってるというわけだ」
「ビーマのお世話はドゥリーヨダナに頼んでもいい? 懐いてるみたいだし」
「わし様、さっきお前の目の前でこいつに噛みつかれたよなあ!? ……ま、いいだろう。わし様は心の広い寛大な王子ゆえ、マスターに代わってビーマの面倒を見てやろうとも!」
 胸を張ったドゥリーヨダナに、マスターは早ければ三日、長くても一週間あれば元に戻るようだと告げていた。ビーマはドゥリーヨダナの肩衣をしゃぶりながら、三日かあ、と思った。
 まあ、マスターもしばらくは犬猫になったサーヴァントの相手をするのに集中するとかで、周回もないようだし。そのくらいだったら、ドゥリーヨダナを独占したっていいだろう。
 問題は飽きたとドゥリーヨダナに投げ出されないかだが。可能性は大いにあった。そんなことをされたら尻を噛んでやろう。
 思っていたら、「コラ! わし様のお気に入りの帯をヨダレだらけにするな!」と軽く背を叩かれたので、ビーマはとっさにドゥリーヨダナの手を噛んでしまった。


 意外にもドゥリーヨダナは飽きたとビーマを投げ出すことなく、よく面倒を見てくれた。
 あちこちビーマを連れ歩き、人がいるところでは危なくないようにか、抱き抱えてくれる。部屋ではブラッシングもし、よく撫でてもくれる。食事は食堂に頼んで三食用意してくれたし、シミュレーターでフリスビーで遊んでくれることまでしてくれた。
 最初のうちは振りすぎた尾のせいで尻が痛いくらいだったが、数日経つ頃にはビーマの尻は逞しさを増し、ちょっとやそっと尾を振ったくらいでは痛まなくなっていた。
 四六時中相手と一緒にいられて、くっついていられる。ビーマが犬だからか、ドゥリーヨダナはどこか愛情深さすら感じられる目でビーマを見てくる。
 にしても。ドゥリーヨダナの膝の上で撫でられながら、ビーマはぼんやりと瞬きをした。
 全然戻らないな。ビーマはてっきり三日で自分は戻るものだと思っていた。特に根拠はない。ただ長引く理由が見つからなかった。
 それが明日にはもう七日になる。さすがに明日には戻れるのだろうか。
 戻ったら、もうこんな風にドゥリーヨダナが優しく撫でてくれることもそうないのだろうな。自分たちは一応恋人同士ではあるが、お互い素直に甘えるには、間に横たわっているものが複雑すぎるし、何より互いに意地を引っ込められない。
 ああそうだ。だからドゥリーヨダナが犬猫にならないかなと思ったんだっけ。
 ビーマはドゥリーヨダナの手に擦りよった。「どうかしたか」と静かな声が降ってきて、顔を上げる。
 かつての宿敵、友にも家族にもなれなかった男は、今はビーマの恋人だ。生前向けられることのなかった穏やかな瞳を見る度に、ビーマは胸が締め付けられるような、走り出したくなるような、そんな気持ちになる。
 どれだけ子供っぽいところがあったって、ドゥリーヨダナは立派な大人で、子供の頃の無垢なままでいられるわけもない。わかっていても、何だか寂しかった。
 子供の頃、まだ決定的に仲違いする前、子犬のようにじゃれあっていたあの頃のように過ごしたかった。恋人なだけあって肌の触れあいはあるけれど、物わかりのいい大人のようなそれではなくて、無邪気に全幅の信頼を傾ける子供のように、甘えられたかった。
 そう思っていたが。どうも自分の中には、甘えられたい他に、甘えたい気持ちもあったらしい。いや、甘えられたいという願い自体が、甘えだったのか。わからない。
 無邪気に互いを信頼し合うなんて、無理だ。恋人になるという奇跡は起きたが、それより以前のことがなくなったわけではない。何より、ビーマとドゥリーヨダナの間だけで済む話ではないのだ。互いに家族や友を傷つけ合った。その彼らも、今ここにいるのだから。
 ぺろ、とドゥリーヨダナの腿を服の上から舐める。ドゥリーヨダナは咎めなかった。ただビーマの頭を撫でてくる。
 単に諦めの境地なのかもしれない。ここ数日間、ビーマは随分とドゥリーヨダナの服をヨダレで汚した。どうにもブレーキが利かないのだ。ヒラヒラしている布を見ると、咥えて引っ張りたくなってしまう。
 子供の時もそうだったな。風に踊る花弁のような少年を見る度に、捕まえたくなって、腕を掴んで嫌がられたものだ。
 顔を上げて、ドゥリーヨダナの顔を見上げる。小型犬の体では、随分遠いと感じる。近づきたくて前足をドゥリーヨダナの腹の辺りに引っかけて後ろ足で立ち上がるが、それでもまだ遠い。
 というか胸筋が邪魔でドゥリーヨダナの顔が見にくい。鼻先がぶつかる。くすぐったかったのか、ドゥリーヨダナが笑った。
「なんだぁ~? おいおい、わし様は乳は出んぞ。というか仮に出たとしても今のお前じゃお断りだ。噛みちぎられたくはないのでな」
 ドゥリーヨダナがごろんと横に寝そべったので、ビーマはドゥリーヨダナの顔の近くまで移動した。ドゥリーヨダナの頬を舐める。
 声も出さずに笑って、ドゥリーヨダナは目を細めている。ビーマにつけられた首輪――純金の首輪はただの小型犬ではとてもつけられない重さだ――をドゥリーヨダナの指先がなぞる。
 ここ数日間で、随分贈り物をされた。首輪、リード、犬用のおもちゃ。どうせ数日で使わなくなると、ドゥリーヨダナだってわかっているだろうに。
 最初は犬になったビーマを本格的に犬扱いして笑うつもりでもいるんだろうかと思ったが、どうもそれだけでもなさそうだった。満足げな顔を、ビーマは見つめる。
 お前も俺と、同じなんだろうか。どうも俺たちは意地を張って大人ぶってしまって、触れ合うといえばまぐわいばかりなんて有り様だったけど、本当はもっと他の愛し方もしたかったんだろうか。
 心のままに相手を甘やかしたり、贈り物をしたり。もしかしたら本来俺たちの間には不要で、外に出すべきではない気持ちを、そうやって誰に憚ることなく外に出して、ぶつけて、確認したい、そういう気持ちが、お前にもあったんだろうか。
 そうだったら。そうだったなら。
 ずりぃな。俺もお前を甘やかしたいよ。うまいもんいっぱい食わせて、ブラッシングしてやって、出かける時は抱き抱えてやって、たくさん遊んでやって。
 ちょっと粗相されたって、仕方ねえなって笑って許してやって。俺はお前の味方だぞって、全身で示してやって。
 ああ、でもそんなの、別に犬猫にならなくったってできるんだ。なのにただの俺たちには、どうしてもそれが難しくって。
 ドゥリーヨダナの頬に頬を寄せる。「うわっぷ! くすぐったいぞ」とドゥリーヨダナが笑う。
「まったく。……犬猫になってる間の記憶は朧気にしか残らんらしいのが残念だ。戻ってから恥死するお前を見れたかもしれんのに」
 するかよ。お前じゃあるまいし。鼻先でつんつん顔をつついて抗議をする。唇にちょんと鼻先が触れた。ドゥリーヨダナに撫でられる。
 くぅん、と喉が鳴る。ふわふわで幸せな気持ちと、隙間風が吹くような物足りない気持ちが、普段よりずっと小さな体の中で暴れまわる。
 愛されるのは嬉しい。でも、それだけでは物足りない。
「ほら、もう寝るぞ」
 胸に抱き込まれる。今は力が抜けていて柔らかい胸筋に、ビーマは身を寄せた。眠りに誘うように背を撫でられる。
 ずるいな。もう一回思って、ビーマは目を瞑った。


 朝起きた瞬間、ビーマは異常を感知した。いや、異常ではない。正常に戻ったのだ。
 体を起こす。久しぶりに見る自分の手を、開いて閉じる。
「何だ、戻ったのか」
 すぐ横から聞こえた声に目をやれば、ドゥリーヨダナが大きなあくびをしながら伸びをしたところだった。
「これでお前のお世話係からも解放か。おい、お前はちっとも覚えておらんかもしれんがな、ここ一週間ほど、お前はこーんな犬っコロになって、わし様にそれはもう多大な迷惑をかけていたのだ。お前は涙を流しながらわし様に感謝の意を述べるべき――
 最後まで言葉を聞かず、唇を寄せる。心得たもので、ドゥリーヨダナは一瞬真面目な顔をして、すぐに小さく口を開けた。舌を押し入れる。
「ん……
 ビーマの後ろ髪を撫でる手はいつもと同じで、なのに妙に懐かしく感じた。ビーマもドゥリーヨダナの頭を支えてやりながら、ここしばらく触れることのなかった髪の感触を楽しむ。
「っは……何だ、戻った瞬間発情とは、すっかりケダモノが板についたようだなあ?」
「お前だって乗り気じゃねえか」
 押し倒す。あっさり寝台に体を戻した恋人は、「やれやれ」とわざとらしく息を吐いた。
「可愛い小型犬から、すっかり可愛くない大男に元通りか。ずっとあのままだったら、わし様の愛犬にしてやったのに」
「そんなのはつまらねえだろ。耐え性のねえお前が、我慢できるとも思えねえし」
 いや、案外我慢も何もなく、あっさり過ごせてしまうのかもしれない。この男は酷く強欲で、あきれ返るほどの貪欲さであったが――愛することに限っては、無欲で無心なところがあった。それは興味関心が低いからかもしれないし、或いは、とうの昔に満たされてしまっているからかもしれない。
 であれば、なおさらあのままではいられなかったなと思う。
「なあ、お前も犬猫になれよ。たっぷり礼をしてやるから」
 キスを頬に落としながら告げれば、「はあ?」と顔をしかめられる。
「礼をするのに条件をつけるな。わし様はぜ~ったい! 犬猫にはならんからな!」
「別に条件をつけてるわけじゃねえよ」
 ただ、お前だけずるいだろ。
 思ったが、口にすることはなかった。代わりにビーマは、ドゥリーヨダナの首筋に吸い付いた。


「あれの残機もそろそろ尽きそうだ。ドゥリーヨダナにとっては不幸なことだが、ビーマよ、お前には幸運なことかもしれん。趣味の悪いことだ」
「あ?」
 ビーマは涼しい顔をしているカルナを見つめた。言うことは言ったとばかりにマスターの故郷の定番らしい欧風カレーを黙々と口に運んでいる男の隣で、同じようにカレーを食べていたアルジュナが「ああ」と納得したような声を出す。
「なるほど。あの男は百王子全てを内包している。だから、ということか」
「そうだ」
「おい、どういうことだ?」
 食堂である。ビーマがしばらくぶりの挨拶周りをしている中で出会ったアルジュナとカルナに、まさかドゥリーヨダナより先に自分が犬になるとはとぼやいたら返ってきたのが、カルナの言葉だった。正直意味がよくわからない。何だ残機って。
 恐らくですが、と前置きをして、アルジュナが一回スプーンを置いた。
「あの男は多分、本当はもう何回も犬猫になってるんですよ」
「あ? まさか。俺はそんなの一度も見たことねえぞ」
「ええ。表面上はなってないんです。多分百王子の誰かが、それを肩代わりしてるんですよ。表に出てないだけで」
 ドゥリーヨダナは無理矢理霊基に全ての百王子を内包している。ドゥリーヨダナは一であると同時に百でもある。
「つまり……あいつは犬猫化しそうになる度に、内包している百王子の誰かにそれを押し付けて、自分は難を逃れてたってわけか?」
「押し付けたかどうかは定かではありませんが、彼らはそれを嫌がらないでしょう」
 どこか遠い目をしてアルジュナが言う。百王子たちはどいつもこいつも程度の差はあれろくでなしの集まりだったが、全員が全員、長男であるドゥリーヨダナを深く愛していた。信奉に近いものを持っていたやつだっている。
 そういえばやけに犬になったビーマの扱いが手慣れていた。あれはもしや、内包している兄弟が犬猫になった時にしてやっていたことなのだろうか。ドゥリーヨダナに甘やかしてもらえるとなれば、こぞって百王子たちが肩代わりしようとするのが目に浮かぶようであった。
 何だか面白くない気持ちにビーマがなっていると、カルナが「どのみち、もう終わる話だ」と呟いた。
「この霊基異常は一度かかれば二度目は起きない。残機の数は決まっている。ドゥリーヨダナは先延ばしをしていただけだ。解決するのを待つつもりだったのだろうが――残機も尽き、やつの小心が根をあげる方が早かったというわけだ。……霊基異常が発生してすぐは混乱しているだろうが、冷静になればすぐに、あいつはお前から身を隠そうとするだろう。こんなところにいていいのか?」
 瞬きをしてビーマはカルナを見つめ、小さく息を飲んだ。予感のようなものが体を駆け抜け、無言で食堂を飛び出す。行き先は恋人の部屋だ。
「ドゥリーヨダナ!」
 ビーマが部屋に飛び込んだのと、何かが布団の中にさっと隠れたのはほとんど同時だった。ビーマは勢いを止めずベッドに飛び込み、隠れた何かを布団の上から捕まえる。
「ドゥリーヨダナ」
 布団をめくると、そこには一匹の猫がいた。ふわふわの柔らかそうな毛。怯えたような素振りの猫を安心させたくて、ビーマは猫を抱き抱えようとした。爪を立てられる。
「大丈夫だ」
 実際このくらいの痛み、何てことはない。ビーマは暴れる猫を抱き上げた。笑みが浮かぶ。
 逃がすものか。そんなずるはさせない。卑怯とは言わせないぞ、お互い様だ。
「なぁに、お前が飽きる頃には、元に戻るだろ。だから、それまでたんと礼をさせろよ?」