望月 鏡翠
2026-01-04 01:02:05
910文字
Public 日課
 

#1953 泥の味を知るものたち3

#毎日最低800文字のSSを書く/我らが王の身罷りて 二次創作


 素直で御しやすそうだったからだ。誰の手垢もついていない若者。貴族になることができるかも知れないという、そこに至るまでの具体性のない憧れで手を貸してくれるだろうという確信があった。
 それをそのまま本人にいうわけにはいかない。
「話し相手が欲しかったのさ。あとは楽を聞いてくれる相手もな」
 愛用の楽器は今やインテリアになって壁際にかかっている。あれは本来飾りものではなく、触れてやって初めて息をするものだ。
 忙しくとも偶には弾いてやらないと楽器によくない。
「楽を覚えるともてますか?」
「うまければ」
「俺も覚えられますか」
「やるべきことをやったら、侍従の仕事の合間に教えてやるさ。今は字を覚えることに一杯一杯だろう」
 エリセオはまた呻いた。
「俺って侍従ですよね。礼儀作法はともかく、読み書きって要ります?」
「侍従以上のものになりたくないなら、必要はない」
「じゃあ、覚えます」
 エリセオは渋々床から立ち上がった。
 折よく外にジョアンがやってきた気配がした。扉をノックする。ほら見ていろと扉を示す。
「トルガ様、政務中に失礼致します」
「うん、入れ」
 ドアが開く。
 さすが貴族の血を引くだけのことはある。優美な一礼。その最中、逃げ出した不届きものを睨みつけるのは忘れなかったらしく、扉の横に立っていたエリセオがびくりと体を震わせた。
「こちらの男、お借りしてもよろしいですか」
 助けを求めるような目は無視した。
「いいぞ。逃げ出すなら、ここを使ってもいい。ついでに俺もお前の指導に賜りたいところだ」
「トルガさまぁ」
「自分で覚えるといったばかりだろうに」
 自分が文字を覚えるとき、あそこまで苦戦しただろうか。年が大きく離れているわけではないが、まるで子供を見ているような心持ちにさせられる。
 学はトルガ自身が求めた。それさえあれば、新しい世界で自力で生きていくことができるという根拠のない楽観を抱いていたのは今のエリセオと同じだ。しかし、トルガ自身は文字を学ぶことは、楽しくて仕方がなかったような気がする。
 嫌だったのは礼儀作法の勉強の方だ。そこだけはエリセオと意見を同じくする。