オペラ座には怪人がいる。オペラ座の下に棲みついて、そこからオペラの歌声を聴いているらしい。そうして自らも歌を奏で、歌姫を呼ぶのだそうだ。
「あなたが、クリスティーヌ……?」
「誰だそれ?」
しかし招かれたのはヒロインのクリスティーヌではなかった。
「あなたはだぁれ?」
「おれは、このオペラ座の清掃員だが。」
招かれたのは舞台裏で施設の掃除を行う裏方も裏方の、部外者と言っても良い男だった。
「どうしてあなたはここへ?クリスティーヌは?」
「クリスティーヌは知らんが、おれは掃除をしていただけだ。」
「おそうじ……。」
雇われの清掃員でも聞いたことくらいはある、このオペラ座の噂。オペラ座の地下には空間があり、そこに怪人が囚われ、ひとり孤独にオペラを聴いている、と。
だがそれがなんだと言うのか。オペラ座の怪人が怖くてオペラ座の清掃が出来るか。
清掃員は変なところで真面目だった。
「ここも掃除するか?」
清掃員は辺りを見回して言った。
自分で行っているのか、不潔ということはないが、読み終わった本か、興味の失せた楽器か、その辺りには埃が積もっていた。
「ここにいてくれるということ?」
「……そうだな。」
甘えるように言って来る怪人に、清掃員は出来るだけ誠実にこたえた。
「歌ってもよろしいですか?」
「良いけど……いや、埃が立つから、喉に悪い。」
「じゃ、お掃除の前に歌うので、聴いてください。」
「……分かった。」
業務上そんなことをする義務はないが、清掃員はそう言った。
オペラ座の怪人は歌った。
清掃員はオペラを聴くのは初めてだった。ただの掃除屋は、公演時間にここにいることはない。演者に会うことさえない。
だが今そんな清掃員の前には「オペラ」があった。実際のオペラのことはどうでも良い、ただ清掃員が「望んだオペラ」は目の前にあった。
歌声が終わって、名残惜しむ気持ちはあったが、清掃員は掃除を始めた。それを怪人は飽きることなく目で追い、掃除の音を楽しむように体を揺らしながら、小さく鼻歌がする。心から楽しさや嬉しさが溢れてしまったようだった。初めに注意を促した清掃員も、二度目の言葉は告げられなかった。
「終わったぞ。」
「……はぁ。」
怪人の返事は、沈んだものだった。まるで楽しい時間が終わってしまったかのような。それは先程清掃員が、怪人の歌が終わってしまったものと同じではないかと思わされた。
「喉を痛めてはいないか?」
用具を片付けながら、一先ずそう言った。
「ええ、へいき。」
「他は?また歌える?」
「ええ。勿論。」
「なら、また聴かせて。」
怪人が首を傾げて、清掃員を窺い見るような拙い仕草をする。
「また来てくれる?」
「ああ。掃除しなきゃなんないからな。」
それをつい茶化すように、しかし肯定する。
「じゃあまた、掃除の前に、ですね。」
「ああ、また。」
また、オペラ座で。
オペラ座の地下には怪人がいる。そこでは、そこに呼んだただ一人のために歌われるオペラがあるらしい。
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