残されたもの

レノ+シスネ

 調査と後始末は、タークスの本分だ。そう理解してはいる。それでも、書類仕事はどうにも肌に合わない。
 神羅ビルの奥、資料保管用のフロア。人事記録から内部調査資料まで、本社で一括管理されている区画だ。窓はなく、外の気配も遠い。空調の音だけが、一定の間隔で耳に残る。
 少し前、神羅が管理する養護施設で、孤児の脱走事件が起きた。施設から複数名が抜け出し、支給品を持ち出したという報告だった。もっとも、事態はすぐに収束している。現場に派遣されたソルジャーによって支給品はすべて回収され、孤児たちも全員、無事に保護された。表向きには、それで終わった話だ。だが上層部は、この件を軽くは見なかった。脱走を許したという事実そのものを問題とし、管理方法の見直しを決定した。
 その一環として行われたのが、過去の内部資料の再確認。類似事案の有無を含め、施設の運営方針、教育内容、訓練記録、そして「成功例」として整理されてきた個体の評価内容が対象となった。大半は通常管理の記録だが、内容次第では、扱いを誤れないものも含まれる。
 レノに割り当てられたのは、その確認作業だった。特別なことは何もない、慣れた雑務。机に積まれたファイルを前に、小さく息を吐く。
 ページをめくる。流すように、目を通すだけ。養護施設。訓練計画。個体評価。どれも似た書式で、似た言葉が並んでいる。神羅が過去にやってきたことの、ありふれた記録。――そのはずだった。
 ページの途中で、指が止まった。写真だった。識別用の、古い顔写真。背景は無機質で、影が落ちないように均等に照らされている。幼い顔立ちは整っていて、視線だけが、不自然なほど静かだった。
 見間違えるはずがない。年齢も違う。表情も、今とはまるで違う。それでも、わからないはずがなかった。
 写真の横にあるのは、簡素な項目だけだった。個体番号。年齢。区分。名前の欄は、最初から用意されていない。レノは一瞬だけ視線を落とし、そのまま次の行を追った。
「当該個体、他個体への情緒的関与が強い傾向を示す」
「初期段階において、矯正対象とする」
「初期教育方針
 自己以外を潜在的脅威として認識させる」
 方法や経過の記載はない。ページは、そのまま続いていた。
「恐怖刺激に対する反応は抑制的」
「疼痛耐性、年齢比で高」
「強固な統制下においても精神崩壊を起こさず」
 レノは、一度だけ手を止めた。ほんの一拍置いて、次の行へ視線を戻す。
「基礎知能検査および各種訓練成績において、同年代平均を大きく上回る数値を記録」
「投擲系武装への適応性が高く、精度は安定」
「実戦投入に耐え得ると判断」
「史上最年少で総務部調査課への配属を決定」
 資料の末尾には、処理番号と承認印だけが並んでいる。名前は、最後まで記されていなかった。
 それでも。あの静かな視線の持ち主を、レノは知っている。
 ――シスネ。
 資料を閉じ、元の位置に戻す。処理番号を確認し、チェック欄に印を付けた。残りの記録も、同様に処理した。
 一息ついてから席を立つ。フロアを出ると、空調の音が遠のいた。頭の奥に残っているのは、さっき目にした文字の断片だ。
 潜在的脅威。恐怖刺激。強固な統制。
 ――思い当たることは、いくつもある。
 誰も信用していなかった瞳。生存を前提にしない無謀さ。助けを呼ぶという発想の欠落。理性的で頭も切れる。それなのに、どこか噛み合わない。
 その厄介な性質の意味が、今ならわかる。
 理解したところで、胸が騒ぐことはなかった。ただ、ばらばらだった事実が、静かに繋がっていくだけだった。
「レノ」
 声がして、顔を上げる。廊下の向こうから、シスネが歩いてくる。いつもの黒いスーツに、整えられた髪。目が合うと、口元が少しだけ緩んだ。
「疲れた顔してるわね。今日は“地味”仕事?」
「御名答、と」
 肩をすくめて返すと、シスネはくすっと小さく笑う。
「やっぱり。わかりやすいもの」
 からかうような口調のまま、自然に言葉を続けた。
「お疲れ様。昨日の任務報告は、私がまとめておいたから。あとで確認して」
 言い終えるまで、特別なことをしたという意識はなさそうだった。あの資料には、彼女のこうした性質は「矯正対象」と記されていた。それでも今、シスネは、当たり前のようにそうしている。相手を選ぶ様子もなく。
 命令でも、評価でもない。誰かに教え込まれた結果でもない。そのことが、胸の奥に静かに残った。
……ありがとな」
「どういたしまして」
 短く答えて、シスネは再び歩みを進める。
「おまえは?」
「これから任務よ」
 “派手”な方のね、と悪戯に笑う。レノは一瞬、言葉に詰まった。仕事のためなら自分を削ることも厭わない、模範的なタークス。そういう理解で、片付けていた。――少なくとも、今日までは。
……無茶すんなよ」
 自分でも驚くほど、真剣な声が出た。シスネは歩きながらほんの一瞬だけ目を瞬かせる。それから、僅かに首を傾げて、すれ違いざまにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「しないわ。そんなこと」
 強がりとは違う、当然の前提を言うような声音だった。そのまま数歩進んでから、思い出したように付け足す。
「じゃあ、またあとで」
 振り返らず、後ろ手にひらりと手を振る。その背中が廊下の角に消えていく。
 レノは、しばらくそこに立っていた。警戒も、諦めもないその別れ方が、どこかじわりと胸に染みた。知らず、口元が緩む。
壊れなかったわけじゃない。削られたものが、なかったわけでもない。
 それでも彼女は強く、確かに自分で歩いている。それだけで、レノには十分だと思えた。